体育という授業は、避けて通れない。
走る。
跳ぶ。
投げる。
必要な運動であることは理解している。
健康を維持するためにも、適度に体を動かした方がいい。
前世では運動不足が常態化していたので、そのあたりに異論はない。
ただし。
授業として決められた範囲を、ほどほどにこなす。
それ以上は望まない。
放課後まで走り回る部活動など、俺の省エネ方針とは相容れない。
そう思っていた。
「高遠さん」
体育館の床へ落ちたボールを拾い上げたところで、背後から声をかけられる。
振り返ると、短く整えた髪を揺らしながら、一人の女子生徒がこちらを見ていた。
名前は、たしか――
運動部系のクラスメイトだったはずだ。
藤堂さんは、俺の手元のボールとネットの向こう側を交互に見る。
それから、妙に真剣な顔で言った。
「高遠さん、今のジャンプ、もう一回やってみて」
「どうして?」
「確認したい」
嫌な予感がする。
「授業は終わったよ」
「あ、そっか」
藤堂さんは一瞬だけ残念そうな顔をした。
「じゃあ、無理にとは言わないけど」
そこで一度言葉を切り、俺を上から下まで見る。
「その身長と手足の長さで、帰宅部なのは宝の持ち腐れだよ」
真顔で言い切った。
俺は少し考えた。
確かに、今世での身体は前世とは比べ物にならない。
だからといって、部活に所属するつもりはない。
そんなことを思いつつ、授業の始まりを思い出す。
今日の体育は、バレーボールだった。
体育館の高い窓から、初夏の光が差し込んでいる。
磨かれた床には、白いラインが何本も伸びていた。
授業の前半は、二人組でのパス練習。
後半は、簡単なルールで試合。
俺としては、無理をせずに終える予定だった。
ボールが来たら返す。
届かない球は、近くにいる人へ任せる。
必要以上に走らない。
体力配分は大事である。
俺は体育のために、髪を低い位置で一つにまとめていた。
普段は肩から胸元近くまで落ちている髪も、動く時には邪魔になる。
ゴムで軽く束ねるだけで、視界はずいぶん広くなった。
「透花、意外と似合う」
隣でストレッチをしていた千夏が言う。
「何が?」
「髪、結んでるの」
「邪魔だから」
「うん。知ってる」
千夏は少しだけ笑った。
その反対側では、莉子さんがこちらを眺めている。
「家で勉強した時も思ったけど、透花ちゃんって髪まとめると雰囲気変わるよね」
「そうかな」
「変わる。いつもより動けそう」
「動くためにまとめてるからね」
合理的な話だ。
向かい側で、真澄さんも小さく頷いた。
「よくお似合いです」
「ありがとう」
俺が返すと、真澄さんは一度だけ視線を逸らした。
体育館が暑いのか、耳が少し赤い。
そろそろ窓を開けた方がいいかもしれない。
「おーい。そろそろ始めるよ」
教師の声が響く。
俺たちは、それぞれの位置へ移動した。
問題が起きたのは、試合が始まってしばらく経った頃だった。
俺はネットの前に立っていた。
理由は単純。
身長が高いからである。
配置を決める時、周囲から自然にそうなった。
別に異論はない。
後方で細かく動き続けるより、前で必要な時だけ手を上げる方が楽だ。
非常に合理的な配置である。
「透花、そっち!」
千夏の声が飛ぶ。
相手側から、少し高めのボールが返ってきた。
ネット際。
俺の近くへ落ちる。
届きそうだ。
そう思ったので、軽く跳んだ。
両手を上げる。
指先へ、ボールの感触。
反射的に相手側へ押し返す。
ボールは、そのまま床へ落ちた。
体育館に、乾いた音が響く。
一瞬だけ、周囲が静かになった。
「……あれ?」
俺は着地しながら首を傾げる。
ブロックというやつだろうか。
授業としては、悪くない。
得点にもなったらしい。
「透花、すごい!」
千夏が声を上げる。
「今の、ちゃんと止めた!」
「偶然だよ」
「偶然であれできる?」
莉子さんまで目を丸くしている。
向かい側では、真澄さんが少しだけ驚いた顔でこちらを見ていた。
その中で。
一人だけ、表情の種類が違う人間がいた。
藤堂さんである。
