昼休みというものは、始まった直後が一番騒がしい。
椅子を引く音。弁当箱を開ける音。購買へ向かう連中の足音。午前中の授業から解放された教室が、一気に高校生らしい騒がしさを取り戻していく。
俺はその波に乗るでもなく、いつものように机の上へ弁当を出した。
今日は特に予定もない。
食べて、少し休んで、午後の授業に備える。
実に平和な昼休みである。
「透花ちゃん、今日ここで食べる?」
……訂正。
少なくとも、一人で静かに食べる予定ではなくなったらしい。
顔を上げると、莉子さんが弁当を持って立っていた。
「そのつもりだけど」
「じゃあ私も」
「どうぞ」
最近、このやり取りにもほとんど説明がいらなくなってきた。
莉子さんは俺の返事を聞くと、近くの空いている椅子へ手を伸ばす。
そこへ、今度は聞き慣れた声が飛んできた。
「莉子、もういるの?」
千夏だった。
「早い者勝ちです」
「何に勝ったのよ」
「透花ちゃんの昼休み?」
「私を景品にしないで」
「ほら、本人から苦情来てるじゃん」
「冗談だってば」
莉子さんが笑い、千夏が呆れた顔をする。
いつもの光景と言えば、だいたいいつもの光景だ。
ただ。
「真澄ちゃん」
莉子さんが、少し離れたところへ声をかけた。
弁当を手にしていた真澄さんが、こちらを見る。
「はい?」
「今日、一緒に食べない?」
「……私もですか?」
「うん」
真澄さんの視線が、莉子さんから千夏へ、それから俺へと移った。
俺は特に断る理由もないので、軽く頷く。
「真澄さんがよければ」
一瞬だけ間があって。
「……では、お邪魔します」
そうして気づけば、俺の机の周りには四人分の昼食が並んでいた。
誰かが予定を立てたわけでもない。
集まろうと約束した覚えもない。
なのに最近、こういうことが妙に増えた気がする。
まあ。
四人で食べることになったのなら、それはそれでいい。
そう思って、俺は箸を取った。
「透花、それ昨日の?」
向かいから千夏が、俺の弁当箱を覗き込んでくる。
「うん」
「やっぱり」
「昨日の?」
莉子さんがすぐ反応した。
「夕飯の残り」
「え、見ただけで分かったの?」
「だいたい」
「なんで?」
聞かれた千夏は、逆に何を聞かれているのか分からないような顔をした。
「昔から見てるし」
「それで分かるものなんだ……」
感心したように莉子さんが俺の弁当と千夏を交互に見る。
俺としては、そこまで不思議でもない。
千夏は昔から家に来るし、うちの母親の料理もそれなりに知っている。
昔から一緒にいるうちに、そういう細かいことまで自然と覚えてしまったのだろう。
「そういえば透花、今日あそこ寄る?」
「ああ、あそこ?」
「そう」
「別にいいよ」
「ちょっと待って」
莉子さんが箸を持ったまま手を上げた。
「二人だけで会話が省略されすぎじゃない?」
「駅前の店」
「情報がほとんど増えてないよ」
「透花には通じてるし」
「私にも通じるように話してよ」
「聞けばいいじゃん」
「今聞いてるの!」
千夏と莉子さんのやり取りに、真澄さんが小さく笑った。
俺もそこで少し考える。
確かに千夏相手だと、説明を途中で飛ばすことは多い。
言わなくても通じるから、わざわざ言葉にしない。
昔からそうだったせいか、俺自身はそれを特別だと思ったこともなかった。
「そうだ」
今度は莉子さんがスマホを取り出した。
「透花ちゃん、これ見て」
「なに?」
差し出された画面には、駅前に新しくできるらしい店の記事が表示されている。
写真を見る限り、軽食と甘いものが中心らしい。
「今度行こうよ」
「混んでなければ」
「じゃあ混んでなかったら行く?」
「予定が合えばね」
「よし」
「何が?」
「約束一個増えた」
「そこまで確定してないけど」
俺が言うと、莉子さんは楽しそうに笑った。
「千夏ちゃんも行く?」
「日による」
「真澄ちゃんは?」
「私ですか?」
真澄さんが少し目を丸くする。
「うん。四人でもいいじゃん」
「そこでしたら、開店直後はかなり混むと思いますよ」
「知ってるの?」
「系列店が少し話題になっていましたから。最初の一、二週間は避けた方が無難かと」
「なるほど」
莉子さんが真面目な顔で頷く。
俺も記事をもう一度見る。
「じゃあ真澄さんの言う通り――」
そこまで言って、口が止まった。
真澄さんがこちらを見る。
そういえば。
前に、呼び捨てで構わないと言われていた。
あの時は今まで通り「真澄さん」と呼び続けていたが、それから一緒に話す時間も増えた。
二人で作業をしたり、そのまま帰ったり。
こうして同じ机を囲んで昼を食べることも、今では別に珍しく感じない。
なら、もういいだろう。
「……真澄の言う通り、少し経ってからでいいんじゃない?」
真澄の箸が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……はい。その方がいいと思います」
「あれ?」
案の定、一番先に気づいたのは莉子さんだった。
「なに?」
「今、真澄ちゃんって呼び捨てにしたよね?」
「したね」
千夏まで即座に乗ってくる。
「前にそう呼んでいいって言われてたし」
「でもずっと『真澄さん』だったじゃん」
「まあ……もういいかなって」
