高校生活が始まってから、俺の周囲は少しずつ騒がしくなっていた。
昼休みになると、小日向さんが当然のように隣へ座る。
白河さんは以前より頻繁にこちらを気にするようになった。
瀬尾さんは何かを察した顔で、少し離れたところから面白そうに眺めている。
そして千夏は、最近になって妙に俺の予定を確認する。
「透花、今日の放課後は?」
「特に何もないけど」
「じゃあ、一緒に帰るから」
「約束してた?」
「今した」
即決だった。
千夏は満足そうに頷きかけて、ふと俺を見る。
「……何か予定できたら、そっち優先していいけど」
「いや、ないよ」
「なら決まり」
今度こそ満足したらしい。
幼馴染というものは、いつから予定管理まで担当するようになったのだろう。
まあ、帰る方向は同じだ。
俺としても千夏と帰るのは嫌ではない。
なので、異議はない。
ただ、その時の千夏が確かめたかったのは、帰宅経路ではなかったらしい。
昼休み。
購買から戻ると、窓際の俺の席には、すでに見慣れた椅子が一脚増えていた。
「透花ちゃん、おかえり」
小日向さんが笑顔で手を振る。
「ただいま」
「今日は何買ったの?」
「焼きカレーパン」
「おいしそう。一口ちょうだい」
「一口なら」
教科書を避け、机の上へパンの袋を置く。
小日向さんが俺の左側へ椅子を寄せる。
この数日で、すっかり定位置になっていた。
右側からも椅子を引く音がする。
「今日は最初から、あたしもこっちで食べるから」
千夏が弁当箱を抱えて座った。
「お弁当組の机はいいの?」
「ここで食べる」
「そう」
本人がいいなら問題はない。
俺は焼きカレーパンの袋を開けた。
揚げていない分、普通のカレーパンより少し軽い。
昼から胃を酷使しない。
なかなか理性的な商品である。
「透花ちゃん、それ本当においしい?」
小日向さんが覗き込む。
「たぶん当たり」
「じゃあ、約束の一口」
差し出された手のひらへ、小さくちぎったパンを乗せる。
「あ、おいしい」
小日向さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「でしょ」
「明日、私も買おうかな」
「数が少なかったから、早めに行った方がいいよ」
何気なく答える。
その横で、千夏の箸が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに卵焼きをつまみ、俺の方へ差し出す。
「透花」
「なに?」
「あたしのも食べる?」
「いいの?」
「パン一口」
なるほど。
交換条件らしい。
俺は千夏へパンを渡し、代わりに卵焼きを受け取った。
甘めの味付け。
昔から変わらない。
「おいしい」
「でしょ」
千夏は満足そうに笑った。
小日向さんが、左右を見比べる。
「二人って、本当に幼馴染なんだね」
「そうだよ」
答えたのは千夏だった。
いつもより少しだけ早い。
「小さい頃から一緒だから。透花の好みも、大体分かるし」
「へえ」
小日向さんは面白そうに笑う。
「じゃあ、購買の新作パンを選ぶのも知ってた?」
「それは最近」
「透花ちゃん、意外と新しいもの好きだよね」
「日常に適度な刺激は必要だから」
俺が答えると、小日向さんが笑った。
「そういうところ、かわいい」
「かわいい?」
「うん。見た目はすごく落ち着いてるのに、パンの新作をちょっと楽しみにしてるところ」
どう返すべきか分からない。
パンを楽しみにする程度で評価が変動するとは思わなかった。
俺が首を傾げていると、右隣から視線を感じた。
千夏がこちらを見ている。
口元は笑っている。
ただ、箸の先で卵焼きを少し強めにつまんでいた。
「千夏?」
「なに?」
「卵焼き、崩れそう」
「……透花がぼんやりしてるから」
理不尽では?
