アビドスの債権を利用した計画が、開始するよりも先に消滅してから数日。
地下生活者は、未だにその事実を完全には消化し切れていなかった。
「…………」
薄暗い空間の中央に置かれた盤面を睨みながら、地下生活者は何度目か分からない溜息を吐く。
自分が想定していた物語の中には存在していなかった人物が全部滅茶苦茶にした。
本来ならアビドスを揺さぶる最初の火種になるはずだった借金問題は、ほとんど何の騒動にも発展しないまま消えてしまったのだ。
「……何度考えても意味が分からん!」
理解不能。その一言に尽きた。とはいえ、一度失敗した程度で計画そのものを放棄するつもりはない。地下生活者は先生を模した駒を指先で摘み上げると、盤面の中央へ静かに置き直した。
「ならば、次はもっと単純に考えれば良いだけのこと」
アビドスを揺さぶり、小鳥遊ホシノを追い詰める。
それらは後からでも出来る。その前にその全てへ必ず首を突っ込んでくる目障りな駒を盤面から降ろさなければ。
「先生さえ盤面から退場してしまえば、後はいくらでも修正できます」
地下生活者の口元に、少しずつ笑みが戻っていく。
標的は連邦捜査部シャーレ。
だが、正面から襲撃するような愚かな真似をするつもりはない。
先生の周辺には多くの生徒が集まり、シャーレにも常に誰かしらが出入りしている。下手に刺客でも送り込めば、目的を果たす前に捕まる可能性が高い。
ならば。誰も侵入しない。誰も先生へ直接手を下さない。
単なる設備事故にしか見えない形で命を奪えばいい。
「事故とは、実に便利なものですからねぇ」
地下生活者が指先を僅かに動かした。遥か遠く離れたシャーレ内部で普段なら誰も意識しない設備の一部が、ほんの僅かに変化する。
厨房周辺へ繋がる設備が目立たない程度に少しずつ、そして誰にも気付かれないまま、危険な状態へ変化していく。
「これなら警備をどれだけ厳しくしたところで関係ありません」
地下生活者は満足そうに腕を組んだ。
「人が侵入するわけでもない。怪しい荷物が運び込まれるわけでもない。建物そのものが牙を剥くなど、そう簡単には気付けないでしょう」
完璧だった。
少なくとも地下生活者本人は、そう思っていた。
◆
その日の朝。
「ん~、今日は何にしましょうかね~」
まだシャーレ全体が本格的に動き始める前の時間帯。朝食当番を引き受けていたニコは、冷蔵庫の中を覗き込みながら今日の献立を考えていた。
最近のシャーレは以前にも増して人数が多い。
募集で来た生徒達と居候している生徒達。
遊びに来て、そのまま朝食まで食べていく生徒。
毎朝人数を正確に数えて作ろうとすると頭が痛くなるので、最近では最初から少し多めに用意するのが当たり前になっていた。
「和食でもいいですけど~、先生は昨日遅くまで仕事してたみたいですし……少し重めでも大丈夫ですかね~」
そんなことを呟きながら、ニコはいつものようにコンロ周りへ向かった。
「……あれ?」
そこで手が止まる、何かがおかしい。
目立って壊れているわけではない。
異臭がするわけでもない。
ただ、普段何度も使っているからこそ分かる、ほんの僅かな違和感があった。
「昨日最後に使った人、ちゃんと確認しなかったんですかね~?」
ニコは特に深く考えることもなく、慣れた手つきで設備を確認していく。
「ああ、ここですね~」
小さく頷き、そのまま元の状態へ戻す。
「危ない危ない。こういうのはちゃんとしておかないと駄目ですね」
それだけだった。
そして何事もなかったように、ニコは朝食作りを始める。
キッチンには、やがて温かな料理の匂いが広がっていった。
一方で地下生活者は、自分の仕掛けが数分と持たずに消えていることに気付いていた。
「…………」
地下生活者は何度か目を瞬かせた。
