リーガル・ハック─法務省直轄呪霊対策本部─   作:森野夜

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作者の癖により、日下部がほぼ日車達と同年代であり、高専に先生見習いなのかOBで体術指導しているか分からないもののいるという独自設定にしてます



東京都立呪術高等専門学校編 帳のなかの公文書
2007年春 呪霊対策本部 高専立入


 

東京都立呪術高等専門学校に向かうため、快速電車の車内に至るまで俺と日向はほとんど言葉を交わさなかった。平日の昼下がりの下り電車は座席の半分も埋まっていない。単調な金属音を立てて走る車内で、日向は膝の上に黒い革製のブリーフケースを正しく置き、車窓の向こうへと流れ去る郊外の味気ない街並みを凝視していた。俺もまた書類の詰まった鞄をしっかりと手元で抱え、無言で座席に腰掛けていた。俺たちはこれから始まる手続きを、脳内でシミュレーションしていた。

 

電車の慣性に従ってわずかに揺れる車内は、ただ退屈な空気だけが支配している。この平穏な非術師の日常のすぐ裏側に血生臭い呪術界の闇が並走しているという事実は、奇妙さを覚えさせるものだった。吊り革が小さく揺れる音を聞きながら俺は膝の上のカバンの感触を確かめ、呼吸の深度を均等に保つことに集中した。

 

俺は日向の横顔を意識して盗み見る。

司法修習生の同期として出会ってから、もう2年になる。弱冠13歳でアメリカの司法試験を突破し、連邦検察の『特別検察官事務所』に身分秘匿の特例枠として任官されたという経歴を持つ天才。昨年末の二回試験の夜、地下倉庫で彼女の真実を突きつけられてからの数ヶ月――俺は彼女の、法律家としての明晰さと官僚としての容赦のない手回しに絶対的な信頼を置く一方で、その深淵にある冷徹さには、いまだ底知れない薄気味悪さを覚えていた。

 

彼女はあの時、特級術師・九十九由基の思想に傾倒し、呪霊の発生源たる社会構造そのものを現世の法理によって絡め取るという壮大な計画を語った。だが彼女がなぜそこまで頑なな執念を燃やすのか、九十九と彼女の間にどれほど深い対話があったのかという核心にだけは、俺はまだ何一つ踏み込めていない。どれだけ他愛のない雑談で笑い合おうとも、呪術界へのアプローチへと話題が切り替わった瞬間、彼女の瞳からはすべての温度が消え去る。

 

『法律っていうのは、結局いつも後追いだろ?誰かが死んでから、誰かを罰するためのさ』

 

地下倉庫での訓練の最中、彼女が九十九の受け売りとして呟いた言葉が電車の振動に混ざって耳の奥に蘇る。あの乾いた声だけが俺たちの輪郭を辛うじて繋ぎ止める境界線だった。

 

表向き法務省の腰の重い上層部がこの合同監査に判を押したのは、近年激化する原因不明の災害による民間からの巨額の国家賠償請求に対しこれ以上国家予算の『機密費』から補償金を流出させたくないという、極めて世俗的な財政防衛の理屈からだった。日向はその官僚たちの保身の心理を完璧にコントロールし、この臨時監査室という前例のない特例の檻を法務省内に合法的に誕生させたのだ。

 

日向が法務省の大臣官房内に構築した『施設安全臨時監査室』という欺瞞の骨組み。そこへ俺の成績をピンポイントで指定した周到な公募劇を経て、有識者枠の外部委託弁護士として潜り込んだ俺の存在。この二つのパーツが完璧に噛み合う時、千年の因習に守られた呪術界という特権領域を近代国家の適正手続きという檻の中へ引きずり込むための、静かな戦いが始まる。

 

それが、俺たち二人の異常な覚悟の始まりだった。

 

法務省の地下倉庫で交わしたいくつもの議論、短い期間で詰め込んだ何通りもの行政手続き。そのすべての準備が、今、この快速電車の進行とともに現実の形を取ろうとしていた。

