お待たせしました。
今回も楽しんでいただければ嬉しいです。
翌日の昼休み。
藤堂さんは、本当に俺の席までやってきた。
右手には、一枚の紙。
昨日言っていた、バレー部の見学案内だった。
練習日と時間、それから「見学だけでも歓迎」と簡単に書かれている。
入部届ではない。
そこは少し安心した。
「高遠さん、これ」
「昨日言ってたやつ?」
「うん。見学できる時間を書いておいた」
俺は紙を受け取る。
思っていたより普通だった。
もっとこう、入部希望者向けの資料一式でも渡されるのかと思っていた。
「今日来いとは言わないから」
「言わないんだ」
「昨日、誘うのと決めるのは別って話したでしょ」
覚えていたらしい。
藤堂さんは少しだけ胸を張る。
「だから、来たくなったら来て」
「なるほど」
ちゃんと引き際を覚えたらしい。
少しだけ見直した。
右隣では、千夏が見学案内を覗き込んでいる。
「透花、今日一緒に帰るんだよね?」
「うん。そのつもり」
俺が答えると、千夏は少し安心したように頷いた。
藤堂さんも特に口を挟まない。
「じゃあ今日はなし?」
「今のところは」
そう答えながら、もう一度紙を見る。
体育館。
見学自由。
練習時間は放課後から一時間半ほど。
俺が参加する必要はない。
ただ見るだけ。
昨日、藤堂さんはちゃんと俺が断れば引いた。
そこまでされたうえで、ずっと断り続ける理由も特にない。
それに。
体育の時とは違う、本当の部活動がどういうものなのかは少し気になる。
「……十分くらいなら、見てもいいけど」
藤堂さんが固まった。
「え?」
「見学」
「本当に?」
「十分くらい」
次の瞬間。
藤堂さんの顔がぱっと明るくなった。
「もちろん!」
声が大きい。
周囲の何人かがこちらを見る。
「藤堂さん」
「ごめん」
少し声を落とした。
「でも、ほんとに見学だけでいいから」
「うん」
「体験とかも――」
藤堂さんは途中まで言って、自分で口を閉じた。
「……いや。今日は言わない」
ちゃんと学習している。
「偉いね」
「なんで褒められてるんだろう」
俺にも分からない。
左隣から莉子さんが身を乗り出す。
「透花ちゃん、見に行くの?」
「十分くらい」
「私も行っていい?」
「藤堂さんに聞けば?」
「見学は歓迎!」
即答だった。
向かい側の真澄さんも少し興味がありそうに見える。
「私も、少し拝見してもよろしいでしょうか」
「もちろん!」
人数が増えた。
千夏はしばらく黙っていたが。
「……じゃあ、あたしも行く」
結局、全員だった。
昼休みの俺の席を中心に、放課後の見学団が結成された。
俺は見学案内を畳む。
十分。
見るだけ。
それなら大したことはない。
たぶん。
放課後。
俺たちは体育館へ向かった。
藤堂さんは先に部活へ行っている。
俺の右側には千夏。
左側には莉子さん。
真澄さんはその隣。
いつもの配置である。
「透花、嫌になったら帰っていいからね」
千夏が言う。
「見学だからね」
「でも杏奈、絶対やらせたそう」
「それは否定できない」
昨日から目がそう言っていた。
「でも、今日は見学だけって約束したから」
藤堂さん本人がそう言った。
なら、その言葉を信じればいい。
体育館へ入る。
中では、すでに練習が始まっていた。
ボールが床へ当たる音。
シューズの擦れる音。
大きな掛け声。
体育の授業とは、やはり空気が違う。
俺たちに気づいた藤堂さんが駆け寄ってくる。
「来てくれた!」
「十分だけね」
「分かってる」
即答だった。
藤堂さんは少し離れたところにいた上級生を呼ぶ。
「先輩、昨日話した高遠さんです」
「ああ、この子が」
上級生は俺を見て、それから少しだけ視線を上へ動かした。
身長を確認されたらしい。
「藤堂から聞いてるよ。今日は見学?」