「ヒヒヒヒ……偶然とは恐ろしいですね。時として小生にまで牙をむくのですから」
そういうことにした。
シャーレなのだから、朝から厨房を使う者が一人くらいいてもおかしくない。
そして偶然設備の異常に気付いた、ただそれだけの事だ。
「次は問題ありません」
まだ余裕だった。
◆
お昼になり。
「フッフッフ……!」
キッチンには朝とは違う、妙に自信満々な声が響いていた。
エプロンを身につけたアルが、腕を組みながら食材を前に立っている。
「今日はこの私、自ら、シャーレの皆に便利屋68の実力を知らしめる昼食を作ってあげるわ!」
「社長、昨日安売りしていた食材しか残ってないっぽいけど」
「カヨコ! それは言わなくていいの!」
隣から飛んできた正直すぎる言葉に、アルは慌てて振り返る。
ムツキはそれを見て笑い、ハルカはいつものように少し離れた場所から静かに眺めていた。
「値段なんて関係ないのよ! 安い食材でも最高の料理へ仕上げるのが、一流の料理人というものなの!!」
「流石ですアル様!」
「そうでしょう!」
「うちって便利屋だよね? いつから定食屋になったの?」
「さぁ~ね♪」
そんなカヨコとムツキの会話など聞き流しながら、すっかり気分を良くしたアルは、意気揚々とコンロへ向かった。
「……あら?」
そこで眉をひそめる。
「どうしたの、アルちゃん?」
ムツキが横から覗き込んだ。
「いや……ここ、何か変じゃない?」
「ん~? あれ、こんなだったっけ?」
ムツキと共にアルも首を傾げていたがすぐに解決策を思いついた。
「まあいいわ! 分からないなら、いつもの状態に直してから使えばいいのよ!」
「それでいいのかな?」
「こういう設備は、使い終わったらきちんと元に戻しておくのが常識なの。まったく、シャーレには困った人もいるのね」
そう言いながら、アルは手早く元の状態へ直していく。
その様子を見ていたカヨコが小さく呟いた。
「……社長がそれ言うんだ」
「何か言った!?」
「流石一流のシェフは意識高いなって言ってた」
「ふふふ…そうでしょう!って誰がシェフよ!!?」
そんなやり取りをしながらも何事もなく昼食作りが始まった。
「…………は?」
地下生活者はまた消えた仕掛けを見つめていた。
今回は二分弱は持った。
苛立ちからかピクピクと眉が動いた。
「またか……?」
とはいえ、まだ二回だ。
「偶然が二度続くことくらい……」
自分へ言い聞かせる。
「次こそ問題ありません」
ほんの少し声が低くなっていた。
◆
午後。
「これなら先生も少しは休憩してくださるでしょう」
ナギサは焼き上がったお菓子の出来を確認しながら、満足そうに頷いた。
最近の先生は、ただでさえ多かった仕事に加えて次から次へと新しい生徒を拾い、その度に自分の仕事まで増やしている。
本人に休んでくださいと言っても、適当な返事をして働き続けるのは既に分かっている。
ならば強制的に休憩させるしかない。
紅茶にお菓子。そして食べ終わるまで仕事禁止と言えばいいだけ。
「……完璧ですね」
自分で立てた計画に満足しながら、次の作業へ移ろうとしたところで。
ナギサの視線が、不自然な位置で止まった。
「これは……?」
キッチンの設備にどこか違和感を感じる。
しばらく確認した後、ナギサの眉が僅かに寄った。
「誰ですか、こんな状態にしたのは?」
危険なほど大きな異常ではない。
だが、この状態のまま使うのは気分が良くない。
「最近シャーレへ出入りする方も増えましたし、設備の使用方法を一度まとめて掲示した方が良いかもしれませんね」
そんなことを考えながら、ナギサは丁寧に元の状態へ戻していく。
一分ほど後。
「…………」
地下生活者は、再び消えた仕掛けを前にして固まっていた。
「三回連続で……?」
流石におかしい。
「…………」