先ほどまで相手側のコートにいた藤堂さんは、ネット越しにこちらを見ていた。
目が妙に真剣だ。
獲物を見つけた人の顔である。
いや。
獲物というのは失礼か。
眠っていた逸材を見つけた運動部員の顔、とでも言うべきだろうか。
どちらにしても、嫌な予感しかしない。
「高遠さん」
藤堂さんがネットへ近づいてくる。
「今の、バレー経験ある?」
「ないよ」
「本当に?」
「授業以外では、ほとんど」
「助走なしで、あれ?」
「近くに来たから」
「近くに来たから、で止められる高さじゃないと思う」
そう言われても困る。
俺の体感では、手を上げたら届いただけだ。
丸い蛍光灯みたいな神様が、また余計な仕事をしている。
身長だけならまだいい。
運動能力まで調整した覚えは聞いていない。
仕様書を渡せ。
「授業中にもう一回、高いボール上げてもいい?」
藤堂さんが言う。
「授業の範囲なら」
「分かった」
目が光った。
なぜ、こちらが少し了承しただけで、そこまで嬉しそうなのだろう。
それから。
少し高めのボールが、何度か俺の方へ飛んできた。
主犯は藤堂さんである。
俺は届く範囲だけ返した。
無理に追わない。
全力で跳ばない。
体力は温存する。
そのつもりだった。
だが、授業終了後。
体育館の端で水分を取っていると、藤堂さんが真っ直ぐこちらへ来た。
冒頭のやり取りである。
「その身長と手足の長さで、帰宅部なのは宝の持ち腐れだよ」
俺はペットボトルの水を一口飲む。
「部活に入るかどうかは、私が決めてもいいでしょ」
「もちろん」
予想外に素直な答えが返ってきた。
「でも、バレー部員としては一度くらい誘わせてほしい」
やはりバレー部だったらしい。
藤堂さんは俺を見上げながら、真剣に続ける。
「高遠さん、百八十近くあるよね」
「たぶん」
「たぶん?」
「最近は測ってないから」
「腕も長い。ジャンプもできる。しかも、着地が変に安定してる」
「褒められてる?」
「かなり」
「ありがとう」
「だから、一度だけ見学に来ない?」
「入部するつもりはないよ」
俺が先に言うと、藤堂さんは少しだけ黙った。
「……そこは分かってる」
「分かってるんだ」
「今は、でしょ?」
「今後もたぶん」
「厳しいなあ」
本気で残念そうだ。
だが、すぐに気を取り直す。
「じゃあ、入部は置いておいて。見学だけでも駄目?」
「見たらまた勧誘するでしょ」
「したくはなる」
「正直だね」
「でも、嫌だって言われたらそこで止める」
少し考える。
そこまで言われると、先ほどよりは話が通じる。
ただ。
「今日は行かないよ」
「うん」
「即答で諦めた」
「今日の話はね」
そこは諦めていなかった。
藤堂さんは笑う。
「気が向いたら言って。体育館にいるから」
「気が向いたらね」
「その言葉、覚えておく」
俺は少しだけ嫌な予感を覚えた。
今のは約束ではない。
たぶん。
着替えを終え、教室へ戻る。
窓際の席へ座った途端、少しだけ体の力が抜けた。
適度な運動は健康にいい。
だが、運動後に座る時間はもっといい。
机へ頬杖をつこうとしたところで、斜め前から千夏が振り向く。
「透花、バレー部入るの?」
「入らないよ」
「本当に?」
「運動部は疲れるから」
千夏は、あからさまに安心した顔をした。
「そっか」
なぜ安心する。
「千夏は部活どうするの?」
「まだ迷ってるけど。透花が入らないなら、バレー部は別にいいかな」
「私を基準に決めなくていいよ」
「分かってる」
分かっていない気がする。
左側から、莉子さんが机へ身を寄せる。
「でも、透花ちゃんが部活してるところ、ちょっと見たい」
「授業で見たでしょ」
「体操服じゃなくて、ユニフォームで」
「違いある?」
「あるよ」
即答だった。
向かい側では、真澄さんが静かに教科書を出している。
だが、会話は聞いていたらしい。
「運動部へ入るかどうかは、ご本人が決めることです」
「真澄さん、ありがとう」
「ただ」
真澄さんは少しだけ言葉を止める。
「透花さんが競技へ真剣に取り組む姿は、少し気になります」