「はい」
「じゃあ、好きなところで見てて。分からないことがあったら聞いてね」
「ありがとうございます」
それだけだった。
練習着も渡されない。
ボールも渡されない。
本当に見るだけらしい。
疑って悪かった。
……いや。
昨日までの藤堂さんなら、疑われても仕方がない気もする。
俺たちは体育館の端に移動した。
藤堂さんは一度こちらを振り返ったあと、すぐに練習へ戻っていく。
ちゃんと部活を優先している。
少し意外だった。
いや。
バレー部員なのだから当然か。
「透花ちゃん」
莉子さんが小声で呼ぶ。
「なに?」
「杏奈ちゃん、すごく真面目だね」
「そうだね」
普段の勧誘だけを見ていると、勢いで生きている人に見える。
だがコートへ入ると、印象が変わった。
声を出す。
周囲を見る。
失敗すればすぐに切り替える。
先輩から注意されれば素直に返事をする。
バレーが好きなのだろう。
それは見ていれば分かる。
「楽しそう」
思わず口から出た。
千夏がこちらを見る。
「透花?」
「みんな」
コートを指す。
「楽しそうだなと思って」
「……やってみたい?」
「そこまでは言ってない」
早い。
まだそこまでは行っていない。
真澄さんは練習を見ながら小さく頷いた。
「雰囲気は良さそうですね」
「うん」
昨日も少し感じたが。
失敗した部員を責めるような雰囲気はない。
ミスをしたら声を掛け合い、すぐ次へ進む。
思っていたより、居心地は悪くなさそうだった。
だからといって。
毎日ここへ来たいかと聞かれれば、話は別である。
楽しそうなものを眺めるのと、自分が毎日参加するのは違う。
その区別は大切だ。
見学を始めて十分ほど経った。
そろそろ帰ろうかと思った時だった。
練習中のボールが一本、コートの外へ転がってくる。
ころころと床を転がり、俺の足元で止まった。
俺は拾い上げる。
「藤堂さん」
呼ぶ。
杏奈さん――藤堂さんがこちらを見る。
「ボール」
軽く投げ返す。
藤堂さんが受け取った。
「ありがとう!」
それだけ。
練習へ戻っていく。
勧誘はない。
一球だけ、という声も飛んでこない。
本当に約束を守っている。
俺は少しだけ拍子抜けした。
千夏がこちらを見ている。
「どうしたの?」
「いや」
何でもない。
視線をコートへ戻す。
今度はネット際の練習らしい。
トスが上がる。
一人が助走をつけて跳ぶ。
ボールを叩く。
大きな音。
相手側へ落ちる。
次。
また次。
同じ動作を繰り返しているように見える。
でも。
さっきより高い。
今のは少しタイミングが遅い。
次の人はきれいに当たった。
見ているうちに、違いが少しずつ分かってくる。
藤堂さんの番になった。
助走。
踏み切り。
跳ぶ。
昨日の体育とは違う。
高い。
それから。
楽しそうだった。
ボールを打ったあと、藤堂さんはすぐに次の列へ戻る。
その顔には、いつもの勧誘の時とは違う笑みが浮かんでいた。
「ああ」
少しだけ納得する。
あれだけ俺を誘う理由。
藤堂さんは、自分が好きなものを他人にも知ってほしかったのだろう。
もちろん。
俺の身長が惜しいという理由も大きいだろうが。
「透花?」
千夏が声をかける。
「うん?」
「帰る?」
時計を見る。
予定の十分は過ぎていた。
「そうだね」
答えて、立ち上がる。
その時。
もう一度コートを見る。
ネット。
ボール。
昨日、軽く跳んだ感覚。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
気になる。
俺は数秒考えた。
それから。
「藤堂さん」
声をかける。
今度は藤堂さんがこちらへ走ってきた。
「どうしたの?」
「あの」
自分から言うのは、少し癪な気もする。
「昨日やったやつ」
