そこは、静かな場所だった。
窓はない。風もない。
外の音も届かない。
ただ、どこかもわからないビルの一室に、向かい合うように二つの椅子が置かれている。
片方に座っているのは、小鳥遊ホシノ。
もう片方に立っているのは、黒いスーツに身を包んだ男だった。
「お久しぶりです、小鳥遊ホシノさん」
目の前の異形の存在、黒服は、いつも通り丁寧に頭を下げた。
その声には抑揚が少なく、けれどどこか人の心に入り込むような柔らかさがある。
ホシノは椅子に浅く腰掛けたまま、警戒心を露わにした目で睨みつけた。
「お前と世間話する為に来たんじゃない。いきなり呼び出して何の用?」
黒服は、そんなホシノを静かに見つめていた。
「そうですか、では早速ですが以前よりお話ししていた件について、改めてご提案に参りました」
「……あー」
ホシノは視線を逸らした。
「やっぱり、その話なんだ」
「もちろんです」
黒服は一歩も動かず、淡々と続ける。
「条件は変わりません。こちらが求めるものは、キヴォトス最高の神秘を持つ小鳥遊ホシノ、貴女の身柄です」
「相変わらずキモイ言い方するね~」
「事実を述べているだけです」
「私は物じゃないんだけど」
「もちろん心得ています。ですので、これは売買ではありません。契約です」
「もっと嫌な言い方になったね」
ホシノは軽い調子で返した。
軽く、いつも通りに。
そうしなければ、黒服の言葉が胸の奥に沈んでしまいそうだった。
黒服は、そんなホシノの反応を責めるでもなく、ただ穏やかに言った。
「対価として、アビドス高等学校が抱える借金を半分にいたしましょう」
その言葉に、ホシノの指がわずかに動いた。
半分。全額ではない。
すべてが終わるわけではないが、それでも半分。
セリカちゃんのバイトが少し減るかもしれない。
アヤネちゃんが眠れない夜を過ごす回数も、少し減るかもしれない。
ノノミちゃんが笑顔の裏で無理をすることも、少しは減るかもしれない。
シロコちゃんが危ないことを考える前に、別の道が見つかるかもしれない。
残り半分なら。
先生がいてくれれば。みんなが一緒なら。
もしかしたら、本当に何とかなるかもしれない。
「……半分、かぁ」
ホシノは笑おうとした。
「ずるいね。それ、結構大きいよ」
「貴女なら、そう判断されると思っていました」
「私のこと、分かってるみたいな言い方しないで」
「…理解しているつもりですが?」
「それは本当に嫌だな」
ホシノは椅子の背にもたれた。
目を閉じる。
浮かんでくるのは、アビドスの皆の顔だった。
怒ってばかりだけれど、誰より必死なセリカ。
真面目で、いつも数字と向き合っているアヤネ。
笑顔で皆を包んでくれるノノミ。
無口だけれど、まっすぐに学校を守ろうとするシロコ。
そして、先生。
まだ出会って間もない。不思議な人だった。
突然増えた自分や黒いシロコを見ても、戸惑いながら受け入れてしまう人。
変なことに巻き込まれても、まず生徒のことを心配する人。
向こうの私が言っていた。
先生は、生徒のことを絶対に見捨てない。
その言葉は、ホシノの中にずっと残っていた。
残っていたからこそ、ずっと苦しかった。
「……先生だったらさ――」
ホシノは目を閉じたまま呟く。
「絶対止めるよね」
「恐らくそうでしょうね」
「みんなもきっと怒るよね。セリカちゃんなんて、すごい声で怒りそう」
「ええ」
「アヤネちゃんは泣きそうになりながら理屈で止めてくるだろうし、シロコちゃんは何も言わずに銃持って追いかけてきそうだし、ノノミちゃんは笑ってるのに目が笑ってなさそうだし」
ホシノは、そこで少しだけ口元を緩めた。
「困っちゃうね」
「では、断りますか?」
黒服は静かに問うた。
ホシノは答えない。
断りたい。
そう思っている自分は、確かにいた。
先生に頼ってもいいのかもしれない。
みんなに話してもいいのかもしれない。
一人で全部背負う必要はないのかもしれない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに。
黒服は、そこで穏やかに言った。
「貴女がいなくなっても、アビドスにはもう一人の小鳥遊ホシノがいる。そう考えてしまったのではありませんか?」
ホシノの呼吸が止まった。本当に、わずかに。
けれど、黒服はそれを見逃さなかった。
「違いますか?」
「……」
ホシノは、ゆっくり目を開けた。
「ひどいこと言うね〜」
