行き先を決めずに歩き始めてから、十分ほど経った。
休日の住宅街は静かだ。
通学路として見慣れた道も、制服を着ていないだけで少し違って見える。
隣には千夏がいる。
昔から何度も繰り返してきた光景だった。
遊ぶ内容を決める前に家へ来る。
とりあえず外へ出る。
歩きながら、その日の予定を考える。
幼い頃から変わらない。
ただ、今日は少しだけ様子が違った。
「透花」
「なに?」
「あたしと二人で出かけるの、久しぶりだね」
千夏は前を向いたまま言う。
「そうだっけ」
「そうだよ」
少しだけ拗ねたような声だった。
言われてみれば、最近は昼休みに莉子さんと真澄さんが加わり、放課後も何人かで帰ることが増えた。
千夏と二人で歩くこと自体は珍しくない。
けれど、休日を最初から最後まで二人で過ごすのは、確かに少し久しぶりかもしれない。
「今日は千夏の行きたいところでいいよ」
俺が言うと、千夏が足を止めた。
「……いいの?」
「うん。誘ったのは私だし」
正確には、昨日交わした約束を履行しているだけだ。
だが、千夏はそんな俺の内心など知らない。
明るい茶色の髪を揺らし、少しだけ嬉しそうに笑う。
「じゃあ、今日はあたしが決める」
「ほどほどにね」
「透花、そういうところだけ先に釘刺すよね」
「長い付き合いだから」
千夏は一瞬だけ黙った。
それから、何かを大事に抱えるように、小さく笑った。
「……うん。長い付き合いだもんね」
昔から変わらない休日。
そう思っていた。
けれど千夏にとっては、どうやら少しだけ特別な一日らしい。
最初に連れて行かれたのは、駅とは反対方向にある小さな商店街だった。
昔からある店が多く、休日でも人通りはそれほど多くない。
八百屋の軒先には段ボール箱が並び、少し先の惣菜店からは揚げ物の匂いが漂っている。
「懐かしいね」
千夏が言った。
「小学生の時、よく来た」
「駄菓子屋があったからね」
商店街の端には、昔から変わらない小さな店がある。
ガラス戸の向こうには、色とりどりの菓子が並んでいた。
入口の脇には、日焼けしたポスター。
店内へ入ると、木の棚と甘い匂いが迎えてくれる。
「まだある」
千夏の声が少し弾んだ。
「なくなったら困る?」
「困る。思い出が減る感じするから」
なるほど。
俺は棚へ目を向ける。
子供の頃は、少ない小遣いで何を買うか真剣に悩んだ。
十円、二十円という単位で計算する。
前世では、会社帰りにコンビニへ寄っても、値段を確認する余裕すらない日があった。
今は違う。
時間もある。
選ぶ余裕もある。
人生二周目の恩恵は、こういうところにあるのかもしれない。
「透花、これ覚えてる?」
千夏が小さなラムネ菓子を持ち上げた。
「よく買ってたやつ?」
「透花が好きだったやつ」
「そうだったかな」
「そうだよ。いつも同じ味選んでた」
言われて、少し考える。
確かに、見覚えがある。
「あたしの方が覚えてるじゃん」
「記憶力いいね」
「透花のことだから覚えてるの」
さらっと言われた。
俺は少しだけ目を瞬いた。
千夏は棚を見たまま、何でもない顔をしている。
聞き間違いではないらしい。
「じゃあ、それ買おうかな」
俺が答えると、千夏は嬉しそうに笑った。
「うん。あたしも同じのにする」
結局、二人とも同じラムネ菓子を籠へ入れた。
昨日は四人で猫柄のノート。
今日は千夏と二人でラムネ。
最近、妙にお揃いが増えている。
まあ、消耗品だ。
深く考えるほどのことではない。
駄菓子屋を出たあとは、少し離れた公園へ向かった。
小学生の頃によく遊んだ場所だ。
遊具の色は少し褪せている。
ブランコの鎖も、昔よりくすんで見えた。
休日の昼前。
親子連れが数組いるが、混雑しているほどではない。
俺たちは公園の端にあるベンチへ座った。
「ここも変わってないね」
千夏がラムネ菓子の袋を開ける。
「少し小さく見える」
「透花が大きくなったからでしょ」
「それもある」
昔は、ベンチに座ると足が地面へ届かなかった気がする。
今では、むしろ膝が少し余る。
成長とは恐ろしい。
丸い蛍光灯みたいな神様は、必要以上に気前よく仕事をした。
俺はラムネを一粒口へ入れる。
甘い。
少しだけ酸っぱい。
思っていたより懐かしい味だった。
「おいしい?」
千夏が横から聞く。
「うん」
「やっぱり好きじゃん」
「昔より少し甘く感じるけど」
「年取ったみたいな言い方」
実際、一度は年を取った。
だが、それを説明するわけにもいかない。
「味覚が成長したということで」
「透花、たまに変な言い方するよね」
千夏が笑う。
その笑顔は、幼い頃から変わらない。
よく笑う。
よく拗ねる。
よくこちらの予定を確保する。
昔は、分かりやすい子だと思っていた。
最近は少し違う。
笑っているのに、何かを気にしている時がある。
いつも通りに見えて、こちらの返事を妙に真剣に待っている時がある。
長い付き合いだから分かる。
ただし、理由までは分からない。
「千夏」
「なに?」
「最近、何か気になることある?」
千夏の手が止まる。
指先につまんでいたラムネが、袋の中へ戻った。
「急にどうしたの」
「前より、何か言いたそうな時が増えたから」
以前、ちゃんと聞くと約束した。
なら、聞いた方がいい。
放置して長期化するより、早めに確認した方が楽である。
千夏はしばらく黙った。
視線を前へ向ける。
公園では、小さな子供がブランコを揺らしている。
その背中を、母親らしい人が軽く押していた。
「透花って」
千夏がゆっくり言う。
「あたしがいなくても、平気だよね」
前にも似たことを聞かれた気がする。
俺は少し考える。
