小学生生活は、思っていたより騒がしく、思っていたより早く過ぎていった。
消しゴムの持ち主を巡る小火も、休み時間の鬼ごっこも、千夏が勝手に更新していく「また明日」の約束も、積み重なればそれなりの日常になる。
そして気づけば、俺たちは中学生になっていた。
制服に袖を通し、少しだけ広くなった通学路を歩く。
隣には当然のように千夏がいる。
ただ、小学生の頃と違って、千夏は時々こちらを見るようになった。
何かを確かめるみたいに。
近づきたいのに、近づきすぎていいのか迷うみたいに。
俺としては、これまで通りの距離感でいるつもりだった。
近すぎず、遠すぎず。
揉めず、疲れず、ほどほどに。
けれど思春期というやつは、どうやら同じ距離を同じ意味のままにはしてくれないらしい。
「透花、今日も部活見学行かないの?」
朝の通学路で、千夏が横から覗き込んできた。
中学の制服にも少し慣れてきた頃だった。
まだ新品の硬さが残るスカートの裾が、歩くたびに膝のあたりで揺れる。
ランドセルではなくなった鞄は軽くなったようで、教科書が増えたぶん別に軽くはなかった。
「行かない」
「即答」
「運動部は疲れる。文化部は人間関係が読めない」
「全部だめじゃん」
「帰宅部は自由度が高い」
「言い方が大人っぽくて嫌」
嫌と言いながら、千夏は笑っていた。
小学生の頃より少し背が伸びて、髪も肩にかかるくらいになった。
明るい茶色の髪が、朝の光で柔らかく見える。
表情の動きは相変わらず忙しいが、ふとした時に言葉を飲み込むようになった。
それが少し、不思議だった。
「千夏は?」
「あたしはまだ迷ってる」
「運動部じゃないの?」
「んー、バスケもいいけど、吹奏楽も楽しそうだし、友達に美術部誘われたし」
「忙しいね」
「透花が一緒なら決めやすいのに」
「私を基準にすると帰宅部になるよ」
「そこはあたしに合わせてよ」
「無茶を言う」
千夏が軽く肩をぶつけてくる。
小学生の頃なら、そのまま腕を組んできてもおかしくなかった。
けれど今の千夏は、肩が触れたあと、ほんの少しだけ距離を戻した。
俺はそれを横目で見た。
妙な遠慮だ。
昔は遠慮なんてなかった。
遊ぶ約束は当然のように更新され、俺の袖は何度も引っ張られ、連絡帳には勝手に花を描かれた。
それが最近は、こちらの反応を見る時間が増えた。
嫌われたくないのか。
それとも、自分でも距離感が分からなくなっているのか。
まあ、思春期だ。
前世でも扱いが難しい時期だった。
ただ、俺としては特別変えるつもりはない。
距離感は、急に詰めても離しても面倒になる。
今まで通りが一番安全だ。
そう考えていると、千夏が小さく息を吐いた。
「透花ってさ」
「ん?」
「誰にでもそんな感じだよね」
「そんな感じとは」
「落ち着いてる感じ。無理に近づかないけど、離れるわけでもない感じ」
意外とよく見ている。
「普通じゃない?」
「普通かなあ」
千夏は前を向いたまま、少し唇を尖らせた。
「あたしは、あんたが普通って言う時ほど、普通じゃないと思ってる」
「信用がない」
「実績があるから」
何の実績だ。
校門が見えてきた。
新しい制服の生徒たちが、少しぎこちない群れを作って歩いている。
小学校より人数が多い。
知らない顔も多い。
そのぶん、空気も少し複雑だった。
中学校は、小学校より社会に近い。
部活、先輩後輩、テストの順位、制服の着方、友達グループ。
まだ子供なのに、大人の真似事みたいな階層が少しずつ生まれていく。
なかなか面倒だ。
だが、眺めている分には少し面白い。
俺がそんなことを考えていると、昇降口の前で女子生徒が手を振った。
「高遠さん、おはよう!」
同じクラスの子だ。
名前はたしか、三浦さん。
「おはよう」
俺が返すと、三浦さんはぱっと笑った。
「今日の小テスト、範囲どこまでだっけ?」
「昨日のプリントの最後まで」
「助かった! 高遠さん、いつも落ち着いてるから聞きやすい」
「そう?」
