TS転生おっさん物語   作:とりにく

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幼馴染との出会い

 

高遠透花として生まれて、数年が経った。

 

赤ちゃん時代の自由度の低さを乗り越え、俺はようやく自力で歩き、喋り、トイレに行ける存在へと進化していた。

人生二周目としては、かなり大きな前進である。

 

ご飯も自分で食べられる。

靴も時間をかければ履ける。

積み木も積める。

絵本も読んでもらえば内容を理解できる。

 

文明レベルが上がった気分だった。

 

もちろん、まだ幼児なので行動範囲は狭い。

一人で外には出られないし、冷蔵庫の上のものには手が届かないし、昼寝の時間から逃げることもできない。

 

だが、赤ちゃん時代に比べれば圧倒的に自由だ。

泣く以外の意思表示ができる。

これは革命である。

 

「透花、おやつ食べる?」

 

母さんが台所から顔を出した。

 

「たべる」

 

「はいはい。手、洗ってきて」

 

「ん」

 

短く返事をして、洗面所へ向かう。

 

前世で身についた生活習慣と、今世で自然に覚えた子供の動きが、妙にうまく混ざっている。

踏み台を引っ張り、蛇口をひねり、石けんを泡立てる。

 

最初の頃は、この体の小ささにいちいち驚いた。

目線が低い。

歩幅が短い。

手が丸い。

集中力が続かない。

 

けれど、不思議なことに、違和感は思ったほど強くなかった。

 

たぶん、あの丸い蛍光灯が言っていた補助のおかげだ。

女の子として、子供として、この世界で自然に生きるための補助。

 

雑な説明で放り込まれた割に、機能そのものは優秀だった。

仕様書はないが、動けばいいということか。

前世の現場なら炎上案件だが、今は助かっているので文句は半分にしておく。

 

手を拭いて戻ると、母さんが皿に小さなビスケットを並べてくれていた。

 

「今日は近所の朝比奈さんが来るって。娘さんも一緒だって」

 

「むすめさん」

 

「透花と同じくらいの女の子。仲良くできるといいね」

 

同じくらいの女の子。

 

俺はビスケットを一枚つまみながら、少し考えた。

 

幼児同士の交流。

つまり、遊び相手である。

 

悪くない。

この年齢の人間関係は、基本的に深刻な利害がない。

玩具の取り合いと順番待ちくらいだ。

 

前世の職場に比べれば、だいぶ平和である。

 

そう思っていた時期が、俺にもあった。

 

それからしばらくして、玄関のチャイムが鳴った。

 

母さんが出迎えに行く。

俺は居間のクッションに座り、絵本を開いていた。

 

ページの中では、丸い犬が森で迷子になっている。

この犬はなぜ一匹で森に入ったのか。

危機管理が甘い。

 

そんなくだらないことを考えていると、廊下から明るい声が飛んできた。

 

「こんにちは!」

 

声が大きい。

元気がいい。

そして近い。

 

足音がぱたぱたと近づいてくる。

 

母さんと、知らない女の人。

その後ろから、小さな女の子がひょこっと顔を出した。

 

明るい茶色の髪が、頬の横で少し跳ねている。

目がくりっとしていて、表情がよく動く。

花柄の服を着て、両手でうさぎのぬいぐるみを抱えていた。

 

「この子が千夏ちゃん。朝比奈千夏(あさひな ちなつ) 。ちゃんよ」

 

母さんがそう紹介する。

 

朝比奈千夏(あさひな ちなつ)

 

その名前を聞くより早く、千夏は俺の前まで来た。

 

近い。

 

初対面の距離ではない。

名刺交換なら一歩下がるところだ。

いや、幼児に名刺交換はない。

 

千夏は俺をじっと見たあと、ぱっと笑った。

 

「とうかちゃん?」

 

「うん」

 

「ちなつ!」

 

「うん」

 

「よろしく!」

 

「よろしく」

 

返事をすると、千夏は満足したように頷いた。

そして次の瞬間、俺の隣に当然のように座った。

 

距離が近い。

 

いや、座るのはいい。

ここは居間だ。

クッションも二つある。

だが、なぜ二つあるクッションのうち、俺が座っている方へ半分乗ってくるのか。

 

「とうかちゃん、なに読んでるの?」

 

「いぬの本」

 