 

現在の俺の肉体は、脳裏に焼き付いている未来の地獄の記憶とは裏腹にまだ術式すら完全に覚醒しきっていない、ただの一般人の器に過ぎない。未来の俺であればこれから向かう呪術高専の結界など、一瞥しただけでその構造も呪力の流れも看破できただろう。しかし今の俺にとっては、高専の敷地が近づくにつれて空気がわずかに重くなるような肌を刺す微かな不快感としてしか知覚できない。

 

地下倉庫での訓練で日向の展開する術式のプレッシャーを受け流すたび、俺の肉体は過熱した機械のように悲鳴を上げていた。そのギャップを埋めるための時間は、もう残されていない。だからこそ徹底しなければならなかった。俺たちが今身に纏っている仕立ての良いダークスーツは、呪術の気配を完全に覆い隠す遮蔽であり、同時に相手の警戒を削ぐための衣装だ。

 

今日、俺たちはただの退屈な非術師の役人にならなければならない。

 

自らの内側に渦巻く呪力の残滓を呼吸とともに内臓の奥底へと沈め、完全に遮断する。衣服の皺一つ、ネクタイの角度一つに至るまで、官僚組織において平均的とされる記号に落とし込む。術師の眼から見て、完全に気配の途絶えたただの一般人に見えること。それこそがこの山門を突破するための絶対条件だった。

電車が終点へ近づきさらに西へと進むにつれて、窓外の景色は灰色のビル群から深い緑の山並みへと完全に移り変わっていった。目的の駅で下車し、用意されていた地味な国産のセダンに乗り換えてさらに舗装の悪い山道を登った。車のエンジンが唸りを上げ幾重にも重なる急カーブを曲がるたびに、現世の喧騒が遠ざかっていく。

 

窓を開けると都会の排気ガスとは異なる、湿った濃い樹木の匂いが車内に流れ込んできた。ガードレールの途切れた崖の向こうには、どこまでも続く深い原生林が広がっている。

 

東京西郊の深い山中に佇む宗教法人。その表向きの山門こそが東京都立呪術高等専門学校の、現世における境界線だった。車を麓の舗装もされていない空き地に停め、山門へと続く長い石階段を一段ずつ上っていく。杉の葉が重なり合う鬱蒼とした木々の間からは、湿った土の匂いと春特有の冷たい風が吹き下ろしてくる。その風の中に現世の法律が一切通用しない呪術界の、ねっとりとした拒絶の気配が混ざっているのを俺の皮膚が捉えた。日向はヒールの高い靴音を規則正しく石段に響かせながら、一歩一歩、確実な足取りで上っていく。彼女の背中からは気負いも、恐怖も、一切感じられなかった。

 

石段の周囲には境界を示す注連縄や古い石碑が並んでいるが、それら自体に呪術的な防壁はない。本物の結界は目に見えない位相としてこの空間全体を覆っている。一歩足を進めるたびに大気の密度がわずかに増し、鼓膜の奥に低い耳鳴りのような圧力がかかる。俺は自分の歩調を崩さないよう、革靴の底が石に当たる微かな衝撃だけに意識を集中させた。

だが、異変は山門の結界を潜る前に現れた。

 

「あー……法務省の『施設安全臨時監査室』の先生方、ですね。遠いところわざわざご苦労様です」

 

石階段の最上段、古い山門の柱に背を預け気怠そうに煙草の煙を吐き出している男がいた。

 

暗緑色のトレンチコートを羽織り、肩からは長細い地味な布袋を無造作に背負っている。年齢は26歳、俺たちとさほど変わらない。

 

日下部篤也。

術式を持たない一級術師。

 

「……ッ」

 

