人間関係というものは、適度な距離を保っていれば大抵どうにかなる。
近づきすぎない。
突き放しすぎない。
相手が話したければ聞く。
疲れていそうなら、少しだけ休ませる。
前世で身につけた処世術としては、かなり実用的だ。
少なくとも、俺はそう思っていた。
「透花、今日も帰り一緒だから」
右隣から千夏が言う。
「透花ちゃん、放課後に購買寄らない? 新作のお菓子あるみたい」
左隣では、小日向さんが笑う。
少し離れたところから、白河さんが何か言いたそうにこちらを見ている。
そして、その全部を眺めていた瀬尾さんが、妙に楽しそうな顔で呟いた。
「高遠さんって、距離感うまいよね」
褒められたのだろうか。
俺は少し考えた。
けれど、左右から飛んでくる予定の確認に対応しているうちに、考える余裕はなくなった。
平穏に過ごすために身につけたはずの距離感が、なぜか最近、逆方向に仕事をしている。
昼休み。
俺の机の右側には千夏。
左側には小日向さん。
いつの間にか、この配置が定着していた。
千夏の分の場所を空けておく。
そう約束した以上、右側は最初から確保してある。
小日向さんは左側へ当然のように椅子を持ってくる。
二人とも別に騒がしいわけではない。
昼食を取るだけなら問題はない。
ただ、一人でパンを食べていた頃と比べると、机の周辺人口は明らかに増えた。
「透花、聞いてる?」
千夏が弁当箱から顔を上げる。
「聞いてる。今日も一緒に帰るんでしょ」
「そう」
「透花ちゃん、帰りに購買も寄ろうよ」
小日向さんが笑顔で重ねる。
「新作のお菓子、今日から販売なんだって」
「購買なら帰る前に寄れるね」
俺は答えた。
「千夏もそれでいい?」
千夏は箸を止めた。
ほんの一瞬。
「……まあ、購買なら」
「決まりだね」
小日向さんは嬉しそうに頷く。
千夏も笑っている。
笑ってはいるのだが、少しだけ目が細い。
何か不満があるのだろうか。
「千夏、甘いもの苦手だった?」
「別に」
「ならよかった」
「……そういうところだよ」
「どこ?」
千夏は答えなかった。
難しい。
最近の千夏は、昔に比べて言葉の省略が増えた。
小学生の頃は、遊びたい、帰りたくない、約束して、と全部口にしていた。
今は、察することを要求される。
幼馴染の会話にも読解問題が発生するらしい。
俺は購買で買ったコロッケパンを一口かじった。
揚げ物とパン。
少し重い。
だが、昼休みの満足感としては悪くない。
「透花ちゃん、今日のパンは当たり?」
小日向さんが覗き込む。
「おいしいけど、午後に少し眠くなりそう」
「一口ちょうだい」
「どうぞ」
小さくちぎって渡す。
小日向さんは口へ運び、少しだけ頬を緩めた。
「ほんとだ。おいしい」
「でしょ」
「透花ちゃん、購買のパン選ぶの上手だよね」
「経験則」
「高校始まって、まだそんなに経ってないよね?」
「観察は大事」
何事も傾向を把握すれば外れを引きにくくなる。
商品の売れ方。
補充される時間。
パンの種類。
日常を快適にするための小さな工夫である。
右側から箸が伸びてきた。
千夏が卵焼きを差し出している。
「透花」
「なに?」
「あたしのも」
「交換?」
「一口」
意図は分かった。
俺は千夏にもコロッケパンを渡し、代わりに卵焼きを受け取った。
甘めの味付け。
幼い頃から何度も食べてきた味だ。
「やっぱりおいしい」
「やっぱり?」
「昔から変わらないから」
千夏の表情が、少しだけ柔らかくなる。
「そっか」
満足したらしい。
昼食の交換で機嫌が直るなら、非常に平和である。
俺がそう思ったところで、机の前に人影が差した。
「高遠さん」
顔を上げる。
白河さんが立っていた。
手には教科書とノートがある。
いつも通り背筋は伸びている。
黒髪もきれいに整えられている。
ただ、俺の机の左右を見たあとで、わずかに言葉を止めた。
「どうしたの?」
「あの……昨日の授業で、少し確認したい箇所がありまして」
「どこ?」
白河さんがノートを開く。
数学の問題だった。
途中までは解けている。
計算も間違っていない。
ただ、最後の式変形だけが少し遠回りになっている。
「ここ、先にまとめると短くなると思う」
俺はノートの余白を指差した。
白河さんが身を屈める。
