とある日の朝、アビドス高等学校の対策委員会が普段使っている部屋では、いつもと変わらない朝が始まる――はずだった。
ところが、机に座って端末を確認していたアヤネは、一通の通知を開いた瞬間から完全にその動きを止めていた。
「え?」
何度読み返しても、表示されている内容は変わらない。
送信元はカイザーローンからであり、内容はアビドスが抱えている債権の譲渡通知だった。
つまり、長年自分たちを苦しめ続けてきた借金が、カイザーの手から別の誰かへ渡ったということだった。
「アヤネちゃん?」
いつまでも端末を見つめたまま動かないアヤネを不思議に思い、最初にノノミが後ろから覗き込んだ。
「何かあったんですか?」
「…………」
だが返事が返ってくることは無かった。
「アヤネ?」
今度はシロコも近づいてくる。
「ちょっと、さっきからどうしたのよ?」
さらにセリカまで机の横へ回り込み、最後には現地ホシノまでのんびりと歩いてきた。
「アヤネちゃ~ん? そんな鳩が豆鉄砲くらったような顔しちゃうような内容だったの~?」
全員の視線が集まったところでようやくアヤネは、ぎこちなく顔を上げた。
「……アビドスの債権が……カイザーローンから……売却されました」
その一言で、部屋の空気が一気に変わった。
アビドスが背負ってきた借金は、残り四億五千万円ほど。
それが別の誰かへ渡るということは、借金そのものが消えるわけではない。
むしろ、新しい債権者がどんな人物なのか分からない分、状況が悪化する可能性すらある。
「相手は?」
シロコがすぐに尋ねると。アヤネは端末へ視線を戻し、何度見ても理解できない名前をもう一度確認してから、恐る恐る口を開いた。
「それが……新しい債権者は、元カイザーPMCの理事長です」
誰もアヤネの言葉に対してすぐには反応できなかった。
聞き間違いかと思ったのか、セリカが目を瞬かせる。
ノノミも笑顔のまま固まり、シロコは珍しく僅かに眉を動かした。
「……は?」
ようやくセリカの声が響いた。
「いやいやいやいや! 何でよりにもよってあいつなのよ!?」
「私にも分かりません!」
「確かクビになってから先生のところにいるよね?」
シロコが冷静に指摘する。
「そうです! ですから余計に意味が分からないんです!」
「だったら、先生に聞けばいい」
あまりにも単純な結論だったが、アヤネはすぐに頷く。
「それしかありませんね!」
「ん~……」
一方で現地ホシノだけは、机へ頬杖をつきながら少しだけ複雑そうな顔をしていた。
カイザーPMCの元理事とアビドスの債権。その二つが繋がっている時点で何となく嫌な予感がした。
「とりあえず、先生に連絡してみよっかぁ」
◆
「もしもし~、こちら連邦捜査部シャーレの―――」
『先生!』
「うわっ!」
朝のシャーレで、いつものようにコーヒーを飲みながら一日の予定を確認していた先生は、受話口から飛び出してきたアヤネの大声に驚き、反射的に端末を耳から少し離した。
「アヤネ? どうしたの?」
『今すぐアビドスに来てください!』
「え!? 何かあったの!?」
『大変な事がありました!』
普段から真面目なアヤネがここまで声を荒らげるのは珍しい。冗談でも軽い用件でもないと察した先生は、さっきまでの呑気な表情をすぐに引っ込めた。
「分かった。すぐ行くよ!」
『それと! 元理事さんも絶対に連れてきてください!!』
「え?」
『絶対連れて来てくださいね!』
「な、なんで…?」
その一言を聞いた瞬間、先生の動きがぴたりと止まった。
何故そこで元理事の名前が出てくるのか。疑問に思いながら、先生はゆっくりと視線だけを横へ動かした。
少し離れたテーブルでは、その張本人が何食わぬ顔で新聞を読んでいる。つい先ほどまで本当に何も知らない人物にしか見えなかったのだが、電話口から名前が出た瞬間から、妙に怪しく見えてきた。
先生がジト目でジロジロ見ていると、元理事も新聞越しにこちらに気が付いたのか不意に目が合う。
「元理事」
「何だ?」
「アビドスの子達が名指しで呼んでるんだけど何か知ってる?」
「…………」