彼の姿が俺の視界に入った瞬間、脳の深淵が強烈に脈動した。

視界が一瞬だけ真っ暗に染まり鉄錆の混ざった血の匂いと、両目を覆いたくなるような宿儺の猛烈な斬撃の残像が脳裏をよぎる。あの地獄のような戦場。俺が処刑人の剣を握っていた際、自ら前に立ちふがり、シン・陰流の刀で宿儺の攻撃を弾き返して俺の盾になってくれた男。まだ起きてもいない実感を伴わないはずの未来の情報が、圧倒的な質量を伴って心臓を殴りつけ、俺の歩幅がわずかに乱れた。

心臓が肋骨の裏側を激しく叩く。冷や汗が背中を伝う感覚を俺はスーツの強固な生地で強引に抑え込んだ。未来の記憶のなかでこの男は泥を被りながらも前線に立ち続けた。その確固たる背中の記憶が、現在の、まだ若い日下部の飄々とした佇まいと重なり、俺の論理的な思考を一瞬で狂わせようとする。

 

「おや、どうかしましたか、日車弁護士?」

 

隣を歩く日向が視線はまっすぐ前を向いたまま、表情一つ変えずに低く囁いてくる。その剃刀のように鋭い観察眼に、俺は自分が置かれている今を強く引き戻された。

 

俺は指先に力を込め、動揺を喉の奥へ押し殺した。それから上の命令で渋々ついてきただけの、やる気のない外部委託弁護士という退屈な猫背の姿勢を作り直した。この男は現場叩き上げの一級術師だ。僅かな視線のブレ、呼吸の乱れすら、命取りの警戒を招きかねない。

 

日下部の視線は俺たちの足元からスーツの着こなし、手に持ったブリーフケースへと滑るように動いた。その瞳の奥には一級術師としての冷徹な検分が潜んでいるはずだが、表面上は完全に「面倒な仕事に付き合わされている平社員」のそれだった。彼が吐き出した紫煙が、春の薄い空気のなかで霧散していく。

 

「いえ……何でもありません。手続きを進めましょう」

 

日下部は咥えていた煙草を携帯灰皿に放り込み、実にもっともらしい、人当たりの良い社会人の笑みを浮かべて階段を下りてきた。トレンチコートの裾が風に揺れ、肩の地味な布袋がかすかに擦れる音がする。俺はその布袋のなかに納められているであろう日本刀の存在を、ただの非術師の法律家として完全に視界から抹消しなければならなかった。

 

彼の歩幅は広く、一見すると無防備だが重心は常に完璧な位置に保たれている。いつでも刀を抜き放ち、あらゆる角度からの攻撃を迎撃できるシン・陰流の使い手としての身体操法。それがコートの奥に隠されていた。俺はあえて視線を彼の顔へと固定し、肩の布袋には一切の興味を示さないよう一般人の退屈な視野を維持した。

 

「一応、上の指示で本日の中央監査対応窓口を務めさせていただきます、日下部です。いやあ、お役所の皆様もこんな山奥まで大変ですねえ。わざわざ電車に揺られてくるだけでも、一仕事でしょう」

 

日向は淡々と懐から革の名刺入れを取り出し、無駄のない動作で二枚の名刺を差し出した。いかにもお堅い本省の役人らしい動きだ。

 

「お初にお目に掛かります。法務省大臣官房、施設安全臨時監査室の統括事務官を務めております、日向です。こちらが、今回当室の法律顧問として有識者枠から同行していただいている、日車外部委託弁護士になります」

 

日下部は「おっと、ご丁寧にどうも」と名刺を受け取り、その表面を薄い目でじっと眺めた。名刺に印刷された「法務省」の文字を、確かめるように親指の腹でなぞっている。

 

「なるほどねえ。日向先生に、日車先生ですか。弁護士の先生まで連れてこられるとは、いよいよ持って大層なことで」

 

日下部は名刺の文字を読み上げると内ポケットから折り畳まれた高専の内部マニュアルを取り出し、困ったように頭を掻いた。どこか世慣れた、厄介事を早く自分の目の前から遠ざけたいという現場の若い職員らしいトーンだ。

 

