高遠透花は、少し近寄りがたい。
入学式の日、教室へ入ってきた時から目立っていた。
背が高い。
とにかく高い。
女子の中で頭ひとつ抜けているというだけでも目を引くのに、手足がすらりと長く、制服姿の全体が妙に整って見える。
黒に近いダークブラウンの髪は、鎖骨より少し下まで真っ直ぐに落ちている。
派手に巻いているわけでも、飾りをつけているわけでもない。
それなのに、窓から入った光が髪の表面を滑るたび、そこだけ輪郭が静かに浮き上がった。
歩き方にも無駄がない。
黒板に貼られた座席表を確認し、窓際の席へ向かい、鞄を机の横へ掛ける。
ただそれだけの動作なのに、周囲をきょろきょろ見回している他の新入生とは空気が違った。
別に気取っているわけではない。
誰かに見せようとしているわけでもない。
むしろ本人は、人目を避けたがっているように見えた。
だから余計に、目立つ。
自己紹介もそうだった。
「高遠透花です。出身は東中です。よろしくお願いします」
それだけ。
本当に、それだけだった。
趣味も、入りたい部活も、高校生活への意気込みも言わない。
名前と出身中学だけを伝え、静かに頭を下げて席へ戻る。
声は大きくない。
けれど、不思議と聞き取りやすかった。
低いわけではない。
柔らかいのに、余計な揺れがない。
教室のざわめきの中でも、その声だけはすっと耳へ届いた。
高遠さんが席へ戻る間、何人かが自然と目で追っていた。
たぶん、私もその一人だった。
ただ立っているだけで目を引く人なんて、本当にいるんだ。
そう思った。
だから最初は、あまり話しかける気はなかった。
怖そうではない。
でも、何を話せばいいのか分からない。
整いすぎている顔立ちも、静かな目元も、少し眠そうに見える表情も、近くで見ると余計に隙がないように感じた。
ひとりでも困らなそう。
誰かに合わせなくても、平気そう。
そういう人に声をかけるのは、少し勇気がいる。
けれど、入学式から二日後。
休み時間に高遠さんを見ると、窓際の席で次の授業の教科書を出していた。
教科書を机の端へ置く。
筆箱を開ける。
窓の外へ少しだけ目を向ける。
その横顔は、入学式の日より柔らかく見えた。
頬杖をつくわけでもない。
ため息をつくわけでもない。
ただ、ほんの少しだけ気が抜けている。
近寄りがたいというより、静かに休んでいるだけなのかもしれない。
そう思ったら、何となく話しかけてみたくなった。
「高遠さんって、背高いよね」
高遠さんが顔を上げる。
「よく言われる」
近くで聞く声も、やっぱり落ち着いていた。
嫌そうではない。
でも、愛想よく見せようとしているわけでもない。
こちらの言葉をそのまま受け取り、余計な飾りをつけずに返す。
そんな話し方だった。
「何センチ?」
「百八十近く」
「え、すごい。私と並んだら、二十五センチくらい違う」
思わず、自分の頭の上に手を置いた。
それから、高遠さんを見る。
数字で聞くと、余計に確かめたくなった。
「高遠さん、ちょっと立ってみて」
「なんで?」
ほんの少しだけ首を傾げる。
髪が肩からさらりと落ちた。
その動きまで静かで、私は一瞬だけ返事を忘れそうになった。
「確認したい」
そう言うと、高遠さんは少しだけ不思議そうな顔をした。
断られるかと思った。
けれど、次の瞬間には立ち上がっていた。
並んでみると、想像以上だった。
目線の高さが違う。
肩の位置も違う。
高遠さんは手足が長い。
けれど、ただ細いわけではなかった。
華奢に見えるところと、すらりと伸びた線のバランスが整っている。
制服も特別に着崩しているわけではないのに、既製品ではなく最初からその人に合わせて作られたように見えた。
近くにいた子たちも気づいて、会話へ入ってくる。
「わ、本当に大きい」
「高遠さん、スタイルいいよね」
「モデルみたい」
高遠さんの眉が、ごくわずかに下がった。
ほんの少しだけ視線が泳ぐ。
表情が動かない人だと思っていたのに、よく見ると違う。
褒められて嫌なわけではない。
でも、注目されるのは困る。
そんな気持ちが、声に出さないまま顔に滲んでいた。
少しだけ、かわいい。
そう思った自分に驚いた。
「何かスポーツしてた?」
私が聞く。
「特には」
「もったいない」
「今日だけで何回目だろう、その言葉」
思わず笑った。
声は落ち着いているのに、返しは少しだけ投げやりだ。