だが地下生活者は首を振った。
「いや」
偶然だ。そうまだ偶然で説明出来る範囲だ。
「二度ある事は…と言う奴ですね…」
地下生活者は自分の平静を保つためにもそう結論付けた。
◆
夕方になり。
「ハァ、なんで私が……」
一人で愚痴りながらアザミがシャーレのキッチンへ入ってきた。
今日の夕食当番。もっとも、誰かに頼まれたというより、自分が食べたい料理を自分で作ろうとした結果、ついでに他の者の分まで作ることになっただけだった。
「まぁいいでしょう。今日はガッツリしたやつにしますかね~」
冷蔵庫から食材を取り出し、鼻歌交じりでコンロへ向かう。
「ん?」
そこでアザミの動きが止まった。
少し目を細める。
「誰ですか? こんな雑なことしたのは?」
大した事ではないが放置も出来ない。
「まったく……。エビス地区で同じことをしたら黄昏行きですよ~っと」
呆れたように呟きながら、アザミは慣れた手つきで設備を元へ戻した。
その間地下生活者はほとんどリアルタイムで自分の仕掛けが解除されていく様子を見ていた。
「…………」
地下生活者の肩が僅かに震え始める。
「何故です……?」
声が低くなる。
「何故、小生が仕掛けた直後に厨房へ誰かが来るんだ!!?」
しかも全員別人で、時間帯もバラしたのにどうして。
地下生活者は自分へ言い聞かせるように盤面を見つめた。
「まだ……まだ夜があります」
夜中なら流石に厨房を使う者はいない。
「次こそ」
地下生活者はそう信じた。
◆
深夜。
「ふぅ~……」
誰もいないキッチンへテスが一人大きな容器を抱えながら入ってきた。
中に入っているのは山盛りの太麺、大量の野菜、背脂に分厚いチャーシュー。
見るだけで胃もたれしそうな大盛りのラーメン。
「やっぱり夜中に食べるラーメンって美味しいんだよねぇ~」
健康という言葉をどこかへ置き忘れたようなことを言いながら、テスは容器を温めようとレンジへ手を伸ばした。
「……ん?」
そこで何となく違う。
テスは少し首を傾げる。
「まあ、危ないし直しとくか!」
本当に深い意味などない。
普段と違っていたから元へ戻した。それだけだった。
「よーし」
ラーメンを温め始める。
「…………オイ!」
地下生活者は自分の仕掛けが再び消えたことを確認した。
静かに椅子から立ち上がる。
「何なんだあの建物はぁぁぁぁぁぁ!!?」
絶叫が地下空間へ響き渡った。
「何故朝から晩まで誰かが料理しているのです!?」
机へ拳を叩きつける。
「一人くらい気付かず使えよ!! 一人くらい放置しろ!!」
当然返事は返ってこない。
「小生が仕掛けてから二分すら持たないではありませんか!!」
怒りに任せて頭を抱える。
計画を邪魔する者たちに、共通点などほとんどない。
それが、何より腹立たしい。
「クソが!!」
しばらく怒りに震えていた地下生活者だったが、やがて落ち着いたのか冷静になる。
「……いいでしょう」
ゆっくりと顔を上げた。
「そこまで小生の邪魔をするのであれば」
厨房を経由して少しずつ仕掛けようとするから、誰かに気付かれる。
なら誰も料理をしていない時間帯に誰もいない場所へ干渉する事にした。
「次は先生の執務室そのものを狙います」
深夜。
シャーレの人間の多くが寝静まる時間。
先生が一人になった瞬間その場所へ一気に仕掛ける。
「今度こそ」
地下生活者の表情にようやく笑みが戻った。
「誰にも邪魔はさせません」
◆
臨戦ホシノとシロコテラーの二人は数日前からある違和感を感じていた。
「……そろそろだったと思うんだよねぇ」
夜のシャーレで建物の周囲を見回りながら、臨戦ホシノは小さく息を吐く。
「ん」
その隣ではシロコテラーも周囲へ注意を向けながら歩いていた。
「あの引きこもりが動き始める時期」
「そうだね」