「一人でも過ごせるとは思う」
「だよね」
千夏の声が少しだけ沈む。
正直に答えすぎたかもしれない。
俺は続けた。
「でも、千夏がいなくなったら困るよ」
千夏がこちらを向く。
目が大きく開いていた。
「……困る?」
「うん」
「どうして?」
難しい質問だ。
昔からいる。
隣を歩く。
家へ来る。
遊びに誘う。
予定を確認する。
時々、よく分からないことで拗ねる。
それが長年続いている。
今さら、いなくなった場合を具体的に考えたことはなかった。
「静かになりすぎるから」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
千夏の眉が少し寄る。
答えを急かされている気がする。
俺は言葉を探した。
「千夏がいるのが普通になってるから、いないと落ち着かないと思う」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
何だ、この話。
休日の公園で、幼馴染と真剣に確認する内容だろうか。
だが、千夏は黙っていた。
頬が少しだけ赤い。
目元も、どこか揺れている。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「透花は、そういうことを普通に言うから」
「普通の話でしょ」
「普通じゃない」
最近、よく言われる。
俺の普通は、少しだけ普通ではないらしい。
千夏は膝の上でラムネ菓子の袋を握る。
小さな音がした。
「あたしはね」
千夏の声が、少しだけ小さくなる。
「透花がいないと困るよ」
「うん」
「結構、困る」
「うん」
「すごく困るかもしれない」
段階的に重くなっている。
だが、茶化していい話ではない気がした。
「そっか」
俺は頷く。
「じゃあ、お互いに困らないようにしよう」
千夏は一度だけ瞬きをした。
それから、困ったように笑う。
「透花らしい」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
分からない。
ただ、千夏の表情は少しだけ柔らかくなっている。
たぶん、これでいい。
昼を過ぎる頃。
俺たちは商店街へ戻り、小さな喫茶店へ入った。
古い木の扉。
窓際に並ぶ観葉植物。
店内には、静かな音楽が流れている。
派手ではない。
だが、落ち着く。
「透花、こういう店好きだよね」
「静かだから」
「知ってる」
千夏は迷わず窓際の席を選んだ。
長い付き合いの利点だ。
俺が好きそうな場所を、説明しなくても把握している。
注文したのは、ホットサンドとカフェラテ。
千夏は季節限定のパフェを選んだ。
「朝から甘いもの?」
「休日だからいいの」
「健康的ではない」
「透花もカフェラテ頼んでるじゃん」
反論できない。
運ばれてきたパフェには、苺と小さな焼き菓子が乗っている。
千夏はスマートフォンを取り出し、写真を撮った。
「透花も撮る?」
「食べればよくない?」
「記録も大事」
そう言いながら、千夏はパフェだけでなく、向かい側に座る俺まで画面へ収めようとする。
「私も入れるの?」
「思い出だから」
思い出。
その言葉を聞くと、断りにくい。
俺はカフェラテのカップを持ったまま、少しだけ姿勢を正した。
千夏が何枚か撮影する。
「笑って」
「難易度が高い」
「少しくらい」
「これで」
口元をほんの少し緩める。
千夏は画面を確認したあと、黙った。
「どうしたの?」
「……何でもない」
またそれか。
だが、千夏の耳が少し赤い。
写真写りが悪かったのだろうか。
「撮り直す?」
「撮り直さなくていい」
即答だった。
むしろ、大事そうにスマートフォンを伏せる。
よく分からない。
店を出ると、空は少しずつ夕方の色へ近づいていた。
結局、昼過ぎまで帰るつもりだった予定は大幅に延びた。
駄菓子屋。
公園。
喫茶店。
途中で雑貨店にも寄った。
効率はよくない。
だが、不思議と疲れてはいない。
「透花」
帰り道。
千夏が隣から呼ぶ。
「なに?」
「今日、楽しかった?」
昨日も聞かれた質問だ。
今度はすぐに答えられる。
「楽しかったよ」
千夏は少しだけ目を細める。
「昨日より?」
比較項目が増えた。
「昨日とは違う感じで」
「逃げた」
「どっちも楽しかったから」
正直に答える。
千夏は少しだけ不満そうな顔をした。
だが、しばらく歩いたあと、小さく笑う。
「じゃあ、今日は今日で特別?」
特別。
一瞬だけ考える。
千夏と二人で出かけた。
昔から何度も繰り返してきたことだ。
ただ。
久しぶりだった。
懐かしい場所を歩いた。
昔の話をした。
普段は言わないことまで、少しだけ話した。
「うん」
俺は頷く。
「今日は特別だったと思う」
千夏の足が止まる。
俺も立ち止まる。
「……本当に?」
「うん」
千夏は何かを言おうとして、やめた。
それから、嬉しそうに笑う。
昼間よりも、ずっと柔らかい笑顔だった。
「そっか」
それだけ言って、また歩き出す。
歩幅は少しだけ軽い。
俺はその隣へ並ぶ。
今日も約束を増やした気がする。
いや。
長期保存されそうな言葉を、また一つ渡してしまった気がする。
だが。
まあ、いいか。
千夏が満足しているなら、それで。
住宅街へ入る。
見慣れた道。
見慣れた家並み。
隣には、昔から知っている幼馴染。
平穏な休日。
予定より少し長くなった。
けれど。
悪くない一日だった。
駄菓子屋って本当に色々と売っていたなぁと思いました。
ヨーグルをよく食べてた記憶があります。
それでは今回も評価と感想を入れてくだされば嬉しいです。
次回もお楽しみください。