おっさんJKは今日も振り回されていく。
休日の予定は、簡潔であるほどいい。
足りなくなったノートを買う。
ついでに駅前の書店へ寄る。
気が向いたら、少し甘いものでも買って帰る。
所要時間は一時間ほど。
誰かと待ち合わせをする必要もない。
急ぐ理由もない。
好きな店を好きな順番で回り、疲れたら帰ればいい。
完璧な休日だった。
少なくとも、家を出る直前までは。
「透花、準備できた?」
玄関の向こうから、千夏の声がする。
なぜいる。
扉を開けると、私服姿の千夏が当然のように立っていた。
明るい茶色の髪を軽く整え、片手には小さな鞄を持っている。
「駅前行くんでしょ?」
「どうして知ってるの?」
「昨日言ってたから」
確かに、昼休みにノートが足りないとは言った気がする。
だが、同行者を募集した覚えはない。
「約束してた?」
「今した」
またそれか。
俺が返事を考えていると、千夏のスマートフォンが短く震えた。
画面を見た千夏の表情が、一瞬だけ止まる。
「……莉子も来るって」
「小日向さんも?」
「透花が駅前に行くって聞いたら、行きたいって」
情報の流通が早い。
さらに駅前で合流した小日向さんは、栗色の髪を揺らしながら笑顔で手を振った。
「透花ちゃん、おはよう。白河さんも来るって」
「白河さんも?」
「参考書を探してたみたい。ちょうどいいから、一緒に回ろうって」
話が広がっている。
ノートを買うだけだったはずの休日に、同行者が三人増えた。
千夏は俺の右側へ立つ。
小日向さんは自然に左側へ並ぶ。
少し遅れてきた白河さんは、こちらを見つけると、わずかに表情を緩めた。
「お待たせしました」
「今来たところ」
千夏が答える。
白河さんは小さく頭を下げ、俺たちの隣へ並んだ。
まあ、いいか。
人数が増えたところで、買うものは変わらない。
文房具を選び、本を見て、何か食べて帰る。
それだけだ。
そう思っていた。
ただ、買い物を始めて十分ほど経った頃には、ひとつ気づいていた。
休日の外出でも、俺の左右にはすでに定位置があるらしい。
駅前の文房具店は、休日らしく人が多かった。
棚には色とりどりのノートやペンが並び、奥の一角では、小学生くらいの子供が消しゴムを見比べている。
猫の形をした消しゴムが目に入った。
小学生時代の小さな事件を思い出す。
あの頃は、消しゴムひとつで人間関係の火種が生まれた。
高校生になれば多少は楽になるかと思ったが、最近は昼休みの席や帰宅予定まで確認事項に追加されている。
人間関係というものは、成長とともに簡単になるわけではないらしい。
「透花、これでいいんじゃない?」
千夏が無地のノートを差し出した。
「使いやすそう」
「透花、派手なの選ばないもんね」
「授業で使うだけだから」
左側から、小日向さんが別のノートを持ち上げる。
「こっちは? 端に小さい猫いるよ」
表紙の隅には、眠そうな顔をした猫が描かれていた。
少し気の抜けた表情。
悪くない。
「かわいい」
「でしょ?」
小日向さんが嬉しそうに笑う。
「透花ちゃん、こういうの好きそう」
「そうかな」
「何となく。静かで、ちょっと眠そうな猫」
言われて、もう一度表紙を見る。
確かに、妙な親近感がある。
「一冊くらいなら、これにしようかな」
俺が手に取ると、千夏が同じ棚へ手を伸ばした。
「じゃあ、あたしも同じの買う」
「ノートまで合わせなくても」
「別にいいでしょ」
小日向さんも猫柄のノートを籠へ入れる。
「私も買おうかな。お揃い、楽しそうだし」
三冊になった。
少し離れた棚を見ていた白河さんへ視線を向ける。
「白河さんは?」
白河さんは、手にした紺色のノートと猫柄の表紙を見比べた。
「私は、こちらで十分です」
いかにも白河さんらしい選択だ。
そう思った直後。
白河さんは一度だけ迷い、猫柄のノートも籠へ入れた。
「……ただ、自宅用に一冊くらいなら」
小日向さんが目を輝かせる。
「白河さんもお揃い」
「授業用ではありません」
「そこ大事なんだ」
「大事です」
真面目な声だった。
ただ、白河さんの口元はほんの少しだけ柔らかい。