「事実を確認しただけです」
「私だってそこまで薄情じゃないよ〜。自分の代わりがいるからって、はいそうですかって消えたりしないって――」
「本当に?」
黒服の声は静かだった。
「では、貴女は一度もそう考えなかったと?」
ホシノは黙った。
否定できなかった。
向こうの私。
未来の自分に近い存在。先生を知っている。
アビドスのことも、きっと今の自分より分かっている。
強くて、頼れて、ふざけているようで、たぶん色々なことを知っている。
あの自分がいれば。
もし、私が居なくなっても。
アビドスには、まだ小鳥遊ホシノが残る。
その考えは、確かにあった。
思ってはいけないと思った。
考えてはいけないと思った。
でも、一度浮かんでしまったものは、消えてくれなかった。
「……だってさ」
ホシノの声が、少しだけ掠れた。
「私がいなくなっても、まだ向こうの私がいるじゃん…」
黒服は何も言わない、ただ聞いていた。
「向こうの私なら、先生のことも知ってる。たぶん、これから何が起こるかも知ってる。私より強いし、ちゃんと動けるし……みんなを守れる……」
言えば言うほど、自分の言葉が自分を追い詰めていく。
それでも、ホシノは止まれなかった。
「ならさ」
いつものように笑おうとした。
「私が――」
続きは、声にならなかった。
黒服は静かに頷く。
「貴女がいなくなることで、アビドスの借金は半分になる。残された生徒たちには、シャーレの先生がいる。そして、もう一人の小鳥遊ホシノもいる」
「……」
「悪くない条件だと、私は思いますけどね」
「ほんと、嫌な言い方するね」
「選ぶのは貴女ですよ、小鳥遊ホシノさん」
その言葉が、一番嫌だった。
黒服は命令しない。強制しない。
ただ、選択肢を置くだけ。
そしてホシノが、自分でそこに手を伸ばすのを待っている。
誰かに無理やり連れていかれるのではない。
自分で決めたのだと、そう思わせるために。
ホシノは、膝の上で手を握った。
強く痛いくらいに。
思い出すのは先生の顔。
困ったように笑って、それでも生徒の話を聞こうとしてくれる顔。
『先生は、生徒のことを絶対に見捨てない』
そうだ。
先生はきっと見捨てない。
だから。
「……見捨てないからこそ、危ないんだよ…」
ホシノは小さく呟いた。
「先生は、絶対こっちに来る。何も言わなかったら探しに来る。危ないって分かってても、きっと来ちゃう」
「でしょうね」
「みんなも来る。セリカちゃんも、アヤネちゃんも、ノノミちゃんも、シロコちゃんも」
「ええ」
「それじゃ、だめじゃん」
ホシノは笑った。
目を細めて、いつものように、だらしなく。
「みんなを守るためなのに、みんなが傷ついたら意味ないじゃん……」
黒服は何も言わない。
ホシノは、ゆっくり息を吐いた。
もう、戻れないところまで来ている気がした。
それでも心は揺れていた。
今すぐ立ち上がって、やっぱりやめたと言いたかった。
先生に相談したかった。みんなに怒られたかった。
向こうの私に「うへ〜、そっちに行っちゃだめだよ〜」と言われたかった。
でも。
アビドスの借金が半分になる。
その事実が、重かった。
ホシノは顔を上げる。
「……黒服」
「はい」
「ちゃんと約束、守るんだよね?」
「もちろんです。契約ですから」
「アビドスの借金を、半分にする」
「はい」
「みんなには、手を出さない」
「今回の契約内容においては、貴女の身柄と引き換えに借金を半分にする。少なくとも、その履行に関して虚偽はありません」
「言い方がやっぱり嫌だな」
「申し訳ありません」
「謝る気ないでしょ」
「ありません」
ホシノは少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
それから、ゆっくり立ち上がった。
椅子が小さく音を立てる。
この場所には、外の音がない。誰の声も届かない。
だから、ホシノの小さな息遣いだけが、やけにはっきり聞こえた。
「……分かったよ」
黒服が、静かにホシノを見る。
ホシノは笑った。
いつものように。
眠たげに何でもないことみたいに。
「おじさんで済むなら、安いもんだよね〜」
その声は軽かった。
軽くしようとしていた。
でも、指先は震えていた。
黒服は深く頭を下げる。
「賢明な判断です、小鳥遊ホシノさん」
「うへ〜。褒められても嬉しくないな〜」
「褒めているのではありません。評価しているのです」
「もっと嬉しくないね」
ホシノは肩をすくめる。
