放課後。
六時間目が終わり、教室の空気が一気に緩む。
部活へ向かう者、友達と予定を確認する者、そのまま帰り支度を始める者。
俺も机の中を確認してから、教科書を鞄へ入れた。
今日は帰りに駅前へ寄る。
目的は一つ。
英語のノートを買う。
今使っているものが残り数ページになっていたので、なくなる前に同じものを補充しておこうと思っただけだ。
別に、勉強熱心だからノートの消費が激しいわけではない。
むしろ俺は、同年代と比べればノートを使わない方だと思う。
前世では四十歳前後まで生きた。
一度学生時代を経験している分、高校の授業でも見覚えのある内容はそれなりにある。
もちろん、昔習ったことを全部覚えているわけではないし、今の学校で初めて習うことだってある。
ただ、それを差し引いても今の俺は覚えることに困らない。
この身体は神様が用意したものだ。
身長や身体能力だけでもずいぶん出来がいいが、記憶力までかなり良かった。
一度見聞きしたものが一字一句そのまま残る、なんて大げさなものではない。
それでも授業で聞いた内容は頭に残りやすいし、一度理解したことなら後から思い出すのにもあまり苦労しない。
そのせいで、板書を最初から最後まで必死に写す必要もなかった。
必要なところだけ書く。
問題を解く。
先生から指示された内容を残す。
俺にとってノートは、覚えるためというより記録用に近い。
それでも使っていれば、いつかはなくなる。
だから今日は一冊買って帰る。
それだけだった。
「透花、今日駅前寄るんだっけ?」
鞄のファスナーを閉めたところで、千夏がやって来た。
「うん。ノート買う」
「この前も買ってなかった?」
「あれは数学。今日は英語」
「ちゃんと分けてるんだ」
「混ぜたら後で探すの面倒でしょ」
「透花って、ノートそんなに見返す?」
「あんまり」
「じゃあ何で分けてるの?」
「提出することもあるし、必要な時にすぐ見つかる方がいいじゃん」
「そういうところはちゃんとしてるよね」
「そういうところは?」
「あ」
千夏がわずかに目を逸らした。
「今の言い方、ちょっと引っかかるんだけど」
「気のせい」
「絶対違うでしょ」
千夏は答えず、自分の鞄を肩に掛けた。
「まあいいや。あたしも駅前寄るから途中まで一緒に行く」
「千夏も?」
「うん。ちょっと買うものあるし」
「じゃあ行こうか」
俺は席を立つ。
今日の予定は、駅前でノートを一冊買うこと。
千夏も同じ方向なら、一緒に帰る。
それだけの放課後になるはずだった。
「透花ちゃん、もう帰る?」
教室を出る前に予定が一つ増えた。
振り返れば、莉子が鞄を持ってこちらへ来ている。
「うん」
「駅の方?」
「そうだよ」
「じゃあ私も一緒に行く」
「莉子も何かあるの?」
「特にはないけど」
「ないんだ」
千夏が先に突っ込んだ。
「駅までは帰り道なんだからいいじゃん」
「別に駄目とは言ってないけど」
「じゃあいいでしょ」
莉子が当然のように俺たちの横へ並ぶ。
こういうところは莉子らしい。
「真澄ちゃんは?」
そのまま莉子の視線が教室の奥へ向いた。
真澄もちょうど帰り支度を終えたところだった。
「私は図書室へ寄ってから帰ります」
「長い?」
「返却するだけですので、それほどは」
「じゃあ待ってようか?」
「いえ。先に行っていただいて構いません」
真澄はすぐそう返した。
時計を見る。
別に急ぐ用事ではない。
「数分なら待ってればいいんじゃない?」
俺が言うと、真澄がこちらを見る。
「……よろしいんですか?」
「私は急いでないし」
「あたしも」
千夏が続く。
「私も!」
「莉子はそもそも用事ないでしょ」
「千夏ちゃん、それ今関係ある?」
「ある気がする」
「ないよ」
二人のやり取りに、真澄の口元が少しだけ緩んだ。
「では、お言葉に甘えて。すぐ戻ります」