「いぬ?」

 

「森でまいご」

 

「たいへん!」

 

千夏は大きく目を開いた。

 

その反応が素直すぎて、少し面白い。

前世なら、迷子の犬の話をしても「で、結論は?」と聞かれたかもしれない。

幼児の世界は、反応がまっすぐだ。

 

「でも、最後はたぶん帰れる」

 

「なんで?」

 

「子供の本だから」

 

そう言うと、千夏は首を傾げた。

 

「こどもの本だと、かえれるの?」

 

「たぶん」

 

「すごい」

 

何がすごいのかは分からない。

だが千夏は納得したらしく、俺の手元を覗き込んだ。

 

母さんたちは、そんな俺たちを見て笑っている。

 

「透花、ちゃんとお話できてるわね」

 

「落ち着いてるのねえ。うちの千夏、すぐ走り回っちゃって」

 

朝比奈さんらしき女の人が、少し困ったように笑う。

 

千夏は自分の話題だと気づいたのか、ぱっと顔を上げた。

 

「ちなつ、はしれるよ!」

 

「知ってる。さっき玄関でも走ろうとしてたでしょ」

 

「ころばなかった!」

 

「転ばなければいいって話じゃないの」

 

親子の会話を聞きながら、俺はビスケットを一枚かじった。

 

元気な子だ。

 

明るくて、勢いがあって、気持ちの向くままに動く。

この年齢なら普通なのだろう。

むしろ俺が落ち着きすぎているだけだ。

 

中身の年齢を考えれば、ぬいぐるみ片手に全力疾走する方が難しい。

精神がついていかない。

膝も心配になる。

今の膝は若いが、前世の記憶が警鐘を鳴らす。

 

「とうかちゃん」

 

「ん?」

 

「いっしょにあそぼ」

 

千夏が俺の袖をつまんだ。

 

指が小さい。

力も強くはない。

けれど、引っ張る方向に迷いがなかった。

 

「なにして?」

 

「おままごと!」

 

「いいよ」

 

俺がそう答えると、千夏の顔がぱっと明るくなった。

 

「いいの?」

 

「うん」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

「やった!」

 

千夏はその場で跳ねた。

 

俺としては、断る理由がなかっただけだ。

絵本の犬も、どうせ最後には帰る。

それなら、目の前の幼児イベントを処理しておいた方がいい。

 

何より、千夏の勢いを下手に止める方が面倒そうだった。

 

母さんが小さく笑う。

 

「透花、面倒見がいいわね」

 

違う。

面倒を避ける判断をしただけだ。

 

だが、それを説明するには語彙が足りない。

幼児の口で「将来的なトラブルコストを考慮した結果」などと言ったら、母さんの顔が引きつる。

 

俺は黙って立ち上がった。

 

千夏は俺の手を取る。

 

自然に。

当たり前のように。

初対面のはずなのに、まるで前からそうしていたみたいに。

 

小さな手の温度が、指に触れた。

 

「こっち!」

 

千夏は居間の隅に置かれた玩具箱へ俺を引っ張っていく。

 

ぬいぐるみ、積み木、ままごと用の皿、プラスチックの野菜。

幼児向けの世界が、そこに広がっていた。

 

千夏はうさぎのぬいぐるみを俺に渡した。

 

「とうかちゃん、これ、おきゃくさん」

 

「お客さん」

 

「ちなつ、おみせやさん!」

 

「何のお店?」

 

「えっと……なんでも!」

 

広い。

業態が広すぎる。

 

だが、子供の遊びに細かい経営方針を求めてはいけない。

俺はうさぎのぬいぐるみを抱え、玩具の皿の前に座った。

 

「じゃあ、ください」

 

「なにがいいですか!」

 

「おすすめで」

 

「おすすめ?」

 

「千夏が好きなやつ」

 

そう言うと、千夏は一瞬だけ固まった。

 

それから、少しだけ照れたように笑った。

 

「ちなつが、すきなやつ?」

 

「うん」

 

「じゃあ、これ!」

 

千夏はプラスチックのいちごを皿に乗せた。

さらに、にんじんと魚とパンも乗せる。

 

なかなか攻めた盛り合わせだ。

 

「いっぱいだね」

 

「おいしいよ!」

 

「そっか」

 

「とうかちゃん、たべて」

 

「いただきます」

 