そして、最後に一度だけ、何もない空間を見た。
そこに、アビドスの皆がいるような気がした。
セリカが怒っている。
アヤネが泣きそうな顔で止めてくる。
ノノミが寂しそうに笑う。
シロコが黙って手を伸ばす。
先生が、真っ直ぐこっちを見ている。
臨戦おじさんが、困ったように笑っている。
ごめんね。
声には出さなかった。
出したら、きっと立てなくなる。
「じゃあさ」
「はい」
「借金のこと、ちゃんと頼むよ」
「契約はしっかりと履行されます」
「……そっか」
ホシノは、黒服の方へ一歩踏み出した。
それは、誰かに押された一歩ではなかった。
自分で選んでしまった一歩だった。
間違っていると、どこかで分かっていた。
それでも。
ホシノは、自分の未来に近い存在がいるから、自分がいなくなってもアビドスは大丈夫だと、そう思い込もうとした。
先生が見捨てない人だからこそ、先生が手を伸ばす前に自分が消えればいいと、そう信じ込もうとした。
黒服は静かに手を差し出す。
ホシノは、少しだけ笑って、その手を見た。
いつもの声で。
いつもの顔で。
小鳥遊ホシノは自分を差し出すことを選んでしまうのだった。
◆
柴関ラーメンでの騒動が、ひとまず形だけは収まった頃。
桐藤ナギサは、半壊した店の喧騒から少し離れた場所にいた。
先生たちはまだ、ヒナや便利屋68との話を続けている。
その輪の中には、臨戦ホシノとシロコテラーもいた。
ナギサは少し離れた位置から、その二人を見ていた。
ふざけているようで、盤面を見ている。
無茶をしているようで、必要な駒を確実に集めている。
風紀委員会。便利屋68。
そして、トリニティの自分。
あの二人は、それらを一度に交渉の場へ引きずり出した。
「……本当に、やってくれますね」
ナギサは小さく呟いた。
ならば、自分も動くべきだ。
アビドスが荒れる。
臨戦ホシノは、そう言った。
それが何を意味するのか、まだ確証はない。
けれど、アビドス砂漠には心当たりがある。
ビナー。
もし、あれが動くのだとすれば。
ナギサは端末を取り出した。
少しだけ画面を見つめたあと、ある番号へと連絡を入れる。
呼び出し音が数回。
やがて、明るい声が返ってきた。
『やっほー、ナギちゃん☆』
まるで、いつものお茶会に顔を出すような軽さだった。
ナギサは静かに目を細める。
「お久しぶりです、ミカさん」
『うんうん、久しぶりー。……で何の用?』
電話越しの声は、楽しげだった。
その言い方だけなら、友人からの電話に応じたようにも聞こえる。
ナギサは静かに答えた。
「少々、ミカさんの力を借りたい状況になりまして…」
『ナギちゃんが私に力を借りたいって言うの、珍しいね。今度は何? シスターフッド?救護騎士団?』
「違います」
『じゃあ壁でも壊すの?』
「違います」
『じゃあ誰かを殴るとか?』
「選択肢が物騒すぎませんか?」
ナギサは軽くため息を吐いた。
ミカは電話越しにけらけらと笑う。
『だって私を呼ぶ時点で、だいたいそういうことでしょ?』
「否定しきれないのが不本意ですね」
『で、今回は何?』
ナギサの表情が、少しだけ引き締まる。
「アビドスです」
『アビドス?』
「ええ。現在、先生はアビドスの問題に関わっています」
『へえ、先生がね~』
ミカの声が、少しだけ変わった。
軽さは残っている。
けれど、先生の名を聞いた瞬間、ほんのわずかに熱が入る。
『それで?』
「まだ確証はありません。ですが、近いうちにもう一波乱あると見ています」
『ふーん』
「アビドス砂漠に存在するビナー。あれが動く可能性があります」
少しの沈黙。
それから、ミカは軽く息を吐いた。
『なるほどねー。砂漠で大暴れコースかぁ…』
「その可能性が高いと判断しました」
『で、それに備えて私に声を掛けた訳?』
「そういう事です」
『ナギちゃんの割にはよく考えてるね☆』
ミカは一拍置いた。
『それで、他のメンバーは?』
ナギサは電話越しで不思議そうに首を傾げる。
「他のメンバー?」
『うん。ビナーでしょ? まさか私一人じゃないよね?』
「ミカさん一人ですが?」
『はぁ!?』
電話越しに、素っ頓狂な声が響いた。
『いやいやいや! いくら何でも一人は無理じゃんね!』
「そうでしょうか…?」
『そうだよ! マキちゃんは!?』
「居ませんが?」
『名刺は!?』
「ありませんよ」
『おせちは!?』
「ないです」
『焼き芋は!?』
「ロールケーキならありますよ?」