俺は四冊の猫柄ノートを見た。
予定にはなかった。
だが、意外と悪くない。
書店では、白河さんが参考書を選んだ。
小日向さんは雑誌の棚で何度か足を止め、千夏は漫画の新刊を見つけて少し悩んでいた。
一人なら、必要な棚だけを回ってすぐに帰っていたと思う。
けれど、誰かが気になったものを眺める時間も、それはそれで面白い。
予定より長く歩いたので、帰宅前に駅前のカフェへ入った。
窓際の四人席。
千夏が俺の隣へ座る。
向かい側には、小日向さんと白河さん。
注文したカフェラテへ口をつける。
休日に飲む甘いものはいい。
前世では、休みの日まで仕事の連絡が来ることがあった。
今は、紙袋の中に猫柄のノートが入っているだけだ。
人生二周目。
少なくとも、前世より健全である。
「そういえば」
小日向さんがストローを指先で回しながら、こちらを見る。
「透花ちゃんって、まだ私のこと小日向さんって呼ぶよね」
「そうだね」
「私だけ、ちょっと距離ある感じしない?」
「入学してから知り合ったばかりだから」
「でも、私はもう透花ちゃんって呼んでる」
確かに。
昼休みは毎日のように一緒に食べている。
今日は休日まで同行している。
今さら、距離を取る理由もない。
「莉子でいいよ」
小日向さんは笑っている。
ただ、その目は少しだけ真剣だった。
俺は頷く。
「じゃあ、莉子さん」
名前を呼ぶと、小日向さん――莉子さんは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、頬を緩める。
「……うん」
先ほどまでより、少しだけ嬉しそうな声だった。
「本当は、さんもいらないけど。今日はそれで許してあげる」
「段階制なんだ」
「大事だから」
呼び方ひとつに、思ったより細かな規定がある。
隣で、千夏がカップを持ったままこちらを見ている。
「透花」
「なに?」
「あたしのことは、ずっと千夏だよね」
「幼馴染だからね」
「……ならいい」
確認作業だったらしい。
その向かいで、白河さんがわずかに姿勢を正した。
「あの」
「うん?」
「では、私も……真澄、と呼んでいただいて構いません」
少しだけ意外だった。
白河さんは、こういう距離の詰め方には慎重な印象がある。
けれど、黒い瞳は逸らさずにこちらを見ている。
「よろしければ、ですが」
声は普段通り丁寧だ。
ただ、指先がカップの縁へ触れたまま止まっている。
「分かった。真澄さん」
白河さん――真澄さんは、小さく息を呑んだ。
それから、目元をほんの少し柔らかくする。
「はい」
短い返事。
でも、いつもより少しだけ温かい。
「私も、透花さんとお呼びしても?」
「どうぞ」
「……ありがとうございます、透花さん」
呼び方が変わった。
ただ、それだけだ。
それだけのはずなのに、三人はそれぞれ少しだけ嬉しそうに見える。
儀式だったのだろうか。
俺にはよく分からない。
「じゃあさ」
莉子さんが楽しそうにストローを揺らした。
「せっかくだし、私たちももう少し呼び方を変えない?」
「私たち?」
千夏が聞き返す。
「うん。透花ちゃんだけじゃなくて」
莉子さんは、千夏と真澄さんを順番に見る。
「朝比奈さん、白河さんって呼ぶのも、ちょっと距離ある感じするし」
千夏は一度だけ瞬きをした。
「あたしは前から莉子って呼んでるけど」
「そうなんだよね」
莉子さんは少しだけ頬を膨らませる。
「朝比奈さんは自然に距離詰めるの早いのに、私はまだ名字で呼んでる」
「じゃあ、好きに呼べば?」
「いいの?」
「別に。呼びやすい方でいいよ」
千夏がそう返すと、莉子さんはすぐに笑った。
「じゃあ、千夏ちゃん」
「ちゃん付けなんだ」
「嫌?」
「嫌ではないけど」
千夏は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「なら、よろしくね。千夏ちゃん」
「……よろしく、莉子」
今度は、二人の視線が真澄さんへ向かう。
莉子さんは迷いなく言った。
「真澄ちゃんも、いい?」
真澄さんの目が少しだけ開く。
