放課後。
今日は珍しく、一人で帰ることになった。
千夏は用事があるらしく、莉子も別の友達と約束がある。真澄も教室に残る予定があると言っていた。
だから俺は、特に誰かを待つこともなく学校を出た。
一人で帰るのは別に嫌いじゃない。
誰かと一緒なら一緒でいいし、一人なら一人でいい。
夕方の通学路を、いつものペースで駅へ向かう。
校門を出てしばらく歩いたところで、後ろから足音が近づいてきた。
最初は気にしていなかった。
同じ方向へ帰る学生なんていくらでもいる。
ただ、その足音は俺の少し後ろまで来たところで、なぜか速度を落とした。
「……高遠先輩?」
聞き覚えのある声だった。
足を止めて振り返る。
そこにいたのは、うちの学校とは違う制服を着た、小柄な少女だった。
肩に触れるくらいの暗い髪。少し長めの前髪の向こうから、こちらを確かめるように目を向けている。
中学の頃より少し背が伸びたように見える。それでも、小柄な印象そのものは変わっていない。
顔立ちは派手というより落ち着いた印象で、以前より少しだけ大人びて見えた。
それでも、こちらを見上げる時にほんの少し遠慮するような目つきには覚えがある。
記憶を探すまでもなく、名前が出てきた。
中学時代の後輩、
「七瀬?」
七瀬は、一瞬だけ目を見開いた。
「……はい」
「久しぶり」
「やっぱり、高遠先輩だったんですね」
そう言って、七瀬は少しだけ笑った。
大きく表情を変えるわけではない。
けれど、さっきまで少し硬かった目元がふっと柔らかくなる。
そういうところも、中学の頃とあまり変わっていないらしい。
「覚えてたんですね」
「そりゃ覚えてるよ」
「……ちょっと意外でした」
「失礼だな」
「すみません。でも、ちょっとだけです」
「フォローになってる?」
「微妙ですね」
七瀬がもう一度、小さく笑う。
昔より少し大人びてはいるけれど、話してみれば覚えている七瀬のままだった。
「七瀬も駅?」
「はい」
「じゃあ途中まで一緒だね」
一瞬だけ、七瀬の返事が遅れた。
「……はい」
俺たちはそのまま、並んで駅の方へ歩き出した。
しばらくして、隣の七瀬がぽつりと口を開く。
「先輩、変わってないですね」
「そう?」
「はい」
「高校生にはなったけど」
「そういう意味じゃないです」
横を見る。
七瀬は前を向いたまま、少しだけ口元を緩めていた。
何が変わっていないのか。
そして、それがどうしてそんなに安心したような顔につながるのか。
この時の俺には、まだよく分かっていなかった。
「七瀬は最近どう?」
少し歩いてから聞いてみる。
「最近、ですか?」
「うん。学校とか」
七瀬は少し考えてから答えた。
「普通です」
「便利な答えだね」
「先輩に言われたくないです」
「私、そんなに普通って言う?」
「言います」
即答された。
中学の頃から、意外とこういうところは遠慮がない。
「まあ、大きく変わったことはないです。ただ……最近は、進路の話が増えました」
「ああ」
「先生にも聞かれますし、家でも聞かれます。友達も、どこにするって話してて」
七瀬の声がほんの少しだけ重くなる。
「七瀬は決めてないの?」
「まだです」
「候補も?」
「いくつかはあります。でも、ここっていうのは」
「じゃあ考えてはいるんだ」
「はい」
七瀬が小さく頷く。
「最近、『ちゃんと考えてます』って答えるのが癖になってきました」
「考えてないの?」
「考えてはいます」
「なら嘘じゃないね」
何となくそう返すと、七瀬がこちらを見た。
「……そういうところです」
「何が?」
「高遠先輩って、決めろって言わないですよね」
「私が決めることじゃないし」
「そうじゃなくて」
七瀬が少し困ったように眉を下げる。
「周りからは、『そろそろ決めないと』って言われることが多いので」
「期限はあるんでしょ?」
「あります」
「なら、それまでに決めればいいんじゃない?」
七瀬が黙った。
何か変なことを言っただろうか。
「……先輩、本当に変わってないですね」
「またそれ?」
「はい」
今度は、さっきより少しはっきりした笑顔だった。
俺にはやっぱり、何がそんなに面白いのか分からない。
進路なんて、自分で納得できるまで考えればいい。
もちろん期限を過ぎたら困るだろうが、まだ時間があるなら、今すぐ答えを出す必要もない。
それだけの話だと思う。
「前もそうでした」
七瀬が言った。
「前?」
「中学の時です。覚えてませんか?」
そう言われて記憶を探る。
中学時代に七瀬と話したこと自体は何度もある。
ただ、本人が指している出来事まではすぐに浮かばなかった。
「どの時?」
「やっぱり覚えてないんですね」
「ごめん」
「いえ。先輩にとっては、特別なことじゃなかったんでしょうし」
そう言ってから、七瀬は少し懐かしそうに目を細めた。
「学校行事の準備、ありましたよね。学年一緒にやった時の」
「ああ……」
そこまで言われて、ぼんやりと記憶が戻ってきた。
放課後の教室。
机を寄せて、何人かで飾りや掲示物を作っていた。
学年の違う生徒も混じっていて、教室の中はかなり慌ただしかった気がする。
「あの時、私、自分の作業が終わったあと何すればいいのか分からなくて」
「……そうだったっけ」
「そうだったんです」
