気づけば、七月も後半に入っていた。
高校へ入学してから、もう三か月ほど経っている。
ついこの前まで春だった気がするのに、今では朝から暑い。
校門を抜けて校舎へ入るまでの短い距離でも、日差しが容赦なく照りつけてくる。
教室へ入ると、冷房の効いた空気が少しだけありがたかった。
窓の向こうから聞こえてくる蝉の声さえなければ、外の暑さを忘れられそうだ。
「透花、おはよ」
「おはよう」
先に来ていた千夏が、席へ向かう俺を見て声をかけてくる。
「暑そう」
「暑いからね」
「もっとこう、夏って感じの反応ないの?」
「暑い以外に?」
「ないならいい」
何を期待されていたんだろう。
鞄を机の横へ掛け、椅子を引く。
机の中には教科書と、今日使うものが少し。
帰りのホームルームでは、そろそろ机やロッカーの中を整理しておけと言われる時期になっていた。
終業式までは、あと数日。
そう考えると、一学期も本当に終わりが近い。
三か月。
長いような、短いような。
前世まで含めれば学校生活そのものは二度目だが、今の高校へ入った日のことはまだよく覚えている。
知らない顔ばかりの教室。
昔から知っていたのは千夏くらいで、それ以外は名前すら分からなかった。
それが今では――
「透花ちゃん、おはよー」
考えている途中で、聞き慣れた声がした。
「おはよう、莉子」
「今日も暑いね」
「千夏と同じこと言ってる」
「千夏ちゃんも?」
「言ったけど」
「だって暑いじゃん」
「それは否定してないよ」
莉子が俺の机の横まで来る。
そのすぐ後ろから、真澄も教室へ入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう、真澄」
「真澄ちゃん、おはよう」
「おはようございます、莉子さん。千夏さんも」
「おはよ」
いつものように挨拶が交わされる。
三か月前なら、こんな朝になるとは考えていなかった。
けれど今は、誰がいつここへ来たのかを意識することもない。
莉子が俺の机の横まで来て、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、今日の一時間目って何だっけ?」
「英語」
「あ、そっか。ありがとう」
「忘れてたの?」
「時間割見たはずなんだけど、朝になると抜ける時あるんだよね」
「私は前日に確認しています」
真澄がそう言うと、莉子が少しだけ肩を落とした。
「真澄ちゃんはちゃんとしてるなあ」
「普通だと思います」
「その普通ができない日もあるの」
「莉子、朝から言い訳してる」
「千夏ちゃんは黙ってて」
千夏が笑う。
朝からよく喋るな、この三人。
そう思いながら英語の教科書を机に出したところで、予鈴が鳴った。
二時間目が終わった後の休み時間。
次の授業の準備をしていると、横から声が飛んできた。
「高遠」
「ん?」
顔を上げると、桐生がプリントを片手に立っていた。
「昨日の数学、最後の問題あっただろ」
「あったね」
「俺、途中まで合ってた?」
「三行目から違ってたよ」
「そこまで覚えてんのかよ」
「昨日見たし」
俺が答えると、桐生は自分のプリントへ視線を落とした。
「三行目……あ、ここか」
「符号」
「マジだ」
「その後もずれてる」
「追い打ちかけんなよ」
「聞いたの桐生でしょ」
「そうだけどさ」
桐生が渋い顔をする。
その声が聞こえたらしく、近くにいた莉子が振り返った。
「桐生くん、数学?」
「そう」
「昨日の最後のやつ?」
「小日向はできたのか?」
「途中までは」
「仲間じゃん」
「私は符号間違えてないもん」
「そこ張り合うところか?」
「大事でしょ」
話がそのまま二人の方へ流れていく。
俺は自分のプリントをしまい、次の教科書を取り出した。
「高遠は?」
不意に桐生から戻ってきた。
「何が?」
「最後までできた?」
「一応」