「この部分ですか?」
「うん。そこから代入すると楽」
「……なるほど」
白河さんは頷いた。
視線がノートへ落ちる。
すぐに理解したらしい。
さすがに早い。
「白河さんなら、自分でも気づいたと思うけど」
何気なく言うと、白河さんの指先が止まった。
「え?」
「少し休んでから見たら、たぶん普通に解ける」
白河さんは顔を上げる。
「昨日、遅くまで勉強してた?」
「……いつもと同じくらいです」
「なら、今日は少し早めに休んだ方がいいかも」
黒い瞳が、わずかに揺れた。
白河さんは何か言おうとして、口を閉じる。
それから、少しだけ視線を逸らした。
「高遠さんは、またそうやって」
「何か変だった?」
「いいえ」
白河さんは小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
声は普段より少し柔らかい。
問題は解決したらしい。
よかった。
俺がコロッケパンへ戻ろうとすると、白河さんはまだその場に立っていた。
「白河さん?」
「いえ。失礼しました」
白河さんは少しだけ名残惜しそうにノートを閉じ、自分の席へ戻っていった。
なぜか歩く速度が少し遅い。
眠いのだろうか。
「透花ちゃん」
左側から小日向さんが声をかける。
「なに?」
「白河さんのこと、よく見てるね」
「そう?」
「勉強の話だけで、寝不足まで分かるんだ」
「字が少し乱れてたから」
白河さんのノートは普段きれいに揃っている。
今日だけ少し、書き始めの線が揺れていた。
小日向さんは俺の顔をじっと見る。
「透花ちゃんって、ちゃんと見てるんだね」
「見える範囲だけだけど」
「ふうん」
今度は小日向さんまで、少し考えるような顔をした。
右側では、千夏が黙って弁当箱を見ている。
「千夏?」
「なに?」
「今日、静かだね」
「別に」
また出た。
これは、別に何もなくない時の言い方だ。
「何か気になる?」
「透花はさ」
千夏が顔を上げる。
「あたしが寝不足でも気づく?」
「分かると思う」
「ほんと?」
「千夏は眠いと返事が少し遅くなるし、朝から甘いもの欲しがるから」
千夏は一瞬、目を丸くした。
「……覚えてたんだ」
「長い付き合いだからね」
そう答えると、千夏の口元が少し緩む。
「ならいい」
昼休みの席。
帰り道。
卵焼き。
寝不足の判定。
最近、千夏から確認される項目が少しずつ増えている。
幼馴染との関係も少しずつ変わってゆく。
「高遠さん」
少し離れたところから声がした。
瀬尾さんだった。
自分の席へ座ったまま、こちらを眺めている。
「さっきから何?」
「いや、すごいなと思って」
「何が?」
「全員に違う答え返してるのに、全部ちょうどいいところへ刺さってる」
意味が分からない。
「普通に答えてるだけだけど」
「それがすごいんだって」
瀬尾さんの隣では、桐生が菓子パンを食べながら笑っている。
「高遠さん、無自覚なんだな」
「何の話?」
「いや。俺は巻き込まれたくないから言わない」
「もう十分見て楽しんでるでしょ、桐生くん」
瀬尾さんが突っ込む。
「瀬尾ほどじゃない」
何かを観察されているらしい。
心当たりがない。
俺は食べ終えたパンの袋を畳んだ。
午後の授業まで、あと数分。
少しだけ窓の外を眺めたい。
そう思ったところで、小日向さんが机へ頬杖をついた。
「透花ちゃん」
「なに?」
「私が眠そうだったら、気づく?」
また同じ質問だ。
「たぶん」
「どうして?」
「小日向さんは、疲れると少し静かになるから」
小日向さんの目がわずかに開く。
「分かるの?」
「昼を一緒に食べてるから、それくらいは」
「……そっか」
声が少しだけ柔らかい。
小日向さんは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た千夏が、今度は俺の袖を軽く引いた。
「透花」
「なに?」
「あたしの方が分かりやすい?」
なぜ競う。
「千夏は付き合いが長いから」
「じゃあ、あたしの方が分かる?」
「何が?」
「あたしのこと」
質問が難しい。
俺は少し考えた。
千夏は、昔から隣にいる。
機嫌がいい時も、悪い時も。
疲れている時も、勢いだけで動いている時も。
分かりやすいと思っていた。
