ゲヘナ自治区で温泉開発部が起こしていた騒動が一段落してから、少し時間が経った頃。
万魔殿の会議室には、普段ならまず同じ机を囲んで穏やかに話すことなどない三人が集まっていた。
「…………」
現地ヒナ。
「…………」
募集で来たヒナ。
「…………」
そして、万魔殿議長、羽沼マコト。
「何故私まで呼び出されているのだ!?」
現地ヒナは真正面から飛んできた抗議を軽く聞き流し、もう一人の自分へ視線を向けた。
「私たちにとって無視できない話題だからよ」
「その通りね」
先ほどまでカスミを前後から挟み込み、本人を泣かせた一件については既に片付いている。今ここで話そうとしているのは、そんな日常的な騒動とは比べものにならない内容だった。
「雷帝が残した遺産について、二人に知っておいてほしいことがあるの」
その言葉を聞いた瞬間、マコトの雰囲気が変わった。
先ほどまで不満を露わにしていた表情からふざけた色が消え、背もたれへ預けていた身体を僅かに起こす。
「雷帝の遺産だと?」
「そうよ」
「……どの遺産のことだ?」
「一つじゃないわ」
ヒナの答えに、今度は現地ヒナが僅かに眉を寄せた。
彼女にとって雷帝の存在そのものは当然知っている。しかし、その遺産について詳しいわけではない。対してマコトは、万魔殿議長という立場もあって、過去の記録やゲヘナに残された危険物について現地ヒナ以上の知識を持っていた。
だからこそ、ヒナは二人を同時に呼んだのだった。
「まずアビドスにあるものから話すわ」
「アビドス?」
現地ヒナが聞き返す。
「どうしてゲヘナの雷帝の遺産が、アビドスにあるの?」
「正確には、当時のアビドスと協力して開発したものよ」
ヒナはそこで一度言葉を切り、二人の顔を順番に見た。
「列車砲――【シェマタ】」
「…………」
現地ヒナは初めて聞く名前に無言となったが、マコトの反応はそれ以上に大きかった。
「待て」
椅子から身を乗り出し、未来ヒナを真っ直ぐ見つめる。
「列車砲だと? 雷帝が?」
「ええ」
「私は雷帝が残した遺産について、それなりに調べている。だがアビドスとの共同開発兵器など聞いたことがないぞ」
「だから、貴方にも話しておきたかったの」
「…………」
マコトは否定しなかった。
知らなかったこと自体は癪なのだろう。しかし、ヒナがわざわざ自分と現地ヒナを呼び出してまで話している以上、単なる勘違いと切り捨てるつもりもないらしい。
「どれほど危険なの?」
現地ヒナの問いに、ヒナは少しだけ目を伏せた。
「放置していいものじゃない。使い方次第では、アビドスだけで済む話でもなくなるわ」
「破壊した方がいいのね?」
「絶対にね」
迷いのない返答だった。
「でも、今どこにあるかまでは?」
「正確な場所は分からない。少なくとも、この時点ではまだ表には出ていないはず」
「なるほどな……」
マコトは腕を組み、頭の中で過去の記録と照らし合わせているようだった。
「雷帝め。私の知らぬところでアビドスにまで余計な置き土産を残していたとは……」
「今後、アビドスで雷帝の遺産に関する話が出たら見逃さないで。シェマタという名前が出なくても、列車や大型兵器に関係するものなら警戒した方がいいわ」
「分かった」
現地ヒナが頷く。
マコトも珍しく異論を挟まず、真剣な表情のまま答えた。
「こちらでも過去の資料を洗い直す。アビドスとの接点が存在したのなら、完全に痕跡を消しているとは考えにくい」
ヒナはその言葉に少しだけ安堵した。
少なくともシェマタについては伝えられた。
本来なら、それだけでもここへ来た意味は十分にある。
「……それと、もう一つ」
だが、まだ伝えないといけない事はあるのだ。
むしろヒナにとって、本当に伝えておきたいのはこちらだった。
「まだあるの?」
「ええ。ゲヘナの――」
そこで声が出せなくなった。
「…………!」
「?」
現地ヒナが首を傾げて不思議そうな顔で見つめてくる。
ヒナ自身も、何が起きたのかすぐには理解出来なかった。
「ゲヘナの……」
もう一度、続けようと試みるが。