俺はうさぎのぬいぐるみを少し動かし、食べるふりをした。

 

「おいしい」

 

短く言うと、千夏はまたぱっと笑った。

 

本当に表情がよく変わる。

晴れたり、曇ったり、跳ねたり、沈んだり。

見ていて飽きない。

 

前世では、人の顔色を読むのはだいたい疲れる作業だった。

機嫌の悪い上司。

無理を隠す後輩。

責任を押しつける取引先。

誰が何を抱えているかを察して、火種になる前に処理する。

 

それに比べれば、千夏は分かりやすい。

 

嬉しい時は笑う。

楽しい時は近づく。

構ってほしい時は袖を引く。

 

シンプルでいい。

このくらい分かりやすい世界なら、人生二周目も悪くない。

 

「とうかちゃん」

 

「ん?」

 

「もっと、あそぶ?」

 

「うん。いいよ」

 

そう答えた瞬間、千夏は俺の手を両手でぎゅっと握った。

 

「ほんとに?」

 

「ほんと」

 

「ちなつと?」

 

「うん」

 

「ずっと?」

 

ずっと。

 

幼児の言う「ずっと」は、たぶん今日の夕方くらいまでの意味だ。

あるいは、次のおやつまで。

 

だから俺は、気軽に頷いた。

 

「いいよ」

 

その言葉に、千夏は満面の笑みを浮かべた。

 

母さんたちが、少し離れたところで「仲良くなれそうね」と笑っている。

 

俺もそう思った。

 

明るくて、距離が近くて、少し勢いが強い。

でも、悪い子ではない。

むしろ素直で、一緒にいると退屈しなさそうだ。

 

平穏な幼児ライフに、適度な刺激が加わる。

それくらいなら歓迎である。

 

ただ、この時の俺は知らなかった。

 

子供の「ずっと」は、時々、大人が思うよりずっと重い。

そして朝比奈千夏という幼馴染は、最初から距離感の初期設定がだいぶ近かった。

 

 

 

 

それから、朝比奈千夏はよく高遠家に来るようになった。

 

最初は、母親同士の付き合いだったらしい。

近所で、子供の年も近い。

なら一緒に遊ばせましょう、という流れだ。

 

大人の社交としては自然である。

 

ただ、子供側の熱量には個人差がある。

 

「とうかちゃーん!」

 

玄関の向こうから声がした瞬間、俺は持っていた積み木をそっと置いた。

 

来たか。

 

平穏な午後に、台風が上陸する音である。

 

母さんが玄関へ向かい、数秒後、千夏がぱたぱたと廊下を走ってきた。

 

「とうかちゃん!」

 

「ん」

 

「きた!」

 

「見ればわかる」

 

俺がそう言うと、千夏はなぜか嬉しそうに笑った。

 

この子はたぶん、返事の内容より、返事が返ってくること自体が嬉しいタイプだ。

 

千夏は靴下のまま居間に入り、俺の隣に座った。

やはり距離が近い。

部屋の広さを信用していないのかもしれない。

 

「今日はなにしてるの?」

 

「積み木」

 

「ちなつもやる!」

 

「いいよ」

 

俺が積み木の箱を少し押すと、千夏は目を輝かせて手を伸ばした。

 

そして、五分後。

 

高く積み上げられた塔は、千夏の肘によって盛大に崩れた。

 

木の積み木が床に散らばる。

からん、と軽い音がして、赤い三角形が俺の足元まで転がってきた。

 

千夏は固まった。

 

さっきまで忙しなく動いていた手が止まり、肩が小さく跳ねる。

大きな目が、崩れた積み木と俺の顔を何度も行き来した。

 

「あ……」

 

声が小さくなる。

 

さっきまであんなに近かった距離が、ほんの少しだけ遠ざかった。

千夏の体が、怒られる前に身構えるみたいに縮こまる。

 

泣くかな、と思った。

 

幼児にとって、作ったものが壊れるのは大事件だ。

まして自分で壊したとなると、怒る相手もいない。

感情の逃げ場がない。

 

前世の会議でも似たような場面はあった。

自分でミスをした人間ほど、妙に攻撃的になるか、黙り込む。

 

もちろん、幼児に会議室レベルの面倒さはない。

ないはずだ。

たぶん。

 

