桜舞い散る四月――俺は薬師高校へ入学した。
中学までとはまるで違う真新しい制服に初めて足を踏み入れる校舎。体育館へ向かう新入生達のざわめきが響く。
その全部が、“高校生になった”って現実を嫌でも感じさせてきた。
「……人多すぎだろ」
体育館前に張り出されたクラス表を見上げながら、俺は小さく呟く。
人混みが苦手ってわけじゃない。けど、新入生特有の浮ついた空気はどうも慣れない。
「えーっと……一年A組……お、あった」
自分の名前を見つけ、軽く息を吐く。
すると隣で同じように表を見ていた男子が、突然「あっ」と声を漏らした。
「マジか、お前もA組?」
振り向くと、短めで少し無造作に立った黒髪の男子が立っていた。人懐っこそうな顔でさっぱりとした、いかにもスポーツ男子って感じだ。
「……そうだけど」
「うわ助かった〜。俺知り合い誰もいないんだよな」
初対面なのに距離感が近いなコイツ。
だが嫌な感じはしなかった。
「俺は真田俊平。俊って呼んでくれていいぜ。お前は?」
「俺は梅宮空。なら俺も空でいいぜ」
「っ!?…お前が梅宮兄弟…」
真田の表情が一瞬で変わった。さっきまでの気さくな空気が消え、代わりに驚きと興奮が混ざったような目になる。
「……どっかで会ったか??」
「いやこっちが一方的に知ってるだけだ。中学野球やってた奴なら有名だぜ」
真田はまじまじと俺の顔を見ながら続ける。
「双子で全国制覇寸前まで行った“梅宮兄弟”。兄貴は化け物じみた打者で、お前は左で150近く投げる天才投手……だろ?」
「……随分と詳しいな」
「俺だけじゃねぇよ。むしろそんだけ有名だったのはお前らの方だ」
周囲を見れば、何人かの新入生もこちらを見てひそひそ話していた。どうやら本当に名前だけは広まっているらしい。
……面倒くせぇな。
俺が小さくため息を吐くと、真田は突然ニッと笑った。
「でも安心したわ」
「何が?」
「いや、有名な奴ってもっと近寄りづらいと思ってたからよ」
「そんな大層な人間じゃねぇよ」
「いいじゃねぇか。俺も野球やる予定なんだよ」
(ガチでやるつもりはねぇけど…)
そう言って拳を軽く握った。目の前の男も野球経験者らしく同じく野球部希望らしい。俺は一瞬だけ黙り――グラウンドの方へ視線を向けた。
校舎の隙間から見える土のグラウンド。まだ遠いのに、金属音が微かに聞こえる。その音だけで、胸の奥が熱くなった。
その時だった。
「こらぁ!!廊下塞ぐな新入生ぇ!!」
野太い怒声が響き、周囲の新入生達がビクリと肩を震わせる。
見ると、ジャージ姿の教師らしき男が鬼みたいな顔でこちらへ歩いてきていた。
「さっさと教室入れ!!入学式始まるぞ!!」
「うおっ、やっべ」
真田は慌てて歩き出し、途中で振り返る。
「空!席近かったらよろしくな!」
「あぁ」
そう返しながら、俺も歩き出した。桜が風に舞う知らない場所に知らない仲間。
けれど――。
この高校生活、退屈だけはしなさそうだった。
◆
午後――。
入学式を終えた新入生達は、それぞれ部活動見学へ流れていく中、俺たち野球部希望の一年はグラウンドへ集められていた。グラウンド脇には既に二、三年の部員達が並んでいて、その視線が新入生へ突き刺さっていた。
すると――。
「おらァ!!一年坊主共ォ!!前並べやァ!!」
グラウンド中に響く怒声。一年全員がビクリと身体を跳ねさせる。
無精髭にジャージ姿男はポケットに手を突っ込みながら、俺たちを睨み回した。
「俺ァ薬師野球部監督――轟雷蔵だ」
轟監督はそんな周囲の反応など気にもせず、鼻を鳴らす。
「いいか一年。まず最初に言っとく」
ドン、とスパイクで地面を踏み鳴らす。
「俺が指導する薬師に来たからにゃ、“そこそこ”で満足する奴ァいらねぇ」
雷蔵監督は俺たち一年を指差しながら怒鳴る。
「“頑張ります”だァ!?そんなモン犬でも言えんだよ!!全国制覇する!高校球界ぶっ壊す!歴代最強になる!そういう戯言吐いてみやがれ!!」
周囲の二、三年がニヤニヤ笑っている。多分、同じことやらされたんだろうな。て言うかこの人今年就任したばっかだよな?