「昨日?」
「ネット際で跳ぶやつ」
藤堂さんの目が大きくなる。
「ブロック?」
「たぶん」
「それがどうしたの?」
「……一回だけなら、やってみてもいい」
藤堂さんが止まった。
完全に固まった。
「藤堂さん?」
「今、高遠さんから言った?」
「言ったけど」
「私、何も言ってないよね?」
「言ってないね」
「録音しておけばよかった」
「やっぱりやめようかな」
「ごめん!」
復活が早い。
「一回! 本当に一回だけ!」
「うん」
後ろから莉子さんの楽しそうな声が聞こえる。
「透花ちゃん、自分から言った」
聞こえている。
千夏は少し驚いた顔をしていた。
でも。
「透花がやりたいなら、いいんじゃない」
それだけだった。
「ありがとう」
なぜ礼を言ったのかは、自分でもよく分からない。
真澄さんも小さく笑っている。
「では、今度こそ見学ではなく体験ですね」
「一回だけだけどね」
重要なところである。
練習着を借りた。
制服で跳ぶわけにもいかない。
借りたものは、少しだけ丈が短かった。
サイズ自体は近い。
ただ、俺の身長に対して用意されていたものではないらしい。
裾を確認していると、莉子さんがじっとこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「透花ちゃん、やっぱり脚長いね」
「服が短いだけじゃない?」
「それだけじゃないと思う」
千夏もこちらを見る。
「動きにくくない?」
「大丈夫そう」
「ならいいけど」
真澄さんは一度だけ俺の姿を見て、静かに視線を逸らした。
「大変よくお似合いです」
「ありがとう」
借り物だが、悪い気はしない。
髪をまとめ直し、コートへ入る。
同じ体育館なのに、さっき見ているだけだった時とは少し違って感じる。
部員たちの視線が集まった。
居心地はよくない。
藤堂さんがネットの向こうに立つ。
「高遠さん、本当に一球だけだから」
「藤堂さんから言うんだ」
「今日は信用を取り戻したい」
昨日までに何を失ったのだろう。
「じゃあ、軽く上げるね」
「うん」
藤堂さんがボールを上げる。
高めの軌道。
俺は落ちる位置を見る。
一歩。
膝を曲げる。
跳ぶ。
腕を伸ばす。
指先へ触れたボールを、相手側へ押し返す。
床へ落ちた。
乾いた音。
体育館が一瞬だけ静かになる。
……またか。
俺は着地する。
藤堂さんがこちらを見ている。
ものすごく何か言いたそうだ。
でも言わない。
唇を結んでいる。
「言いたいなら言えば?」
「もう一球見たい」
即答だった。
「やっぱり」
「でも断っていいから!」
そこは付け足した。
俺はボールを見る。
今の感覚。
体育の時と同じようで、少し違う。
ちゃんとした練習の中でやると、周りの動きが分かりやすい。
どこへ飛ぶのか。
どこに立てばいいのか。
少しだけ面白かった。
ほんの少しだけ。
「高さ変えるなら」
俺は言う。
「あと一回だけ」
藤堂さんの目が輝く。
「いいの?」
「私が言ったんだからいいよ」
「分かった!」
今度は少し高い。
俺は一歩下がる。
助走らしいものをつける。
踏み切る。
腕を伸ばす。
今度は手のひらに近いところへボールが当たった。
押し返すつもりだった。
だが。
思った以上に強く当たった。
ボールが相手側の床へ落ちる。
大きな音が響いた。
俺は着地しながらボールを見る。
「……力加減、間違えた」
近くにいた部員が少し驚いた顔をしている。
「ごめん」
「いや、大丈夫」
藤堂さんは黙っていた。
「藤堂さん?」
「高遠さん」
「なに?」
「今の、楽しくなかった?」
質問が変わった。
「楽しい?」
「ちょっとでも」
俺は少し考える。
否定するほどでもない。
「……少しだけ」
答える。
