放課後の教室から、人の気配が少しずつ減っていく。
部活へ向かう生徒。
友達と連れ立って帰る生徒。
まだ机を囲んで話している生徒。
俺も教科書を鞄へしまい、帰る準備を終えた。
今日は千夏に別の用事がある。
莉子さんも友達と予定があるらしく、帰り際に「また明日ね」と手を振って先に教室を出ていった。
なので、今日は一人で帰る。
誰かと帰るのも嫌いではない。
だが、一人なら一人で気楽なものだ。
寄り道する予定もないし、帰宅時間を合わせる相手もいない。
家に帰ったら適当に休もう。
そう決めて鞄を肩に掛けたところで、教室の後ろから紙の擦れる音が聞こえた。
振り返る。
「……真澄さん?」
まだ残っていたらしい。
真澄さんは教室後方の机を使い、何種類かのプリントを広げていた。
黒板横の掲示板には外された紙が数枚。
その横には、新しく貼るらしい掲示物も置かれている。
俺の声に気づき、真澄さんが顔を上げた。
「透花さん。お疲れさまです」
「お疲れ。まだ帰らないの?」
「はい。今日の当番の作業が残っていますので、これを終わらせてから」
真澄さんらしい答えだった。
俺は少し近づいて、机の上を見る。
掲示物の貼り替え。
明日配るプリントの仕分け。
難しい作業ではない。
量も、一人では終わらないというほどではなかった。
ただ、一人でやるより二人の方が早い。
俺は肩に掛けたばかりの鞄を、自分の机へ戻した。
「手伝おうか?」
真澄さんが少し目を見開く。
「ですが、これは私の当番です」
「うん」
「透花さんまで残る必要はありませんよ?」
「別に予定ないし」
俺は掲示物の方を見る。
「代わるわけじゃないよ。二人でやれば早く終わるでしょ」
真澄さんはすぐには答えなかった。
断るべきか迷っているらしい。
自分の担当なのだから、自分で最後までやる。
そう考えていても不思議ではない。
「嫌なら帰るけど」
「いえ」
真澄さんは小さく首を振った。
それから、ほんの少し表情を緩める。
「……では、お言葉に甘えます」
「了解」
俺は袖を軽くまくり、机の上の掲示物へ手を伸ばした。
「何からやる?」
「では、こちらの貼り替えからお願いします」
「分かった」
そうして、特に何かを決めたわけでもなく。
俺と真澄さんは、放課後の教室に二人で残ることになった。
最初に手をつけたのは、掲示板の貼り替えだった。
俺が新しい掲示物を持ち上げ、真澄さんが少し離れたところから全体を見る。
「この辺?」
「もう少し右です」
言われた通りに動かす。
「ここ?」
「少しだけ上をお願いします」
少し上げる。
真澄さんは掲示板と俺の手元を交互に見て、わずかに首を傾げた。
「……右側を、ほんの少し下げてください」
「ほんの少し?」
「はい。本当に少しだけ」
言われた通りに少し下げる。
「そこです」
「了解」
位置を保ったまま画鋲を留める。
一枚目が終わった。
俺は少し離れ、真澄さんと並んで掲示板を見る。
「綺麗に貼れてるね」
「はい」
満足そうだ。
俺には最初の位置との違いがそこまで分からなかったが、真澄さんが納得しているなら問題ない。
二枚目を手に取る。
「次も私が持つ?」
「よろしいのですか?」
「その方が早いでしょ」
「では、お願いします」
さっきと同じように掲示板へ紙を当てる。
「真澄さんが位置見てて」
「はい」
今度は最初から役割が決まっていた。
俺が持つ。
真澄さんが見る。
指示された分だけ動かす。
位置が決まったら留める。
単純だが、この方が早い。
「もう少し左です」
「ここ?」
「はい。そのままで」
「了解」
三枚目。
四枚目。
続けているうちに、やり取りまで短くなっていく。
「右を少し」
「これくらい?」
「はい」
それで通じる。
俺はこういう作業が嫌いではない。
正確には、誰が何をするのかがはっきりしている作業は楽だ。
全員が何となく同じことをしようとすると、確認が増える。
確認が増えれば、その分だけ時間もかかる。
前世では、そういう小さな手間が積み重なって仕事を長引かせる場面を何度も見てきた。
なら最初から、得意な人間に任せればいい。
俺には掲示物が数ミリ傾いているかどうかまでは分からない。
真澄さんには分かる。
それなら判断は真澄さんに任せて、俺は言われた通りに動かせばいい。
「透花さん」
「うん?」
「もう少しだけ上を」
「はいはい」
紙を動かす。
「そこです」
画鋲を留める。
これで最後だった。
俺が手を離すと、真澄さんは一歩下がって掲示板全体を確認した。
上から下まで視線を動かし、最後に小さく頷く。
「問題ありません」
「合格?」
「はい」
「よかった」
俺がそう返すと、真澄さんが少しだけ目を細めた。