「…ふぅ…こんだけ言やぁ十分か。おらキャプテン!テメェから自己紹介してやれ!」
「は、はい!!」
監督に呼ばれた3年生らしき人物が一歩前へと進む。
「三年、主将の――黒川 健吾(くろかわ けんご)です!」
腹の底から響く声がグラウンドへ広がる。黒川先輩は一度俺たち一年を見回し、それから少しだけ苦笑した。
「……まぁ、監督がああ言った後だと話しづらいんだけどな」
周囲の二、三年がクスリと笑う。
「正直に言う。今までの薬師は、強豪なんてもんじゃなかった。甲子園なんて夢のまた夢。ベスト16にすら入れない……そんなチームだった」
その言葉に、一年達の空気が少しだけ張る。けれど黒川先輩は誤魔化さなかった。
「練習が嫌いだった訳じゃない。誰もサボってた訳でもねぇ。だけど、“どうせ俺たちはここまで”って、どっかで線を引いてたんだと思う」
そこで黒川先輩は、ちらりと轟監督を見る。雷蔵監督は腕を組みながら鼻を鳴らした。
「……でも、この人が来てから何かが変わったんだ」
黒川先輩の目が、真っ直ぐになる。
『弱ぇって諦めてる時点で負けなんだよ。才能がねぇ?環境が悪ぃ?知るかボケ。勝ちてぇ奴が最後まで立ってんだ』
『強豪校の連中だって最初から化け物じゃねぇ。血ヘド吐いて、“勝つ側”に這い上がっただけだ』
雷蔵監督は「おう」とだけ鼻を鳴らした。黒川先輩は少し笑って続ける。
「最初聞いた時は、暑苦しいこと言ってんなって思ったよ。でも――」
拳を強く握り締める。
「このまま“何者でもない弱小校の三年”で終わるのだけは嫌だって思った」
その声には、確かな熱があった。
「甲子園だとか全国制覇だとか、まだ正直実感はねぇ。だけど……せめて最後くらい、自分達がやってきたことを誇れるチームになりてぇ…“薬師に負けるのならしょうがない”って言わせてぇ…負けても胸張れるくらい、本気で野球やったって言いてぇんだ」
黒川先輩は俺たち一年を真っ直ぐ見据える。
「だから一年。もしお前らが、“ただ野球やりたい”だけなら、この部活はキツいと思う…でも――」
キャプテンは口元を吊り上げた。
「“変わりてぇ奴”には、多分ここ以上に面白い場所はねぇぞ」
さっきまで騒がしかった一年達も、今は誰一人ふざけた顔をしていない。そんな空気の中――隣で真田が、小さく息を吐いた。
「……んだよそれ………"むちゃくちゃ激アツ"じゃねぇか」
思わず漏れたような声であろうか…けれどその目は、さっきまでとは少し違っていた。俺は横目でそいつを見る。
「お前、こういうの苦手そうだと思ってたけど」
「いや苦手だぞ?根性論とか暑苦しいのとか、正直めんどくせぇし」
真田は頭を掻きながら苦笑する。
「つーか俺さ、高校野球なんて“そこそこ”で終わらせるつもりだったんだよ」
「そこそこ?」
「あぁ。楽しく野球やって、適当に青春して、最後に『高校野球楽しかったな〜』って笑って終われりゃいいかなって」
その言葉には、変な嘘臭さがなかった。おそらく本心なんだろう。真田は続ける。
「中学の時思ったんだよ。上には上がいすぎるってさ。化け物みてぇな奴ばっかだし、全国とかプロとか……あんな世界、才能ある奴の場所だろって」
そこで真田は、ちらりと俺を見る。
「お前ら梅宮兄弟みたいな連中見てるとなおさらな」
「……褒めてんのかそれ」
「褒めてる褒めてる。少なくとも俺から見りゃ怪物だよ」