「うん」
真澄が教室を出ていく。
俺たちはそのまま待つことになった。
「何してんの?」
数分もしないうちに、今度は桐生がやって来た。
「真澄待ち」
「白河?」
「図書室に返却」
「ああ」
桐生は俺、千夏、莉子の順に見る。
「高遠は駅前?」
「ノート買う」
「それだけ?」
「それだけ」
「相変わらず寄り道に夢がないな」
「ノート買うのに夢必要?」
桐生が一瞬考える。
「……言われてみればいらないな」
「でしょ」
莉子が笑った。
「桐生くんも来る?」
「俺?」
「駅までは一緒じゃない?」
「いや、今日はやめとく」
「なんで?」
千夏が聞く。
「女子三人の中に俺一人で入ったら浮くだろ」
「もうすぐ四人になるけど」
俺が言うと、桐生が妙な顔をした。
「増えるほど駄目だろ」
「別に誰も気にしないと思うけど」
「高遠はそうだろうな」
「何その言い方」
「お前、そういうところ妙に気にしないから」
「悪い?」
「悪いとは言ってない」
桐生は笑って鞄を持ち直した。
「じゃ、また明日」
「うん。また明日」
「またね、桐生くん」
「じゃあね」
桐生が教室を出ていく。
入れ替わるように真澄が戻ってきた。
「お待たせしました」
「全然待ってないよ」
莉子が答える。
「じゃあ行こうか」
こうして、最初は二人だったはずが四人になった。
まあ、駅まで行く人数が増えたところで困ることもない。
四人で校舎を出る。
歩き始めてしばらくすると、莉子と真澄が今日の英語の話を始めた。
「真澄ちゃん、最後の問題どうだった?」
「昨日と同じ形式でしたよ」
「やっぱり?」
「莉子さん、途中から勘で書いていませんでしたか?」
「なんで分かるの?」
「途中から明らかに手が止まらなくなったので」
「あー……」
「顔にも出てたよ」
千夏まで言う。
「千夏ちゃんまで?」
「途中まで悩んでたのに、急に勢いよく書き始めたら分かるでしょ」
「そんなに分かりやすかった?」
「かなり」
俺は横で聞きながら歩く。
しばらくして、莉子がこちらを見た。
「透花ちゃんは?」
「何が?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「全然入ってこないから」
「私が入るところあった?」
莉子が少し考える。
「……なかったかも」
「じゃあいいでしょ」
「それはそうだけど」
そのまま三人の話が続く。
俺は必要なところだけ時々口を挟む。
こういう歩き方にも、いつの間にか慣れていた。
駅前が見えてきたところで、横から名前を呼ばれた。
「高遠さん」
振り向く。
「藤堂さん」
藤堂さんが少し離れたところからこちらへ歩いてくる。
「今帰り?」
「うん。藤堂さんは?」
「部活の用事が終わったところ」
そう言ってから、藤堂さんの視線が俺の隣へ移った。
千夏、莉子、真澄。
「今日はみんな一緒なんだね」
「帰りが一緒になっただけだよ」
「そっか」
藤堂さんはそれ以上何も言わない。
「藤堂さんももう帰るの?」
莉子が聞く。
「うん。でも駅前で少し買うものがあるから」
「私たちも寄るよ」
「そうなの?」
「透花ちゃんがノート買うんだって」
「莉子、それ私の用事」
「いいじゃん、それくらい」
「別に隠してないけど」
藤堂さんが笑った。
「私も同じ方向だから、途中までいい?」
「もちろん」
こうして五人になった。
朝から人数を増やす予定は一度も立てていないのに。
「高遠さん、ノート買うの?」
「うん」
「授業用?」
「英語」
「この前も買ってなかった?」
「藤堂さんまで同じこと言うんだ」
「だって前に持ってたの見たから」
「あれは数学」
「教科ごとに分けてるんだ」
「混ぜると後で面倒だから」
藤堂さんが少し感心したように頷く。
「高遠さんって、結構ちゃんとノート取るんだね」