「わざわざこんな山奥まで立ち入り調査だなんて、国側も色々と物々しいことで。ただねえ、非常に申し上げにくいんですが、うちの法人の運営規定っていうのがありましてね。法務省さんの部署の権限だと、この立ち入り調査は現状だと事前申請の項目がいくつか足りないんですよ。ほら、ここです」

 

日下部は俺と日向の前に古びたバインダーに閉じられたマニュアルを開き、ある一行を指の腹でトントンと叩いてみせた。高専の事務方から渡されたであろうマニュアル通りの盾だ。手続きの不備を突き、適当に話を切り上げようとする意図が透けて見える。日向は日下部から見せられた書類だけを見ていた。

 

バインダーの紙面には、『外部機関による監査対応方針』と印字されていた。そこには宗教法人としての自律性を担保するため、行政による監査には原則として事前合意を必要とする、といった旨が回りくどい表現で書かれている。日下部はその条文があたかも絶対的な法規であるかのように振る舞い、俺たちの反応を窺っていた。

 

「……なるほど」

 

俺はわざとらしく、日向の顔色を窺うようないかにも板挟みになった外部の雇われ弁護士らしい生真面目な苦笑いを浮かべてみせた。

 

「それはこちらの確認不足でしたかね。お役所の手続きというのは、どうしてこう縦割りで融通が利かないものか」

 

「そうなんですよ」

 

日下部は俺の言葉に我が意を得たりとばかりに深く頷き、おもむろに書類をポケットに仕舞い込んだ。手際よく話を切り上げようとするその手の動きに澱みはない。

 

「お手数なんですが、一度文部科学省の所轄庁を通じて正式に書類を回し直していただけます?俺としてはね、国の方針には全面協力したいんですが、現場の人間としては手続きのルールはルールですからねえ。いや、本当にね、わざわざこんな山の上まで書類一枚のために上り下りするだけでも、お互いに一苦労でしょう」

 

日下部の声は親切なアドバイスの体を取りながらも、その実、完璧な拒絶だった。彼は非術師の役人が「手続きの煩雑さ」を最も嫌うことを熟知している。ここで文科省への書類の回し直しという手間を提示すれば、大抵の役人は面倒を避けて引き下がる。その現場の知恵を、彼は極めて自然に悪気のない笑顔の裏で繰り出していた。

 

彼は早く仕事を切り上げて帰りたいのか、さらに声を潜めて俺たちの顔を覗き込んできた。煙草の匂いが春の冷たい空気の中に混ざり、俺たちの間に漂う。

 

「いっそ今日はこのまま、麓の茶屋で名物の蕎麦でも食べて、上が判を押すのをのんびり待つってのはどうです?そっちのほうが先生方も無駄な書類仕事が増えなくて楽だと思いますよ。上のジジイどもの決裁なんて、待ってたらいつになるか分かったもんじゃないですしね」

 

少しでも書類仕事を減らしたいという、現場の職員らしい極めて現実的な軟着陸の誘いだ。ここで俺が引き下がれば、そのまま門前払いで終わる。ここで強硬に突っぱねれば非術師の役人としては不自然なほど執拗だと怪しまれる。かといって日下部の言う通りに話をそらされ、引き返すわけにはいかない。どういなすべきか。俺の脳のなかで幾通りもの法解釈の歯車が静かに交錯する。

 

俺は自分の役割を思い出した。俺は民間の有識者として同行しているだけの外部弁護士だ。ならばここで日下部の懐に入り、日向の対応を引き立てるための道を作るべきだった。俺はわざとらしくネクタイの結び目を少しだけ緩める仕草をした。

 

「いやあ、日下部さんのおっしゃる通りだ。実際、ここまで来るだけで大変でしてね。お役所の書類仕事の手間を考えれば、蕎麦の一杯でも食べて上司が諦めるのを待つというのが最も賢明な選択肢に見えますよ。日向さん、どうですか。ここは一度引き上げて、形式を整え直した方が――」