少しだけ不満そうな声。
「周りは先輩ばっかりで、みんな忙しそうだったし。聞こうと思っても、邪魔かなって」
そこまで聞いて、ようやく映像がつながった。
教室の端で、何をするでもなく立っていた後輩。
俺が声をかけた。
『七瀬、それ終わった?』
『……はい』
『じゃあ、こっち一緒にやる?』
『いいんですか?』
『人手あった方がいいし』
そんなやり取りだった。
俺がやっていたのは、模造紙に貼る文字か何かを切る作業だったと思う。
細かいところまでは覚えていない。
「途中で私、貼る場所を間違えたんです」
「ああ」
それは少し覚えている。
七瀬がひどく申し訳なさそうな顔をしていた。
『すみません』
『そこ直せば平気』
『でも……』
『まだ直せるんだから問題ないでしょ』
そんなことを言った覚えがある。
「そのあとも、私ほとんど喋れなくて」
「七瀬、あの頃もっと大人しかったもんね」
「今もそんなに喋りません」
「今は結構喋ってるよ」
七瀬が一瞬黙った。
「……先輩相手だからです」
今度はこちらが黙る番だった。
七瀬はそれ以上説明するでもなく、前を向いて歩いている。
「それで、先輩が言ったんです」
「何を?」
「『無理に喋らなくていいよ』って」
「……そんなこと言ったっけ」
「言いました」
「七瀬、よく覚えてるね」
「私は覚えてます」
きっぱりしていた。
声は静かなのに、そこだけ妙に迷いがない。
「でも私、大したことしてないよね」
「はい」
「そこはちょっと否定してくれてもよくない?」
七瀬がふっと笑った。
「先輩にとっては、大したことじゃなかったんだと思います」
「まあ……そうかも」
困っているように見えたから声をかけた。
間違えたなら直せばよかった。
喋りたくなさそうなら、無理に喋らなくてもよかった。
俺の中では、その程度だった。
「だから、覚えてるんです」
七瀬が言う。
「先輩は、私がちゃんと喋らなくても、少しくらい失敗しても、変に気にしなかったから」
「失敗したこと自体は気にした方がいいと思うけど」
「そういう意味じゃないです」
「難しいな」
「高遠先輩には、ずっと分からないかもしれませんね」
「そこまで?」
ひどい言われようである。
ただ、七瀬の表情は穏やかだった。
少なくとも悪い意味ではないらしい。
駅に着いた。
ちょうど電車が出たばかりらしく、次までは少し時間がある。
俺たちはホームへ下り、列の後ろに並んだ。
さっきまで話していた反動か、自然と会話が途切れる。
駅のアナウンスと、遠くを走る車の音だけが聞こえる。
俺は特に話題を探さなかった。
七瀬も何も言わない。
けれど、通学路で再会した直後より、立ち姿から力が抜けているように見えた。
少しして。
「やっぱり」
隣から声がした。
「ん?」
「高遠先輩の隣って、安心します」
思わず七瀬を見る。
「……やっぱり?」
「はい」
「私、今日何かした?」
「何もしてません」
「それで安心するの?」
「何もしないから、です」
ますます分からない。
顔に出ていたのか、七瀬が小さく笑った。
「無理に話さなくてもいいですし」
「うん」
「今すぐ答えを出せって言わないですし」
「私が言うことじゃないからね」
「そういうところです」
「それ、褒められてる?」
「褒めてます」
ならいいか。
そこまで言われて、少しだけ分かった気がする。
七瀬が欲しいのは、何か特別な答えではないのだろう。
黙っていても、そのままでいられること。
そういう時間が落ち着くらしい。
「でも、私じゃなくてもそういう人はいるでしょ」
「いますよ」
七瀬はあっさり答えた。
「友達もいますし、家族とも普通に話します」
「ならよかった」
「でも、高遠先輩は高遠先輩です」
「……うん?」
「同じじゃないです」
それ以上は説明しないらしい。
少し頑固そうな横顔を見て、俺も聞くのをやめた。
そういうところも昔から変わっていないのかもしれない。
やがて電車が入ってくる音がした。
七瀬とは乗る方向が違う。
「じゃあ、私はこっちだから」
「はい」
「久しぶりに会えてよかった」
そう言って離れようとしたところで。
「高遠先輩」
呼び止められた。
「なに?」
七瀬は一度口を開き、それから少しだけ迷う。
「また会ったら……今日みたいに話してもいいですか?」
「え?」
思わず聞き返した。
七瀬の表情がわずかに不安そうになる。
「駄目ですか?」
「いや、そうじゃなくて」
何で許可がいるんだろう。
「会ったら普通に話せばいいでしょ」
七瀬が目を瞬く。
それから、目元がゆっくり柔らかくなった。
「……はい」
「じゃあ、また」
「はい。また、高遠先輩」
電車へ乗り込む七瀬を見送る。
扉が閉まり、車両がホームから離れていった。
一人になってから、さっきの言葉を思い返す。
高遠先輩の隣は安心する。
中学時代のことを思い返しても、やっぱり俺が何か特別なことをした覚えはなかった。
それでも、七瀬の中には残っていたらしい。
俺には何でもなかったことでも、相手にとってはそうじゃないことがある。
最近、そういうことが少しずつ増えている気がする。
次に会ったら、今度はもう少し中学の頃の話でも聞いてみよう。
俺が覚えていないことを、七瀬はまだいくつか覚えているのかもしれない。