「うん。焦ってなさそう」
焦っていないのではない。
諦めが早いだけだ。
小テストで人生は決まらない。
前世の修羅場に比べれば、漢字十問などかわいいものである。
三浦さんは「ありがと」と言って教室の方へ走っていった。
隣を見ると、千夏がじっとこちらを見ていた。
「なに?」
「別に」
出た。
思春期の「別に」である。
この言葉は危険だ。
前世でも散々見た。
本当に別に何もない時もあるが、だいたい何かある。
「怒ってる?」
「怒ってない」
危険度が上がった。
「ならいいけど」
「そこで終わるんだ」
「掘ると面倒そうだから」
千夏の眉がぴくっと動いた。
あ、これは対応を誤ったかもしれない。
「透花って、そういうとこあるよね」
「どこ」
「分かってるのに、分かってないふりするところ」
「分かってないことも多いよ」
「そういう返し」
千夏は俺を軽く睨んだ。
ただ、昔みたいにすぐ頬をふくらませるわけではない。
怒り方にも年齢が出るらしい。
成長を感じる。
俺は靴を履き替えながら、内心で少し感心した。
中学生の千夏は、昔より感情の形が複雑になっている。
分かりやすさが売りだったのに、最近は少し読みにくい。
困った。
分かりにくい人間関係は、平穏の敵である。
その日の昼休み。
俺は教室の窓際で、購買のパンを食べていた。
昼の光が机に落ちて、包装の端がきらきらしている。
中学校の購買はいい。
種類がある。
小学校の給食も悪くなかったが、自分で選べるというのは大きい。
本日の選択は、焼きそばパン。
炭水化物に炭水化物を挟むという、冷静に考えると大胆な料理である。
しかしうまい。
正義だ。
「高遠さん、それおいしい?」
前の席から、別の女子が振り向いた。
たしか、青木さん。
「おいしいよ」
「今度買おうかな」
「早めに行かないと売り切れる」
「高遠さん、詳しいね」
「生存戦略だから」
「何それ」
青木さんが笑う。
その横で、千夏が自分の弁当箱を開けながら、こちらを見ていた。
視線が刺さる。
「千夏も食べる?」
俺は焼きそばパンを少し持ち上げた。
「……いい」
「そう」
「そうじゃなくて」
「どれ」
「なんでもない」
また「なんでもない」が出た。
これはよくない。
別に、怒ってない、なんでもない。
三点セットが揃いつつある。
とはいえ、ここで教室の真ん中で深掘りするのも違う。
千夏の感情を人前で扱うと、余計にこじれる気がする。
俺は焼きそばパンを食べ終え、包装をたたんだ。
「放課後、少し歩く?」
千夏が顔を上げる。
「え?」
「帰り。寄り道してから帰る?」
千夏の目が、一瞬だけ大きくなった。
それから、すぐにそっぽを向く。
「……別に、いいけど」
声は素っ気ない。
でも弁当の卵焼きをつつく箸の動きが、少し軽くなった。
分かりやすい。
まだ助かる。
放課後、俺たちは学校から少し離れた川沿いの道を歩いていた。
春の終わりの風が、水面をなでている。
川の向こうには住宅街が続き、低い雲の隙間から薄い光が落ちていた。
千夏は隣を歩いている。
小学生の頃のように袖を引くことはない。
けれど離れすぎもしない。
半歩近い。
でも触れない。
その距離が、今日の千夏そのものみたいだった。
「で、何かあった?」
俺が聞くと、千夏はしばらく黙った。
足元の小石を軽く蹴る。
小石は道の端まで転がって、草の中に消えた。
「透花ってさ」
「うん」
「あたし以外にも、普通に優しいよね」
「まあ、普通には」
「それ」
千夏が立ち止まった。
俺も足を止める。
「その普通が、分かんない」
千夏は俺を見る。
小学生の頃より少し大人びた顔。
でも、目の奥には昔と同じ真っ直ぐさが残っている。
「私には、昔からそうだったじゃん。怒らないし、聞いてくれるし、約束もしてくれるし」
「うん」
「でも、中学に入ったら、ほかの子にもそうで」
「うん」
「……それって、別にあたしだからじゃなかったのかなって」
声が小さくなった。