二人とも、この先に起こることを全て知っているわけではない。
未来を経験したと言っても、その時に知ることが出来た情報には限界がある。
先生の周辺で不可解な出来事が起きたこと。そしてシャーレで爆発があったこと。
そして、その裏に地下生活者が関わっていた可能性が高いこと。そこまでは分かる。
しかし肝心のどうやって爆発を起こしたのか。どこから仕掛けたのか。いつ何をしたのか。
そこまでは二人もわからなかった。
「不審者は?」
「来てない」
「怪しい荷物も?」
「確認したけど問題なし」
「ん~……」
臨戦ホシノは腕を組みながら考え込む。
「何か見落としてるのかなぁ?」
「可能性はある」
「だよねぇ~」
だから二人はここ数日に渡って夜も、早朝も、交代しながらシャーレの周辺を警戒していた。
出入口に屋上。先生の執務室の近くに怪しい人物がいないか、不自然な荷物が運ばれていないか。
何度も確認したが何も起こらない。少なくとも目に見える形では平和な日々だった。
「……ふぁ~」
臨戦ホシノが小さく欠伸をした。
「眠い?」
「ちょっとねぇ」
「休んでてもいいよ」
「シロコちゃんも昨日ほとんど寝てないでしょ?」
「ん。問題ない」
「今のおじさんが言っても説得力ないけど無理しちゃだめだよぉ~」
「ホシノ先輩も同じ」
「そうなんだよねぇ」
流石の二人も何日も何も起きない場所を警戒し続けるというのは、想像以上に精神を削る。
眠っている間に何か起きるかもしれない。目を離した瞬間に先生が危険に晒されるかもしれない。
そんな緊張が続けば疲労が溜まるのは当然だった。
そしてなんとも間が悪いことに地下生活者の思考誘導がほんの少しだけ入り込む。
無理やり眠らせるほど強引なものではない。ただ元からある疲労をほんの少し大きく感じさせる。
――今日は何も起きない。
――ここ数日も何もなかった。
――少しくらい休んでも問題ない。
そう思わせるだけ。
「……ん~」
臨戦ホシノは大きな欠伸を噛み殺しながら休憩スペースのソファへ腰を下ろした。ここ数日、昼夜を問わずシャーレの周囲を警戒し続けていたせいで、身体には本人が思っている以上に疲労が溜まっている。
「十分だけ休もうかなぁ」
「ん」
シロコテラーはそんなホシノを見ながら、近くの椅子へ腰を下ろした。
「私が見てる」
「じゃあお願いねぇ」
「任せて」
そう答えた時点では、シロコテラー自身も本当にそのつもりだった。
だが臨戦ホシノがソファへ身体を預けてから数分も経たないうちに、その呼吸はゆっくりと規則正しいものへ変わっていった。何日も警戒を続けながらまともに眠れていなかったのだから、それも当然だった。
「…………」
シロコテラーは眠ってしまったホシノを一度だけ確認してから、再び周囲へ意識を戻した。
ここ数日と同じ、何も起こらない夜。
「…………」
しばらくすると、シロコテラー自身も瞼が少しずつ重くなっていくのを感じ始めた。
「……ん」
一度目を擦り、意識を保とうとするのだが、眠気はなかなか消えない。
元々蓄積していた疲労に加え、地下生活者による僅かな思考誘導が「今日は大丈夫」「少しくらい休んでも問題ない」という判断を静かに後押ししていた。
強制的に眠らされているわけではない。だからこそ、本人にはその違和感が分からない。
「ダメ……なのに……」
シロコテラーも気が付いたら椅子へ深く身体を預ける。
数分後、臨戦ホシノに続き、彼女もまた静かな寝息を立て始めていた。
同じ頃、先生は珍しく一人、執務室に残って大量の書類と格闘していた。
「ん~~~~終わらない……」
机の上には未処理の書類、確認待ちの書類、承認待ちの書類が山のように積まれている。
一枚片付ければ一枚減るはずなのに何故か毎日仕事は増えていく。