そう聞いた瞬間、元理事は自然な動作で新聞を静かに畳んだ。慌てるでもなく騒ぐでもなく、まるで今ちょうど思い出した予定でもあるかのように椅子から立ち上がる。
「すまない先生、私は少し急用を思い出したから今日は失礼する」
先生も元理事を逃がさない様にほぼ同時に立ち上がった。
「待って!」
「待たない、急ぎの用事だ」
「どこ行くの?」
「……外回りだ」
「何しに?」
「……私用だ」
「逃げる気だ!」
「……違う!」
「絶対逃げる気だよね!?」
先生が追いかけ始めると、元理事の歩く速度も目に見えて速くなった。
いつもなら先生が何かしら面倒事を拾ってきて、元理事が額を押さえながら後始末をする側だ。それが今日は完全に逆。逃げようとする元理事を先生が追いかけるという、実に珍しい構図になっていた。
「待って待って!」
「先生、離れろ!」
「嫌だ!」
廊下へ逃げ込もうとした元理事の片足を、先生がどうにか掴む。
「何をする!」
「元理事が逃げるから!」
「逃げていない!」
「じゃあ一緒にアビドス行こう!」
「……断る」
「絶対何かあるじゃん!」
「私が、今更アビドスなんて辺鄙な所に呼び出される筋合いなどない!」
「でも名指しされてるんだって!!」
「どうせ人違いだろう!」
「元カイザーPMC理事がシャーレに何人いると思ってるの!?」
「……っ!」
どう考えても誤魔化しようのない指摘を受け、元理事が一瞬言葉に詰まる。
そんな朝からの騒ぎを聞きつけたのか、廊下の向こうからユメが顔を出した。
「朝から何してるの~?」
その後ろからは臨戦ホシノまで現れ、さらに少し遅れてシロコテラーも無言でついてくる。
「朝から賑やかだねぇ」
「元理事が逃げようとしてるから捕まえてるんだよ!」
先生が即座に告げ口する。
「逃げてなどいない!」
「どうして逃げるんですか?」
ユメが純粋な疑問をぶつける。そのあまりに真っ直ぐな質問が、かえって元理事の逃げ道を潰していた。
「だから逃げていないと言っているだろう! 用事で席を外すだけだ!」
「いやぁ~、これは怪しいなぁ~。またなんか悪だくみでも始めたのかなぁ~?」
臨戦ホシノは状況を見ただけで大体察したらしく、揶揄うようにニヤニヤした顔で絡んでくる。
「黙れ!」
「ん。連行」
シロコテラーまで短くそう告げて、先生側へ回った。
「複数なんて卑怯だぞ……!? プライドは無いのか、プライドは!?」
「ん。それは今売り切れ」
元理事はそこでようやく理解した。この場に、自分の味方は一人もいない。
結局そのまま先生たちに囲まれ、ほとんど犯罪者を護送するような扱いでアビドスへ連れて行かれることになった。
◆
アビドス高等学校の一室の中央には、一脚の椅子が置かれていた。そこにロープでグルグル巻きにされ座らされていたのは元理事だった。
正面にはアヤネ、ノノミ、セリカ、シロコ、現地ホシノ。
横には先生、ユメ、臨戦ホシノ、シロコテラー。
元理事がいくら逃げようと思っても、人数的にも状況的にも戦力的にも逃げ道など最初から存在しない。
「ではこの書類について説明していただけますか?」
アヤネが手元の書類を机へ置いた。
口調こそ丁寧だったが、その声には今日は絶対に誤魔化させませんという意思がはっきり滲んでいる。
「…………」
元理事は黙ったまま動かない。
「元理事、そろそろ観念しなよ」
先生が促す。
「そうだそうだ~」
臨戦ホシノまで楽しそうに続ける。
「ん」
シロコテラーも短く同意し、ユメだけはオロオロしながら未だに何が起きたのかよくわかっていない顔をしていた。
元理事はしばらく天井を見上げていたが、やがて諦めたように深く息を吐いた。
「帰っていいか?」
「「「駄目です」」」
返事はほぼ同時だった。
「ハァ……」
もう一度、今度は先ほどよりさらに深い溜息をしてからぶっきらぼうに語り始めた。
「カイザーが、アビドスの債権を売却しようとしていたから買った。ただそれだけの話だ」
全員が続きを待つのだが、元理事はそれ以上話すつもりがないらしい。
「短っ!?」
真っ先にセリカが立ち上がった。
「ちょっと待って! 買ったって軽く言ったけど四億五千万円よ!?」
「知っている」
「知っているじゃないわよ!」
