TS転生おっさん物語 作:とりにく
小学生編は今回のみです。
子供の約束というものは、思っていた以上に重い。
「また遊ぶ」
「明日も遊ぶ」
「大きくなっても遊ぶ」
朝比奈千夏は、その手の約束を驚くほど律儀に覚えていた。
俺としては、その場を丸く収めるための軽い返事だったのだが、千夏にとっては違ったらしい。
そうして、約束に引っ張られ、近所の公園に連れ出され、家を行き来し、気づけば幼馴染という関係がすっかり定着していた。
光陰矢の如し。
元おっさんとしては一度くらい言ってみたかった言葉だが、実際に体感すると少し怖い。
そんなこんなで、俺はあっという間に小学生になった。
そして入学して早々、ひとつ大きな事実に気づく。
学校という場所は、思ったより社会に似ている。
席順があり、班があり、係があり、休み時間には小さな派閥が生まれる。
違うのは、会議室が教室で、資料の代わりに連絡帳があることくらいだ。
そんなある日、クラスで小さな揉め事の気配がした。
俺としては、放っておいてもよかった。
けれど火種というものは、小さいうちに消した方が後で楽だ。
……二周目小学生、初仕事である。
入学してからしばらく経った教室は、まだ何もかもが新しかった。
机は小さく、椅子も軽い。
黒板の横には、ひらがなで書かれた当番表が貼られている。
窓際には朝顔の鉢が並び、後ろの棚には色とりどりのランドセルが押し込まれていた。
俺の席は、窓際から二列目。
日当たりがよく、黒板も見やすい。
なかなか悪くない物件である。
ただし、隣が千夏だった。
「とうかちゃん、きょうもいっしょだね」
「席が隣だからね」
「ずっととなりがいい」
「席替えがある」
「やだ」
「うーん」
千夏は頬をふくらませた。
入学式の日、千夏は俺と同じクラスだと分かった瞬間、廊下で跳ねた。
本当に跳ねた。
親たちが笑っていたので、たぶん微笑ましい光景だったのだろう。
俺としても、知らない子ばかりの教室に知った顔がいるのは楽だった。
千夏は元気すぎるが、基本的に悪意がない。
あと、行動が分かりやすい。
これは重要だ。
前世で学んだことのひとつに、分かりにくい人間ほど面倒、というものがある。
機嫌が悪いのに「別に」と言う人間。
頼みたいことがあるのに遠回しに匂わせる人間。
怒っていないと言いながら三日後に爆発する人間。
その点、千夏はすごい。
嬉しいと笑う。
嫌だとふくれる。
遊びたいと袖を引く。
小学生にして情報開示が健全である。
「とうかちゃん、きいてる?」
「聞いてる」
「ほんと?」
「席替えが嫌なんでしょ」
「そう!」
千夏は満足そうにうなずいた。
俺は鉛筆を転がしながら、教室の中を見た。
朝の会が始まる前。
先生はまだ来ていない。
子供たちはそれぞれの机の周りで話したり、自由帳を見せ合ったり、ランドセルの中を探ったりしている。
その中で、教室の後ろの方だけ、少し空気が違っていた。
女子が三人、机を囲んでいる。
中心にいるのは、昨日までよく笑っていた子だ。
名前は、たしか――
入学してすぐの自己紹介で、好きなものは「ねこ」と言っていた気がする。
その向かいにいる、少し勝気そうな子は、
声がはっきりしていて、授業中の返事も大きい子だった。
問題は、その二人の間に置かれている消しゴムだった。
白い、猫の形をした消しゴム。
昨日、何人かが「かわいい」と集まっていたやつだ。
佐伯さんが小さな声で言う。
「わたしのだもん」
田辺さんが眉を寄せる。
「ちがうよ。わたしの。きのう、ここに置いてたもん」
「でも、これ、わたしの筆箱に入ってた」
「じゃあ、なんでわたしのと同じなの?」
まずい。
これは揉める。
大人の世界なら、所有権の確認、購入履歴、目撃証言、場合によっては上司の仲裁が入る。
小学生の世界では、そんなものはない。
あるのは、声の大きさと泣きそうな顔と、周囲の「え、どうする?」という空気だけだ。
俺は机の上の鉛筆を筆箱に戻した。
関わらない、という選択肢はある。
むしろ俺の人生方針としては、基本的にそちらが望ましい。
平穏。省エネ。無理をしない。
二周目の人生は、なるべく楽に。
だが、ここで放置すると、たぶん面倒になる。
佐伯さんが泣く。
田辺さんが怒る。
周りがざわつく。
先生が来る。
朝の会が遅れる。
全体が変な空気になる。
そしてなぜか隣の千夏が「あれ、どうしたの?」と突撃する。
最後が一番危ない。