「どうして毎日減らしてるのに毎日増えるのだろうか……?」
『先生が毎日何か起こすからではないでしょうか?』
「アロナさん?」
『何でしょう?』
「今日ちょっと辛辣じゃない?」
『事実です!』
「うぅー……」
先生は一度机へ突っ伏した。
だが、そこで休んだところで仕事が消えてくれるわけではない。
顔だけを横へ向け、チラっと時計を見た後にもう一度書類を見る。
「…………」
少し悩んだ末。
「……徹夜かな?」
『徹夜するんですか!?』
「今日だけ今日だけ」
『最近その言葉を何度聞いたと思ってるんですか!』
「今日終わらせれば明日は楽になるからさ!」
『この前も同じことを聞きましたよ!』
「……よし、やろう」
『誤魔化しましたね!?』
アロナの抗議を聞き流しながら、先生は再び仕事へ戻った。
それから何時間経ったのか書類は少しずつ減っていく。
その代わり、先生の目の下には少しずつ疲労が積み重なっていった。
夜はさらに深くなり。やがて窓の外が、ほんの少しだけ明るくなり始める。
そこでようやく先生の手が止まった。
「アロナぁ~……」
『なんですか?』
「もう無理かも……」
『だから言ったじゃないですか!』
「眠いよ~……」
『寝るなら仮眠室で寝てください!』
「そこまで歩く元気ないよ~……」
『先生ぇ!』
「ここで寝る……」
先生はシッテムの箱をいつものように机のすぐ横へ置くと、そのまま椅子へ深く身体を預けた。
「始業時間になったら……起こして……」
『もう……』
「お願い……」
『ハァ……分かりましたよ。始業時間ですね?』
「ありがと~……愛してるよ~」
そう答えた数秒後には、先生の意識は完全に眠りへ落ちていた。
机に突っ伏したまま、身動き一つしない。
執務室には先生一人だけが残っていた。
◆
「…………」
地下生活者は、静かに目を細めた。
何日も先生の周囲を警戒していた周りの生徒は眠った。
そして先生本人も執務室で一人完全に眠り込んでいる。
「ようやく……」
地下生活者の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「ようやく巡ってきた……!」
何度仕掛けても、まるで示し合わせたかのように誰かが現れ、気付かないままこちらの仕掛けを元へ戻していった。
だが今は違う。誰も地下生活者の干渉に気づけない。
そして先生自身が、わざわざ執務室に残ったまま眠っている。
「ヒヒヒヒヒヒヒ……」
地下生活者は満足そうに笑いながら、静かに手を伸ばした。
「さあ、終わりの時ですよ先生…?」
先生が眠っている執務室。誰もいないその場所へ、少しずつ危険が忍び寄っていく。
何度も邪魔された鬱憤を晴らすように。
「今度こそ誰にも邪魔はさせませんよ」
地下生活者は、今度こそ計画が成功すると信じ切っていた。
それから少し後。
「…………眠い」
明け方のシャーレへ、一人の少女がふらふらとした足取りで入ってきた。
その人物はカヤだった。連邦生徒会での仕事が思った以上に長引き、ようやく全てを終わらせた頃には、まともに帰宅する気力すら残っていなかった。
「もう……今から帰るのも面倒ですね……」
幸い、シャーレには仮眠室がある。
少しだけ借りて数時間寝てから帰ればいい。
「少しだけ……借りましょう……」
眠気に負けそうになりながら、カヤは重い足取りで廊下を歩いていく。
その途中で先生の執務室に灯りが点いていることに気付いた。
「…………?」
この時間にまだ働いているのだろうか。
少し気になり扉の隙間から中を覗くと先生は机に突っ伏したまま、完全に眠っていた。
「一体何してるんですか……この人は…?」
当然返事はない。
「こんなところで寝てたら……風邪ひきますよ~……」
普段のカヤなら、まず先生を起こしただろう。