俺は足元の赤い積み木を拾い、千夏の前に置いた。

 

「もう一回つくればいいよ」

 

千夏が顔を上げる。

 

「……おこらない?」

 

その声は、予想よりもずっと小さかった。

 

「怒るほどのことじゃない」

 

「でも、こわれた」

 

「積み木だから」

 

「つみきだから?」

 

「壊れても、また作れる」

 

そう言うと、千夏は散らばった積み木を見た。

それから、俺を見る。

 

まだ不安そうだった。

 

たぶん千夏の中では、積み木を壊したことよりも、俺が嫌な顔をするかどうかの方が大きいのだ。

 

俺は赤い積み木を、もう一度床の真ん中に置いた。

 

「ほら、土台」

 

「どだい?」

 

「下のところ」

 

「……つくるの?」

 

「うん」

 

「いっしょに?」

 

「いっしょに」

 

千夏の目が、少しだけ明るくなった。

 

一気に笑うわけではない。

泣きそうだった顔が、ゆっくり戻っていく。

縮こまっていた肩がほどけて、指先がそっと積み木に伸びる。

 

「とうかちゃん、いやじゃない?」

 

「いやじゃない」

 

正確には、少し面倒ではある。

 

だが、ここで怒って泣かれるより、もう一回積む方が楽だ。

壊れた積み木より、壊れた空気の方が後始末に手間がかかる。

 

前世の処世術が、幼児の積み木遊びで活きている。

人生、何が再利用されるか分からない。

 

「じゃあ……もういっかい?」

 

「うん」

 

俺が頷くと、千夏は小さく息を吸った。

 

「ちなつ、つくる」

 

「どうぞ」

 

「とうかちゃんも」

 

「はいはい」

 

「はい、は一回!」

 

「はい」

 

「よし!」

 

何がよしなのかは分からないが、千夏は満足したらしい。

 

俺たちは床に座り直し、また積み木を積み始めた。

 

今度の千夏は、さっきより慎重だった。

勢いだけで手を伸ばさず、積む前にちらちらと俺を見る。

 

「ここ?」

 

「そこでもいい」

 

「まがってる?」

 

「少し」

 

「なおす」

 

小さな手が、積み木をゆっくり動かす。

 

俺はそれを見ながら、緑の四角を横に置いた。

 

千夏はよく動く。

よく笑う。

よく喋る。

 

けれど、意外とこちらの反応を見ている。

 

怒られないか。

嫌がられていないか。

一緒にいてもいいのか。

 

その確認が、言葉の隙間に少しずつ混じっている。

 

幼児でも、そういうものはあるらしい。

いや、幼児だからこそ、あるのかもしれない。

 

自分の世界がまだ狭いから、目の前の相手の顔色が大きく見える。

 

「できた!」

 

千夏が両手を上げた。

 

さっきより低いが、安定した塔ができていた。

赤、青、黄色、緑。

色はまとまりがない。

だが本人が楽しそうなので、完成でいいだろう。

 

「できたね」

 

「うん!」

 

千夏は笑ったあと、少しだけ俺に寄ってきた。

 

肩が触れる。

さっきより近い。

 

……なぜ成功報酬のように距離が詰まるのか。

 

「とうかちゃん、やさしいね」

 

「そう?」

 

「うん」

 

優しい、というより、効率を重視しただけだ。

 

怒ると長引く。

責めると泣く。

泣くと大人が来る。

大人が来ると説明がいる。

 

それは面倒だ。

 

だから、怒らない。

それだけである。

 

しかし千夏は、俺のそんな内心など知るはずもない。

 

千夏は積み木の塔を見つめながら、ぽつりと言った。

 

「ちなつね、こわしちゃうと、おこられるときある」

 

「そっか」

 

「わざとじゃないのに」

 

「うん」

 

「でも、わざとじゃなくても、だめって」

 

「まあ、だめな時もある」

 

千夏の眉が少し下がる。

 

俺は積み木の塔を見た。

 

ここで「全部大丈夫」と言うのは、たぶん違う。

わざとじゃなくても、困ることはある。

壊したものによっては謝った方がいい。

それは幼児だろうが大人だろうが同じだ。

 

ただ、全部を怒られる必要もない。

 

「でも、積み木はいい」

 

「いい?」

 

「また作れるから」

 

千夏は何度か瞬きをした。

 