『何もないじゃん!』
「ミカさんがいます」
『私だけじゃん!』
ミカの声が、ほとんど悲鳴になる。
ナギサは真面目な顔のまま、ぐっと親指を立てた。
「大丈夫ですよ、ミカさん」
『何が?』
「貴女の強さなら、一人でも余裕ですよ!」
『無理に決まってるじゃん!!!』
ミカの叫びが、電話越しに響いた。
ナギサは少しだけ耳から端末を離す。
「もう少し声量を抑えていただけませんか」
『抑えられる状況じゃないよ!? ナギちゃん、私を何だと思ってるの!?』
「私の持つ手札の中の最強カード」
『雑!!』
「頼れる方だと思っていますよ?」
『今ちょっといい感じに言ったけど、実質丸投げじゃん!』
ナギサは何事もなかったように視線を遠くへ向けた。
「この計画が上手くいけば、ゲヘナに対して牽制出来るんですよ――」
『もしもーし、私の話聞いてる?』
「風紀委員会は今回の件で、先生とアビドスに対して強く出にくくなりました。そこに、トリニティ側も一定の戦力を動かせると示せば、今後の交渉において優位に――」
『ナギちゃん』
「なんですか?」
『黄昏てる場合じゃないよ?』
ナギサは少しだけ眉を動かした。
ミカは、どこか呆れたように言う。
『ナギちゃんはもう、ティーパーティーのポンコツ面白女枠なんだから、今さら悪だくみとか諦めなよ……』
静寂が広がった。そう言われたナギサの微笑みが、ぴしりと固まる。
「……ミカさん」
『ん?』
「今、何と?」
『ポンコツ面白女枠』
ナギサの頬が、ぷくっと膨らんだ。
普段の優雅な表情からは想像できない、分かりやすい不満顔だった。
「なんてことを言うんですか!?」
『え? 気づいてなかったの? でも事実は事実だからさ認めよ?』
「事実ではありません!」
『だって助っ人として私一人呼んで、ビナー相手に何とかしてって言ってるんだよ? これをポンコツと言わずして何て言うの?』
「戦略的判断です!」
『ポンコツ判断』
「略さないでください!」
ナギサは珍しく声を荒げた。
そして、つい口を滑らせる。
「ミカさんだって、裏切りクーデター女の癖に!!」
今度は、電話の向こうが静かになった。
一秒。
二秒。
そして。
『あーー!!』
ミカの大声が響いた。
『ナギちゃんが言っちゃいけないこと言ったーー!!』
「い、今のは……」
『言った! 完全に言った! 裏切りクーデター女って言った!』
「ミカさんが先に失礼なことを言うからです!」
『先生に言いつけてやるもんね!!』
「先生は関係ありません!」
『関係あるもん! 先生に「ナギちゃんがひどいこと言いましたー」って絶対言うから!!』
「でしたら私も言います。ミカさんが私のことをポンコツ面白女枠などと呼んだと!」
『それは事実だからいいじゃん!』
「よくありません!」
二人の言い合いは、ひどく子供っぽかった。
先ほどまで為政者の顔で計画を練っていたナギサも。
軽い調子で無茶振りに抗議していたミカも。
今はただ、いつもの調子で言い合う二人だった。
やがてミカが、ふっと笑う。
『でもさ』
「何ですか」
『ナギちゃん、結構焦ってるんだね』
ナギサは口を閉じた。
ミカの声が、ほんの少し柔らかくなる。
『先生とアビドス、そんなに危ないの?』
「……可能性の話です」
『ナギちゃんが可能性だけで私を呼ぶ?』
「必要経費です」
『あ、これお金かかるやつなんだ』
「まったく問題ありません」
『うわ、流石ナギちゃん。略してさすナギ』
「褒めていますか?」
『半分くらい』
ナギサは小さく息を吐いた。
「先生には、まだ話していません」
『だろうね。先生が知ってたら止めそうだし』
「後ほど説明します」
『後ほどって便利な言葉だよねー』
ミカは少しだけ笑った。
『ま、いいよ。呼ばれたらできる範囲で頑張ってみるよ』
「ありがとうございます」
『ただし』
「はい」
『ビナー相手に私一人で突っ込ませるのは本当にやめてね?』
「…善処します」
『それ、やる人の返事じゃん!』
ナギサは涼しい顔で微笑んだ。
「大丈夫です。ミカさんなら出来ます。私はそう信じています」
『ナギちゃん、私への信頼が雑すぎる!』
「信頼していますよ」
『もー!』
「では、すごく信頼しています」
『言い直してもだめ!』
また少しだけ言い合ってから、ミカはふと思い出したように言った。
『それで? どうやって私をそっちに呼ぶの?』
ナギサは、穏やかに答えた。
「助っ人機能を使います」