元理事は本当にそれだけで説明を終えるつもりらしい。
だが当然、それで納得する者など一人もいなかった。
「それだけではありません」
今度はアヤネが書類へ視線を落とす。
「買い取った後、すぐに債権放棄までしていますよね?」
元理事にとって一番触れられたくない話に進んで行くのを苦い顔で耐えるしかなかった。
ノノミが、まだ完全には信じ切れていないような顔で尋ねる。
「つまり、私たちの借金は……」
ほんの少しだけ言葉を詰まらせる。
「……無くなったって事ですか?」
「…………」
元理事はしばらく何も答えなかった。
ただ、ここまで知られてしまえばもう誤魔化しようがない。やがて視線を僅かに逸らしながら、小さく答えた。
「そういうことになる」
部屋の中が静まり返った。
四億五千万円。
これまでずっとアビドスを縛ってきた数字。
それが昨日まで存在していたのに今はもう、ない。
「え」
セリカが半信半疑のまま、もう一度聞き返す。
「本当に?」
「何度言わせる気だ?」
「本当に借金が消えたの?」
「そうだ」
「全部?」
「そうだ」
「…………」
セリカは数秒固まった後、両手で頭を抱えた。
「何で!?」
「うるさい」
「普通聞くでしょ!?」
アヤネも同じ気持ちらしく、困惑した表情で元理事を見る。
「どうしてあなたがそこまで……」
「特に理由などない」
「ありますよ!」
「無い!」
「四億五千万円ですよ!?」
どう考えてもちょっと気になったから払ったで済む金額ではない。
そのやり取りを聞いていた先生も、ふと別の疑問が湧いた。
「元理事」
「今度は先生か」
「そんなお金持ってたの?」
「私の個人的な金だ。シャーレの金は使ってないぞ」
「いや、それはそうだけどさ」
元理事が今回使った資金は、カイザーPMCの理事だった頃に蓄えた貯金だけではない。
シャーレで働くようになってから受け取ってきた給料。
募集生徒たちから何故か頼まれることの多かった、表では到底説明できない資金洗浄の報酬。
さらに、未来から来た生徒たちが雑談の中でぽろりと漏らしてしまう企業動向や商品情報、市場の変化。それらを参考にして増やしてきた、インサイダー取引モドキで得た資金。
そうして長い時間をかけて積み上げてきた資産の、ほとんど全てを今回使っていた。
元理事からすれば、ただ勢いで買ったわけではない。
自分の逃げ道や再起のために残しておいた金も、いつかカイザーへ何らかの形で報復するために使えるかもしれない資金も全部まとめて手放した形。
「…………」
そのことを詳しく知らないアヤネにも、少なくとも簡単に出せる金ではなかったということだけは伝わったらしい。
先ほどまでの追及するような勢いが少し消える。
「どうして……」
今度は、少しだけ声を落として尋ねた。
「どうして、そこまでしてくれたんですか?」
元理事はすぐには答えなかった。
目の前にいるアビドスの生徒たちへ視線を向ける。
かつて自分たちカイザーが何度も追い詰めた相手。
借金を利用して土地を奪おうとし学校そのものを終わらせようとした。
あの頃なら、それを当然のように事業と呼んでいただろう。
「…………」
次に視線を向けたのは彼女たちの隣にいた先生だった。
誰かが困っているなら、自分には直接関係がなくても首を突っ込む。
助けたところで得にならなくても。相手が自分へ敵意を向けていても。それでも手を差し伸べる。
そんな愚かな男の在り方を、元理事は誰より近い場所で長いこと見続けてきた。
やがて小さく息を吐くと、諦めたようにあの時の夜に一人で呟いたものと同じ言葉を口にした。
「……自分で蒔いた種を自分で刈り取っただけのことだ。それ以上でも、それ以下でもない」
元理事としては、本当にそれだけだった。
過去を無かったことにするつもりはない。
一つ善行をしたからといって、自分が善人になったとも思っていない。
ただ、自分が関わって生まれた問題なら、自分の手で始末する。
悪党なりに筋を通したそれだけの話だった。
「元理事……」
先生の顔が、ゆっくりと緩んでいく。
「何だそのムカツク顔は」
「いやぁ~?」
「今すぐその顔をやめろ!」