そう言って笑うが、その目は少しだけ悔しそうだった。
「だからさ、“本気で日本一目指します!”みたいな奴見ると、逆に冷めてたんだよ。どうせ届かねぇのにって」
風が吹き、グラウンドの土がわずかに舞う。
その中で、真田は前を見たまま呟いた。
「……でも今の聞いたらさ」
黒川先輩の背中を見る。
「なんか、ちょっと悔しくなった」
「悔しい?」
「あぁ。三年の先輩があそこまで本気なのに、俺だけ“適当に楽しめればいいや”って逃げ道作ってんの、ダサすぎんだろ…ってな」
真田は自嘲気味に笑った。
「別に今すぐ全国制覇だとか言う気はねぇよ?でも――」
真田は拳を握る。
「どうせやるなら、本気でやってみたくなった」
その言葉を聞きながら、俺は少しだけ目を細めた。高校野球なんて、所詮は部活だ。人生の全てじゃない。…おそらくそう思っている奴がほとんどだろう。…ましてや東京は全国でも随一の強豪校がひしめき合っている県だ。
口では甲子園だなんだとほざいたところで本気で行けると信じ目指している者など両手に収まるかどうかだろうな。
けど――
その“たった三年”…"三年"で人生を変えられる奴もいる。
『ならその間だけでも"命"を掛けてやってみる価値はあるんじゃないか』
俺たちにはそう言われているような気がした。
「それに…見てみろよ」
「あ?」
真田に促されるようにそちらを見つめると、俺たちと同じ新入生はみなキャプテンに充てられたかのように覚悟を決めた眼差しを向けている
「はっ…なかなか粋なこと言うようになったじゃねぇかキャプテンよぉ」
「はは…まだ分かりませんよ。俺の言葉が本当かどうかは夏の大会が終わった時に改めて確認してください」
「はっ!ナマいいやがって!おらお前ら!キャプテンがここまで言ったんだ!テメェらも負けねぇように1人ずつ喋りやがれ!!」
◆
一年達の自己紹介は、まさに十人十色だった。
「全国とかはまだ分かんないっスけど、レギュラー取れるよう頑張ります!」
「中学では控えでした!でも高校では絶対試合出たいです!」
「身長だけはデカいんで期待してください!!」
緊張で噛みながら喋る奴。
無理やり大声を張る奴。
監督に睨まれて青ざめる奴。
その度に雷蔵監督は、
「声ちっせぇ!!」
「気合いが湿ってんだよ!!」
「もっと腹から出せ腹からァ!!」
……と怒鳴り散らしていた。
だが、不思議と空気は悪くなかった。
むしろ、段々と一年達の表情から“遠慮”みたいなものが消えていく。
そして――。
「次!!!」
監督の怒声と共に、真田が一歩前へ出た。
「一年!真田俊平!ポジションは投手と外野手です!」
グラウンドへ通るよく響く声が遠吠えする。さっきまで軽口ばかり叩いていた男とは思えないくらい、真っ直ぐな表情だった。
「正直、入学する前までは高校野球なんて“楽しめればいい”って思ってました!」
その言葉に、数人の一年が少し反応する。だが真田は止まらない。
「全国とか甲子園とか、自分には関係ないと思ってました!どうせ才能ある奴の世界だって、勝手に決めつけてました!」
真田は拳を握る。
「でも――さっきキャプテンの話聞いて、少し考え変わりました!」
黒川先輩を見る。
「どうせ三年しかないなら!その三年くらい、本気で野球やってみてもいいって思いました!!」
その瞬間、二、三年の空気が少し変わった。軽く笑っていた先輩達の目が、真剣に真田を見る。