何かを聞こうとしたところで、机の前に人影が差した。
「高遠さん」
顔を上げる。
白河さんが、プリントを一枚持って立っていた。
今日も背筋が伸びている。
黒髪は真っ直ぐ肩の後ろへ流れ、表情も普段通り整っている。
ただ、声をかけたあと、わずかに迷うような間があった。
「昨日の係決めの一覧ですが、確認していただけますか」
「私が?」
「四人で整理した際、高遠さんも内容を見ていたので」
なるほど。
俺はパンを置き、プリントを受け取った。
空欄になっていた箇所が埋められている。
名前の重複もない。
「大丈夫だと思う」
「そうですか」
白河さんは頷く。
それで話は終わったはずだった。
だが、立ち去らない。
「白河さん?」
「……いえ」
白河さんの視線が、俺の手元へ落ちる。
「昼食中に、すみませんでした」
「気にしなくていいよ」
「ありがとうございます」
短く頭を下げ、ようやく自分の席へ戻っていく。
少し離れたところで、瀬尾さんがこちらを見ていた。
目が合う。
瀬尾さんは何も言わず、口元だけで笑った。
また何か妙な解釈をしていそうだ。
アニメやゲームであれば、情報通のキャラとして登場しているだろう。
「透花ちゃん」
左側から、小日向さんが声をかける。
「白河さんと、最近よく話すね」
「係の書類を手伝ったから」
「ふうん」
右側からも、声が飛んでくる。
「昨日、白河さんと何かあったの?」
千夏だった。
「だから、プリントを分けた」
「それだけ?」
「それだけ」
なぜ同じ質問を二方向から受けているのだろう。
妙な圧迫感を感じる。
俺は焼きカレーパンを一口食べた。
おいしい。
少なくとも、パンには余計な含みがない。
「透花ちゃんって、さらっと人を助けるよね」
小日向さんが言う。
「放っておくと、あとで面倒になるから」
「そういう言い方するけど、普通は気づいても動かない人もいるよ」
「それは自由でしょ」
「ほら、そういうところ」
また分からない評価を受けた。
千夏は黙っている。
いつもなら何か言いそうな場面だ。
横を見ると、弁当箱へ視線を落としていた。
表情は普通に見える。
けれど、何となく静かだった。
「千夏」
「なに?」
「今日、一緒に帰るんだよね」
声をかけると、千夏が顔を上げた。
一瞬だけ目を丸くする。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「うん。帰る」
機嫌が直ったらしい。
理由は分からない。
だが、昼休みの空気が少し軽くなったので、ひとまずよしとする。
放課後。
帰りのホームルームが終わると、千夏はすぐに俺の席へ来た。
「透花、帰るよ」
「少し待って。鞄を閉めるから」
「早く」
「急いでる?」
「別に」
急いでいるように見える。
机の横では、小日向さんがこちらを見上げていた。
「透花ちゃん、今日は朝比奈さんと帰るの?」
「そうみたい」
「そうみたいって」
千夏が少しだけ眉を寄せる。
「朝に約束したでしょ」
「うん。覚えてる」
「ならいいけど」
小日向さんは、俺と千夏を交互に見たあと、柔らかく笑った。
「じゃあ、また明日ね。透花ちゃん」
「また明日」
「莉子も、また明日」
千夏が返す。
声は明るい。
ただ、小日向さんが少しだけ楽しそうに目を細めた。
「うん。また明日、朝比奈さん」
何かあるのだろうか。
俺には分からない。
鞄を肩へ掛け、教室を出る。
廊下には、部活動へ向かう生徒の声が響いていた。
開け放たれた窓から風が入り、掲示板に貼られた紙の端を揺らしている。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
千夏は隣を歩いていた。
いつもと同じ帰り道。
駅へ向かう生徒たちの列から外れ、住宅街へ入る。
夕方の光が、家々の屋根を淡く染めていた。
こうして千夏と並んで帰るのは、別に珍しいことではない。
小学生の頃も、中学生の頃も、気づけば同じように隣を歩いていた。
もっとも、その頃から千夏はよく喋り、俺は聞く側だった気がする。
十年以上経っても、その辺りはあまり変わっていない。
……いや。
最近は少しだけ違うか。
千夏が、妙に俺の交友関係を気にするようになった。
そんなことを考えながらしばらく歩いていると、本人が口を開いた。