 

「丁寧なご教示およびお気遣い恐れ入ります、日下部さん」

 

俺が一歩踏み出すより早く、日向が前に出た。彼女は現場の押し問答など最初から想定内だと言わんばかりの様子で、事務的なトーンのまま手元の黒いブリーフケースを開いた。カチリと、金具の硬い音が山門の静寂に響く。

 

日向の引き締まった指先が、ケースの中から青い表紙の厚いファイルを取り出した。その表面には『宗教法人運営実態に関する合同照会通知書』と、金色の文字で刻印されている。彼女のその動作には、日下部が提示したマニュアルの存在など最初からこの世に存在しなかったかのような冷徹な無視があった。

 

「ですが私たちが本日執行するのは、学校運営に対する独自の監査ではありません。宗教法人法及び関連特別法に基づく公益法人としての管理体制、および外部との民事係争における照会対応の履践状況に関する、文科省との合同質問検査です」

 

彼女は声のトーンを一切変えず、淡々と公文書の文面をなぞるように言葉を紡ぐ。

 

「当高専が所有あるいは管理されている周辺山林、および関連施設を巡り、近年近隣住民や自治体から『原因不明の損壊事案』や『不適切な財産管理』に関する陳情が本省へ複数寄せられております。これらは現行法上、法務省の固有権限および文科省の所轄権限に関わる事象です。事前の書面交付は、所轄庁を通じ通知済みです」

 

日向が淡々と一切の陰りなく突きつけると、日下部の口元から、それまで張り付いていたおざなりの笑みがピタリと消えた。

 

(……ああ?なんだそれ。聞いてねえが)

 

俺の目から見ても日下部が一瞬、本気で戸惑ったように目を瞬かせたのが分かった。高専の事務方から渡された「外部の人間を追い返すためのマニュアル」には絶対に載っていない、本物の法律のロジック。

 

日下部の脳内では今、日向が口にした条文の重みが高速で計算されているはずだった。宗教法人法及び関連特別法。それは国家が宗教法人に対して、その公益性を根拠に質問および資料提出を求めることができる強力な介入権の規定だ。いくら呪術界が特権を有していようとも、表向き宗教法人として登記している以上、この条文の適用を完全に拒絶することは、法理上不可能だった。

 

(あんたら、その佇まい、何だ?適当にいなせる腰掛けの役人かと思ったら、原因不明の器物損壊や管理不備の苦情を本気で調査しにきたカタブツじゃねえか。文科省との合同?宗教法人法?……最悪だ、一番関わりたくねえタイプの実績作りに必死な本省のエリートを引き当てちまったか)

 

日下部に俺たちへの敵対行動を起こす気配はなかった。上の予算獲得のために杓子定規な書類を絶対に引っ込めないという、官僚特有の厄介な執念。それが彼を本気で辟易させているのだ。下手にここで門前払いをして、後から行政訴訟だの何だのと騒がれ、自分の管理責任を問われることだけは何としても避けたいのだろう。

 

静寂が3人の間に満ちる。山林の木々が風に揺れ、音だけが不自然なほど大きく聞こえた。日下部は日向が差し出した通知書の文面を、一字一字確認するように睨みつけている。その書類に押された法務大臣印の赤い朱肉が、彼の保身の本能を的確に突いていた。

日下部はすぐにまた飄々とした態度を作り直すと、大袈裟に両手を挙げて肩をすくめてみせた。

 

「いやあ、参ったな。法務省の先生方はさすがにお詳しい。そこまでカチッと固められちゃ、俺みたいな現場の平社員に拒否権なんてないですよ。書類の不備なんて言ってられねえや。はいはい、どうぞお入りください。上には俺から上手いこと報告しておきますんで」

 

「すみませんね、日下部さん。こちらも上の決裁がうるさくてね」

 

俺はわざとらしく、気怠いトーンで苦笑いを浮かべてみせた。日向の出した完璧な書面の後押しを受けながら、あくまで受動的な役人のスタンスを崩さない。

 