「…………」
出せない。
言葉そのものは頭の中にはっきり浮かんでいる。
それなのに、それを口にしようとした瞬間だけ、まるで喉の奥を何かに掴まれたように声が消えてしまう。
「どうしたの?」
「……おかしいわ」
「何が?」
ヒナは一度深く息を吸った。
「話そうとすると……声が出せなくなるわ」
「は?」
マコトまで怪訝そうに眉を寄せる。
「普通に話せているではないか」
「普通のことならね」
試すようにヒナは言葉を続けた。
「雷帝」
言える。
「シェマタ」
これも言える。
今の所何も問題はないように思える。だが、あの装置について説明しようと意識した瞬間。
「…………」
また声が消えた。
「どうやら特定の話題だけ言えないのね」
現地ヒナもようやく異常性を理解したらしい。
「そうみたい」
「なら紙に書けばいい」
マコトがすぐにペンを差し出した。
「…………」
ヒナは受け取り、紙へ向かう。
書くべき言葉は分かっている。
あれが何をする装置なのかも。
それでも、ペン先を紙へ近づけた瞬間、指が固まった。
「…………っ!」
動かない。頭では命令している。
書け。今すぐ伝えろ、未来で何が起きたのか。
どこにあるのか。それさえ分かれば、この時代の自分たちなら先に潰せる。
なのに、指先一つ動かなかった。
「大丈夫?」
現地ヒナの声に焦りが混じる。
「……駄目ね」
ヒナはペンを置いた。
「書くのも、無理みたい」
そこまで言ったところで、自分の中にあるものが急速に形を変えていくのを感じた。
最初は困惑だった。次に焦りと怒り。
「…………」
ヒナの右手がゆっくりと握り締められる。
あれだけのことをして、あれだけ多くの人間を巻き込み。
それでもなお、経験した者の口まで塞ぐ仕掛けを残している。
「……こんなところまで」
次第に拳へ力が入る。
爪が掌へ食い込み始めた。
「どれだけ先まで……人を縛れば気が済むの……」
低く漏れた言葉には、普段のヒナからは想像しにくいほど強い憎悪が滲んでいた。
やがて拳の隙間から、小さな赤い滴が落ちる。
「手を開いて」
現地ヒナが静かに言った。
「……大丈夫よ」
「大丈夫じゃない。開いて」
ヒナはほんの少し抵抗するように黙ったが、心配そうに真っ直ぐ見つめられてしまえば、それ以上意地を張る気にもなれなかった。
ゆっくり拳を開くと、掌には爪の跡が深く残り、一部から血が滲んでいた。
「まったく……」
現地ヒナは小さく息を吐き、備え付けの救急用品を取り出して手当てを始める。
一方でマコトは、そのやり取りを茶化そうとはしなかった。
ヒナがここまで怒りを露わにする。それだけでも、自分たちに伝えたかった情報が相当に危険なものだと分かる。
「……雷帝が、経験者にまで情報を伝えさせないよう仕込んだものか」
マコトは一人で考え始めていた。
「しかも、お前はその影響を受けている……。記録が少なく、意図的に痕跡を消されているのか……?」
いくつか思い当たるものはある。
マコトの中で一つだけ、引っかかる名前があった。
「……NKウルトラ計画か?」
「…………!」
その言葉を聞いたヒナの目が僅かに見開かれた。
声は出なかった。
だが、その反応だけで十分だった。
「……当たりか」
マコトの表情がさらに険しくなる。
「NKウルトラ計画ってサツキがよく言ってる?」
現地ヒナが聞き返すとマコトは自分の帽子を深くかぶり直しながら答えた。
「サツキが言っているのはただの目くらましだ。あれは本来雷帝が進めていた計画の一つだ。私も名前と一部の痕跡程度しか把握していない。記録が異常なほど少なく、何を作っていたのかすら不明な点が多い」
「それが今もゲヘナに残っている?」
「…………」
ヒナは答えようとしたが、声が出なかった。
現地ヒナはその様子を見ると、それ以上問い詰めることをやめた。
「……ダメみたいね」
ヒナが悔しそうに頷く。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわ」
現地ヒナは包帯を巻き終えると、自分の手をそっと離した。