完璧に見えた高遠さんが、急に近くなった気がした。
「あはは。ごめん。でも高遠さん、思ってたより喋りやすいね」
「喋りにくそうだった?」
「ちょっとだけ」
正直に答える。
高遠さんは怒らなかった。
「静かだし、背高いし、なんか近寄りがたい感じあるから」
「そうなんだ」
「怒らないの?」
「事実なら仕方ない」
あっさりしている。
でも、冷たいわけではない。
高遠さんはたぶん、無理に自分を良く見せようとしない。
こちらの言葉に、勝手な裏側を作らない。
それが少しだけ新鮮だった。
その時、視線を感じた。
教室の少し離れた場所で、朝比奈千夏がこちらを見ていた。
入学式の日から、高遠さんの近くにいる子だ。
幼馴染らしい。
明るい茶色の髪。
よく動く表情。
話している時の身振りも大きい。
高遠さんとは全然違う。
けれど、違うからこそ、昔から隣にいられるのかもしれない。
私と目が合うと、朝比奈さんは少しだけ首を傾げた。
笑っているようにも見えた。
ただ、何となく。
こちらを見ているというより、確かめられているような気がした。
次の日の昼休み。
私は少し迷ったあと、高遠さんの机へ向かった。
別に、深い理由はない。
教室には、少しずつ小さな輪ができ始めていた。
入学してまだ数日。
みんな楽しそうに笑っている。
私も、その中へ入ろうと思えば入れる。
話しかけるのは得意だ。
相手に合わせて話題を探すのも、明るく笑うのも、それなりにできる。
でも、少しだけ疲れていた。
新しいクラス。
新しい友達。
新しい空気。
最初が大事だと思うほど、失敗しないように笑ってしまう。
明るく振る舞っている方が楽な時もある。
でも、ずっとそうしていると、どこからが本当の自分なのか分からなくなる。
高遠さんなら、無理に盛り上げなくても怒らなそうだった。
話題が切れても、気まずそうにしなさそうだった。
少しくらい黙っていても、嫌われないような気がした。
それだけ。
本当に、それだけのつもりだった。
「高遠さん、隣いい?」
「どうぞ」
高遠さんはすぐに答えた。
驚きもしない。
理由も聞かない。
私は空いている椅子を引き、高遠さんの机の隣へ座った。
高遠さんの手元には、購買で買ったクリームパンがある。
細長い指が、包装の端を丁寧に開く。
何でもない動きだった。
でも、騒がしい教室の中で、高遠さんの周りだけ時間が少しゆっくり流れているように見えた。
「なんかさ、高校って最初が大事って感じしない?」
私は弁当箱を開きながら、教室の前方を見た。
「そう?」
「誰と仲良くなるかとか、どこに座るかとか。グループができる前に動かないと、あとから入りにくくなりそう」
これは、半分くらい本音だった。
今のうちに居場所を作っておいた方がいい。
どこかに入っておいた方が安心だ。
でも、そのためにずっと明るく話し続けるのは少し疲れる。
高遠さんはクリームパンの袋を開けながら言った。
「無理に合わせなくてもいいんじゃない」
私は高遠さんを見る。
高遠さんは、こちらをじっと見つめているわけではなかった。
パンへ目を向けたまま、ただ普通に言った。
だから余計に、胸へ残った。
「でも、最初に失敗すると面倒じゃない?」
「無理して入ったところが合わない方が、あとで面倒だと思う」
当たり前みたいに言う。
特別なことではない、という顔で。
「……高遠さん、あんまり焦ってないね」
「焦っても疲れるだけだから」
それを聞いて、肩の力が抜けた。
そうか。
焦らなくてもいいのか。
最初から全部うまくやろうとしなくてもいい。
誰とでも明るく話せる自分でいなくてもいい。
少しくらい、休んでもいい。
「そっか。別に、ずっと明るくしてなくてもいいのか」
思わず口に出す。
高遠さんは少しだけこちらを見た。
目元が、ほんの少し柔らかくなる。
大げさに心配するわけでもない。
深刻な顔をするわけでもない。
ただ、静かな声で言った。
「疲れるなら、休めばいいと思う」
箸が止まった。
その言い方は、あまりにも自然だった。
頑張らなくてもいい。
無理に笑わなくてもいい。
そういう言葉は、言い方によっては重くなる。
心配されているみたいで、逆にちゃんとしなくてはいけない気持ちになることもある。
でも、高遠さんの言葉は違った。
休みたければ、休めばいい。
話したくなければ、黙っていてもいい。