それから、塔の一番上に黄色い三角を乗せた。

 

「じゃあ、つみきは、またつくる」

 

「うん」

 

「とうかちゃんと?」

 

「うん」

 

「また?」

 

「また」

 

その返事に、千夏は安心したように笑った。

 

さっきまでの不安が、少しずつほどけていく。

その代わりに、何か別のものが生まれているようにも見えた。

 

この子は、俺が怒らなかったことを覚える。

もう一回作ればいいと言ったことを覚える。

また遊ぼうと返したことを、たぶん大事にする。

 

そこまで考えて、俺は内心で首を傾げた。

 

いや、考えすぎか。

相手は幼児だ。

明日には別の遊びに夢中になっている可能性もある。

 

そのはずだった。

 

居間の入口で、母さんと千夏のお母さんがこちらを見ていた。

大人たちは声を出さず、微笑ましそうにしている。

 

「透花って、本当に落ち着いてるわね」

 

母さんが感心したように言った。

 

「千夏も、透花ちゃんと一緒だと落ち着くみたい」

 

千夏のお母さんがそう返す。

 

その声を聞いて、千夏がぱっと振り向いた。

 

「ちなつ、とうかちゃんといる!」

 

「はいはい。分かってるわよ」

 

「ずっといる!」

 

千夏のお母さんが苦笑する。

 

「ずっとは無理よ。夕方には帰るんだから」

 

「やだ」

 

「やだじゃありません」

 

千夏は少しだけ頬をふくらませた。

 

そして、なぜか俺の袖をつかむ。

 

巻き込まないでほしい。

 

「とうかちゃん、ちなつといる?」

 

「今はいる」

 

「あとでも?」

 

「近所だし、また遊べるんじゃない」

 

俺としては、ごく普通のことを言ったつもりだった。

 

家が近い。

母親同士も知り合い。

なら、また遊ぶ機会はある。

 

ただそれだけだ。

 

しかし千夏は、目を丸くした。

 

「また、あそぶ?」

 

「うん」

 

「ほんと?」

 

「たぶん」

 

「たぶんじゃなくて!」

 

妙に強い。

 

千夏は俺の袖を両手で握り直した。

小さな手なのに、意志だけはしっかりしている。

 

「やくそく」

 

「約束?」

 

「またあそぶ、やくそく」

 

約束。

 

前世の俺は、その言葉にあまりいい思い出がない。

納期を守る約束。

資料を出す約束。

休み明けに確認する約束。

だいたい人間を縛るものだった。

 

だが、目の前の千夏は、ただ真剣にこちらを見ているだけだ。

 

大人の都合も、将来の重さも、たぶん分かっていない。

 

ただ、また一緒に遊びたい。

自分が壊しても、怒らずにもう一回作ってくれた子と、また同じ場所に座りたい。

 

その気持ちだけで、約束と言っている。

 

それくらいなら、まあいいか。

 

「約束」

 

俺がそう言うと、千夏の顔が一瞬で明るくなった。

 

「やくそく!」

 

「うん」

 

「ぜったい!」

 

「……うん」

 

少しだけ圧が増した。

 

千夏は満足したのか、俺の隣にぴったり座り直した。

肩が触れるくらい近い。

 

やはり距離が近い。

 

けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

騒がしいし、勢いは強いし、こちらの予定を当然のように巻き込んでくる。

それでも千夏といる時間は、退屈しない。

 

前世の俺は、先のことを考えてばかりだった。

失敗した時の対応。

揉めた時の落とし所。

相手の機嫌。

上司の顔色。

次の仕事。

 

そういうものを、ずっと見ていた気がする。

 

けれど今は、目の前に積み木の塔がある。

隣には、また遊ぶ約束ひとつで世界が明るくなったような顔をする幼馴染がいる。

 

これはこれで、悪くない。

 

「とうかちゃん」

 

「ん?」

 

「ちなつね、とうかちゃんすき」

 

いきなりだった。

 

幼児の「好き」は広い。

お菓子が好き。

ぬいぐるみが好き。

公園が好き。

その並びに入る、明るくて素直な言葉だ。

 

だから俺も、軽く返した。

 

「そっか」

 

「とうかちゃんは?」

 

「千夏は元気でいいと思う」

 

「すき?」

 

「うん。好きだよ」

 