「シェマタの存在。それから、NKウルトラ計画に関係する何かが今もゲヘナに残っている可能性。そこまで分かっただけでも十分よ」
「だが、そうなると今度はこっちの問題だな」
マコトが立ち上がる。
いつものような大仰な笑みは浮かべていない。
「雷帝がゲヘナに残した遺産なら、万魔殿にも責任がある。過去の資料、施設記録、封鎖された区画まで全部洗い直すぞ」
現地ヒナも立ち上がった。
「私も手伝うわ」
「言われるまでもない。お前にも存分に働いてもらうぞ、ヒナ」
「分かってる」
「…………」
ヒナは二人を見つめた。
普段なら顔を合わせれば何かしら衝突する。
決して噛み合っているとは言い難い。
それでも雷帝の遺産が絡めば、二人は迷わず同じ方向を向く。
そこには長い時間をかけて培われた、決して仲良しという言葉では片付けられない信頼があった。
「マコト、調査は任せたわよ。万魔殿にしか残っていない記録もあるでしょうから」
「当然だ。そちらこそ、こちらが情報を纏める前に一人で突撃するなよ」
「しないわよ」
「お前はそう言って一人で全部背負おうとするから信用ならん」
「……貴方にだけは言われたくないのだけれど」
それでも、現地ヒナは少しだけ口元を緩めた。
「この件については頼りにしてる」
「…………ふん」
マコトも満更ではなさそうに腕を組む。
「今更言われるまでもない。雷帝の後始末程度、私たちで片付けるぞ」
ヒナはそんな二人を見て、ようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……二人とも、お願いね」
「任せて」
「誰に物を言っている。お前は未来で私たちが上手くやったことを知っているのだろう?」
ヒナはマコトの質問には答えずにただ小さく笑った。
あの事件で経験したもの、その全てを今ここで伝えることは出来なかった。
それでも、未来を変えるための爪痕だけは確かにこの時代へ残すことが出来たのかもしれない。
◆
ミレニアムサイエンススクールでは、先日シャーレで安全装置が発動するまでに負荷がかかったシミュレーターを解析していた。
「……もう一度、少し戻して」
リオの指示に従って、巨大なモニターに映し出されていた映像が数秒だけ巻き戻される。
そこに記録されているのは、臨戦ホシノ、シロコテラー、ミカ、ヒナという、どう考えても試作機へぶつける戦力ではない四人が行った最強決定戦の映像だった。
当日は四人の出力にシミュレーター側の処理が追いつかず、安全装置が作動して強制終了。幸い機器そのものに深刻な損傷は残らなかったものの、開発者であるリオとヒマリとしてはどうして限界を迎えたのかを放置するわけにもいかなかった。
「しかしまあ、何回見てもすげぇな」
解析に直接関係があるわけでもないのに研究室へ居座っているネルは、腕を組みながら楽しそうに映像を眺めていた。
「こんな面白ぇことやってんなら最初から呼べよ。配信で見るより、こういう生データで見る方がよっぽど面白いじゃねえか。あぁ~こいつらと戦ってみてぇな~!」
「これは娯楽映像の鑑賞会ではないのよ」
リオはネルの言葉を淡々と切り捨てながら、別のモニターに表示された大量の演算ログへ目を走らせていく。
「安全装置が想定より早い段階で作動した原因を特定するための解析。次の運用時にも同じことが起きれば、今度は機器側に損傷が出る可能性もある」
「そこまで耐えたなら十分優秀じゃねぇか」
「流石はミレニアムが誇る【約束された勝利の象徴】らしい、実に豪快な評価ですね」
少し離れた席では、ヒマリが頬杖をつきながら面白そうに笑っていた。
「ですが私としても、このデータには非常に興味があります。何しろ、ミレニアムが誇る超天才清楚系病弱美少女ハッカーであり、「全知」の学位を持つ眉目秀麗な乙女であり、そしてミレニアムに咲く一輪の高嶺の花である「特異現象捜査部」部長の私とリオが、協力して言葉通りの意味でミレニアムの技術を結集した最新鋭シミュレーターが、たった四人の生徒を相手に悲鳴を上げたのですから」
