誤字報告ありがとうございます。
細かいところは見落としがちなので、めっちゃ助かります。
それではご覧ください。
お姉ちゃんは、たぶん自分が思っているよりずっと変だ。
朝の食卓で、眠そうな猫が描かれたノートへ丁寧に名前を書いている。
背が高くて、黙っているだけでも目立つのに、本人はそんなことを少しも気にしていない。
学校で新しくできた友達と、四人で同じノートを買ったらしい。
莉子さんからは、朝から写真付きのメッセージ。
真澄さんからは、丁寧すぎるくらい丁寧なお礼。
そして千夏姉からは、今日の予定を確認する連絡。
普通なら、少しくらい何かを察すると思う。
でも、お姉ちゃんは猫柄の表紙を眺めながら、ただ静かに首を傾げている。
「友達が増えただけでしょ」
そう言いたげな顔で。
結衣は味噌汁の椀を両手で持ちながら、そっと息を吐いた。
たぶん違う。
少なくとも、千夏姉については絶対に違う。
あの人は昔から、お姉ちゃんの隣にいる。
近所だからでも、幼馴染だからでもない。
幼馴染という言葉だけで済ませるには、少しだけ重いものを抱えながら。
問題は。
お姉ちゃんだけが、それをまったく分かっていないことだった。
高遠透花は、結衣の姉だ。
当たり前のことだ。
同じ家に暮らしている。
朝になれば食卓で顔を合わせる。
休日には、居間のソファで気の抜けた顔をして昼寝をしていることもある。
結衣にとっては、昔から見慣れた姉でしかない。
それでも。
学校で初めてお姉ちゃんを見た人が、少し遠巻きに眺めてしまう理由くらいは分かる。
お姉ちゃんは、背が高い。
高校生になった今では、百八十センチ近くある。
家族で並んでもひときわ目立つし、人混みの中でも探す必要がほとんどない。
黒に近いダークブラウンの髪は、胸元へ届く少し手前まで真っ直ぐに伸びている。
朝は軽く櫛を通すくらいなのに、妙にまとまりがいい。
手足は長い。
細すぎるわけではない。
どこか一部分だけが不自然に目立つわけでもない。
ただ、全体の線が驚くほど整っている。
制服でも、部屋着でも、本人が何も考えずに立っているだけで姿勢がきれいに見える。
椅子へ座って気を抜いている時ですら、手足の長さが目につく。
顔立ちも整っている。
少し眠そうに見える目元。
感情を大きく表へ出さない、落ち着いた表情。
長い髪の隙間から見える横顔。
黙っていると、少し近寄りがたい。
でも、結衣は知っている。
お姉ちゃんは別に不機嫌ではない。
考えていることの大半は、今日の昼ご飯を何にするか。
帰宅後に昼寝をするか。
録画してある番組をいつ見るか。
期間限定の菓子パンを買うべきか。
たぶん、その程度だ。
学校では、落ち着いていて、簡単には動じない人に見えているらしい。
家では。
「姉ちゃん、その猫、自分に似てると思って買っただろ」
向かい側に座る悠真が言った。
「莉子さんが見つけたんだけど」
「否定しないんだ」
「少し似てるとは思う」
表紙の隅で丸くなった猫を見ながら、お姉ちゃんは静かに答える。
悠真が笑った。
「自覚あるじゃん」
「眠そうなところだけね」
「朝の姉ちゃん、大体こんな感じだよな」
「悠真は朝から元気だね」
「褒めてる?」
「どうだろう」
声は穏やかだ。
少し低めで、よく通る。
大きく感情を乗せることは少ないけれど、冷たいわけではない。
家族なら、微妙な違いも分かる。
面倒な時は、返事までの間が少しだけ長い。
食べ物の話をする時は、声がほんのわずかに明るい。
気に入ったものを見ると、目元が少し柔らかくなる。
今もそうだ。
猫柄のノートへ名前を書きながら、お姉ちゃんの表情は普段より少しだけ緩んでいる。
学校の人たちも、いつか気づくのだろうか。
静かな顔の奥で、お姉ちゃんが意外と小さなことを楽しんでいることに。
そう考えた瞬間。
結衣の胸の奥に、ほんの少しだけ落ち着かないものが残った。
別に、知られて困ることではない。
お姉ちゃんに友達が増えるのは、悪いことではない。