ただ最近は、少しだけ分からないことが増えた。
だから正直に答える。
「分かることも多いけど、最近は難しい」
千夏が動きを止めた。
「難しい?」
「うん。前より言わないことが増えたから」
少しだけ、千夏の表情が揺れる。
言いすぎただろうか。
だが、千夏はすぐに視線を落とした。
「……じゃあ、ちゃんと聞いて」
「何を?」
「あたしが何か言いたそうな時」
「分かった」
俺は頷いた。
「聞くよ」
千夏が顔を上げる。
目が合う。
ほんの少しだけ頬が赤い。
「約束だから」
「約束ね」
そう返すと、千夏は満足そうに笑った。
子供の頃から変わらない。
千夏は約束を大事にする。
何気なく返すと、長期間保存される。
だから気をつけた方がいい。
分かってはいる。
ただ、今回は別に難しい約束ではない。
何か言いたそうなら、聞く。
それくらいなら問題ない。
俺がそう考えていると、小日向さんが少しだけ頬を膨らませた。
「透花ちゃん、私の話も聞いてね」
「聞くよ」
「ちゃんと?」
「うん」
白河さんが、自分の席からこちらを見ている。
目が合うと、すぐに教科書へ視線を戻した。
だが数秒後、またこちらを見た。
何か言いたいことがあるのだろうか。
「白河さん」
呼びかけると、白河さんの肩が小さく揺れた。
「何でしょうか」
「まだ何かある?」
「……ありません」
「ならいいけど」
「ただ」
白河さんは少し迷う。
それから、静かな声で続けた。
「明日、もう一問だけ確認していただいてもよろしいですか」
「いいよ」
「ありがとうございます」
白河さんはノートへ視線を戻した。
横顔は普段通り落ち着いている。
ただ、耳が少しだけ赤いように見える。
教室が暑いのだろうか。
俺は窓を少し開けた。
風が入る。
カーテンが柔らかく揺れた。
「高遠さん」
瀬尾さんが、笑いを堪えるような声で呼ぶ。
「なに?」
「もう少し自覚した方がいいと思う」
「何を?」
「そこから説明するのは、私の仕事じゃないかな」
不親切である。
放課後。
帰りのホームルームが終わると、千夏がすぐに俺の席へ来た。
「透花、帰るよ」
「少し待って」
鞄へ教科書を入れる。
小日向さんも隣から顔を出した。
「透花ちゃん、購買寄るんだよね」
「うん」
「新作のお菓子、売り切れてないといいな」
「走らなくても間に合うと思う」
「でも少し急ごう」
白河さんは自分の席でノートを閉じている。
俺と目が合う。
「白河さんも帰る?」
思わず聞いた。
昨日のように、何か残っていないか気になっただけだ。
「え?」
「今日は頼まれごと、ない?」
「ありません」
「ならよかった」
白河さんは一瞬だけ黙った。
それから、少し考えるように視線を伏せた。
「……駅まででしたら、ご一緒してもよろしいでしょうか」
珍しい。
白河さんの家がどちらかは知らないが、駅までは同じ方向らしい。
断る理由はない。
「いいよ」
答えると、白河さんは小さく息を吐いた。
少し安心したように見えた。
「では、お言葉に甘えます」
右隣で、千夏が止まる。
左側では、小日向さんが笑顔のまま目を細めた。
「白河さんも一緒なんだ」
「はい。駅までですが」
「そっか」
「うん。みんなで行こう」
俺は鞄を肩へ掛けた。
これでいい。
帰る方向が同じなら、一緒に帰ればいい。
購買へ寄り、新作のお菓子を確認する。
その後、駅で白河さんと小日向さんに別れ、千夏と住宅街へ向かう。
無駄がない。
非常に効率的である。
そう思っていた。
教室を出る。
千夏が俺の右隣へ並ぶ。
小日向さんは左隣へ来る。
白河さんは少しだけ迷ったあと、半歩後ろを歩いた。
廊下の端で、瀬尾さんと桐生がこちらを見送っている。
「高遠さん、すごいな」
桐生の声が聞こえた。
「でしょ」
瀬尾さんが答える。
何がすごいのだろう。
俺は少し考えた。
昼休みから続く、妙な空気。
予定の確認。
質問の応酬。
少しずつ増える約束。
前世でも見たことがある。
複数の関係者が、微妙に違う要望を持っている。
誰かだけを優先すると角が立つ。
全員に対応しようとすると、調整事項が増えていく。
これは。
面倒な案件だ。
俺は内心で小さく息を吐いた。
それでも、購買の新作菓子は少し楽しみだった。