「そんなに取らないよ」
「そうなの?」
「板書も全部は書かないし」
「覚えられるの?」
「だいたいは」
藤堂さんが足を少し緩めた。
「……だいたい?」
「授業で聞いたことは結構残るから」
「それ、すごくない?」
「そうかな」
「そうだと思う」
藤堂さんの反応を見る限り、少なくとも一般的ではないらしい。
まあ、この辺りはあの神様が用意した身体のおかげなのだろう。
前世の記憶があるだけなら、昔習ったことを思い出す助けにはなっても、今聞いたことまで覚えやすくなるわけではない。
今の記憶力については、明らかに昔の俺より上だ。
身体能力といい、妙なところまで高性能である。
そのわりに説明書の一つも寄越さなかった辺りは、いかにもあの神様らしいが。
「でも、覚えてるのと解けるのは別だよ」
「そうなの?」
「知らない解き方は考えないと分からないし、覚えてても使い方間違えたら意味ないでしょ」
「ああ、それはそうか」
藤堂さんが納得したように頷く。
莉子が俺を見る。
「透花ちゃん、そういうところ妙に現実的だよね」
「何が?」
「『記憶力いいから全部余裕』って言わないところ」
「実際そうじゃないからね」
「でもテストは強そう」
「そこは否定しない」
「否定しないんだ」
千夏が笑った。
文房具店へ入る。
俺は迷わずノート売り場へ向かった。
今使っているものと同じシリーズを探す。
少しして見つけた。
手に取る。
「もう決めたの?」
藤堂さんが横から覗き込んだ。
「うん」
「早いね」
「今使ってるのと同じだから」
「毎回同じの?」
「同じ教科ならだいたい」
「色とか変えないの?」
「特に困ってないし」
「透花は昔からそうだよ」
千夏が横から言った。
「気に入ったらずっと同じの使う」
「気に入ったっていうか、変える理由がないだけ」
「それをずっと使うって言うんじゃない?」
「そうなの?」
「そう」
莉子がノートを覗く。
「私は新しいの見たら変えたくなるけどなあ」
「莉子はそっちっぽい」
「でしょ?」
「褒めてるかは分からないけど」
「褒めてよ」
真澄も俺の手元を見る。
「高遠さんは、一度使いやすいと分かったものはそのまま使うんですね」
「真澄もそう思う?」
「はい。以前一緒に作業した時も、必要なものを決めるのが早かったので」
「そこまで見られてたんだ」
「見ていたというより、印象に残っていました」
「へえ……」
藤堂さんが三人を見る。
「何?」
俺が聞くと、少し考えるようにしてから笑った。
「高遠さんって、思ってたよりいろいろあるんだなって」
「いろいろ?」
「私が知らないこと」
「それはそうじゃない?」
「……うん。それはそうなんだけど」
藤堂さんはもう一度笑った。
何が面白かったのかは分からない。
「藤堂さんは何買うの?」
「私は付箋」
「付箋?」
「うん」
「スポーツ用品じゃないんだ」
一瞬、空気が止まった。
「高遠さん」
「なに?」
「私が毎日スポーツ用品買ってると思ってる?」
「思ってないよ」
「今の言い方はちょっと怪しかったけど」
「本当に思ってないって」
莉子が笑い出した。
「透花ちゃん、藤堂さんのこと運動だけの人だと思ってない?」
「だから思ってないよ」
「じゃあ私が甘いもの好きでも驚かない?」
藤堂さんまで乗ってくる。
「驚かない」
「休日ずっと家にいる日があっても?」
「それはちょっと意外」
「ほら」
「今のは仕方なくない?」
藤堂さんが笑う。
「冗談だよ」
「分かりにくいなあ」
「高遠さんにも、知らない私があるってこと」
「それはそうだね」
俺が答えると、藤堂さんは少しだけ目を細めた。
「うん」
短い返事だった。
俺はそのままノートを手にレジへ向かう。
そういえば。
藤堂さんについて最初に知ったことは、バレーが好きということだった。