「……気にならないのですか?」
「何が?」
「その……私が、細かく位置を指定することです」
「ああ」
そういうことか。
俺はもう一度掲示板を見る。
「別に気にならないけど」
「そうですか」
「真澄さんには違いが分かるんでしょ?」
「はい」
「私は分からない」
真澄さんが少しだけ目を瞬く。
「なら、分かる人に見てもらった方がちゃんとできるし」
それ以上でも、それ以下でもない。
俺が適当に位置を決めるより、真澄さんに任せた方が綺麗に仕上がる。
結果が良くなるのに、わざわざ相手のやり方を否定する理由もない。
真澄さんは少しの間、何も言わなかった。
「真澄さん?」
「いえ」
小さく首を振る。
「……ありがとうございます」
「何のお礼?」
「何でもありません」
よく分からない。
ただ、声は少し柔らかかった。
「次、プリントだっけ」
「はい」
真澄さんが机の方へ向かう。
俺もその後を追った。
机の上には三種類のプリントが、それぞれ束になって置かれている。
「こちらを一枚ずつ重ねて、一組にします」
「何組?」
「クラスの人数分です」
「了解」
向かい合うように机の両側へ立つ。
真澄さんが一枚目を取った。
俺が二枚目を重ねる。
三枚目を真澄さんが置き、端を揃える。
完成した一組を俺が横へ移す。
そして次。
「これでいい?」
「はい」
次。
また次。
最初の数組こそ互いの動きを確認していたが、十組も作る頃には、その必要もなくなっていた。
真澄さんが一枚置けば、俺が次を取る。
俺が完成した束を動かせば、真澄さんはもう次の一枚を手にしている。
そのうち、会話もなくなった。
聞こえるのは、紙が擦れる音。
廊下を通る誰かの足音。
遠くから聞こえる部活の声。
それだけだ。
それでも作業は止まらない。
むしろ、最初より早くなっている。
俺は黙ったまま次のプリントへ手を伸ばした。
向かい側でも、真澄さんがほぼ同じタイミングで手を動かす。
少しだけ指先が近づき、互いに手を止めた。
「どうぞ」
「透花さんこそ」
「じゃあ私取るね」
「はい」
プリントを取り、また作業へ戻る。
それだけ。
変に譲り合うこともない。
沈黙を埋めるために、どうでもいい話題を探すこともない。
こういう相手は楽でいい。
しばらくして、真澄さんがふいに手を止めた。
「透花さん」
「うん?」
「一つ、聞いてもよろしいですか?」
「どうぞ」
真澄さんは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「透花さんは……私といる時、あまり気を遣いませんね」
思わず手が止まる。
悪い意味なのだろうか。
「気を遣ってほしかった?」
「いえ、そうではなく」
真澄さんが少し慌てて首を振る。
「そういう意味ではありません」
「ならよかった」
「ただ……」
真澄さんは手元のプリントへ視線を落とした。
「沈黙していても、気にされませんし」
「うん」
「先ほども、私が細かく位置を指定しても、面倒そうにはされませんでした」
「面倒じゃなかったし」
「それに」
少し間が空く。
「私に任せることを、あまり躊躇されませんよね」
なるほど。
言われてみれば、そうかもしれない。
俺は少し考えた。
「真澄さんなら、ちゃんとやるからじゃない?」
真澄さんが顔を上げる。
「私が?」
「うん」
俺は次のプリントを一枚取った。
「必要なことはちゃんとやるし、分からなかったら確認するでしょ」
「それは……そうですが」
「だから、真澄さんがやるって言ったところは任せていいかなって」
別に難しい話ではない。
信頼できない相手へ仕事を任せれば、その後に確認が必要になる。
最悪の場合、自分でやり直すことになる。
だったら最初から自分でやった方が早い。
けれど真澄さんの場合、その心配がない。
「一緒に何かやる時、あんまり心配しなくていいんだと思う」
「…………」
真澄さんの指が止まった。
「真澄さん?」
「いえ」
視線を少し落とす。
「……そう言っていただけるとは思っていませんでした」
「変だった?」
「いいえ」
今度はすぐに否定された。
「嬉しいです」
小さな声だった。
けれど、はっきり聞こえた。
俺が何か返す前に、真澄さんは次のプリントへ手を伸ばした。
「私も」
「うん?」
「透花さんとは、作業しやすいです」
「そう?」
「はい」
今度はこちらを見て答えた。
「何を考えているのか、全て分かるわけではありませんが」
「それは私も分からない」
「ご自分のことですよ?」
「自分でも分からない時あるでしょ」
真澄さんが一瞬黙る。
そして、ほんの少し笑った。
「透花さんらしいですね」
「褒められてる?」
「どうでしょう」
