定期テストというものは、避けて通れない。
範囲表が配られた日の放課後。
俺は自分の席で、今回の科目数と日程を確認していた。
無理をしない。
徹夜をしない。
赤点を取らない程度に、余裕を持って片づける。
完璧な計画である。
そう思っていたところで、真澄さんがノートを抱えたまま、少し迷うように口を開いた。
「透花さん。もしご迷惑でなければ、今度の休日に一緒に勉強しませんか」
「いいよ」
断る理由はない。
分からないところを早めに潰せば、後が楽になる。
俺が頷くと、隣にいた莉子さんがすぐに顔を上げた。
「私も行きたい」
「勉強するならね」
「もちろん。たぶん」
最後が怪しい。
その向こうでは、千夏が当然のように鞄を閉じていた。
「あたしも行くから」
「千夏も?」
「透花の家でしょ。昔から何度も行ってるし」
確かに。
そうして休日の高遠家に、莉子さんと真澄さんが初めて来ることになった。
俺としては、静かに試験勉強をするだけの予定だった。
ただ。
帰宅してその話をすると、悠真は妙に楽しそうに笑い、結衣は少しだけ考え込むように目を細めた。
「ついに来るんだ」
悠真が言う。
「何が?」
「姉ちゃんの新しい友達」
結衣も静かに頷く。
「少し気になる」
二人とも、なぜか来客ではなく調査対象を待つ顔をしている。
休日の勉強会。
その予定は、始まる前から少しだけ不穏だった。
約束の日。
昼食を終えたあと、俺は一階の居間に教科書とノートを運んだ。
窓から差し込む午後の日差しが、低いテーブルの上へ四角く落ちている。
普段は家族がテレビを見たり、俺が昼寝をしたりする場所だ。
四人で教科書を広げても窮屈にならない程度には広い。
自室でもよかったが、人数が多い。
それに、居間なら飲み物も出しやすい。
ソファの端へ置かれていたクッションを避け、テーブルの上を整える。
今日の服装は、薄手のパーカーと動きやすいパンツ。
家でまで身なりへ気を遣う理由はない。
髪も、邪魔にならないよう低い位置で軽くまとめただけだ。
「姉ちゃん」
背後から悠真が声をかける。
「その格好で出るの?」
「居間から?」
「友達来るんだろ」
「勉強するだけだから」
悠真は何かを言いたそうに俺を見る。
その隣で、結衣が静かに口を開いた。
「お姉ちゃんは、そのままでいいと思う」
「そう?」
「うん」
結衣は頷いた。
ただ、なぜか少しだけ複雑そうな顔をしている。
俺が理由を聞こうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「来た」
悠真が楽しそうに言う。
「姉ちゃん、どうぞ」
「家主みたいに言わないで」
俺は玄関へ向かった。
扉を開ける。
最初に立っていたのは千夏だった。
「お邪魔します」
言いながら、すでに動きに迷いがない。
小さい頃から何度も来ているので、今さら案内は必要ない。
その後ろには、莉子さんと真澄さんが並んでいた。
「こんにちは、透花ちゃん」
莉子さんが明るく笑う。
普段より少しだけ整えられた栗色の髪が、肩の上で柔らかく揺れた。
「お邪魔します、透花さん」
真澄さんも丁寧に頭を下げる。
休日でも姿勢がいい。
服装も落ち着いている。
「どうぞ。居間でやるから」
二人を中へ招く。
靴を脱いで廊下へ上がった莉子さんが、不意に足を止めた。
「透花ちゃん」
「なに?」
「家だと、雰囲気ちょっと違うね」
「そう?」
「うん」
莉子さんは俺の髪と服装を順番に見る。
「学校より、少し気が抜けてる感じ」
「家だからね」
「なんかいい」
何がいいのだろう。
俺は首を傾げる。
その隣で、真澄さんも一度だけ俺の髪へ視線を向けた。
すぐに逸らしたが、なぜか少しだけ頬が赤い。
外が暑かったのかもしれない。
「透花」