次に説教、そして自分の足で仮眠室まで歩かせる。
おそらくそうしていた。ただ今日はカヤ自身の判断力も眠気のせいでかなり怪しくなっていた。
眠い頭で少し考えた結果カヤの出した結論は。
「運んで寝かせればいいか……」
何故かその結論に至った。
「よいしょ……」
眠っている先生をどうにか持ち上げる。
「重い……」
そのまま運ぼうとしたところで。
机の横に置かれていたシッテムの箱が目に入った。
これが先生にとって大切な物であることくらい、カヤも知っている。
「これ置いていったら……後で困りますよね……?」
シッテムの箱もどうにか持つ。
「本当に……世話の焼ける人ですね~」
そうして地下生活者が標的にしていた執務室から先生もシッテムの箱も綺麗に消えていった。
当然。地下生活者は、もう終わったと思い込み様子を見ていなかった。
地下生活者が見ているのは、自分が仕掛けた計画の進行状況だけ。執務室にガスが溜まっていく様子を数値で見ていた。
時間も順調。すべて問題なし。
「ヒヒヒ……」
満足そうに笑う。
その頃、先生を無事に運び終えたカヤは、仮眠室のベッドへようやく先生を寝かせていた。
「これで……いいですね」
先生を置いた瞬間、今度こそカヤ自身の体力も限界を迎えた。
隣にはもう一つベッドがある、そこまで行って寝ればいい。
「……遠い」
距離にして数メートル、普段なら何の苦にもならない。
だが今のカヤには果てしなく遠く感じる。
カヤは先生の寝ているベッドを見る。
「…………」
正常な思考が出来ている時なら。
まず選ばない。絶対に選ばない。
でも今は眠気が全てに勝っていた。
カヤは先生の寝ているベッドの掛け布団を少しだけ持ち上げた。
「……少しくらいいいでしょう」
そのまま先生の隣へ潜り込むとカヤも完全に眠りに落ちるのだった。
◆
翌朝、まだシャーレ全体が本格的に動き始める前。
建物の中には、静かな時間が流れていた。
――ドォォォォォォン!!!
「「!?」」
建物全体を震わせるほどの爆音が響き渡った。
窓が揺れ廊下に置かれていた物が落ち。
警報が一斉に鳴り始める。
その衝撃は仮眠室まで届いた。
「うわぁぁ!?」
先生が飛び起きる。
「な、何ですかぁ!?」
カヤもほぼ同時に起き上がった。
二人ともまだ完全に寝ぼけている。
「……何!?」
「知りませんよ!」
「カイザーでも攻めて来た!?」
「またですか!!?」
何が起きたのか。まだ何も分かっていない。
ただとんでもない爆発が起きた事は段々と理解できた。
「とりあえず行こう!」
「分かりました!」
二人は慌てて仮眠室を飛び出した。
ちなみにこの時点ではまだカヤは自分が先生と同じベッドで寝ていたことにほとんど気付いていなかった。
同じ爆発音は当然、別の場所で眠っていた臨戦ホシノとシロコテラーも叩き起こしていた。
「――っ!?」
臨戦ホシノはソファから勢いよく身体を起こした。
遠くから聞こえる警報に煙、そして爆発が起きたという事だけが経験で分かった。
「…………」
その瞬間、臨戦ホシノの顔から眠気が完全に消えた。
「先生……!」
すぐ隣では、シロコテラーもほぼ同時に立ち上がっていた。
「執務室……!」
二人とも昨夜先生は遅くまで残業していた事を把握していた。
そして自分たちが眠る直前まで執務室に残っていた事も。
「嘘嘘嘘!!」
二人はほぼ同時に走り出した。
連日の疲労も先ほどまで感じていた眠気も全て吹き飛んでいた。
「……やっぱり」
臨戦ホシノは走りながら歯を食いしばる。
「あの引きこもり……!」
「ん、あいつは殺す」
シロコテラーも鋭い目で煙の上がる方向を睨む。
原因までは分からないが時期、タイミング、昨夜の不自然なほど強い眠気。
それらを考えれば、地下生活者が関わっている可能性は高い。