「はいはい」
「なんで聞いたの」
「なんとなく聞きたくなっただけ」
なら最初から聞かなければいいのに。
そう思ったが、口には出さなかった。
しばらくすると、莉子と桐生は別の問題の話を始めた。
俺が間に入らなくても普通に続いている。
だから、そのまま放っておく。
次の授業の準備が終わったところで、今度は別の声がした。
「小日向さん」
瀬尾さんだった。
「ん?」
「昨日配られたプリントって、提出明日だっけ?」
「え、今日じゃないの?」
「私が聞いてるんだけど」
「真澄ちゃん」
迷いなく真澄へ振る莉子に、瀬尾さんが少し笑う。
「明日ですよ」
「よかった。白河さん、ありがとう」
「いえ」
「莉子、確認してなかったの?」
「透花ちゃんまで言わないでよ」
「聞いただけだけど」
「言い方がもう責めてる」
そんなつもりはない。
瀬尾さんはまだ少し笑っていたが、チャイム前になると時計を確認した。
「あ、高遠さん。次、移動教室だよね?」
「うん」
「じゃあ一緒に行こう」
「いいよ」
それだけ決めて、瀬尾さんは自分の席へ戻っていった。
俺も特に気にせず教科書を鞄へ入れる。
入学した頃なら、こういう一言にも少しくらい理由を考えたかもしれない。
今は、移動先が同じなら一緒に行けばいい。それだけだった。
昼休み。
「真澄ちゃん、それ何?」
弁当を広げて早々、莉子が真澄の弁当箱を覗き込んだ。
「これですか?」
「うん。美味しそう」
「母が入れてくれたものです。食べますか?」
「いいの?」
「一つでしたら」
「やった」
真澄からおかずを一つもらった莉子が、嬉しそうに口へ運ぶ。
「莉子、さっき自分の弁当じゃ足りないって言ってなかった?」
千夏が呆れたように言う。
「だから増やしてるんだよ」
「堂々と言うこと?」
「美味しいよ、千夏ちゃんも食べる?」
「なんで莉子が勧めるの」
「確かに」
俺が言うと、莉子がこっちを見る。
「透花ちゃんも食べたい?」
「いや、私の分あるから」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないよ」
真澄が小さく笑う。
俺たちがそんな話をしていると、通りかかった藤堂さんが足を止めた。
「高遠さん」
「藤堂さん」
「午後の体育、体育館に変わったって」
「そうなんだ」
「さっき先生が言ってた。外、暑いからだと思う」
「それは助かるね。ありがとう」
「うん」
「藤堂さん、ありがとう」
莉子も続ける。
「ありがとうございます」
真澄が頭を下げると、藤堂さんは軽く手を上げた。
「じゃあ、また後で」
「うん」
そのまま自分の友人のところへ戻っていった。
「体育館かあ」
莉子が呟く。
「外よりいいでしょ」
千夏が言う。
「暑いのは暑いけどね」
「どっちにしても動くからね」
話題はそのまま午後の体育へ移った。
藤堂さんが途中で声をかけてきたことを、誰も特別なこととして扱わない。
俺も同じだった。
春には、そもそも藤堂さんとこうして話すこと自体なかった。
でも今となっては、それをわざわざ考えることも減っている。
変わったとしたら、そういうところなのかもしれない。
午後の授業も終わり、帰りのホームルーム。
宮原先生が教卓の前で連絡事項を読み上げていた。
「あと数日で一学期も終わるから、机とロッカーの中身はそろそろ持って帰れよ」
そこで一度、教室を見回す。
「特にプリント溜めてるやつ。夏休み明けまで置いてても勝手には片付かないからな」
教室のあちこちから笑い声が起きた。
俺は何となく机の中を見る。
今日使った教科書と、何枚かのプリント。
特に問題はなさそうだ。
宮原先生はそのまま別の連絡へ移り、ホームルームは数分で終わった。
椅子を引く音が一斉に響く。
「……あ」
横から小さな声がした。
見ると、莉子が机の中を覗いたまま止まっている。
「どうしたの?」