「その言い方はやめて。設計そのものが悪かったように聞こえるわよ」
「実際、想定を超えたのですから改善点があることは事実でしょう?」
「……それは否定できないけれど」
リオは小さく息を吐き、再びデータへ集中した。
当初、原因そのものは単純だと考えられていた。
戦闘終盤、臨戦ホシノがそれまで模擬戦の範囲に抑えていた出力を一気に引き上げる。それを見たヒナ、ミカ、シロコテラーも同時に出力を上昇させ、四人分の負荷が一度にシミュレーターへ掛かった結果、安全装置が限界を検知して強制終了した。
それだけならば、今後の最大許容値を上げるなり、演算処理を分散させるなり、対応策はいくらでも考えられる。
だが、実際のログはそれほど素直ではなかった。
「ここよ」
リオがグラフの一点を指差した。
安全装置が作動する直前、一瞬だけ演算負荷の上昇曲線が不自然なほど急激に跳ね上がっている。
「ホシノ、ヒナ、ミカ、シロコの四人が出力を上げた分だけでは、この増加量を説明出来ない」
「確かに不自然な跳ねあがり方ですね」
ヒマリも手元の端末を操作し、それぞれのデータを重ね合わせた。
「空崎ヒナさん、聖園ミカさん、砂狼シロコさん。いずれも非常に高い数値ではありますが、それまでの戦闘データからある程度の予測は可能です。少なくとも、この瞬間に突然三倍近い演算領域を要求するような変化は起こしていません」
「じゃあ問題はこいつか?」
ネルの楽し気に臨戦ホシノを指さして問いかけると、リオは無言で映像を再生した。
画面の中では、臨戦ホシノが不敵な笑みを浮かべながら三人を見据えている。
『ごめんね。確かに温すぎたよ、ここからは最大火力で行くよ!!』
それに対して、ヒナ、ミカ、シロコテラーも一斉に構え直す。
『本物の最強を決めようか!!!』
臨戦ホシノが踏み込もうとした、その直後に映像はぷつりと切れる。
「今のどこがおかしいんだ?」
ネルが眉を寄せる。
「通常速度では分からない」
リオは映像の再生速度を半分まで落とし、それでも見つからないと判断すると、さらに十分の一まで速度を落とした。
四人の動きが目に見えて鈍くなり、最終的には一フレームずつ確認していく。
臨戦ホシノが腰を落とし、身体を前へ傾ける。足へ力が入り、地面を蹴ろうとした、その瞬間。
「……おい止めろ」
それまで気楽に画面を眺めていたネルの声色が変わった。
「どうかした?」
「今のところ。少し戻せ」
リオが一フレームだけ巻き戻す。
「…………」
三人の視線が同時にモニターへ集中した。
そこに映っている臨戦ホシノ自身は、直前までと何も変わっていない。盾は背中に収納され、ショットガンを構え、これから一気に三人へ仕掛けようとしているだけに見える。
しかし、その身体の輪郭をよく見ると。
「……赤黒い?」
リオが映像をさらに拡大した。
臨戦ホシノの身体を薄く包むように、赤と黒が混ざり合った靄のようなものがほんの一瞬だけ揺らめいている。
普通に再生していればまず気付かないような、描画時のノイズだと言われても納得してしまうほど僅かな変化だった。
「映像処理のエラー?」
「いいえ。どうやら違うみたいですよ」
ヒマリはすぐに否定し、該当フレームと演算ログを同期させた。
「この赤黒い揺らめきが発生した瞬間、ホシノさんへ割り当てられている処理領域そのものが急激に膨張しています。つまり、少なくともシミュレーター側はこれを単なる描画ノイズとして処理していません」
「どれくらい増えたの?」
「直前と比較すると――」
ヒマリが数値を確認し、その表情から僅かに笑みが消えた。
「……これはまた、随分と欲張りましたね」
「だからどれくらいだよ?」
待ちきれないネルに急かされ、ヒマリはモニターへ表示されたホシノ単独の演算ログを拡大した。
「安全装置が作動する直前、確かに四人全体の処理量は上昇しています。ですが、この異常な跳ね上がりの大部分を占めているのはホシノさん一人です」
「一人でかよ!?」
ネルは思わずモニターへ身を乗り出した。