千夏が振り返る。
「先に行ってるね」
「うん」
千夏は迷わず居間へ向かった。
莉子さんがその背中を見送る。
「千夏ちゃん、本当に慣れてるね」
「昔から来てるから」
「知ってるけど、実際に見ると想像以上」
莉子さんは笑っている。
ただ、目だけが少し真剣だった。
なぜだろう。
居間へ入ると、悠真と結衣がソファに座っていた。
明らかに待っていた顔である。
「こんにちは」
悠真が軽く頭を下げる。
「弟の悠真です」
「妹の結衣です」
結衣も続ける。
「初めまして。小日向莉子です」
「白河真澄です。本日はお邪魔します」
莉子さんと真澄さんも挨拶を返す。
千夏だけは、すでにテーブルの端へ鞄を置いていた。
「悠真、そこ座るなら少し詰めて」
「千夏姉、完全に家の人みたいになってる」
「昔から来てるから普通」
「普通かな」
悠真が笑う。
見慣れたやり取りだ。
だが、莉子さんは二人を見比べながら、少しだけ目を細めていた。
真澄さんも、何かを考えるように黙っている。
「じゃあ、始めようか」
俺はテーブルの前へ座った。
左右へ千夏と莉子さん。
向かい側へ真澄さん。
学校でもよく見る配置に近い。
悠真と結衣は、その様子を見届けたあと、ようやく立ち上がった。
「俺たち、上にいるから」
悠真が言う。
「何かあったら呼んで」
結衣も続ける。
「ありがとう」
俺が答えると、二人は階段へ向かった。
ただし。
上りきる直前、悠真が一度だけ振り返った。
結衣も、莉子さんと真澄さんを静かに見ている。
やはり、少し気にしすぎではないだろうか。
勉強会は、思ったより順調に進んだ。
真澄さんは、予定表まで作ってきていた。
科目ごとの優先順位。
休憩時間。
確認したい問題。
隙がない。
「真澄ちゃん、すごい」
莉子さんが感心したように言う。
「ここまで準備するんだ」
「時間は限られていますので」
「透花、見て。あたしの予定表、何も書いてない」
千夏が範囲表を持ち上げる。
「自慢するところではないと思う」
「透花が教えてくれるから平気」
「最初から人任せにしない」
「はーい」
返事が軽い。
俺は小さく息を吐き、教科書を開いた。
まずは数学。
千夏は途中式を飛ばしすぎる。
莉子さんは、分からないところをそのままにして次へ進みがちだ。
真澄さんは、逆に一問へ時間を使いすぎる。
三人とも、性格がよく出ている。
「千夏。そこ、急ぎすぎ」
「合ってるからよくない?」
「次の問題で崩れるよ」
「莉子さんは、分からなかったら印をつけておいて。後で戻ればいいから」
「了解、透花ちゃん先生」
「真澄さん」
「はい」
「その問題、十分考えたから一回休憩」
「ですが、もう少しで――」
「休んでから見た方が早いと思う」
真澄さんの手が止まる。
一瞬だけ迷ったあと、静かに頷いた。
「……分かりました」
そこで、莉子さんが不意に笑った。
「透花ちゃん、三人とも扱い違うね」
「苦手なところが違うから」
「そういうの、すぐ分かるんだ」
「何度か見てれば」
莉子さんは俺を見る。
少しだけ目を細める。
「ちゃんと見てるんだね」
「見える範囲だけだけど」
そう答えると、莉子さんは嬉しそうに笑った。
その隣で、千夏が鉛筆を持ったまま口を開く。
「あたしのことは、一番分かってるよね」
「長い付き合いだからね」
「ならいい」
満足したらしい。
向かい側では、真澄さんがノートへ視線を落としている。
ただ、少しだけ耳が赤い。
居間は暑くないはずだが。
一時間ほど経ったところで、休憩を入れた。
俺が立ち上がると、千夏も当然のようについてくる。
「飲み物出す?」
「うん」
「麦茶、冷蔵庫にあるよね」
「ある」
千夏は台所へ向かい、棚からコップを取り出す。
莉子さんが、その様子を見ていた。