「だから俺はこのチームでレギュラー…いや違うな…――」
「っ…」
真田は"俺"を一目し息を吸い込み、腹の底から叫んだ。
「この薬師で"エース"になって!!強ぇ奴らぶっ倒して!!最後まで勝ちに行きます!!」
言い切った後、真田は少し照れ臭そうに頭を掻いた。
「……以上です!」
一瞬静まり――。
「ッしゃあ!!」
「いいじゃねぇか一年!!」
「根性あんじゃねぇか!!」
上級生達から声が飛ぶ。
「はっ!!最初よりゃマシになったじゃねぇか坊主!!」
雷蔵監督もニヤリと牙を見せた。
真田はホッとしたように息を吐きながら戻ってくる。
「っは〜……緊張した……」
「…テメェ…」
「ふっ…やっぱそう言う雰囲気も出せんだなお前。…とは言え俺ももう覚悟は決めたぜ。…天才だろうが怪物だろうがもう逃げるつもりはねぇぞ」
そう言って笑う真田の顔には確かな覚悟と熱が宿っていた。
さっきまで“見学気分”だった奴らまで、真剣な顔で前を見ている。
“エースになる”
その言葉は、野球部にとって特別だ。
ただ試合に出たいって話じゃない。
チームの中心に立つって宣言だからだ。
しかも――。
目の前には、中学最強クラスと呼ばれた左腕がいる。
普通なら避ける。
比較されるのがオチだ。
最初から勝負を諦めてもおかしくない。
けど真田は、真正面からそこへ踏み込んだ。
……だからこそ。
「……はっ」
俺は小さく鼻で笑った。
「上等だ」
そう返した瞬間だった。
「おらァ!!次ィ!!!」
雷蔵監督の怒声が飛ぶ。そして――自然と視線が集まる。一年達に上級生…全員の目が、俺を見る。
この“梅宮空”を…
その名前を知っている奴ほど、息を呑んでいた。
そんな中、俺はゆっくり前へ出る。踏み締めた土の感触が、スパイク越しに伝わる。風が吹き、桜の花びらが一枚、肩を掠めて落ちた。
「一年――梅宮空… ポジションはピッチャー」
「アイツが"あの梅宮兄弟の"……」
「なんでウチなんかに……」
「中学最強左腕とか言われてる奴だろ……」
ヒソヒソと声が漏れる中、俺は気にせず真っ直ぐ前を見る
「正直に言うと…さっきキャプテンと…真田…彼らの意気込みを聞くまでは俺の中でも少なからず迷いがあったのも確かだった」
「「…」」
「…でも…2人の…皆の覚悟を感じて俺の中にも新たな覚悟が宿った」
「「…」」
「俺は… 俺の手でこの薬師で全国制覇に導いてみせる」
「「「っ!?」」」
「甲子園出場で満足する気はなんてサラサラねぇ… 青道も、稲実も、市大三高も――全部倒して全国の強豪全部ぶっ潰して、最後に日本一になる…これは目標でも夢でもなんでもねぇ…もう一度言っておく。…このチームを…薬師を…俺が日本一にして見せる」
言葉が落ちた瞬間にゾワッ――と空気が震えた。
全員が息を呑む。上級生達の顔から笑みが消えた。なぜなら目の前の男が言い放った言葉が冗談じゃないと分かったからだ。真田ですら、横で目を丸くしていた。
「……マジかよおい…」
すると――。
「ッッッハハハハハハ!!!!!」
爆笑したのは、轟雷蔵だった。
「最高だァ!!!そういうギラついた奴を待ってたんだよ俺ァ!!!」
雷蔵監督は獣みたいな笑みを浮かべる。
「いいねぇ!!一年のくせに全国制覇だァ!?上等じゃねぇか!!」
こうして薬師高校野球部、新たな世代の火蓋が――静かに切って落とされた。