むしろ、一人で静かに過ごすことが多かったお姉ちゃんが、誰かと出かけて楽しかったと言うのなら、喜ぶべきなのだと思う。
ただ。
家族だから当たり前に知っていた表情を、知らない誰かも少しずつ見つけていく。
それを手放しで喜べるほど、結衣はできた妹ではなかった。
「結衣まで何か言いたそう」
不意に、お姉ちゃんが顔を上げた。
目が合う。
「別に」
「千夏みたいな返事をするね」
「お姉ちゃん、最近その返事に敏感になった?」
「何かある時に使われることが多いから」
少しは学習しているらしい。
でも、大事なところでは何も分かっていない。
「昨日、楽しかった?」
結衣が尋ねる。
お姉ちゃんは少し考えた。
楽しかったなら、すぐにそう言えばいい。
でも、お姉ちゃんはいつも一度、自分の感情を確かめるような間を置く。
「うん。悪くなかったよ」
そう言って、目元を少しだけ緩めた。
本当に、ごくわずかな変化だった。
家族でなければ、見落とすかもしれない。
向かい側では、悠真も一瞬だけお姉ちゃんの顔を見ていた。
すぐに味噌汁へ口をつけたけれど、たぶん同じことを考えたのだと思う。
「今の、学校ではあまり言わない方がいいと思う」
結衣が言うと、お姉ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
長い髪が肩から少し滑り落ちる。
「友達と出かけて楽しかった、という話が?」
「お姉ちゃんの場合は」
「どうして?」
「相手が大事に保存するから」
お姉ちゃんは数秒だけ黙った。
「千夏みたいに?」
「千夏姉は特に」
ようやく伝わったらしい。
お姉ちゃんは少しだけ遠い目をした。
「子供の頃から、約束をよく覚えてるからね」
悠真が呆れたように笑う。
「姉ちゃんが軽く言ったことまで全部覚えてるだろ、千夏姉」
「そうかな」
「そうだよ」
結衣と悠真の声が重なった。
お姉ちゃんが瞬きをする。
姉弟で意見が一致するのは、珍しくない。
特に千夏姉のことについては。
千夏姉が初めて高遠家へ来た時のことを、結衣は知らない。
まだ生まれていなかったからだ。
けれど、物心がついた頃には、すでに千夏姉は当たり前のように家へ来ていた。
玄関のチャイムが鳴る。
扉が開く。
「透花ちゃん、あそぼ!」
明るい声が廊下に響く。
お姉ちゃんが居間から顔を出す。
「今日は何するの?」
「まだ決めてない!」
「決めてから来なよ」
そう言いながら、お姉ちゃんは結局一緒に出かける。
昔から、ずっとそうだった。
千夏姉は、まずお姉ちゃんのところへ来る。
何をするかは、その後で決める。
遊びたいから来るのではない。
お姉ちゃんと一緒にいたいから来る。
子供の頃は、それが普通なのだと思っていた。
幼馴染とは、そういうものなのだと。
でも、少し大きくなると違いが分かった。
千夏姉は、お姉ちゃんが別の子と遊んでいると少しだけ不機嫌になった。
家族旅行で何日か会えない時は、帰宅した翌日に必ず顔を出した。
中学生になると、以前ほど素直に袖を引かなくなった代わりに、予定を細かく確認するようになった。
明日は。
放課後は。
誰と帰るの。
今度の休みは暇。
言い方は軽い。
表情も明るい。
でも、返事を待つ時だけ、ほんの少し真剣になる。
結衣は知っている。
千夏姉は、お姉ちゃんから「いいよ」と言われるたびに安心する。
その言葉が、自分の場所を守ってくれるものだと思っている。
そして、お姉ちゃんはそれを単なる予定調整だと思っている。
鈍感というより、たぶん前提が違う。
お姉ちゃんにとって千夏姉は、昔から隣にいる人だ。
だから疑わない。
いなくなることを想像しない。
近づいてくることにも驚かない。
隣に座られても、予定を聞かれても、当然のこととして受け入れる。
それは、千夏姉にとってたぶん一番嬉しいことだ。
でも同時に、一番困ることでもある。
拒まれない。
けれど、お姉ちゃんから追いかけてはくれない。