ユメは感動したように両手を合わせた。
「元理事さんって優しい人なんですね!」
「違う!!」
臨戦ホシノも完全に面白がっている。
「いやぁ~、おじさん感動しちゃったなぁ~」
「黙れ」
シロコテラーが静かに呟く。
「ん、ツンデレ」
「誰がだ!?」
「ツンデレおじさん……」
先生までつられて小声で口にする。
「殺すぞ…?」
「ご、ごめんなさい」
元理事の迫力に先生は即座に謝った。
さっきまでの重い空気が少しずつ崩れ、対策委員会室の中に自然と笑い声が広がっていく。
元理事としては、まさに最悪だった。
誰にも言わず、誰にも知られず、勝手に自分の責任を取って終わらせるつもりだったのに。
蓋を開けてみれば。先生たちの前で全部説明させられあげくに感謝され。
あろうことかツンデレ扱いまでされている。本人からすれば、これ以上ない公開処刑だった。
そんな中、現地ホシノだけが少し真面目な声で呼んだ。
「……元理事」
「何だ?」
普段通りの気の抜けた表情では無く真剣な表情でその目だけは真っ直ぐ元理事を見ている。
「助けてくれて、ありがとう」
「…………」
元理事は少しだけ目を細めた後、窓の外へ視線を逸らす。
「礼を言われたくてやったわけじゃない」
「そっかぁ」
現地ホシノは少しだけ笑った。
「じゃあ勝手に言っとくね!」
「好きにしろ」
それだけ答え、元理事はもう何も言わなかった。
ただほんの少しだけ窓の外を見る横顔が、前より穏やかになっていた。
◆
その頃、外の世界で何が起きているのかをまだ正確に把握していない地下生活者が、自分の思い描いた盤面を眺めていた。
「…………」
全ては、予定通りに動き始めるはずだった。
カイザーグループがアビドス高等学校の債権を市場へ流す。
そこへ新たな思惑を持つ者が入り込み。
借金を巡って状況が揺れ。その混乱の中で、小鳥遊ホシノも先生も、自分の望む方向へ少しずつ追い込まれていく。
それが最初の一手だった。
大きな物語を動かすための、ほんの小さな始まり。
だから地下生活者は、特に焦ることもなく、新たに入ってきた情報を確認した。
「…………」
債権の売却、ここまでは問題ない、むしろ予定通り。
次に表示されたのは、その債権を取得した人物。
元カイザーPMC理事。
「誰だこいつは!?」
地下生活者の視線が、そこでほんの少しだけ止まる。
想定していた相手ではない。
だがまだ誤差の範囲。取得者が変わったくらいなら、その後の盤面へ多少影響が出る程度でしかない。
そう考えながら次の情報へ目を移すとそこに映っていたのは債権の放棄という爆弾級の情報だった。
「はぁーー!?」
地下生活者の動きが止まった。
しばらく何も言わずに情報を見つめる。
念のため、もう一度確認する。
間違いない。長い間アビドスを縛っていた借金の債権はもう存在しない。
「こんな訳の分からない奴に小生の計画が邪魔されるなんてことあっていいのか!?」
地下生活者は盤面へ視線を戻した。
本来ならここから動くはずだった駒。
そこから生まれるはずだった思惑。
それらを起こすための前提そのものが、最初の一手を打つ前に消えている。
「…………」
地下生活者はしばらく盤面を睨みつけていた。
何度見返したところで結果は変わらない。カイザーローンがアビドスの債権を売却したところまでは、確かに自分が想定していた流れだった。
そこから債権を巡る争いが生まれ、アビドスを取り巻く環境はさらに混迷し、先生も小鳥遊ホシノも嫌でもその騒動へ巻き込まれていく。
そのために必要な火種だったのに。
それを、どこの誰とも知れないもう終わった駒が現れ、四億五千万円もの金を突然叩きつけた挙げ句、手に入れた債権をその場で握り潰した。
理解できない。金銭的な利益を求めるなら分かる。
アビドスの土地を狙っているなら分かる。
債権を利用して何かを要求するのなら立派な盤上の一手として利用できたのに。
だが、こいつは四億五千万円もの大金を支払い、その権利を何にも使わず捨てるという暴挙によって初っ端から破綻してしまった。
「理解できない……!!」
地下生活者は眉間を押さえた。
「金持ちの道楽か? 先生に恩を売りたいのか? それとも小生の知らぬところで何か別の計画でも……」