「思ったよりある」
「何が?」
「プリント」
「先生が今言ってたやつ?」
「その言い方やめて」
莉子が何枚か取り出す。
さらに出てくる。
「結構あるね」
「透花ちゃん、数えないで」
「数えてないよ」
真澄も近くまで来て、中を覗いた。
「莉子さん、今日少し持って帰った方がいいですよ」
「やっぱり?」
「終業式の日にまとめて持ち帰る方が大変です」
「正論が痛い」
「莉子が溜めたんでしょ」
千夏まで加わる。
「千夏ちゃんまで」
「自業自得じゃん」
莉子が俺の机の中を覗いた。
「透花ちゃん、少な」
「何が?」
「机の中」
「使わないもの置いとかないし」
「透花ちゃん、こういうの早そう」
「溜める理由ないでしょ」
「それができれば苦労しないんだよ」
「できてないから今苦労してるんじゃない?」
「透花ちゃん、今日ちょっと厳しくない?」
「普通に言っただけなんだけど」
千夏がまた笑った。
莉子は不満そうな顔をしながらも、結局プリントを鞄へ詰め始める。
「入らない」
「それは知らない」
「一枚くらいなら持ちますよ」
真澄が手を差し出した。
「真澄ちゃん……!」
「一枚です」
「先に釘刺された」
「甘やかすとまた溜めるよ、真澄」
「その可能性はありますね」
「真澄ちゃんまで!?」
今度は俺も少し笑った。
こういう会話が、今では珍しくない。
誰か一人と話していたはずが、気づけば別の誰かが入っている。
俺が何かしなくても、勝手に話は続いていく。
それで困ることもない。
むしろ、俺が毎回話題を考える必要がない分、その方が楽だ。
「じゃあな、高遠」
帰り支度を終えた桐生が、教室の出口から声をかけてきた。
「うん。また明日、桐生」
「おう」
少しして、藤堂さんも部活へ向かうらしく鞄を持って通り過ぎる。
「高遠さん、また明日」
「また明日、藤堂さん」
「みんなもまた明日」
「またね、藤堂さん」
「また明日」
「お疲れさまです」
藤堂さんが出ていく。
瀬尾さんも友人と一緒に教室を出る時、こちらへ軽く手を振った。
「高遠さん、また明日」
「うん。また明日」
それぞれが、それぞれの場所へ帰っていく。
莉子もどうにかプリントを鞄へ押し込み、真澄と一緒に教室を出ていった。
「じゃあね、透花ちゃん」
「また明日」
「また明日、透花さん」
「うん。また明日、真澄」
千夏も少し後で鞄を肩に掛ける。
「じゃ、透花。また明日」
「うん」
教室を出ていく千夏を見送ってから、俺も立ち上がった。
さっきまで声が重なっていた教室が、少しずつ静かになっていく。
窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。
廊下を一人で歩く。
夕方になっても、窓から差し込む日差しはまだ強い。
春にここへ来た時は、知っている相手なんて千夏くらいだった。
それから三か月。
何か特別なことをしようとした覚えはない。
友達を増やそうと思ったこともないし、クラスに馴染もうと頑張った記憶もない。
授業を受ける。
必要なことをやる。
放課後になれば帰る。
やっていること自体は、入学した頃から大して変わっていない。
それでも、三か月前とは少し違う。
廊下ですれ違えば挨拶をする相手がいる。
休み時間になれば、普通に話す相手がいる。
昼になれば、誰かと一緒に飯を食べている。
俺がいないところでも、知り合った連中同士で普通に話している。
そういうものが、いつの間にか日常になっていた。
高校へ入る前は、もっと一人で適当に過ごすものだと思っていた。
思っていた形とは、だいぶ違う。
でも。
嫌なら、とっくに距離を取っている。
そうしていないなら、今のところはこれでいい。
階段を下りる。
玄関へ近づくにつれて、外から聞こえる蝉の声が大きくなった。
一学期は、もうすぐ終わる。
高校生活は、まだ三か月しか経っていない。