その瞬間、千夏は固まった。

 

あれ。

選択肢を間違えたか。

 

だが、幼児相手に「元気でいいと思う」だけでは冷たい気がしたのだ。

相手が求めている返事くらい、多少は分かる。

前世の処世術である。

 

千夏は両手で自分の頬を押さえた。

 

「ちなつも!」

 

「さっき聞いた」

 

「もっとすき!」

 

「そっか」

 

「とうかちゃんも?」

 

「はいはい」

 

「はいは一回!」

 

「はい」

 

千夏は満足そうに笑った。

 

大人たちは、そんな俺たちを見て「かわいいわねえ」と笑っている。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

たぶん、大人たちから見れば、ただの仲良しな女の子二人だ。

明るい千夏と、落ち着いた透花。

相性のいい幼馴染。

 

それは間違っていない。

 

ただ、俺の中身はそれなりに疲れた人生を一度終えた元社会人で、千夏の言葉を子供の一時的なものとして受け止めている。

 

一方で、千夏は今この瞬間の気持ちを、全力で本物だと思っている。

 

この差が、少しだけ怖い。

 

いや、怖いというほどではない。

幼児の約束だ。

明日には別の遊びに夢中になっている可能性も高い。

 

そう考えていた俺の袖を、千夏がもう一度握った。

 

「とうかちゃん」

 

「なに?」

 

「おとなになっても、あそぶ?」

 

重い。

 

幼児の時間感覚で、いきなり人生単位の話をしないでほしい。

 

俺は少し考えた。

 

ここで真面目に将来設計を語っても仕方ない。

そもそも俺たちはまだ幼児だ。

大人になるまでに何があるか分からない。

 

だが、千夏は真剣だった。

 

なら、子供向けに、柔らかく返すのが正解だろう。

 

「近くにいたらね」

 

「ちかくにいる!」

 

「それは今は分からない」

 

「いる!」

 

「じゃあ、いたら遊ぼう」

 

「やくそく?」

 

「約束」

 

千夏は今度こそ、心から安心したように笑った。

 

その笑顔を見て、俺は思う。

 

まあ、悪くない。

人生二周目の幼馴染イベントとしては、かなり平和だ。

 

そう、平和。

平和なはずだ。

 

千夏が俺の袖を離さないことと、約束という言葉をやたら大事そうに抱えていることを除けば。

 

夕方、千夏のお母さんが帰る支度を始めても、千夏はなかなか立ち上がらなかった。

 

「また来ればいいでしょ」

 

千夏のお母さんが言う。

 

「やくそくした」

 

千夏は俺を見た。

 

「うん」

 

俺が頷くと、ようやく千夏は立ち上がった。

 

玄関で靴を履きながら、何度もこちらを見る。

 

「とうかちゃん、またね」

 

「またね」

 

「やくそくね」

 

「うん」

 

「ぜったいね」

 

「うん」

 

「わすれないでね」

 

「忘れない」

 

そこまで念押しされると、さすがに少し不安になる。

 

千夏は最後に大きく手を振って、母親と一緒に帰っていった。

 

玄関の扉が閉まる。

 

家の中が静かになった。

 

母さんが俺を見下ろして、くすっと笑う。

 

「透花、千夏ちゃんにすごく好かれたわね」

 

「そうみたい」

 

「嬉しい?」

 

「……うん」

 

嘘ではない。

 

好かれるのは、悪いことではない。

少なくとも、嫌われるよりはずっといい。

 

ただ、千夏の「好き」は、思ったより真っ直ぐこちらに向いていた。

 

幼児の感情は軽いようで、時々妙に重い。

大人のように取り繕わないぶん、逃げ場がない。

 

俺は居間に戻り、さっき作った積み木の塔を見た。

 

少し低くて、少し歪んでいて、でもちゃんと立っている。

 

千夏は、たぶんまた来る。

そしてまた、俺の隣に座るのだろう。

初対面から当然のように近かった距離を、さらに当然のものにしながら。

 

俺は塔の一番上に乗った黄色い三角を、指先で軽く押さえた。

 

二度目の人生。

今度こそ、ほどほどに、楽に、平穏に。

 

そう思っていたはずなのに、さっそく幼馴染ができた。

しかも距離が近い。

約束も重い。

 

子供の約束は、侮れない。

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