昼休みを告げるチャイムが鳴ると、それまで授業に耐えていた教室が一斉に息を吹き返した。
椅子を引く音。机を寄せる音。弁当箱の蓋が開く音。誰かが購買の限定パンがどうとか言いながら、廊下へ駆け出していく。
俺はそんな光景を眺めながら、机の横に掛けていた鞄を開いた。
当然だが、弁当はない。
忘れたわけではない。今日は最初から持ってきていない。
朝の俺には、昼飯を用意するという未来への投資を行うだけの余力がなかった。
前世でもそうだったが、朝というのは一日の中で最も判断能力が信用ならない時間帯だと思う。眠い頭で「昼はどうにかなる」と判断した結果、今の俺がどうにかする羽目になっている。
まあ、購買で何か買えばいい。
そう考えて席を立とうとしたところで、斜め前の席から栗色の髪が揺れた。
莉子がこちらを振り向くところだった。
たぶん、いつものように何か言うつもりだったのだろう。口元がすでにわずかに開いている。
その前に、俺の方が口を開いた。
「莉子、購買行く?」
莉子の動きが止まった。
「……え?」
目が、ほんの少しだけ丸くなる。
聞こえなかったのかと思って、俺はもう一度言おうとした。
「購買――」
「行く!」
今度は早かった。
それどころか、さっきまで座っていた人間とは思えない速度で立ち上がる。椅子が小さく鳴った。
「行く行く。行こ、透花ちゃん」
声が妙に弾んでいる。
「……そんなに購買行きたかった?」
「え?」
「いや」
聞かなかったことにした。
莉子は一瞬きょとんとして、それから何かを堪えるように口元を結んだ。
しかし、結局隠しきれなかったらしい。
頬が緩み、目尻まで楽しそうに下がっていく。
なんだろう。
今日はやけに機嫌がいい。
俺はそれ以上深く考えず、教室の出口へ向かった。
その隣に莉子が並ぶ。
いつものように。
――いや。
少なくともその時の俺は、そんなことをわざわざ考えるほどの話ではないと思っていた。
昼飯を買いに行くだけなのだから。
購買へ向かう廊下は混んでいた。
昼休み開始直後というだけあって、同じ目的地を目指している生徒が多い。
「うわ、人多いね」
莉子が少し前を覗き込む。
「毎日こうじゃない?」
「今日は限定のクリームパンの日だから」
「そんなイベントが」
「イベントだよ。大事だよ?」
真顔で言われた。
高校生にとってパンの新商品というのは、俺が思っているより重要案件らしい。
そのまま人の流れに乗って歩く。
莉子は普段通りよく喋った。
さっきの授業が眠かったとか、前の席の男子が先生に当てられた瞬間に教科書を逆さまに持っていたとか。
俺は適当に相槌を打つ。
そのうち廊下が狭くなり、向こうから来た生徒の集団とぶつかりそうになった。
莉子が一歩後ろへ下がる。
俺も少し速度を落とした。
「ほら」
「ん?」
「置いてくよ」
「え、待ってくれてたじゃん」
「人多いから」
「ふーん」
莉子が俺の横へ戻ってくる。
その時、ちらりと俺の顔を見上げた。
妙に楽しそうだ。
「何」
「なんでもない」
「そう」
「ほんとになんでもないよ?」
なぜ二回言った。
問い返すほどでもないので、そのまま歩く。
莉子は隣で、小さく鼻歌でも歌い出しそうな歩き方をしていた。
買い物一つでここまで機嫌が上がるなら安いものだ。
購買に着いた頃には、予想通りそれなりの行列ができていた。
「あっ」
棚を見た莉子が声を上げた。
「クリームパンあと二個!」
「戦争だな」
「透花ちゃん、急ご!」
「並んでるんだから急げないよ」
「夢がない!」
パン一個に夢を要求されても困る。
幸い、俺たちの順番が来た時点でクリームパンは一つだけ残っていた。
莉子が手を伸ばしかける。
だが、途中で止めた。
「……透花ちゃん、いる?」
「いや」
「ほんと?」
「甘いの今はいい」
「じゃあ取る!」
一瞬で復活した。
嬉しそうにパンを抱える莉子を横目に、俺は焼きそばパンとお茶を取る。
会計を済ませて教室へ戻る途中、莉子が袋を眺めながら言った。
「透花ちゃんって、甘いの嫌いだっけ?」
「普通」
「じゃあなんでいらなかったの?」
「今日は焼きそばパンの口だったから」
「そんな明確な口ある?」
「今できた」
莉子が笑った。
いつもの、よく通る明るい笑い声。
ただ、今日はその後も口元に笑みが残っている。
「……なあ莉子」
「なに?」