千夏は正義感というより、近くで困っている子がいると黙っていられないタイプだ。
ただし勢いで動くので、火に油を注ぐ可能性もある。
案の定、千夏が椅子から半分立ち上がっていた。
「とうかちゃん、あれ——」
「待って」
俺は小声で止めた。
千夏がきょとんとする。
「なんで?」
「今行くと、増える」
「なにが?」
「揉める人数」
千夏は一瞬考えて、首を傾げた。
たぶん半分くらいしか伝わっていない。
俺は椅子から立ち上がった。
仕方ない。
早期対応である。
教室の後ろへ向かうと、佐伯さんと田辺さんが同時にこちらを見た。
周りにいた子たちも、少しだけ静かになる。
俺は猫の消しゴムを指差した。
「それ、同じの持ってる子、ほかにもいる?」
佐伯さんと田辺さんは顔を見合わせた。
「……わかんない」
「たぶん、いる」
「じゃあ、名前書いてある?」
田辺さんが消しゴムをひっくり返す。
裏側には、何も書かれていなかった。
「書いてない」
「じゃあ、今はどっちのか分からないね」
そう言うと、田辺さんが口を開きかけた。
「でも——」
「分からないまま取ったら、あとで違った時に困る」
田辺さんの言葉が止まる。
佐伯さんも、消しゴムをぎゅっと見つめた。
「じゃあ……どうするの?」
「先生に預ける」
俺はそう言った。
「先生が来たら、同じ消しゴムを持ってる子がいないか聞いてもらう。見つからなかったら、昨日どこに置いたか、いつ筆箱に入ってたか、あとで話す」
佐伯さんが不安そうに眉を下げる。
「でも、わたしのかもしれない」
「うん。だから預ける」
田辺さんも唇を尖らせた。
「わたしのかもしれない」
「だから預ける」
二人とも黙った。
よし。
声量が上がる前に止まった。
俺としては、それ以上でも以下でもない。
この手の揉め事は、片方を勝たせると長引く。
本人たちは勝ち負けよりも、「自分が信じてもらえなかった」ことを覚える。
だから、いったん保留。
第三者に預ける。
証拠がない状態で決めない。
大人の職場でも基本である。
小学校一年生の教室で使うことになるとは思わなかったが。
「じゃあ、先生の机に置いとく?」
周りにいた子の一人が言った。
俺はうなずく。
「それがいいと思う」
佐伯さんが迷ったように消しゴムを見た。
田辺さんも同じ顔をしている。
どちらも引きたくない。
けれど、これ以上言い合うのも嫌。
そういう顔だ。
俺は少しだけ声を落とした。
「あと、二人とも猫の消しゴム好きなんだね」
佐伯さんが瞬きをする。
「……うん」
田辺さんも小さくうなずいた。
「かわいいから」
「じゃあ、同じの持っててもおかしくないよ」
二人の表情が少し緩んだ。
責め合いから、ただ同じものを好きだっただけ、という形に変える。
そうすると逃げ道ができる。
人間は、逃げ道がないと意地を張る。
これは年齢に関係ない。
佐伯さんはそっと消しゴムを机に置いた。
「じゃあ、先生に聞く」
田辺さんも小さく言った。
「……うん」
よし。
鎮火。
俺は内心で小さく拍手した。
完璧ではない。
だが、朝の会前の小火としては十分だ。
被害拡大なし。
泣いた子なし。
先生への引き継ぎ可能。
良い仕事をした。
小学生なのに。
席へ戻ろうとすると、佐伯さんが俺を見上げた。
「透花ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
田辺さんも少し気まずそうに言った。
「……ありがと」
「うん」
俺は短く返して、自分の席へ戻った。
すると、千夏が目を輝かせていた。
嫌な予感がする。
「とうかちゃん、すごい」
「すごくない」
「すごいよ。ふたりとも、けんかしなくなった」
「先生に預けるだけだよ」
「でも、とうかちゃんが言ったら、ふたりとも聞いた」
千夏はなぜか誇らしげだった。
俺が何かをしたことで、なぜ千夏が胸を張るのか。
幼馴染の権利意識だろうか。
「とうかちゃんは、ちゃんと見てるね」
「何を?」
「みんなのこと」
重い評価が来た。
俺は窓の外を見た。
朝顔の葉が風で少し揺れている。
違う。
俺はみんなをちゃんと見ているわけではない。
面倒になりそうなところだけ見ている。
前世で身についた危機管理である。
美徳ではなく、生存術だ。
だが、千夏はにこにこしている。
「ちなつのことも、ちゃんと見てる?」
「千夏は見てなくても声で分かる」
「えへへ」
褒めていない。
けれど千夏は満足したらしく、机に頬杖をついた。
その顔が、さっきより少し近い。