ここに座っている間くらい、無理に明るくしなくてもいい。
そう言われた気がした。
高遠さんは、こちらへ踏み込みすぎない。
でも、突き放しもしない。
静かな場所を、机の横にひとつだけ空けてくれたみたいだった。
胸の奥に、温かいものが落ちる。
安心した。
そのはずなのに。
安心しただけでは説明できない何かが、少しだけ残った。
もっと聞きたい。
この人の声を、もう少し近くで聞きたい。
同じように静かな顔で、また自分へ言葉を返してほしい。
そんな気持ちが、ゆっくりと底へ沈んでいく。
「高遠さんって、そういうことをさらっと言うんだね」
「そう?」
「うん」
本人は分かっていない。
分かっていないから、たぶん誰にでもこうなのだろう。
そう考えると、胸の奥に小さな引っかかりができた。
少しだけ、惜しい。
できれば、今の言葉は私だけに言ってほしかった。
そう思ってから、自分で戸惑う。
昨日、初めて話したばかりなのに。
私は卵焼きを口に入れた。
いつもより少しゆっくり噛む。
高遠さんも、何も話さずにクリームパンを食べている。
気まずくない。
沈黙を埋めなくてもいい。
何か面白いことを言わなくてもいい。
それが、思った以上に楽だった。
楽すぎて。
昼休みが終わるのが、少し惜しかった。
「高遠さん、明日も隣いい?」
弁当箱を片づけながら、気づけばそう聞いていた。
「空いてたら」
「じゃあ、予約ね」
「席に予約制度はないと思うけど」
「今できた」
高遠さんは、少しだけ困った顔をした。
目元がわずかに細くなる。
でも、嫌とは言わなかった。
それだけで、胸の奥が軽くなる。
たった一度、隣で昼を食べただけ。
それなのに。
明日もここへ来ていいと思うだけで、少し嬉しかった。
次の日。
昼休みのチャイムが鳴る少し前から、私は時計を見ていた。
別に急ぐ必要はない。
高遠さんの隣の椅子は空いている。
昨日だって、普通に座れた。
誰かに取られるとは思わない。
それでも、少し早く行きたかった。
授業中なのに、次の昼休みのことを考えている。
自分でも、少し変だと思う。
昨日までは、教室のどこで昼を食べてもよかった。
誰と話してもよかった。
なのに今は、高遠さんの隣に座りたいと思っている。
ただ静かにパンを食べている横顔を、もう一度見たい。
落ち着いた声で、何でもない返事をしてほしい。
昨日と同じように、無理に笑わなくてもいい時間がほしい。
チャイムが鳴る。
私は弁当箱を持って立ち上がった。
少しだけ早足になる。
「透花ちゃん、今日も隣いい?」
呼び方を変えてみた。
昨日までは、高遠さん。
でも、何となく。
もう少し近くてもいい気がした。
高遠さん――透花ちゃんは、少しだけ目を瞬いた。
黒に近い髪が、肩の上で小さく揺れる。
怒られるだろうか。
馴れ馴れしいと思われるだろうか。
ほんの少しだけ、不安になる。
拒まれたらどうしよう。
昨日の場所へ、もう座れなくなったら。
そんな考えが浮かんで、自分でも驚いた。
たった一日で、そんなことを思うほど気に入ってしまったらしい。
その前に、近くで椅子が動く音がした。
「じゃあ、あたしもこっちで食べる」
朝比奈さんだった。
朝比奈千夏
透花ちゃんの幼馴染で、いつも一緒にいる子。
朝比奈さんは弁当箱を持ち、透花ちゃんの机の反対側へ椅子を運んでくる。
笑っている。
いつも通りの、明るい笑顔。
でも、その動きに迷いはなかった。
透花ちゃんの隣にいることが当然だと知っている人の動きだった。
少しだけ、胸の奥がざわつく。
ああ。
この子は、ずっと前からここにいたんだ。
私が昨日見つけたばかりの居場所を、朝比奈さんは昔から知っている。
透花ちゃんがどんなパンを好きなのか。
どんな返事をするのか。
どれくらい近づけば、どんな顔をするのか。
たぶん、私よりずっと知っている。
それが、少し羨ましい。
羨ましいだけではない。
ほんの少しだけ、悔しい。
そう思った。
でも、席を譲ろうとは思わなかった。
透花ちゃんの隣は、思ったより居心地がいい。
静かで。
楽で。
無理をしなくていい。
昨日見つけたばかりなのに、もう手放したくないと思っている。
「椅子、足りる?」
透花ちゃんが聞く。
「持ってくる」
朝比奈さんは即答した。
左右に椅子が並ぶ。
私は透花ちゃんの左。
朝比奈さんは右。
透花ちゃんは、あまり気にしていない。
購買で買ったパンの袋を開けながら、朝比奈さんと卵焼きの交換をしている。