援護ではなかった。
退路が一つ減っただけだった。
「透花ちゃん、人気だね」
莉子さんが楽しそうに笑う。
「そういう人気はいらないかな」
放課後の予定が圧迫される。
俺は鞄から教科書を取り出す。
次の授業は現代文。
体育後に座って受けられる。
素晴らしい。
そう思っていると、教室の入口から声が飛んできた。
「高遠さん!」
藤堂さんだった。
着替えを終えたらしく、鞄を肩へ掛けている。
「さっきの話だけど!」
「うん?」
「もし気が変わったら、いつでも体育館来て! 見学なら歓迎するから!」
「覚えてたらね」
「絶対忘れる返事だ、それ!」
教室の何人かが笑った。
藤堂さんも苦笑する。
「まあいいや。今日は追わない!」
「助かる」
「でも勧誘は諦めてないから!」
「そこも諦めてくれると助かる」
「それは無理!」
元気よく言い切り、藤堂さんは自分の席へ戻っていった。
強い。
熱量が強い。
千夏が俺を見る。
「透花、行かないよね?」
「今日は行かないよ」
「今日は?」
「将来まで断言すると、藤堂さんが余計に燃えそうだから」
「……それはありそう」
千夏も納得した。
莉子さんが笑う。
「透花ちゃんらしい」
真澄さんも、口元をほんの少しだけ緩めた。
放課後。
予定通り、俺は購買へ向かった。
右側には千夏。
左側には莉子さん。
真澄さんも、少し後ろからついてくる。
別に全員で来る必要はないと思う。
ただ、新作菓子に興味があるらしい。
平和である。
少なくとも、体育館から遠ざかっている限りは。
廊下の曲がり角まで来たところで、向こう側から藤堂さんが歩いてきた。
さすがに今度は走ってこない。
目が合う。
藤堂さんは一瞬こちらを見て、それから体育館の方向を親指で示した。
「高遠さん。気が変わった?」
「変わってない」
「了解」
即答すると、藤堂さんは残念そうに肩を落とした。
だが、そのまま通り過ぎようとして――一度だけ振り返る。
「ちなみに明日は?」
「明日は千夏と帰る予定」
俺が答えると、隣の千夏が少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに口元を緩める。
「そっか」
藤堂さんは素直に頷いた。
「じゃあ、また別の日に誘う」
「まだ誘うんだ」
「誘うだけならいいでしょ?」
「断るかもしれないよ」
「それは高遠さんが決めることだからね」
「だから断られたらものすっごく惜しいけどそこは抑えないと」
「それならまあ」
「ありがとう。じゃあ、またね!」
そう言って、颯爽と身を翻して藤堂さんは今度こそ体育館へ向かっていった。
背中が妙に軽い。
なぜあそこまで前向きなのだろう。運動部だからだろうか?
運動部の精神力は恐ろしい。
「透花」
隣から千夏が声をかける。
「明日、一緒に帰る予定だったんだ」
「昨日、また一緒に帰るって話したでしょ」
「……覚えてたんだ」
「約束したし」
千夏は少しだけ嬉しそうに前を向いた。
その様子を見て、莉子さんが笑う。
真澄さんは何も言わなかったが、少しだけこちらを見ていた。
高校生活。
目立たず。
揉めず。
ほどほどに。
その目標は、今も変わっていない。
ただ。
最近は、昼休みの席に人が集まり。
放課後の予定が少しずつ埋まり。
莉子さんと真澄さんまで自然に同行し。
今度は、バレー部からまで逸材認定された。
丸い蛍光灯みたいな神様。
聞こえているなら、一つだけ言いたい。
省エネ生活に向かない外見と性能を寄越すな。
購買へ着く。
新作菓子は、まだ残っていた。
俺は一袋だけ手に取り、少しだけ満足する。
まあ、いいか。
今日は買えた。
体育館にも行かなかった。
十分に平穏な一日だったと思う。
少なくとも。
翌日の昼休み、藤堂さんが「一応これだけ」とバレー部の見学案内を持ってくるまでは。
積極的すぎる藤堂さん。
次回は藤堂さん視点です。
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