少しだけ意地の悪い返事だった。
こういうことも言うようになったらしい。
悪くない。
「でも、作業しやすいなら相性いいのかもね」
何気なく言う。
真澄さんの手が、また止まった。
ほんの一瞬。
「……相性、ですか」
「一緒にやってて楽ってことでしょ?」
「あ……はい」
なぜか少しだけ返事が遅い。
「そういう意味でしたら」
「他に何かある?」
「ありません」
今度は早かった。
何なんだ。
俺には分からないまま、作業を続ける。
けれど、それからの真澄さんは少しだけ機嫌が良さそうだった。
表情が大きく変わったわけではない。
ただ、紙を揃える指先の動きが少し軽い。
返事の声も、さっきより柔らかい。
莉子さんならもっと分かりやすく顔に出る。
真澄さんの場合は、注意していないと見逃しそうだ。
人によって感情の出方も違うらしい。
しばらくして、最後の一組が完成した。
「終わった」
「はい」
真澄さんが全体を確認する。
「枚数も問題ありません」
「じゃあ片付けようか」
二人で残った紙をまとめ、机を元の位置へ戻す。
時計を見ると、思っていたより早い。
「二人だとやっぱり早いね」
「そうですね」
真澄さんも時計を見て、少し驚いたようだった。
「ありがとうございました、透花さん」
「どういたしまして」
鞄を取りに自分の席へ戻る。
真澄さんも帰り支度を始めた。
ほぼ同じタイミングで準備が終わる。
そのまま二人で教室を出た。
放課後の廊下は、もうずいぶん静かだった。
二人並んで昇降口へ向かう。
特に一緒に帰る約束をしたわけではない。
ただ同じ時間に作業が終わって、同じ方向へ歩いている。
それだけだ。
靴を履き替え、校門を出る。
「真澄さん、このあと寄るところある?」
「いいえ。今日はありません」
「じゃあ途中まで一緒だね」
俺が言うと、真澄さんが一瞬だけこちらを見る。
「……はい」
何かおかしかっただろうか。
まあ、帰る方向が途中まで同じなら、一緒になるのは普通だろう。
住宅街へ向かって歩き始める。
最初は少し学校の話をした。
今日の授業。
明日の予定。
提出物。
どれも大した話ではない。
そのうち会話が途切れる。
でも、教室にいた時と同じだった。
別に気まずくない。
俺は前を向いて歩く。
真澄さんも隣を歩いている。
時々、少し離れる。
信号で止まれば並ぶ。
青になればまた歩き出す。
「透花さん」
しばらくして、真澄さんが呼んだ。
「何?」
「……いえ」
「呼んだだけ?」
「そういうわけでは」
少し迷ったあと、真澄さんが前を向く。
「今日は、ありがとうございました」
「さっきも聞いたよ」
「分かっています」
「じゃあ二回目だね」
「……二回言いたかったのです」
珍しい。
少しだけ笑っている。
「なら二回受け取っておく」
「お願いします」
また会話が途切れる。
俺はそれ以上、無理に話題を探さなかった。
真澄さんも同じだった。
誰かと一緒にいるからといって、ずっと話していなければならないわけでもない。
一人の時と同じように歩き、何か話したくなったら話す。
それくらいが楽だ。
分かれ道が近づいてくる。
「私、こっちです」
真澄さんが足を止めた。
「ああ、じゃあここまでだね」
「はい」
俺も立ち止まる。
「また明日、真澄さん」
「はい。また明日、透花さん」
真澄さんが軽く頭を下げる。
俺も手を上げて、そのまま歩き出した。
数歩進む。
ふと、さっきまで隣にいた気配がなくなったことに気づく。
特別なことは何もなかった。
放課後に少し作業をして。
途中まで一緒に帰った。
それだけだ。
でも。
「……真澄さんとは、こういう感じなのかもな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
千夏とは、昔から遠慮がない。
莉子さんは、こちらが気づく前に隣にいることが多い。
真澄さんとは。
何も話していなくても、気づけば同じ速度で歩いている。
相手が違えば、付き合い方も違う。
考えてみれば当たり前の話だ。
俺はそのまま家への道を歩く。
少し先の角を曲がる頃には、さっきまでのことも特別意識していなかった。
ただ。
帰り道の途中で一度だけ振り返った時。
真澄さんが歩いていた側に、ほんの少し空間が空いているように感じた。
どうやら今日の俺たちは、いつの間にか同じ歩幅で歩いていたらしい。
自分でやっててなんですけど、こういう相手との距離が縮まる瞬間って口角が限界突破しそうなぐらい上がっちゃいますw
微笑ましさやらドキドキ感とか色々と感じちゃいますね。
第1章ですでに名前を呼び捨てしてたので修正しました。
感想なので教えていただけると本当に助かります。