藤堂さんの顔が、一気に明るくなった。
「じゃあ――」
「入部はしないよ」
先に言う。
「あ」
止まった。
「そこは変わらない」
「……分かった」
少し残念そうではある。
でも、昨日までのように食い下がらない。
「でも」
藤堂さんが笑う。
「少し楽しかったなら、今日はそれでいい」
それでいいらしい。
俺としても。
二球だけなら悪くなかった。
着替えを終えて体育館へ戻る。
藤堂さんが入口近くで待っていた。
手には何も持っていない。
入部届もない。
追加資料もない。
安全である。
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「どうだった?」
「雰囲気はよかったと思う」
嘘ではない。
部員同士の関係も悪くなさそうだった。
練習そのものも。
見ているだけより、実際に少し触った方が面白かった。
ただ。
「でも、入部はしないよ」
「うん」
今度はすぐに返ってきた。
「理由は?」
「毎日練習するのは疲れるから」
「そこは変わらないんだ」
「大事だからね」
俺は続ける。
「それに、部活はちゃんとやりたい人が入った方がいいと思う」
中途半端に参加して、真剣な人の邪魔をするのは違う。
俺は楽をしたい。
だが、他人が真面目にやっているものを軽く扱いたいわけではない。
「私が適当に入ったら、ちゃんとやってる人に悪いでしょ」
藤堂さんは少しだけ黙った。
それから笑った。
「高遠さんらしい」
「そう?」
「うん」
よく分からない評価をされた。
「じゃあ、入部の話はいったん終わり」
「助かる」
本当に助かる。
「でも」
来た。
「またボール触りたくなったら、声かけて」
俺は少しだけ目を瞬く。
「勧誘じゃなくて?」
「その時は普通に遊びに来ればいいよ」
「部外者が?」
「先輩には聞いておく。駄目なら駄目って言うし」
以前なら、
絶対来て。
と言われていた気がする。
少し変わったらしい。
「まあ」
俺は少し考えた。
「気が向いたら」
「うん」
藤堂さんはそれだけで満足そうに頷いた。
今度の「気が向いたら」は。
前より少しだけ、本当に可能性があるかもしれない。
帰り道。
右側には千夏。
左側には莉子さん。
真澄さんも一緒だ。
藤堂さんは部活へ戻った。
当然である。
「透花」
千夏が隣から呼ぶ。
「なに?」
「バレー、楽しかった?」
「少しだけ」
「……そっか」
千夏は少し複雑そうな顔をした。
「でも部活には入らないよ」
「それは聞いた」
「ならいいんじゃない?」
「そうなんだけど」
まだ何かあるらしい。
だが。
千夏は少し考えたあと、小さく息を吐いた。
「まあ、透花がやりたいならいいけど」
意外な答えだった。
「いいの?」
「なんであたしの許可がいるの」
それもそうだ。
莉子さんが横から笑う。
「今日の透花ちゃん、格好よかったよ」
「二球しかやってないけど」
「二球でも」
真澄さんも頷く。
「普段とは少し異なる印象でした」
「そんなに?」
「はい」
どう違ったのかは分からない。
ただ。
悪い気はしなかった。
駅へ向かって歩く。
結局。
十分だけの見学は、少し延びた。
二球だけ体験もした。
予定にはなかった。
でも。
今回は誰かに押し切られたわけではない。
一球目も。
二球目も。
自分からやると決めた。
その結果。
少しだけ面白かった。
それだけだ。
入部する気はない。
毎日練習するつもりもない。
帰宅部――という名の自由時間を手放す予定もない。
それでも。
また気が向いたら、一球くらい触るのも悪くないのかもしれない。
そこまで考えて。
俺は小さく息を吐いた。
どうやら、丸い蛍光灯が寄越した省エネ生活に向かない身体にも、使い道はあるらしい。
ただし。
毎日は勘弁してほしい。