「いかなる組織であれ、適正な手続きの網の目から外れることは許されない、と本省の人間が横でうるさいものですから。形式だけでも結構ですので、中に通していただけると助かります。書類の整合性さえ取れれば、私たちはすぐに引き上げますので」

 

日向はそれをただ冷淡に見つめている。俺の言葉は日下部に対する逃げ道の提示でもあった。俺たちも望んでここにきているわけではない、というポーズを見せることで、日下部の同族嫌悪を同情へとスライドさせる。日下部は俺のやる気のない言葉を耳にした瞬間、肩の力をふっと抜き親近感すら覚えたような、呆れた大人の笑みを取り戻した。彼は再び新しい煙草を胸ポケットから取り出し、咥えて火をつける。

 

ライターの小さな火が彼の顔を一瞬だけ明るく照らし、すぐに消えた。彼は深く煙を吸い込み、それを山門の天井に向けて長く吐き出した。その煙の向こうで、彼の瞳はすでに俺たちの存在を不可避の自然災害として処理していた。

 

(どこも中間管理職は大変だねぇ……なんて言ってる場合じゃねえな。勝手に乗り込んで呪術界の上のジジイどもに目をつけられて消されても俺は知らねえぞ)

 

日下部は内心でそう毒づきながらも顔には一切それを表さず、早く厄介払いをしたいという手つきで山門の奥へと体を引いた。これ以上、このカタブツたちと関わっても一文の得にもならないと判断したのだろう。

 

「どうぞ。ただ、中ではくれぐれも, 揉め事だけは起こさないようにお願いしますね?俺の始末書が増えるのだけは勘弁してほしいんで」

 

俺たちは『呪霊対策本部』の牙を完全に隠し、ただの面倒な予算泥棒の役人を完璧に演じきって日下部を欺いた。

 

俺たちは、ついに呪術高専の門を越えた。

 

日下部の横を通り抜ける瞬間、彼のコートから漂う煙草の匂いが俺の鼻腔をかすめた。彼はすでに俺たちから視線を外し、次の煙草の灰を落とする場所を探している。その徹底した「事なかれ主義」こそが彼の生存戦略であり、俺たちにとっては最大の好機だった。

 

一歩、山門の敷居を跨ぐ。

その瞬間肌の表面を撫でる大気の感触が、明確に変化した。現世の湿った空気とは異なる、千年の因習が澱んだ重く冷たい呪力の気配。ここから先は法が通用しない、暴力と怪異の領域だ。だが俺たちの手元には、その暴力を縛るための無味乾燥な紙切れがしっかりと握られている。

 

山門を越えた敷地内は鬱蒼とした杉木立が光を遮り、現世の時間感覚を狂わせるような静寂に満ちていた。砂利の敷かれた参道を歩くにつれ、ヒールの音と革靴の硬い音が交互に響く。高専の敷地は一見すると歴史ある古い寺社の佇まいそのものだった。木々の隙間から見える木造の古い校舎や回廊のあちこちには、非術師を拒絶するための防護結界が幾重にも張り巡らされている。

 

日向が前を歩いたまま、ほんの一瞬だけ、こちらに視線を流した。声を発することはしない。敵陣のただ中で言葉を交わすような愚は、実務家として許さなかった。

だがその瞳の僅かな動きだけで、俺には彼女の意図が明確に伝わった。

 

(予定通り、第一関門は突破した。ここからが本番だ、日車弁護士)

 

俺もまた、顎を僅かに引く動作だけでそれに応えた。カバンの取っ手を握る指先に、静かに力を込める。門番をいなすのとは訳が違う。奥にいる責任者は、この歪な組織を守るプロだ。形式的な書類のやり取りだけで引き下がるような手合いではない。参道を突き当たった先、重厚な瓦屋根を持つ本堂の前に、一人の男が待っていた。

 