「小日向さんは、距離を縮めるのが早いですね」
「莉子でいいよ」
真澄さんは少し迷った。
けれど、拒む気はないらしい。
表情は困っているようでいて、どこか柔らかい。
「では……莉子さん」
「うん。よろしく、真澄ちゃん」
莉子さんが満足そうに笑う。
千夏も、その流れに乗るように口を開いた。
「じゃあ、あたしも真澄って呼ぶね」
「はい。私も、千夏さんとお呼びします」
「さん付けなんだ」
「急に呼び捨てにするのは、少し落ち着きませんので」
「真澄らしい」
千夏が笑う。
その言葉に、真澄さんも小さく笑った。
「では、改めて。よろしくお願いします。千夏さん、莉子さん」
「よろしく、真澄ちゃん」
「よろしく、真澄」
三人の声が重なる。
さっきまで、俺との呼び方をどうするかという話だったはずだ。
それがいつの間にか、三人の間にも広がっている。
千夏と莉子さんは、まだ時々こちらの左右を巡って妙な空気になる。
真澄さんも、二人の勢いに戸惑うことが多い。
それでも。
三人が互いに笑い合っているのは、悪くない。
むしろ、俺だけに話題が集中しないなら助かる。
そう思った直後。
「透花ちゃん」
莉子さんが楽しそうに呼ぶ。
「なに?」
「明日から、ちゃんと莉子さんって呼んでね」
「覚えてたら」
「忘れないで」
「努力する」
「そこは即答して」
「透花、あたしの名前は忘れないよね?」
千夏まで入ってくる。
「忘れる理由がないでしょ」
「ならいい」
「透花さん。私の名前も、できれば忘れないでください」
真澄さんまで静かに続けた。
「覚えてるよ」
答えると、三人はそれぞれ少しだけ嬉しそうな顔をした。
呼び方が変わっただけだ。
でも、休日のテーブルを囲む空気は、来た時より少しだけ柔らかくなっていた。
店を出る頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
駅前で莉子さんと真澄さんに別れ、千夏と二人で住宅街へ向かう。
紙袋の中には、四人で選んだ猫柄のノートが入っている。
「透花」
「なに?」
「今日、楽しかった?」
千夏が隣を歩きながら尋ねる。
俺は少し考えた。
予定より時間はかかった。
買うつもりのなかったものも買った。
同行者も増えた。
一人なら、一時間ほどで帰宅できたはずだ。
けれど。
猫柄のノートを見つけた時の莉子さんの笑顔。
参考書を選びながら、少しだけ迷っていた真澄さん。
同じノートを当然のように籠へ入れた千夏。
今日は予定外ではあったが、まぁ、予定通りに事が運ぶ方が珍しいからな。
買い物一つで、大袈裟だが、人生は楽しいことや辛いこと、他にも色々な出来事が積み重なって思い出となっていく。
だから今日のこともきっと良い思い出になるだろう。
そう心の中で思いながら口を開く。
「楽しかったよ」
答えると、千夏は少しだけ目を細めた。
「そっか」
「千夏は?」
「あたしも楽しかった」
「ならよかった」
夕方の風が吹く。
千夏の明るい茶色の髪が、頬の横で揺れる。
「でも」
千夏は少しだけ声を落とした。
「あたしは、透花と二人でも出かけたい」
「また今度ね」
俺が返すと、千夏はすぐにこちらを見る。
ほんの少し不安の混じった瞳が視界に入る。
「約束?」
「約束」
その瞬間、千夏は満足そうに笑った。
しまった。
また長期保存される約束を増やした気がする。
二度目の人生は、前世より楽に生きる。
そう決めていた。
無理をしない。
頑張りすぎない。
面倒な人間関係には深入りしない。
方針は今も変わっていない。
なのに最近、俺の周りだけ妙に人間関係が濃い。
昼休みの席には予約が入り。
放課後の予定は確認され。
休日の買い物には同行者が増える。
そして今日、呼び方まで変わった。
俺は紙袋の中で眠そうな顔をしている猫を思い出した。
まあ、いいか。
面倒ではある。
けれど。
少し面白くて、悪くない。
そう思ってしまっている時点で、たぶん俺も少しずつ巻き込まれている。
ここらで一区切りといった感じです。
意外と仲は悪くないガールズ(おっさんJKは除く)