千夏姉が昔より少しだけ重くなった理由を、結衣は何となく分かる気がした。
もっとも。
千夏姉が昔からお姉ちゃんの隣にいることを、結衣は嫌だと思ったことがない。
千夏姉なら、お姉ちゃんのことをよく知っている。
無理に振り回しているようで、本当に疲れている時には少しだけ歩幅を緩める。
お姉ちゃんが静かに過ごしたい時には、隣で自分も静かにしている。
長い時間をかけて、お姉ちゃんの隣にいる方法を覚えた人だ。
だから、千夏姉については今さら警戒する必要もない。
でも。
新しく現れた二人は、まだ分からない。
朝食を終えると、お姉ちゃんはスマートフォンへ返信を始めた。
莉子さん。
真澄さん。
そして、千夏姉。
文面は短い。
余計な飾りもない。
でも、送られた側はきっと、何度か読み返す。
結衣は隣から画面を見ながら思った。
莉子さんは、お姉ちゃんのことを透花ちゃんと呼んでいる。
朝から猫柄のノートの写真を送ってくる。
お揃いで使うことを楽しみにしている。
真澄さんは、文面こそ丁寧だけれど、最後に猫の絵文字を添えている。
昨日、呼び方を変えたばかりだと聞いた。
それなのに、朝から連絡を送る程度には、お姉ちゃんのことを気にしている。
二人とも、たぶんお姉ちゃんの近くへ集まり始めている。
千夏姉だけではなく。
新しく知り合った人まで。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「莉子さんと真澄さんって、どんな人?」
お姉ちゃんは少しだけ考える。
「莉子さんは、明るい。話してると退屈しない」
その言葉は、たぶん莉子さんが聞いたら喜ぶ。
「真澄さんは、真面目。頑張りすぎるところがあるから、少し心配」
その言葉も、きっと真澄さんには深く刺さる。
結衣は少しだけ眉を寄せた。
お姉ちゃんは、こういうことを何でもない顔で言う。
声も、表情も、いつもと大きく変わらない。
だからこそ、本心だと分かってしまう。
それが余計に危ない。
「千夏姉は?」
聞く必要はないかもしれない。
でも、聞いてみたくなった。
お姉ちゃんは、今度はほとんど迷わなかった。
「昔から隣にいるから、説明しにくい」
「いなくなったら?」
「困ると思う」
即答だった。
悠真が食器を片づけていた手を、一瞬だけ止める。
結衣も少しだけ目を細めた。
お姉ちゃんは、自分でその意味を分かっているのだろうか。
たぶん、分かっていない。
でも。
千夏姉が聞いたら、きっと嬉しくて。
同時に、もっと重くなる。
「それ、千夏姉に言った?」
「言ってないと思う」
「今は言わない方がいいかも」
「どうして?」
「今日一日では帰ってくれなくなるから」
お姉ちゃんは少し考えたあと、静かに頷いた。
「それは困るね」
冗談のつもりだった。
でも、お姉ちゃんは少しだけ本気で受け取ったらしい。
悠真が笑う。
「姉ちゃん、千夏姉のことになると急に現実的だな」
「長い付き合いだからね」
その返事にも、本人だけが気づいていない重さがあった。
玄関のチャイムが鳴る。
早い。
お姉ちゃんが千夏姉へ連絡を返した直後だ。
まだ既読もついていなかった。
予想通り、扉の向こうに立っていたのは千夏姉だった。
「あ、透花。おはよう」
「おはよう」
「今、連絡しようと思ってた」
「たぶん、私も今送った」
何でもない会話。
昔から何度も繰り返してきたやり取り。
でも、千夏姉がお姉ちゃんから届いたメッセージを見た瞬間、表情が変わった。
ほんの少しだけ目が開く。
それから、嬉しそうに笑う。
「透花から誘ってくれるの、珍しい」
「昨日、約束したから」
「……そっか」
笑顔が一瞬だけ揺れる。
たぶん、千夏姉が欲しかったのは、約束があるからではなく、お姉ちゃんが自分と出かけたいと思ったという答えだった。
けれど、お姉ちゃんは気づかない。
悪意がないから、余計に難しい。
悠真が玄関へ顔を出す。
「千夏姉、今日も早いな」