がっしりとした巨躯からは確固たる風格が漂っていたが、その佇まいに日下部のような分かりやすい警戒の気配はなかった。

 

夜蛾正道。

 

現在の呪術高専東京校の一年生担任であり、この学舎の実質的な統括責任者の一人。

 

「……法務省の大臣官房、施設安全臨時監査室の皆様ですね。お迎えが遅れて申し訳ない。本日、対応を務めさせていただきます、夜蛾です」

 

夜蛾の声は地響きのように低かったが、その口調は極めて紳士的で大人の落ち着きを払っていた。彼は視線を俺たちに向けたまま、丁寧だが一歩もこちらに踏み込ませないような絶妙な距離感を保って一礼した。

 

俺の胸の奥で、再び未来の記憶が小さく脈動した。

夜蛾正道。後に呪術上層部によって不当な罪を科され、その生涯を閉じさせられた男。新宿決戦直前のあの重苦しい修行期間のなかで、日下部や他の術師たちの口から上層部の腐敗の最たる事例として聞かされていた名前だった。傀儡の製法という、現世の法ではおよそ定義できない技術を巡る私刑。その理不尽な死の情報が俺の胸に冷たい焦燥を刻む。だが今の彼はまだ、組織の安定を最優先に考える厳格な管理職として、俺たちの前に立っている。

 

「お初にお目に掛かります、夜蛾先生。統括事務官を務めております、日向です。こちらが法律顧問の日車弁護士になります」

 

日向は夜蛾の放つ無言の威圧感を前にしても、視線一つ動かさなかった。彼女は黒いケースから『宗教法人運営実態に関する合同照会通知書』を丁寧に取り出し、夜蛾の前に差し出した。

 

「本日は宗教法人法及び関連特別法に基づく、非術師社会との民事紛争における手続保障の履践状況について、所定の質問検査を執行に参りました。事前に内閣府および文科省を通じて、御法人の事務方へは通知書が回っているかと存じます」

 

夜蛾は日向が差し出した書類を受け取り、その表面に捺された赤い法務大臣印をじっと見つめた。その表情に敵意はない。ただ、長年お上の面倒な書類仕事と付き合ってきた男特有の、深い諦念だ。

 

「ええ、事務方から書類は受け取っております。私どものような山奥の宗教法人に、わざわざ本省の方々が監査にこられるとは、国側も随分と暇な、いや、熱心なことで」

 

夜蛾は書類を丁寧にフォルダに仕舞いながら、実にもっともらしい社交的な苦笑いを浮かべてみせた。

 

「ですが、日向先生。私どもも国の指導には全面的に従う所存ですが、あいにく本日は代表役員をはじめとする事務の責任者が皆、他県での法要に出ておりましてね。私のような現場の教師では、法人の財務や器物損壊の補償といった込み入った民事手続きの書類のあり処までは、すぐには分かりかねるんですよ」

 

夜蛾の対応は、完璧なお役所仕事の受け流しだった。拒絶はしない。全面的に協力すると言う。だが、「担当者がいない」「書類の場所がわからない」という建前を使って、決定的な情報の開示を無限に先延ばしにする。現実の行政視察において監査を煙に巻くための最も古典的で、最も強固な防壁だ。

 

日向はそれをただ静かに見つめている。ここで彼女が強硬に書類の提出を迫れば、非術師の役人としては不自然なほど執拗だと夜蛾の警戒スイッチを入れてしまう。

 

今度は俺の番だった。俺は一歩前に出ると、わざとらしく困ったような、いかにも本省のエリートと現場の板挟みになった外部弁護士らしい気怠い笑みを浮かべてみせた。

 

「いやあ、夜蛾先生、おっしゃる通りです。実際、急な合同監査と言われても、現場の先生方としては困惑されるのが当然だ。私だって民間から有識者枠で引っ張り出されなければ、今頃自分の事務所で温かいコーヒーでも飲んでいたところですからね」

 