その会話は自然だった。
昔から繰り返してきたことみたいに、距離が近い。
「透花ちゃん、そのパンおいしい?」
私は聞いた。
自然な声が出たと思う。
「おいしいよ」
「一口もらっていい?」
「半分は多いけど、一口なら」
「やった」
透花ちゃんが少しちぎったパンを差し出す。
長い指先から、パンを受け取る。
それだけのことなのに、少しだけ緊張した。
柑橘系のクリームは、少し酸っぱくて甘かった。
「あ、おいしい」
「当たりだった」
透花ちゃんは、ほんの少しだけ満足そうに言う。
表情は大きく変わらない。
けれど、よく見れば分かる。
目元が少し柔らかい。
声がわずかに明るい。
この人は、思ったより日常を楽しんでいる。
購買の新作パン。
窓際の席。
静かな昼休み。
たぶん、そういう小さなものを大事にしている。
その中に、自分も少しだけ混ざってみたい。
いや。
少しだけでは足りないかもしれない。
明日も。
明後日も。
できれば、その次の日も。
透花ちゃんの隣に座って、何でもない話をしたい。
話さない時間も、一緒に過ごしたい。
透花ちゃんがどんなものを好きなのか、もう少し知りたい。
どんな時に少しだけ笑うのか。
どんな時に困ったように眉を下げるのか。
どんな声で「どうぞ」と返すのか。
もっと知りたい。
そんな気持ちが、静かに膨らんでいく。
向かい側から、朝比奈さんの視線を感じる。
敵意はない。
でも、こちらを見ている。
笑顔のまま、静かに。
たぶん、朝比奈さんも気づいている。
私が透花ちゃんの隣を気に入り始めていることに。
そして私も、少しずつ気づいてしまった。
昨日は、少し休みたかっただけだった。
静かな場所に座りたかっただけ。
今日も来たのは、居心地がよかったから。
それだけのはずだった。
でも。
もう、昨日と同じではない。
明日の昼休みが待ち遠しい。
透花ちゃんの隣が空いているか、気になってしまう。
誰かが先に座っていたら、たぶん少し嫌だと思う。
そう考えた瞬間、自分の感情の形が少しだけ見えた。
居心地がいい。
それだけではない。
ここを、自分の居場所にしたい。
できれば、誰にも取られたくない。
まだ知り合って数日なのに。
少し、おかしい。
でもまあ、いいか。
まだ高校生活は始まったばかりだ。
焦らなくてもいい。
透花ちゃんも、そう言っていた。
だから私は、空になった弁当箱を閉じながら笑った。
「透花ちゃん、明日も隣ね」
「確認じゃなくなってる」
「だめ?」
透花ちゃんは少しだけ考えた。
その間が、妙に長く感じる。
「別にいいけど」
それだけだった。
軽い返事。
特別な意味なんて、たぶんない。
でも私は、安心した。
胸の奥にあった小さな不安が、すっとほどける。
「じゃあ、決まり」
向かい側で、朝比奈さんが箸を止めた。
ほんの一瞬だけ。
そのあとすぐ、いつもの笑顔に戻る。
「明日は、あたしも最初からこっちで食べるから」
「うん。三人で食べよ」
私がそう返すと、朝比奈さんは少しだけ目を細めた。
「そうだね」
笑顔だった。
ただ、その声には何となく力があった。
透花ちゃんだけが、何も気づかない顔でパンを食べている。
この人はたぶん、自分が何をしているのか分かっていない。
静かな顔で座っているだけ。
来る人を拒まないだけ。
疲れるなら休めばいいと、当たり前みたいに言っただけ。
それだけなのに。
私はもう、明日の昼休みを待っている。
教室のチャイムが鳴る。
椅子を戻しながら、私は思った。
透花ちゃんの隣は、思ったより危ない。
静かで。
落ち着いていて。
何も求められない。
だからこそ、一度座ると離れがたい。
たった二日なのに、次の日も来たくなる。
もっと声を聞きたくなる。
もっと表情を見たくなる。
もっと、自分だけに向けられる言葉が欲しくなる。
野良猫に餌をあげると、居着いてしまうという話を聞いたことがある。
でも、今の私は猫ではない。
透花ちゃんは、餌を置いたつもりすらない。
私が勝手に近づいて。
勝手に座って。
勝手に居心地の良さを覚えて。
勝手に、もう離れたくないと思っている。
それでも。
明日も、透花ちゃんの隣へ行こう。
そう決めた時点で、私はもう沼の入口に立っているのではなく。
たぶん、足首くらいまでは沈んでいた。
こうしてまた一人、若人を沼らせてしまう罪深いおっさんJK。