何より今はそんなことを考えている場合ではなかった。
「先生……!」
無事でいてそのことだけを考えながら。
二人は爆発の起きたフロアへ走っていった。
◆
爆発したフロアには、すでに多くのシャーレ関係者が集まり始めていた。
「先生は!?」
「昨日ここで仕事してたんですよね!?」
「まだ中にいるんですか!?」
至る所から焦った声が飛び交っている。
煙。崩れた壁。散乱した瓦礫。鳴り止まない警報。
執務室があった周辺は、大きく損傷していた。
そして誰も先生の姿を見ていない。
「近づくな!」
元理事が大声で周囲を制止する。
「まず安全確認が先だ! 二次被害が起きる可能性もある!」
「そうだよ! 今は一旦落ち着いて!」
元カイザーPMC理事としてこういう時の判断は早い。
そしてそれに追従するようにテスも声を上げていた。
二人とも周囲へ指示を出しながら険しい顔で爆発現場を睨んでいる。
そこへ臨戦ホシノとシロコテラーが駆け込んできた。
「先生は!?」
「まだ見つかっていない!」
「…………」
その返事を聞いた瞬間。
臨戦ホシノの表情が固まった。
普段の気の抜けた雰囲気など欠片も残っていない。
「…………先生」
シロコテラーも無言のまま拳を強く握る。
もし自分たちが眠っていなければ…そんな考えが一瞬二人の頭を過ぎる。
その時。
「嘘だろ…? 私が昨日片づけた書類が……」
後ろから妙に聞き慣れた声がした。
「…………」
全員がゆっくり振り返ると、そこには絶望の表情をした先生が蹲っていた。
「誰か嘘だと言ってくれぇぇぇ!!!!」
寝癖に少し乱れた服。完全に寝起きの顔だったが無傷で先生は絶叫していた。
「…………」
一瞬、その場にいた誰もが反応出来なかった。
「先生!!」
最初に動いたのは臨戦ホシノだった。
「うわっ!?」
勢いよく駆け寄り、先生の肩を掴む。
「大丈夫!? 怪我ない!?」
「ホシノ……しょ、書類が! 私の書類が!!」
「書類は後でいくらでも手伝ってあげるから先生自身は大丈夫!?」
「肉体は大丈夫だよ……精神は……ハハッ!」
そのすぐ隣へシロコテラーも近づく。
先生の身体を怪我がないか一つずつ無言で確認する。
「…………」
そしてようやく。
「ん。大丈夫そう」
シロコテラーは小さく息を吐いた。
「……よかった」
先生が無事だと分かったことで。
その場にいた全員がようやく少しだけ緊張を解いた。
「だが」
元理事が何かに気付いたように先生を見る。
「お前は昨夜、執務室にいたはずだろう?」
「ん? そうだけど?」
「何故無事なんだ?」
「あれ?」
先生はようやく質問の意味を理解すると後ろを振り返った。
「そういえば明け方に誰かに運ばれたような……」
その言葉につられて全員の視線も先生の後ろへ移動する。
そこにはカヤがいた先生と同じく寝癖を跳ねさせて眠そうな顔で。
そして同じ仮眠室から一緒に出てきていた。
その事実を認識した時さっきまでとは違う意味で空気が止まった。
「……カヤちゃん?」
臨戦ホシノが笑顔で名前を呼ぶ。
だがその目だけは少しも笑っていなかった。
「ん」
シロコテラーもカヤを見る。
「どうして先生と一緒に仮眠室から出てきたの?」
「…………」
その質問でカヤの眠気が完全に覚めた。
カヤの中で嫌な予感が急速に膨らんでいく。
その時シッテムの箱が点滅して先生はうんうんと頷いていた。
「なるほど、カヤが私を仮眠室まで運んで一緒に眠っちゃったんだね!」
「先生ぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!?」
カヤの絶叫が爆発とは別の意味でシャーレ中へ響き渡った。
その後カヤは逃げようとしたが即座に捕まり。感謝の言葉を言われながら地下室にドナドナされていった。