なるほど。
そう来たか。
俺は川の流れを見た。
水面に光が揺れている。
俺としては、誰に対しても必要以上に荒立てないようにしているだけだ。
相手を怒らせるより、落ち着かせた方が楽。
揉めるより、流した方が早い。
その場で相手の欲しい返事を選ぶのも、処世術の一部である。
だが千夏にとって、それは違う意味を持っていたらしい。
昔からの約束。
怒らずに積み木を作り直したこと。
隣にいても拒まなかったこと。
それらが、千夏の中では特別として積み上がっていた。
そして今、同じような対応を他の子にする俺を見て、その土台が揺れている。
面倒だ。
いや、違う。
これは雑に扱うと、もっと面倒になるやつだ。
俺は少し考えた。
正解は分からない。
ただ、嘘をつく必要もない。
「千夏と他の子は違うよ」
千夏が顔を上げた。
「……どう違うの」
「付き合いの長さ」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
俺は言葉を探した。
思春期女子への回答。
難易度が高い。
前世の取引先への謝罪文より神経を使う。
「千夏は、気を抜いても大丈夫な相手」
千夏の目が揺れた。
「気を抜く?」
「うん。多少騒がしくても、近くても、まあ千夏だしって思える」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「かなり?」
「かなり」
千夏は黙った。
頬が少し赤い。
怒っているのか、照れているのか、どちらとも取れる。
「でも、あたしがいなくても平気そう」
「平気かどうかで言えば、たぶん平気」
千夏の眉が寄る。
まずい。
正直すぎた。
俺は続けた。
「でも、いた方が楽しい」
千夏が動きを止めた。
川沿いの風が、二人の間を抜ける。
千夏の髪が揺れて、横顔にかかった。
「……そういうこと、さらっと言う」
「重く言うと変でしょ」
「変じゃない」
「変だよ」
「変じゃない」
譲らない。
千夏は少し俯いたあと、小さく言った。
「あたしって、あんたにとって何?」
来た。
人生で時々発生する、答え方を間違えると後々まで響く質問。
俺は真剣に考えた。
幼馴染。
友達。
近所の子。
昔からの約束の相手。
騒がしくて、距離が近くて、気づけば隣にいる存在。
その全部を、中学生向けにまとめる必要がある。
俺は少し悩んで、正直に言った。
「近所の強めの縁」
千夏は無言になった。
あれ。
外したか。
数秒後、千夏は吹き出した。
「なにそれ」
「かなり正確だと思う」
「もっと他になかったの?」
「幼馴染、だと普通すぎるし」
「普通でいいじゃん」
「千夏は普通じゃないから」
そう言うと、千夏は笑いかけた顔のまま固まった。
「……それ、どういう意味?」
「距離が近い。約束が重い。声が大きい」
「悪口?」
「特徴」
「もう」
千夏は怒ったように言ったが、口元は緩んでいた。
よし。
たぶん大丈夫だ。
少なくとも、今朝の「別に」よりは空気が軽い。
千夏はまた歩き出した。
俺も隣に並ぶ。
しばらく無言で歩いていると、千夏がぽつりと言った。
「じゃあさ」
「うん」
「高校行っても、近所の強めの縁?」
「近所かどうかは進学先次第だけど」
「そこは嘘でもそうって言ってよ」
「同じ高校ならね」
「じゃあ同じ高校行く」
「進路を勢いで決めるな」
千夏は笑った。
その顔は、小学生の頃に「また遊ぶ」と言っていた時と少し似ていた。
違うのは、約束の意味を昔より少し分かっていること。
そして、それでも約束したがること。
俺は空を見上げた。
二周目の人生。
平穏に、ほどほどに、楽に生きる。
その方針は変わらない。
ただ、どうやら俺の平穏には、昔から隣を歩く幼馴染が含まれ始めているらしい。
それが面倒かどうかで言えば、少し面倒だ。
でも、まあ。
千夏が隣で鼻歌を歌い始める。
さっきまでの不機嫌が嘘みたいに、歩幅が軽い。
悪くはない。
本当に、悪くはないのだ。