「千夏ちゃん、どこに何があるか知ってるんだ」
「昔から来てるから」
千夏は同じ説明を繰り返す。
声は明るい。
ただ、少しだけ得意そうだった。
「透花は麦茶でいい?」
「うん」
「氷は?」
「少し」
「分かった」
説明が要らない。
昔から何度も繰り返してきたことだ。
だが、莉子さんはしばらく黙っていた。
「莉子さんは?」
俺が聞くと、すぐに笑顔へ戻る。
「私も麦茶で大丈夫」
「真澄さんも?」
「はい。ありがとうございます」
コップを並べる。
ついでに、母さんが用意していた菓子を皿へ移す。
小さな焼き菓子と、個包装のチョコレート。
「透花ちゃん、甘いの好きなんだ」
莉子さんが言う。
「ほどほどに」
「パンも甘いの選ぶこと多いよね」
「新作なら確認する」
「それ、好きってことじゃない?」
否定はしない。
俺が焼き菓子を一つ取ると、莉子さんは少しだけ楽しそうに笑った。
真澄さんも、焼き菓子へ手を伸ばす。
「では、私も同じものを」
「真澄さん、甘いもの好き?」
「嫌いではありません」
真澄さんは少しだけ視線を逸らした。
その時。
「お姉ちゃん」
階段の方から結衣の声がした。
見ると、結衣が小皿を持って立っている。
「母さんが、果物も出してって」
皿には、切り分けられた苺が並んでいた。
「ありがとう」
「うん」
結衣はテーブルへ皿を置く。
そのまま戻るのかと思ったが、一瞬だけ莉子さんと真澄さんへ視線を向けた。
「お姉ちゃん、苺好きだから」
「そうなの?」
莉子さんがすぐに反応する。
「うん」
結衣は静かに頷く。
「でも、自分から食べたいって言うことはあまりない」
「結衣」
「なに?」
「追加情報は必要だった?」
「たぶん」
なぜ。
莉子さんは楽しそうに苺を見る。
真澄さんも、何かを覚えるように小さく頷いている。
結衣はその様子を確認したあと、俺へ視線を戻した。
ほんの少しだけ複雑そうな顔だった。
「何かある?」
「別に」
千夏と同じ返事だ。
最近、俺の周囲では別にという言葉の信用度が低い。
「結衣ちゃんも一緒に食べる?」
莉子さんが声をかける。
結衣は少しだけ迷う。
「……一つだけ」
そう答えて、苺を一つ取った。
「ありがとう」
莉子さんが笑う。
結衣も、わずかに表情を緩めた。
どうやら、少しは打ち解けたらしい。
休憩後。
勉強を再開すると、今度は英語へ進んだ。
莉子さんが問題集を見ながら、眉を寄せる。
「透花ちゃん、ここ分かんない」
「どこ?」
隣からノートを覗き込む。
単語の選択問題。
前後の文を見れば、難しくはない。
「ここ。前の文と意味が繋がるものを選べばいいよ」
「どれ?」
「この二つまで絞れる」
俺が指先で示す。
莉子さんも、同じ場所を見る。
距離が近い。
だが、ノートを見るには仕方ない。
「……透花ちゃん、髪きれいだね」
「急にどうしたの?」
「近いから、思っただけ」
莉子さんは少しだけ頬を赤くしながら笑った。
「学校でも思ってたけど、家だと結んでるから、雰囲気違う」
「邪魔だからまとめてるだけだよ」
「それがいい」
何がいいのか。
反対側から、千夏が覗き込む。
「透花の髪、昔からきれいだよ」
なぜか会話へ入ってきた。
「千夏ちゃん、知ってると思った」
「知ってる」
千夏は少しだけ得意そうだ。
向かい側では、真澄さんが何も言わずに問題集へ視線を落としている。
ただ、ページがしばらく進んでいない。
「真澄さん?」
「はい」
「疲れた?」
「いいえ」
返事が早い。
「でしたら、私も一つ質問を」
真澄さんがノートをこちらへ向ける。
「ここを確認していただけますか」
「うん」
俺は向かい側へ身を乗り出す。
真澄さんのノートは、相変わらずきれいに整理されている。
「この解釈で合ってるよ」
「ありがとうございます」