「最近、莉子とよく話してるよね」
「昼を一緒に食べてるから」
「毎日?」
「今のところは」
「白河さんとも」
「昨日、少し手伝っただけ」
「ふうん」
また「ふうん」が来た。
この言葉は便利だが、意味の幅が広すぎる。
俺は隣を見る。
千夏は前を向いたまま歩いている。
鞄の持ち手を握る指に、少しだけ力が入っていた。
「何か気になる?」
「別に」
「別に、ではなさそう」
言うと、千夏は足を止めた。
俺も立ち止まる。
夕方の住宅街。
少し離れたところを、自転車が一台通り過ぎていく。
千夏は俺を見上げた。
昔から見慣れた顔。
明るくて、よく笑う。
機嫌がいい時も悪い時も、比較的分かりやすい。
ただ最近は、その分かりやすさの中に、少しだけ言葉にしない部分が増えた。
「あたしが誘わなかったら、今日は誰と帰ってた?」
「一人で帰ってたと思う」
「莉子に誘われたら?」
「予定がなければ、一緒に帰るかも」
千夏の眉が寄る。
正直に答えたのだが、どうやら正解ではないらしい。
「白河さんに誘われたら?」
「白河さんが?」
想像しにくい。
「仮に」
「予定がなければ、断る理由はないけど」
「……そっか」
千夏は視線を落とした。
失敗した気がする。
だが、嘘をつくのも違う。
俺は少し考えた。
「でも、今日は千夏と帰る約束だったから」
千夏が顔を上げる。
「誰かに誘われても、千夏と帰るよ」
「……ほんと?」
「先に約束したからね」
一瞬、千夏の顔が明るくなった。
けれど、すぐに少し不満そうな表情へ戻る。
「約束したから?」
「うん」
「それだけ?」
難しい。
何を求められているのか分からない。
俺は少し考えた。
千夏と帰ること。
小学生の頃から何度も繰り返してきた。
中学でも、高校でも。
特別な予定がなければ、自然に隣へ並ぶ。
だから、あまり意識したことがなかった。
「千夏と帰るのは楽だから」
俺は言った。
「気を遣わなくていいし」
千夏の目が、わずかに揺れる。
「それに、今日は千夏から誘ってくれたから」
「……うん」
「嫌なら断ってるよ」
千夏は黙った。
しばらくして、少しだけ俯く。
耳がわずかに赤いように見える。
夕日のせいだろうか。
「じゃあ、明日も一緒に帰る」
「予定がなければ」
「予定、あるの?」
「今のところはない」
「じゃあ決まり」
また即決だった。
千夏は歩き出す。
先ほどまでより、少しだけ歩幅が軽い。
俺も隣へ並んだ。
これで解決らしい。
だが、数歩進んだところで、千夏が続ける。
「あと、昼休み」
「昼休み?」
「……明日も、こっちで食べるから」
「うん」
「それで、その……」
珍しく言葉を濁した。
「なに?」
「透花の隣、空いてたら嬉しい」
「椅子なら持ってくれば座れるよ」
「そういう意味じゃない」
即答された。
では、どういう意味なのだろう。
俺が首を傾げていると、千夏は一度口を開き、それから閉じた。
「……やっぱり、今のなし」
「なんで?」
「なんか、すごく面倒なこと言ってる気がしてきた」
自覚はあったらしい。
「別に、千夏が来たらいつも通り座ればいいよ」
「莉子が先にいても?」
「反対側、空いてるでしょ」
「……そうだけど」
少し不満そうだ。
「千夏が来たら、いつも通り座ればいいよ」
もう一度そう言うと、千夏が俺を見る。
「いいの?」
「なんで駄目なの」
「……なら、いい」
千夏は前を向いた。
その歩幅が、ほんの少しだけ軽くなる。
俺としては、昼食を一緒に食べる人数が一人増えるだけなのだが。
どうも千夏にとっては、もう少し重要な問題だったらしい。
また歩き出す。
俺はその隣で、今日の会話を思い返した。
小日向さんと昼を食べる。
白河さんのプリント整理を手伝う。
千夏と帰る。
どれも大したことではない。
普通の日常だ。
それなのに最近、千夏は俺の予定や交友関係を妙に気にする。
今日に至っては、昼休みの座る場所まで気にしていた。
まあ、本人も途中で「面倒なことを言っている」と気づいたらしいので、まだ大丈夫だろう。
たぶん。
隣では、千夏が機嫌よく歩いている。
俺も特に困ってはいない。
なら、今のところ問題なし。
夕方の風が吹く。
隣を歩く千夏の髪が、柔らかく揺れた。
……幼馴染との関係に「今のところ」という注釈が必要なのかは、考えないことにした。