「今日なんかいいことあった?」
ぴたり。
今度は歩いている途中で止まりかけた。
「え?」
「朝からじゃなくて、昼から妙に機嫌いいから」
莉子は数秒、俺を見た。
それから目を細める。
「透花ちゃん、そういうの分かるんだ」
「そりゃ隣でずっと笑ってたら」
「ずっとは笑ってないよ!」
「割と笑ってる」
「……そっかあ」
なぜか莉子は、そこでさらに嬉しそうになった。
意味が分からない。
「理由は?」
「内緒」
「じゃあ聞かない」
「えー、もうちょっと気にしてよ」
「聞いたじゃん」
「そうだけど」
不満そうな声を出しながらも、顔は笑っている。
感情と台詞が一致していない。
女子高生という生き物は難しい。
前世の職場なら、不機嫌な人間はだいたい顔にも不機嫌と書いてあったものだ。
もっとも、あれはあれで分かりやすすぎて面倒だったが。
教室へ戻ると、すでに何人かが机を寄せて昼食を取っていた。
俺が自分の席へ戻ると、莉子は特に確認もせず、その近くへ椅子を持ってきた。
それもいつものことだ。
――たぶん。
最近、この
「おかえりー」
瀬尾由奈が弁当を食べながらこちらを見る。
「二人で購買?」
「うん!」
莉子がやけに元気よく答えた。
由奈の視線が俺と莉子の間を往復する。
「へえ」
「何」
「別に?」
その言い方は絶対に何かあるやつだ。
だが、触れると話が長くなる。
社会人生活で学んだ重要な教訓の一つに、「興味本位で藪をつつかない」がある。
俺は焼きそばパンの袋を開けた。
莉子も隣でクリームパンを取り出す。
その時、由奈が何気ない口調で言った。
「そういえば最近、莉子の方から高遠さん捕まえに行かなくなったよね」
「え?」
莉子の手が止まった。
「前は『透花ちゃーん』って毎回そっちから行ってたじゃん」
「毎回じゃないし」
「かなり毎回だったよ」
「由奈ちゃん盛ってる」
反論する莉子の声が、ほんの少し上ずっている。
そしてなぜか俺を見る。
俺?
「そうだっけ」
「高遠さんは覚えてなさそう」
「人間関係を出席簿みたいに記録してないからな」
「そこまでしろとは言ってない」
由奈が笑う。
莉子は黙ってクリームパンの袋をいじっていた。
さっきまであれほど喋っていたのに、急に静かだ。
「莉子?」
「ん?」
顔を上げる。
「食べないの」
「食べるよ」
「限定なんだろ、それ」
「……うん」
莉子は少しだけ俯き、それからクリームパンを一口かじった。
頬が緩む。
それがパンの味によるものなのかどうかは、俺には分からなかった。
午後の授業も終わり、放課後。
俺は教科書を鞄に入れながら、小さく息を吐いた。
今日という勤務――ではなく授業も終了だ。
あとは帰るだけ。
周囲では部活へ向かう連中や、まだ教室で話している連中が動き始めている。
いつもなら、このあたりで莉子が何か言ってくる。
「透花ちゃん帰ろー」とか。
「どっか寄ろー」とか。
だが今日は来ない。
少し離れた席で、莉子が鞄を触っている。
別の子と話しているわけでもない。
スマホを見ているわけでもない。
ただ、妙にゆっくり帰り支度をしている。
……何してるんだ、あいつ。
俺は鞄を肩に掛けた。
そのまま教室を出ようとして――止まる。
何となく振り返った。
莉子と目が合った。
すぐに逸らされた。
怪しい。
「莉子」
「……なに?」
「帰らないの?」
目が丸くなった。
昼休みと同じ顔だった。
ほんの一瞬だけ。
その直後、口元がふわっと緩む。
「……帰る」
いつもの大きな声ではなかった。
少し柔らかくて、妙に嬉しそうな声。
莉子は鞄を持って立ち上がると、ぱたぱたとこちらまでやってきた。
そして当然のように俺の横に並ぶ。
「一緒に帰ろ、透花ちゃん」
「そのつもりで聞いたけど」
「そっか」
また笑う。
「……やっぱ今日、変じゃない?」
「変じゃないよ」
「そう?」
「うん」
莉子はそう言いながら、俺より半歩だけ前を歩いた。
足取りが妙に軽い。
結局、理由は分からなかった。
まあ、機嫌が悪いよりはいい。
人間関係というものは、原因を究明しすぎると余計に面倒になることもある。
分からないなら、分からないまま放置するのも立派な処世術だ。
――少なくともこの時の俺は、そう思っていた。
莉子が何度も振り返りながら笑っている理由を、わざわざ考えることもなく。
俺たちはいつものように、並んで校門を出た。