物理的にも、心理的にも。
先生が教室に入ってきたのは、そのすぐ後だった。
消しゴムは先生に預けられ、朝の会で同じ猫の消しゴムを持っている子が他にもいることが分かった。
最終的に、持ち主は別の子だった。
佐伯さんも田辺さんも、少し気まずそうに謝っていた。
先生は「名前を書きましょうね」と穏やかにまとめた。
よかった。
非常に平和な着地である。
俺は席で連絡帳を開きながら、静かに満足した。
これで終わり。
火種は小さいうちに消えた。
今日の給食の献立はカレー。
完璧な一日になりそうだ。
しかし、休み時間になると、佐伯さんが俺の席に来た。
「透花ちゃん、一緒に遊んでもいい?」
その後ろに、田辺さんもいた。
「わたしも」
そして当然のように、千夏が俺の前に立ちはだかった。
「とうかちゃんは、ちなつと遊ぶの」
あ、別の火種が発生した。
俺は机の上の筆箱を閉じた。
人生とは、火を消すと別の場所から煙が上がるものらしい。
確か諺でも、一災起これば二災起こる。というものがある。
悪いことは重なるとかそんな意味だったかなと、ふと思い出す。
まさにそんな状況になりかけてる。今度は消しゴムではなく、俺が原因で。
「みんなで遊べばいいんじゃない」
俺がそう言うと、佐伯さんと田辺さんはぱっと顔を明るくした。
千夏だけが、少しだけ不満そうに俺を見る。
「みんなで?」
「その方が揉めない」
「……とうかちゃんは、ちなつとがいい?」
また難しい質問をする。
小学生女子の交友関係は、見た目より繊細だ。
ここで答えを間違えると、明日の空気に影響する可能性がある。
俺は少し考えた。
「千夏がいると、遊ぶの決めるの早いから楽」
「ほんと?」
「うん」
千夏の顔が、分かりやすく明るくなる。
「じゃあ、ちなつが決める!」
「ほどほどにね」
「おにごっこ!」
ほどほどとは。
だが、佐伯さんも田辺さんも「いいよ」と頷いている。
結果としてまとまったなら、それでいい。
休み時間、俺は校庭へ連れ出された。
千夏は全力で走る。
佐伯さんは笑いながら逃げる。
田辺さんは負けず嫌いらしく、本気で追いかける。
俺は校庭の端をほどほどに走った。
小学生の体は軽い。
息も切れにくい。
前世の体なら三十秒で膝から警告が来ていたところだ。
これはこれで楽しい。
ただし、全力では走らない。
省エネは人生の基本である。
「とうかちゃん、もっと走って!」
千夏が遠くから叫ぶ。
「走ってる」
「もっと!」
「はぁ、わかったよ」
小さくため息を吐き、返事を返して、俺は少しだけ速度を上げた。
風が頬に当たる。
校庭の砂が靴の下で鳴る。
子供たちの声が重なって、空に抜けていく。
まあ、悪くない。
前世では、昼休みに外で走るなんて考えられなかった。
休憩時間はメールを返すか、机で目を閉じるものだった。
それを思うと、今のこの時間はずいぶん贅沢だ。
そう考えていたら、千夏がこちらへ駆け寄ってきた。
「とうかちゃん、たのしい?」
「うん」
「ほんと?」
「うん。楽しいよ」
俺がそう答えると、千夏は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、あしたも遊ぼうね!」
出た。
約束の更新である。
俺は軽く息を吐いた。
「明日も元気だったらね」
「元気!」
「今じゃなくて明日」
「明日も元気!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
千夏は満足そうに笑って、また校庭へ走っていった。
俺はその背中を見ながら思った。
小学校の人間関係、規模は小さいが火種は職場と変わらない。
ただ、違うところもある。
消しゴムひとつで揉めるし、また遊ぶの一言で笑う。
怒るのも、拗ねるのも、機嫌が直るのも早い。
面倒だ。
けれど、少し面白い。
そしてその少し面白いが、俺の平穏をじわじわ削っていく気もしていた。
教室に戻ると、机の上に俺の連絡帳が置かれていた。
その端に、千夏が勝手に描いたらしい小さな花の絵がある。
「とうかちゃんの!」
「人の連絡帳に描かない」
「かわいいでしょ?」
「かわいいけど」
「じゃあいいね!」
よくない。
だが、花は妙に上手かった。
俺は消しゴムで消すか少し迷って、結局そのままにした。
千夏がそれを見て、嬉しそうに笑う。
またひとつ、何かを間違えた気がした。
二周目の小学生生活。
どうやら平穏への道は、思ったより騒がしい。