今でもその印象は強い。
けれど、それだけの人ではないのは当たり前だ。
自分が他人からどう見られているか分からないのと同じで、俺だって相手のことを全部知っているわけではない。
当たり前の話だった。
買い物を終えて店を出る。
少し歩いたところで藤堂さんが足を止めた。
「私はこっちだから」
駅とは少し違う方向を指す。
「うん。また明日、藤堂さん」
「また明日、高遠さん」
藤堂さんは千夏たちにも目を向けた。
「朝比奈さん、小日向さん、白河さんもまた明日」
「また明日」
「じゃあね、藤堂さん」
「また明日、藤堂さん」
三人がそれぞれ返す。
藤堂さんは軽く手を振り、そのまま離れていった。
少しして莉子が口を開く。
「藤堂さん、思ってたより話すね」
「どういう意味?」
「もっとバレーの話ばっかりする人なのかと思ってた」
「それ、私と話してる時の印象じゃない?」
「最初ずっと勧誘されてたもんね」
千夏が言う。
「まあね」
「真っ直ぐな方ですね」
真澄が藤堂さんの去った方向を見る。
「うん。それはそうだと思う」
俺も同意する。
「透花ちゃん、藤堂さんとも結構話すようになったよね」
莉子が言った。
「またその話?」
「だって今日ようやく気づいたんでしょ?」
「もう気づいたよ」
「成長したね」
「何の成長?」
「人間関係への気づき?」
「そんな項目ある?」
「今作った」
「だと思った」
話はそこで終わった。
莉子はそのまま別のことを話し始める。
俺も適当に返しながら歩いた。
駅前で莉子が先に別れる。
「じゃあ私こっち」
「うん。また明日、莉子」
「また明日、透花ちゃん」
莉子が笑って手を振る。
「千夏ちゃん、真澄ちゃんもまた明日」
「また明日」
「また明日、莉子さん」
少し先の分岐で、今度は真澄が足を止めた。
「私はこちらです」
「うん。また明日、真澄」
「はい。また明日、透花さん」
いつもの丁寧な返事。
千夏にも挨拶してから、真澄が別の道へ向かう。
気づけば、隣に残ったのは千夏だけだった。
「結局二人になったね」
千夏が言う。
「最初も二人だったしね」
「途中は増えたけど」
「かなりね」
二人で歩き出す。
手に持った店の袋を見る。
中身はノート一冊。
本来の用事は、本当にこれだけだった。
ノートを買う。
そのまま帰る。
そのはずだったのに。
莉子が加わって。
真澄を待って。
桐生と話して。
途中で藤堂さんまで一緒になった。
別に大事件があったわけではない。
それぞれ少し話して、それぞれの予定へ戻っていっただけだ。
それでも、一人で寄って帰るだけだった予定と比べれば、ずいぶん賑やかな放課後になった。
「透花の周り、最近あんな感じだよね」
「またその話?」
「あたしは今日一回しか言ってないけど」
「回数で数えないでよ」
「でも本当じゃん」
「否定はしないけど」
千夏が少し笑う。
「何?」
「いや。昨日までなら否定してそうだなって」
「昨日じゃなくて今日の朝までね」
「もっと最近だった」
「自分でもそう思う」
もう一度、袋を見る。
「今日、ノート一冊買うだけだったんだけどな」
「そうだけど?」
「それにしてはいろいろあったなと思って」
「そう?」
「うん」
千夏にとっては、そこまで変わった一日でもないらしい。
俺も少し考える。
まあ、確かに。
誰かと大げさな約束をしたわけでもない。
偶然帰る時間や方向が重なって、その都度一緒になっただけだ。
そういう日もある。
最近は、それが少し増えただけなのかもしれない。
「帰ろうか」
「うん」
千夏と並んで歩き出す。
手元の袋は、最初から最後までノート一冊分の重さしかなかった。
そのわりに今日の放課後は、思っていたよりずいぶん長かった気がする。
まあ。
ノートは買えたんだから、予定通りではあるか。