「今日も、は余計」
「家を出る前から姉ちゃんの予定押さえてるの、昔から変わらないな」
「幼馴染だから普通」
「普通ではないと思う」
結衣も加わる。
千夏姉が少しだけ頬を膨らませた。
「結衣ちゃんまで」
悠真が楽しそうに笑う。
「今日は姉ちゃん独占日?」
「悠真」
お姉ちゃんが止める。
だが、千夏姉は否定しなかった。
「……まあ、そういうことでいいよ」
少しだけ満足そうな表情。
結衣はそれを見て、静かに息を吐く。
千夏姉は分かりやすい。
お姉ちゃんだけが分かっていない。
靴を履き、二人で外へ出る。
玄関先へ差し込んだ朝の光が、お姉ちゃんの長い髪を淡く縁取る。
並んで立つと、身長差が目立つ。
千夏姉は、それでも当然のようにお姉ちゃんの隣へ寄る。
お姉ちゃんも、それを気にしない。
昔から変わらない距離。
でも、昔と同じ意味ではない。
少なくとも、千夏姉にとっては。
「昼には帰ると思う」
お姉ちゃんが母さんへ声をかける。
「いってらっしゃい。楽しんできてね」
「うん」
扉が閉まる。
二人の足音が少しずつ遠ざかっていく。
悠真が小さく呟いた。
「姉ちゃん、本当に分かってないな」
「うん」
結衣は頷く。
「千夏姉も大変」
「新しい二人も、だろ」
「たぶん」
莉子さん。
真澄さん。
まだ会ったことはない。
でも、少しだけ興味が湧いた。
どんな人たちなのだろう。
お姉ちゃんの静かな声や、何気ない言葉や、困ったように少しだけ緩む表情に、何を見つけたのだろう。
そして。
千夏姉と同じように、お姉ちゃんの隣を自分の場所にしたいと思い始めているのだろうか。
そう考えると、胸の奥にまた小さな引っかかりが残る。
「今度、家に来たら面白そうだな」
悠真が言う。
「観察するのは失礼」
「結衣も気になってるだろ」
「少しだけ」
否定はしない。
悠真は軽く笑っている。
でも、玄関の方へ向けた視線は、思ったより真剣だった。
たぶん、悠真も同じなのだ。
お姉ちゃんに友達が増えることを、嫌だと思っているわけではない。
お姉ちゃんが楽しく過ごせるなら、それでいい。
けれど、家族として当たり前に知っていたものへ、知らない誰かが近づいてくる。
それを何も気にせず歓迎できるほど、悠真も素直ではない。
結衣も同じだった。
お姉ちゃんは、一人でも平気そうに見える。
静かな場所があれば、自分で勝手に楽しめる。
誰かに頼らなくても、淡々と歩いていける。
だから。
お姉ちゃんが家族の前で少しだけ気を抜いていることが、結衣は嬉しかった。
食卓で眠そうに猫柄のノートを眺める顔も。
帰宅すると、居間のソファで静かに昼寝をするところも。
家族が疲れていれば、何でもないふりをしながら声をかけるところも。
全部。
家族だから知っている。
今までは、そう思っていた。
これからは、その一部をほかの誰かも見つけていくのかもしれない。
それは、たぶん悪いことではない。
でも。
少しくらい複雑に思っても、許されるだろう。
結衣は食卓へ戻り、猫柄のノートが置かれていた場所を見る。
そこには、黒いペンのキャップだけが一つ残っていた。
「お姉ちゃん、また忘れてる」
小さく呟く。
ペンを手に取り、玄関へ向かう。
もう二人の姿は見えない。
結衣は少しだけ考え、ペンを靴箱の上へ置いた。
帰ってきたら渡せばいい。
お姉ちゃんが帰る場所は、ここなのだから。
窓の外では、休日の住宅街を、お姉ちゃんと千夏姉が並んで歩いていく。
少し離れたところから見ても、お姉ちゃんは目立つ。
長い髪。
高い身長。
静かな立ち姿。
その隣へ当然のように寄り添う千夏姉。
見慣れた光景。
けれど。
これからは、その隣に立とうとする人が少しずつ増えるのかもしれない。
問題はきっと。
お姉ちゃん本人が、その意味に気づく日は当分来ないことだった。
姉の変化を歓迎しつつも、それはそれとして家族だけが知っていることを他の人に知られてしまうのが気になってしまう双子でした。
双子警戒中。