「真澄さんなら、確認しなくても大丈夫だったと思うけど」
「……念のためです」
真澄さんは静かに答える。
ただ、目元は少しだけ柔らかい。
確認作業は重要だ。
俺も頷いた。
夕方。
予定していた範囲を一通り終えた。
真澄さんが作った計画表には、きれいに印がついている。
莉子さんはテーブルへ頬をつき、少しだけ疲れた顔で笑っていた。
「思ったより勉強した」
「勉強会だからね」
「途中でお菓子食べて、透花ちゃんの家を見学する会だと思ってた」
「見学は許可してない」
「見たのは居間だけだよ」
「それならいいけど」
「透花、莉子を甘やかしすぎ」
千夏が言う。
「そうかな」
「そう」
莉子さんは楽しそうに笑う。
「透花ちゃん、私に甘いんだ」
「話を広げないで」
真澄さんが、小さく笑った。
以前より、笑うことが増えた気がする。
悪くない。
「今日は、ありがとうございました」
真澄さんがノートを鞄へ入れながら言う。
「一人で進めるより、効率がよかったです」
「ならよかった」
「また、ご一緒してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
俺が答えると、真澄さんは少しだけ目元を緩めた。
「ありがとうございます、透花さん」
莉子さんもすぐに顔を上げる。
「私もまた来ていい?」
「勉強するなら」
「する。たぶん」
「たぶんを外して」
「努力する」
隣では、千夏が鞄を持ち上げている。
「あたしは、いつでも来るから」
「知ってる」
昔からそうだ。
千夏は満足そうに笑った。
玄関で莉子さんと真澄さんを見送る。
千夏は家が近いので、もう少し残るらしい。
それも昔からよくある。
「今日はありがとうございました」
真澄さんが丁寧に頭を下げる。
「また学校でね」
「はい」
莉子さんも靴を履き、玄関の外へ出る。
「透花ちゃん」
「なに?」
「家での透花ちゃん、ちょっと好きかも」
「学校とそんなに違う?」
「少しだけ」
莉子さんは笑う。
「でも、どっちもいい」
返事に困る。
俺が何と言うべきか考えていると、莉子さんは軽く手を振った。
「また明日」
「また明日」
二人が帰っていく。
扉を閉める。
背後には、悠真と結衣が立っていた。
いつからいたのだろう。
「何?」
俺が聞く。
悠真は少しだけ考える。
「姉ちゃん」
「うん」
「学校でも大体、家と同じことやってるんだな」
「どういう意味?」
「本人が分かってないなら、もういい」
悠真は笑う。
だが、その視線は玄関の扉へ一度だけ向いた。
莉子さんと真澄さんが帰った方向。
軽い表情の奥で、少しだけ何かを確かめているように見えた。
結衣も静かに口を開く。
「二人とも、悪い人ではなさそう」
「そうだね」
「お姉ちゃんが楽しかったなら、いいと思う」
「楽しかったよ」
答えると、結衣は小さく頷いた。
それから、少しだけ目を細める。
「でも、家でのお姉ちゃんを気に入られすぎるのは、少し複雑」
「どうして?」
「別に」
また出た。
俺が首を傾げていると、居間から千夏の声が飛んでくる。
「透花、片づけるよ」
「今行く」
振り返る。
千夏は、当然のようにテーブルの上のコップを集めていた。
悠真が小さく笑う。
「千夏姉だけは、本当に家の人みたいだな」
「幼馴染だからね」
俺が答えると、結衣が静かに息を吐いた。
なぜか呆れられた気がする。
勉強会は無事に終わった。
予定していた範囲も進んだ。
莉子さんと真澄さんも満足したらしい。
千夏は、いつも通り居間に残っている。
問題はない。
ただ。
次回から、勉強会の参加者が増える可能性は高い。
俺は片づけられていくコップを見ながら思った。
平穏な試験期間。
その実現には、思ったより広いテーブルが必要らしい。