TS転生おっさん物語   作:とりにく

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おっさん、赤ちゃんからやり直す

 

目を開けると、天井も床もない白い空間にいた。

 

最後に覚えているのは、職場の蛍光灯と、机に突っ伏した頬の冷たさだった。

眠っただけ、というには体が遠すぎる。

たぶん俺は、働きすぎてそのまま死んだのだと思う。

 

まあ、納期から解放されたと思えば悪くない。

いや、悪いか。死んでるし。

 

目の前には、丸い蛍光灯みたいな何かが浮かんでいる。

名前も肩書きも聞いていないのに、それを見た瞬間、頭の奥へ直接理解が流し込まれた。

 

ああ、これは神様だ。

見た目は完全に照明器具だけど。

 

その蛍光灯は、こちらの混乱も質問も遺族年金の心配も一切待たず、やけに明るく光った。

 

「はい前世終了! お疲れさま! 次は別世界の日本! 性別は女の子! 赤ちゃんから! 身体感覚とか生活面の補助は付けるから大丈夫! たぶん大丈夫! 細かいことは成長しながら馴染むから! じゃ、いってらっしゃい!」

 

待て。

せめて説明資料を一枚くれ。

 

そう言おうとした瞬間、白い空間がぐにゃりと歪んだ。

 

足元が抜ける、という感覚に近い。

いや、そもそも足元なんてなかった気もする。死後の空間は細かい仕様が雑すぎる。

 

視界が白く塗りつぶされる。

耳の奥で、誰かの声が遠く響いた。

 

「元気な女の子ですよ」

 

次に俺が認識したのは、まぶしい光だった。

 

目が開かない。

体が重い。

指を動かそうとしても、動いているのかどうかすら分からない。

 

そして、寒い。

 

いや、寒いというより、急に世界へ放り出された感じがする。

前世で寝不足のまま会議室に入った時もなかなかだったが、これはその比ではない。全身が初期設定のままログインさせられたような頼りなさだった。

 

何だこれは。

身体の操作性が悪すぎる。

 

そう思った直後、俺の口から声が出た。

 

「おぎゃあああああああ!」

 

泣いた。

全力で泣いた。

 

別に悲しかったわけではない。

怒っていたわけでもない。

ただ、体が勝手にそうした。

 

なるほど。

赤ちゃん、自由度が低い。

 

頭では冷静に分析しているつもりなのに、喉は勝手に震える。肺は勝手に空気を吸い込む。手足は頼りなくばたつき、顔に触れる空気だけで不安になる。

 

前世の俺は、それなりに社会に揉まれた中年男性だった。

理不尽な上司も、仕様変更も、終電後のタクシー代精算も経験している。

 

そんな俺が今、何もできずに泣いている。

 

なかなか新鮮だ。

できれば新鮮じゃなくてよかった。

 

「ほら、泣いてる。元気ね」

 

女の人の声がした。

柔らかくて、少し疲れていて、それでも嬉しそうな声だった。

 

誰かに抱き上げられる。

 

視界はぼやけていて、輪郭もろくに分からない。

けれど、声と匂いと体温だけは妙にはっきり伝わってくる。

 

ああ。

この人が、今世の母親か。

 

そう理解した瞬間、胸の奥に変な感覚が落ちた。

 

前世の記憶はある。

自分が中年男性として生きていたことも覚えている。

過労で死んだらしいことも、丸い蛍光灯がやたら早口で人生の再配布を済ませたことも覚えている。

 

なのに、この腕の中にいると、妙に落ち着いた。

 

懐かしい、とは違う。

知らないはずなのに、拒む気になれない。

 

たぶん、あの蛍光灯が言っていた補助というやつだろう。

 

女の子としての身体感覚。

赤ちゃんとしての本能。

今世の家族に対する自然な受け止め方。

 

そういうものが、俺の中にゆっくり染み込んでいる。

 

仕事は雑だったが、機能はしているらしい。

あの神様、見た目のわりに最低限の納品品質は守っていた。

 

「名前、どうする?」

 

今度は男の人の声がした。

少し緊張していて、けれど隠しきれないほど浮かれている。

 

父親だろうか。

 

母親らしき人が、俺を抱いたまま小さく笑った。

 

「透花。高遠透花」

 

たかとう、とうか。

 

その名前が耳に入った瞬間、不思議とすとんと馴染んだ。

 

前世の名前は覚えている。

けれどそれを名乗る体は、もうない。

 

今の俺は、高遠透花。

女の子。

赤ちゃん。

人生二周目。

スタート地点は病院。

 

情報量が多い。

 

だが、悪くはない。

 

前世の終わりが職場の机だったことを思えば、今回は少なくとも布団がある。

周囲には怒鳴る上司もいない。

納期もない。

メールも来ない。

 

最高では?

 

いや、待て。

赤ちゃんだからメールが来ないだけかもしれない。

 

将来スマホを持たされた瞬間、通知地獄が復活する可能性はある。油断はできない。

 

そんなことを考えていると、母親が俺の顔を覗き込んだ。

 

「大人しい子ね」

 

違う。

考え事をしていただけだ。

 

「本当だ。泣き止むの早いな」

 

父親まで感心したように言う。

 

違う。

泣くのにも体力がいると判断しただけだ。

 

ただ、それを伝える手段はない。

口を動かそうとしても、出るのは頼りない息と、たまに混じる小さな声だけだった。

 

この段階で意思疎通を図るのは難しい。

社会人経験を活かすにも、まず首が据わっていない。

 

俺はひとまず、戦略を立てることにした。

 

第一目標、健康に育つ。

第二目標、無理をしない。

第三目標、前世のような働き方を絶対にしない。

 

ここは前世とよく似た日本らしい。

なら、いずれ学校へ行き、進路を選び、社会に出ることになるのだろう。

 

だが二周目である。

同じ轍は踏まない。

 

今度こそ、ほどほどに生きる。

頑張りすぎない。

期待されすぎない。

面倒な人間関係には深入りしない。

 

心穏やかに、ゆるく、楽に。

できれば昼寝の多い人生がいい。

 

そう決意した俺を、母親は優しい目で見つめていた。

 

「この子、すごく落ち着いてる」

 

父親が頷く。

 

「何だか、全部分かってるみたいな顔してるな」

 

分かっている。

だいたいは。

 

だが、今の俺にできることは少ない。

首も動かせない。寝返りも打てない。言葉も話せない。

意思表示の手段は、泣くか、寝るか、何となく手を動かすか。

 

人生二周目。

転生特典あり。

現代日本風パラレルワールド。

女の子として再スタート。

 

条件だけ聞けば、なかなか悪くない。

 

しかし。

 

俺は小さな手を握ろうとして、うまく握れず、ふにゃりと指を丸めた。

 

これから十数年、まずは自力でトイレに行けるところから始めなければならない。

 

二度目の人生。

初手から自由度が低すぎる。

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