必死に考える。しかし答えは出ない。
まさか元理事本人が、先生たちに知られることすら想定せず、単純に過去の責任を取るためだけにほぼ全財産を投げ捨てたなどと、この男が思いつけるはずもなかった。
地下生活者にとって人間とは、盤面の上で利益や欲望によって動く駒だった。
だからこそ何の見返りも求めず、自分だけが損をする選択をした元理事の行動は、まるで理解の外側にあった。
「小生が……」
やがて地下生活者の身体が小刻みに震え始めた。
握っていた駒へ力が入る。
「小生がどれほど時間をかけて、この盤面を整えたと思っているのだ……!?」
ミシッ。
手の中で駒が軋む。
「それを、どこの馬の骨とも知れない奴が……!」
バキッ。
とうとう駒が砕けた。
「ふざけるなぁぁぁぁぁぁ!!」
怒声が地下空間へ響き渡る。
机へ拳を叩きつけ、並べられていたいくつかの駒が跳ね上がった。
「開始早々! 小生がまだ何もしていないのに邪魔してくれやがって!!」
誰もいない空間へ向かって叫ぶが、もちろん誰も答えない。だから余計に腹が立つ。
地下生活者は荒々しく椅子へ座り直すと、苛立ちを隠そうともせず新しい駒を盤上へ置いた。
「……いいでしょう」
乱れた呼吸を整える。
「最初から全てが予定通り進むとは、小生も思っていません」
強がりだった。先ほどまで予定通り進むと思っていた。
「借金が消えた程度で、計画そのものが崩壊したわけではない!」
これも半分ほど強がりだった。
かなり重要な導線がいきなり消えた。
「多少の修正など、盤上遊戯には付き物です。そう、これはほんの少し予定が狂っただけ……」
自分へ言い聞かせるように何度も頷く。
「ならば別の手段を取ればいい」
地下生活者の視線が、盤面の中央に置かれていた先生を模した駒へ向いた。
「…………」
元を辿れば全ての中心にいるのは、この男だ。
「……先生」
地下生活者は先生を模した駒を手に取った。
先ほどまで怒り狂っていた表情が、ゆっくりと不気味な笑みに変わっていった。
「ならば、盤面そのものではなく」
指先で先生の駒を摘まみ上げる。
「盤上へ余計な手を伸ばす者を先に排除してしまえばいい」
極めて単純な発想だった。
債権を使った絡め手が潰されたのなら、次はもっと直接的な方法を取ればいい。
先生がアビドスへ関われなくなれば、後は再び修正すればいい。
「そうでしょう?」
地下生活者は楽しそうに笑いながら、盤面の端へ別の駒をいくつか並べ始めた。
「少々趣には欠けますが……最初の一手を台無しにされたのです。小生だって腹くらい立てますよ」
視線の先。浮かび上がったのは、連邦捜査部シャーレ。
「先生を盤上から直接取り除く」
これまでのような遠回しな誘導でもない。
精神を揺さぶる仕掛けでもない。
先生自身へ、直接牙を向ける。
「先生そのものを吹き飛ばしてしまえばいい」
実に乱暴な発想だった。
だが地下生活者は、その結論へ至ったことでようやく溜飲が下がったらしい。
「これならば、あの元理事とやらが何をしようと関係ありません」
先生を失えば生徒たちは混乱するだろう。シャーレという権力も機能を失う。
そうなれば盤面を立て直す余裕も生まれる。
少なくとも地下生活者はそう考えた。
「ふふ……」
機嫌を取り戻したように笑いながら、先生の駒を盤面中央へ戻す。
「先ほどは少々取り乱しましたが、これでよいのです」
そしてその周囲を取り囲むようにいくつもの黒い駒を置いていく。
「先生」
口元が大きく歪む。
「人の盤面へ無遠慮に手を伸ばした報いくらいは、受けてもらいましょう」
今度こそ邪魔は入らない。
今度こそ自分の想定通りに進む。
そう信じながら。
「さて……」
地下生活者は満足そうにシャーレを示す駒を見下ろした。
「派手にいきましょうか」
――なお。
そのシャーレに現在どれだけの戦力が常駐しているのか。
つい先日、そこで行われた配信がキヴォトス中へどれほどの衝撃を与えたのか。
そして何より自分がこれから手を出そうとしている建物の中に、どんな生徒たちが当たり前のように生活しているのか。
地下生活者は何一つ知らなかった。