「もういいかな、ですか」
真澄が小さく繰り返す。
その声は普段とほとんど変わらない。
ただ、口元がほんの少し柔らかくなったように見えた。
「……あれ?」
莉子さんが今度は自分を指差した。
「今度は何?」
「透花ちゃん、千夏ちゃんは『千夏』で、今は真澄ちゃんも『真澄』になったよね?」
「うん」
「私だけまだ『莉子さん』じゃない?」
「……あ」
本当だ。
「今気づいた?」
「今気づいた」
「即答しないでよ!」
莉子さんが頬を膨らませ、千夏が吹き出した。
「透花らしいけど」
「別に距離置かれてるとは思ってなかったけどさあ。なんか私だけ丁寧じゃない?」
言われてみれば、その通りだった。
莉子さんと呼び始めたから、そのまま呼んでいただけだ。
今では昼休みになるとこうして来るし、放課後にも話す。休日に一緒に出かけたことだってある。
最初の頃とは、もう随分違う。
「じゃあ……莉子でいい?」
一瞬。
莉子さん――莉子が目を丸くした。
「うん」
返事をしてから、少し間が空く。
「……もう一回」
「なんで?」
「いいから」
「莉子」
「うん」
今度の返事は、さっきより少しだけ弾んでいた。
「分かりやす」
千夏が呆れ半分に言う。
「いいじゃん。嬉しいんだから」
「開き直った」
「千夏ちゃんだってずっと呼び捨てじゃん」
「あたしは昔からだし」
「ほら、そういうところ!」
二人がまた言い合い始める。
俺はそこで、ふと真澄を見る。
「じゃあ真澄も、私のこと呼び捨てでいいよ」
「いえ……」
返事は意外に早かった。
「嫌?」
「そうではありません」
真澄は少しだけ考えるように視線を落とした。
「私は……『透花さん』の方が自然なんです」
「そうなの?」
「はい。こういうところは、性分ですので」
いかにも真澄らしい答えだった。
呼び方を変えたから仲が良くなるわけでもないし、変えないから遠いわけでもない。
本人がそれを自然だと思うなら、それでいい。
「なら無理に変えなくていいよ」
「ありがとうございます、透花さん」
「うん、真澄」
「……はい」
また一拍だけ返事が遅れた。
莉子がにやりとする。
真澄がそれに気づいて、わずかに眉を寄せた。
「何ですか、莉子さん」
「なんでもないよー」
「その顔で言われても説得力がありません」
「ほら千夏ちゃん、真澄ちゃんが怖い」
「自業自得でしょ」
いつの間にか、俺抜きで話が回っていた。
しばらくして飲み物がなくなったので、俺は空になったボトルを持ち上げる。
「ちょっと飲み物買ってくる」
「私も行こうか?」
莉子が腰を浮かせかける。
「すぐそこだし大丈夫」
「はーい」
廊下の自販機で一本買って戻る。
教室へ入ったところで、俺は少しだけ足を緩めた。
三人がまだ話している。
莉子が何かを言い、千夏が呆れたように返す。
その横で真澄が笑っていた。
俺がいなくても、何の問題もなく会話が続いている。
……あれ。
考えてみれば当たり前なのだが、今まで意識したことがなかった。
千夏は幼馴染。
莉子は高校に入ってからできた友達。
真澄も同じく、高校で知り合った友達だ。
俺の中では、それぞれ別々につながっていた。
でも今は、俺から伸びていたはずのつながりが、いつの間にか三人の間にもできている。
「何の話?」
席へ戻りながら聞く。
「透花ちゃんがいない間に話進んじゃった」
「置いていかれた」
「自分から離れたんでしょ」
千夏に即座に返された。
「それはそう」
椅子に座る。
それでも話題は俺へ戻らなかった。
「それでね、真澄ちゃんが――」
「莉子さん、それは言わなくていいです」
「えー」
「真澄、諦めた方がいいよ。莉子こういう時止まらないから」
「千夏さんまで……」
俺は買ってきた飲み物の蓋を開ける。
少し騒がしい。
でも、不思議と嫌ではない。
俺をきっかけに知り合ったはずなのに、今では俺が間に入らなくても普通に話している。
それを眺めながら、飲み物を一口飲む。
こういうのも、悪くない。
そう思えたことの方が、俺には少し意外だった。
予鈴が鳴った。
「あ、もう終わり?」
莉子が時計を見る。
「昼休みは伸びないよ」
「知ってるけど」
四人で椅子と机を戻していく。
「ねえ、明日も一緒に食べる?」
「毎日決めなくてもよくない?」
「千夏ちゃん冷たい」
「食べたければ来ればいいじゃん」
「じゃあ来る」
「決断早いなあ」
莉子は今度は真澄を見る。
「真澄ちゃんも?」
「予定がなければ」
「透花ちゃんは?」
「私、元々ここで食べてるし」
「じゃあ決まり」
「何が決まったんだろう」
莉子と真澄がそれぞれの席へ戻っていく。
千夏も自分の席へ向かいかけて、途中で振り返った。
「じゃ、また後で」
「うん」
短いやり取り。
いつも通りだ。
俺も机を元の位置へ戻す。
少し前まで、千夏と話す時間と、莉子と話す時間と、真澄と話す時間は、それぞれ別のものだった気がする。
それが今では、四人で昼飯を食べても誰も理由を説明しない。
こういうのって、いつから普通になるんだろうな。
少なくとも、誰かが決めた覚えはない。
次の昼休みにまた三人が来ても、たぶん俺は何も言わないだろう。
きっと、その時も普通に四人で昼飯を食べる。
今は、それくらいがちょうどいい。