瀬尾由奈は、別に人のことを四六時中観察しているわけではない。
ただ、ちょっとだけ周りを見るのが好きなだけだ。
誰と誰が最近よく話しているとか。
昨日まで名字で呼んでいた二人が、いつの間にか名前で呼び合っているとか。
普段は強気な子が、特定の相手の前だと妙に大人しくなるとか。
そういう小さな変化は、見ていると結構面白い。
もちろん、本人たちが隠したがっていることをわざわざ掘り返したり、面白半分で言いふらしたりするつもりはない。
ただ気づく。
そして、少し気になる。
そのくらいだ。
そんな由奈が最近、なんとなく目で追ってしまう相手がいる。
高遠透花。
教室の少し離れたところにある席へ視線を向ける。
今日もよく目立つ。
背が高い。
姿勢は力が抜けているのに妙に様になっている。
髪も顔立ちも、わざわざ説明する必要がないくらい整っている。
しかも本人は、そういう周囲の視線をほとんど気にしていない。
今も席に座ったまま、ぼんやり次の授業の教科書を机の上へ出している。
一人だった。
けれど、寂しそうにはまったく見えない。
むしろ、誰かが来ても来なくても同じように過ごしていそうだった。
――高遠さんって、一人でも平気なんだよね。
由奈がそんなことを考えていると、
「透花」
朝比奈千夏がやってきた。
やっぱり来た。
「なに?」
「今日の体育って外だっけ?」
「体育館じゃなかった?」
「あ、そっか」
「時間割見たら?」
「今聞いた方が早いじゃん」
「それはそうだけど」
それだけの会話なのに、千夏はそのまま透花の机の横にいる。
昔からそうなのだろう。
会話を始めることにも、そこに居続けることにも、何の遠慮もない。
そこへ今度は、明るい声が加わった。
「透花ちゃん、おはよー」
小日向莉子だ。
「おはよう、莉子さん」
莉子はそのまま透花の反対側へ回り込む。
「ねえ、昨日送ったやつ見た?」
「見たよ」
「どうだった?」
「猫は可愛かった」
「そこ?」
「そこ以外に何を見るの?」
「動画の内容!」
莉子が笑う。
透花も少しだけ口元を緩める。
由奈は頬杖をついた。
朝比奈さんは昔からあそこにいる。
小日向さんは、自分からどんどんあそこへ行く。
分かりやすい。
その時。
「透花さん」
今度は白河真澄が声をかけた。
「おはよう、真澄さん」
「おはようございます」
真澄は手にしていたプリントを一枚、透花へ見せる。
「昨日整理したものですが、先生からこちらで問題ないとのことでした」
「ああ、よかった」
「手伝っていただいた分まで、改めてありがとうございました」
「もう昨日も聞いたよ」
「そうでしたね」
真澄がほんの少し笑う。
用件はそれで終わった。
なら、そのまま自分の席へ戻る。
――と思ったのだが。
「そういえば透花さん、昨日の帰りは」
話がもう一つ続いた。
透花もごく普通に答えている。
二人とも話し方は相変わらず丁寧だ。
特別に距離が近いわけでもない。
何か大きく変わったようにも見えない。
でも。
由奈は少しだけ首を傾げた。
前から、こんな感じだったっけ。
何が違うのかと聞かれれば、うまく説明できない。
ただ、会話が終わったあとに、もう一言が増えたような。
白河さんが高遠さんの近くにいる時間が、ほんの少し長くなったような。
そんな気がする。
由奈は改めて三人を見た。
朝比奈千夏。
小日向莉子。
白河真澄。
近づき方は、全然違う。
なのに。
気づけば三人とも、高遠透花の近くにいる。
――高遠さんって、何なんだろ。
由奈は、少しだけ興味を強くした。
その日の二時間目が終わったあと。
高遠透花は、一人だった。
朝比奈千夏は友達に呼ばれて教室の前方へ行き、小日向莉子も別の席で話している。
白河真澄は次の授業の準備をしていた。
透花自身は、特に誰かを探すでもなく机に座っている。
次の教科書を出し、窓の外を一度見て、それから何をするでもなくぼんやりしている。
退屈そうにも見えない。
寂しそうでもない。
ただ普通に、一人でいる。
「高遠さんってさ」
近くから声が聞こえて、由奈はそちらへ視線を向けた。
女子二人が、透花の方をちらりと見ている。
「一人でいても全然気にしてなさそうだよね」
「分かる」
片方がすぐに頷いた。
「私だったら、知ってる子いたらそっち行っちゃうかも」
「高遠さん、普通に一人でいるよね」
「うん」
少し間が空く。
「なのにさ」
「なに?」
「気づいたら誰か隣にいない?」
もう一人が透花を見る。
ちょうどその時だった。
「透花ちゃん、見て」
いつの間に戻ってきたのか、莉子が透花の机にスマートフォンを差し出している。
「何?」
「これ。昨日言ってたやつ」
透花が画面を覗き込む。
「……また猫?」
「またって何。かわいいでしょ」
「かわいいけど」
二人がそのまま話し始める。
女子たちが顔を見合わせた。
「……それは分かる」
由奈も心の中で頷いた。
本当にその通りだった。