俺がそう言って肩をすくめてみせると、夜蛾の視線がほんの少しだけ和らいだのが分かった。俺たちのダークスーツの佇まいから牙を感じ取らせないための、退屈な大人の共感。

 

「ですがね、夜蛾先生。こちらの日向も上からの実績作りの決裁に追われていましてね。今日、形式だけでもこの『質問検査回答書』の受領サインを御法人の責任者の方からいただかないと、私たちは帰れないんですよ。組織というやつは、どうしてこう形式ばかりを重んじるものか。ご安心ください、夜蛾先生。本件はあくまで行政指導段階の事実確認であり、現時点で御法人に対する不利益処分を予定しているものではありません」

 

俺はカバンから一枚の、どこにでもある味気ない再生紙の書類を取り出した。

 

「内容自体は形式的なものです。御法人が過去三年間、近隣住民や一般社会との間で発生した民事上のトラブルにおいて、適正な通知を行ったかというチェックボックスにチェックを入れていただくだけ。夜蛾先生が現場運営責任者としての職務権限を持たれていることは、こちらの登記簿でも確認しております。先生のサインが一つあれば、私たちは形式上本日の職務を完了したとして引き上げることができます。お互いに余計な書類仕事を増やさずに済むと思いませんか?」

 

俺が差し出したのは牙をもぎ取ったただのアンケート用紙のような書類だった。だがその裏には夜蛾がチェックを入れて署名し、こちらが受領した瞬間に「高専が法務省の管轄する法令適合性に基づいて公的な回答を提出した」という、行政上の既成事実が成立する罠が仕込まれている。強硬な告発ではなく、相手が「早く終わらせたい」と思う心理に付け入る泥臭い法的罠だ。夜蛾は俺が差し出した書類と、俺のやる気のない目元をまじまじと見つめ比べた。

 

(……なるほどな。本省のエリート事務官と、その実績作りに付き合わされている雇われ弁護士か。下手に突っぱねて文科省から本腰を入れて再調査されるより、この形式的な紙切れに判を押してさっさと引き取ってもらう方が、組織としては一番火傷が少なくて済むか)

 

夜蛾の脳内で管理職としての現実的な損得勘定が動いたのが分かった。彼は深い溜め息を一つ吐くと、胸ポケットから万年筆を取り出し、躊躇なくペン先を走らせた。

 

「分かりました。日車先生のおっしゃる通り、お互いに上の決裁には苦労する身のようだ。形式的なサインだけで本日の監査が終了するというのであれば、喜んでお引き受けしましょう」

 

夜蛾は俺の差し出した書類に、迷いのない筆致で「夜蛾正道」とサインを走らせた。

 

「ご協力、心より感謝いたします、夜蛾先生」

 

日向は感情の失せた一礼をすると、サイン済みの書類をそっとケースに仕舞い込んだ。質問検査への協力意思を確認した以上、その内容の真偽を確かめる形式的な現場立ち入りを拒む理由はもうこの組織には残されていない。俺たちは静かに歩を進め夜蛾に案内されるまま、ついに2007年の呪術高専の内部へと、その確実な第一歩を合法的に踏み入れた。

 




えっ日向って検事じゃなかったっけ!?ということについての補足

日向は自らの肩書を「施設安全臨時監査室の統括事務官」と偽っている設定にしてます(テンポ悪くなるので描写省略してしまった)

理由としては下記3つです。
①命令で動く無害な役人を装うため:
上司の実績作りに付き合わされて形式的な監査に来ただけという事なかれ主義の記号になり、相手の警戒を削げるため。
②日車を合法的に同行させるため:
本省の事務官の権限で「有識者弁護士の派遣仕様書」を省内で作成し、日弁連経由の出来レースで日車を不自然さなく潜入させられるため。
③監査で呪術界を縛るため:
補助金や不動産を握る本省の窓口として宗教法人法や建築基準法などの行政監査を仕掛けるのが、治外法権の牙城を現世の法で縛る最も確実な手続きだから。
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