高遠さんは、自分から誰かを呼びに行くことが少ない。
少なくとも、由奈が見ている限りではそうだ。
なのに、しばらくすると誰かが来る。
朝比奈さんだったり。
小日向さんだったり。
白河さんだったり。
たまに桐生だったり、別のクラスメイトだったりもする。
本人はそれを当然とも不思議とも思っていないらしい。
来たら話す。
来なければ一人でいる。
それだけ。
「……なんか不思議」
由奈が呟く。
隣にいた友人が振り返った。
「何が?」
「ううん、こっちの話」
由奈はもう一度透花を見る。
今度は莉子の横から千夏が戻ってきた。
「何見てんの?」
「猫」
「また?」
「千夏ちゃんまでそれ言う」
三人になる。
透花は相変わらず、自分から何かをしているようには見えない。
それなのに、席の周りだけ少しずつ賑やかになっていく。
――やっぱり、何かある気がする。
何か、と言っても本人が意図してやっている感じではない。
むしろ、本人が一番分かっていなさそうだった。
それが余計に気になる。
昼休み。
由奈は購買から戻ってきた桐生颯太を捕まえた。
「ねえ桐生」
「ん?」
「高遠さんって、ちょっと高嶺の花っぽくない?」
颯太が足を止める。
「高遠が?」
予想以上に不思議そうな顔をされた。
「何その反応」
「いや、高遠だろ?」
「高遠さんだけど」
「見た目と雰囲気なら、まあ分からなくもないけど」
颯太は透花の席の方を見る。
今は本人がいない。
「でも普通だぞ」
「そこなんだよね」
「何が?」
「見た目だけなら、ちょっと話しかけるのに勇気いりそうじゃない?」
背が高く、顔立ちもかなり整っている。
表情も基本的には落ち着いていて、一人でいても堂々としている。
自分から愛想を振りまいて周囲へ入っていくタイプでもない。
何も知らなければ、少し距離を置いてしまう人がいても不思議ではない。
「そうか?」
颯太は首を傾げる。
「桐生は普通に話しかけるじゃん」
「同じクラスだし」
「男子ってそういうところ雑だよね」
「女子が考えすぎなんじゃないの?」
「はいはい」
由奈は軽く流す。
ただ、颯太の言っていることも分からなくはなかった。
実際に話してしまえば、透花は普通だ。
普通という言葉だけで片付けるには少し独特だが、少なくとも話しかけた相手を冷たくあしらうような人ではない。
由奈は朝から見ていた光景を思い出した。
「高遠さんって、何かしてると思う?」
「何を?」
「人たらし」
「本人に聞けよ」
「本人が一番分かってなさそうだから聞いてるの」
颯太が笑った。
「それはちょっと分かる」
「でしょ?」
「でも人たらしっていうか」
颯太は少し考える。
「来たやつ追い返さないだけじゃね?」
「……それだけ?」
「たぶん」
由奈は透花の周りの三人を思い浮かべた。
朝比奈さん。
小日向さん。
白河さん。
確かに全員、透花の方へ行っている。
少なくとも透花が三人を追い回しているところは見たことがない。
でも。
ただ拒まないだけで、ああなるものだろうか。
朝比奈さんは幼馴染だからまだ分かる。
小日向さんも元々人懐っこい。
白河さんは――。
由奈は少し考える。
白河真澄は、ぱっと見ではそれほど変わっていない。
今でも丁寧に話すし、透花にも「さん」を付けている。
必要もないのにべったり隣へ行くタイプでもない。
でも。
朝の会話。
用件が終わったあとも、自然にもう一つ話が続いていた。
少し前なら、あそこですぐ自分の席へ戻っていた気がする。
一つ一つは、本当に小さい。
言われなければ気づかないくらい。
それでも、前より少しだけ。
高遠さんの近くにいることが自然になっている。
「……やっぱり面白いなあ」
「何が?」
「桐生には分かんない話」
「呼び止めたのお前だろ」
それはそうだった。
午後の休み時間。
由奈は少し迷ったあと、透花の席へ向かった。
理由は特にない。
強いて言えば、本人に聞けば早いと思ったからだ。
「高遠さん」
透花が顔を上げる。
「瀬尾さん。なに?」
普通だ。
やっぱり普通に返事が来る。
由奈は透花の机の横に立った。
「ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「いいよ」
「高遠さんってさ」
一度言葉を切る。
「自分からあんまり誰かのところ行かないよね」
透花が瞬きをした。
質問の意味を考えているらしい。
「用があれば行くけど」
「用がなかったら?」
「行かないかな」
「一人の方が好きなの?」
「そこまででもないよ」
答えは早かった。
「誰かといるのも普通に好きだし」
「じゃあ、一人でも平気ってだけ?」
「そうかも」
透花は少し考えたあと、頷く。
「一人だから何か困るわけでもないし」
なるほど。
由奈は透花の顔を見る。
強がっているようには見えない。
寂しいけれど平気なふりをしている、という感じでもない。
本当に気にしていないのだ。
だから誰かが来なくても、自分から探しに行かない。
「でもさ」
由奈は続ける。
「朝比奈さんと、小日向さんと、白河さんって、高遠さんとの距離感全然違うよね」
今度こそ透花が不思議そうな顔をした。
「そう?」
「そうだよ」
そこは即答できた。
「朝比奈さんはもう昔からって感じだし」
「うん。千夏は幼馴染だから」
「小日向さんは自分からどんどん来るじゃん」
「莉子さんはそうだね」
否定しない。
「白河さんは?」
「真澄さん?」
透花が少し考える。
由奈は答えを待つ。
「……真澄さんとは、別に話してなくても平気かな」
「話してなくても?」
「うん」
透花は何でもないことのように言う。
「昨日も二人で作業してたんだけど、途中ほとんど喋ってなかったし」
「それ気まずくないの?」
「全然」
「へえ」
由奈は少しだけ目を細めた。
やっぱり。
白河さんは、見た目の変化が少ないだけだ。
ちゃんと近くなっている。
しかも、本人たちなりのやり方で。
「じゃあ、高遠さんって相手によって接し方変えてるんだ」
「変えてるつもりはないけど」
「でも違うじゃん」
「相手が違うからじゃない?」
さらっと返された。
由奈が黙る。
透花は続ける。
「千夏と莉子さんと真澄さん、三人とも性格違うし」
「まあ、それはそうだけど」
「同じように接する方が変じゃない?」
言われてみれば、その通りだ。
ものすごく当然のことを言われた気がする。
由奈がもっと何か聞こうとすると、透花の方から尋ねてきた。
「瀬尾さんは?」
「え?」
「瀬尾さんも、人によって違わない?」
「私?」
「仲いい子全員に同じ話し方してる?」
考える。
していない。
部活の友達。
クラスの友達。
昔からの友達。
先生。
全部違う。
「……確かに」
「でしょ」
透花はそれだけ言って、机の上のペンを指先で転がした。
由奈は少し拍子抜けする。
もっと何か特別な理由があるのかと思った。
誰かとの距離を絶妙に調整しているとか。
相手の性格を見抜いて対応を変えているとか。
そういうものではないらしい。
ただ相手が違うから、その相手との付き合い方も違う。
本人にとっては、それだけ。
「高遠さんってさ」
「うん?」
「思ったより普通だよね」
口にしてから、少し失礼だったかなと思う。
しかし透花は怒らなかった。
「よく言われる?」
「いや、今初めて言われた」
「じゃあごめん」
「別にいいけど」
透花が小さく笑う。
由奈もつられて笑った。
話してみれば、やっぱり普通に話せる。
こちらが近づいた分だけ、普通にそこにいてくれる。
高遠透花本人が遠いのではない。
最初から一人で平気そうで。
見た目も目立って。
自分から寄ってこないから。
周りの方が勝手に少し遠くから見てしまうのかもしれない。
「何か納得した?」
透花が聞く。
「ちょっとだけ」
「何を聞かれてたのか、いまいち分かってないんだけど」
「それは知らなくていい」
「そう?」
「うん」
やっぱり本人が一番分かっていない。
その結論だけは、最初から変わらなかった。
放課後前の休み時間。
由奈は友人との会話を終え、自分の席へ戻ろうとしていた。
その途中。
透花の席の横を通る。
今度は一人だった。
教科書を閉じて、何となく窓の外を見ている。
いつもなら、そのまま通り過ぎる。
特に用事もないからだ。
なのに。
「高遠さん」
気づけば呼んでいた。
透花が振り返る。
「ん?」
「……」
そこで由奈は気づいた。
何も考えていなかった。
聞きたいこともない。
伝えたいこともない。
ただ呼んだだけだ。
「なに?」
透花がもう一度聞く。
由奈は少し考えてから答えた。
「ちょっと呼んでみただけ」
「なにそれ」
透花が呆れたように笑った。
「いや、私も今そう思った」
「瀬尾さん、たまに変なことするよね」
「高遠さんに言われたくない」
「私、何かした?」
「そういうところ」
「分からない」
「でしょうね」
そのまま由奈は透花の机の横に残った。
少し話す。
今日の授業のこと。
先生のこと。
放課後の予定。
本当にどうでもいい話ばかり。
でも透花は普通に返す。
気づけば、由奈も机の横に寄りかかるように立っていた。
そこでふと、午前中に聞いた会話を思い出す。
――高遠さんって、一人でいても全然気にしてなさそうだよね。
――なのにさ。
――気づいたら誰か隣にいない?
由奈は透花を見る。
透花は何も知らずに、由奈の話へ普通に返事をしている。
そして今。
その隣にいるのは、自分だった。
「……なるほど」
思わず声に出た。
「何が?」
「こっちの話」
「今日それ多くない?」
「気にしないで」
「そうする」
透花は本当に気にしなかった。
由奈は思わず笑う。
高嶺の花。
確かに、遠くから見ればそう見える。
でも。
近づいてみれば、思っていたよりずっと近い。
そしてたぶん。
気づけば誰かが隣にいる理由は、こういうことなのだろう。