「だったら、あいつ……あの瞬間にまだ何かやろうとしてたってことか?」
「データはウソをつけないわ。その可能性は高いわね」
リオは静止画に映る臨戦ホシノを見つめながら答えた。
「単純に攻撃出力を引き上げただけとは考えにくい。これ以前のホシノの戦闘データと、変化の仕方に連続性がないの。例えるなら、それまで使っていなかった別のデータを新たに読み込もうとした時に近い」
「別のデータ、ねぇ……」
ネルはそれ以上質問することなく、腕を組んで画面を睨み始めた。
リオやヒマリとは違い、ネルに専門的な演算数値の意味を細かく読み解くことは出来ない。
だが、それで困ることもなかった。
ネルが見ているのは、ホシノの立ち方。
足の置き方。
武器の構え。
そして、戦う直前の人間が見せる表情だった。
何度も強敵と拳を交え、数え切れないほどの実戦を経験してきたからこそ、数字には現れないものが分かる。
「……こいつ、まだ隠してんな」
やがてネルが呟いた。
「何を?」
リオが聞き返す。
「知らねぇよ。何を隠してるかまで分かるわけねぇだろ」
そう言いながらも、ネルの口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「ただ、こいつがこの瞬間にそれまでと違う何かを出そうとしてたのだけは分かる」
「根拠は?」
「勘だよ」
「?」
「本気で何言ってんだこいつって顔を向けてくるな!!」
ネルはリオの可哀そうな子を見る視線を無視しつつ、モニターの中で獰猛な笑みを浮かべている臨戦ホシノを指差した。
「さっきまでのこいつは強ぇけど、どっか余裕があった。三人まとめて相手にしても『まあ模擬戦だし』って感じだっただろ? でもこの瞬間だけ違う」
ネルの表情も、画面の臨戦ホシノにつられるように少し鋭くなる。
「ただ単に本気出しますってだけの顔じゃねぇんだよ。こいつはここで、もう一段上に行こうとしてる」
「……もう一段」
リオはその言葉を繰り返し、改めて赤黒い揺らめきへ目を向けた。
この時よりさらに上。そんなものが本当に存在するのか。
だが、演算ログはネルの直感を完全には否定していなかった。
「非常に興味深い考察ですね」
ヒマリは先ほどまでの驚きをすっかり好奇心へ変え、楽しそうに頬へ手を添えた。
「何らかの形態変化なのか、未使用の戦闘能力なのか、それともまったく別の現象なのか。今のデータだけでは断定出来ませんが、少なくともホシノさんがあの瞬間、それまでとは異なる出力状態へ移ろうとしていた可能性は高そうです」
「面白がってる場合?」
「未知とは、常に心躍るものですよ。ましてや我々が全力を見たと思い込んでいた相手に、まだ先があったかもしれないとなれば尚更です」
「……全力を見たつもりになっていた、か」
リオはしばらく黙ったまま静止画を眺めていた。
安全装置がもうほんの少し遅く作動していれば。
あの赤黒い揺らめきが完全に形になるまで、シミュレーターが耐えていれば、自分たちは何を記録していたのだろう。
答えは分からない。そして今あるデータだけで、それ以上を推測するべきでもない。
「この件は保留にするわ」
最終的にリオはそう結論付けた。
「現状では情報が少なすぎる。本人に確認すれば一番早いけれど、こちらが偶然見つけただけの戦闘データについて無理に聞き出す必要もないわ」
「それが賢明でしょう。秘密というものは甘いものですからね。本人が明かすその瞬間まで待った方が面白いこともあるでしょうね」
「貴女の場合、後半が本音でしょう」
「否定はしません」
そんな二人のやり取りを聞き流しながら、ネルはまだ画面から目を離していなかった。
そして少し考えた後、いかにも良いことを思いついたとばかりに笑みを深める。
「なあ」
「何?」
「次にこのシミュレーター動かす時は、絶対にアタシも呼べよ!」
「何故?」
「決まってんだろ。あいつと戦ってみてぇ」
「ダメよ」
「即答すんなよ!」
ネルの抗議が研究室へ響き、ヒマリが楽しそうに笑う。
リオはそんな二人を横目に、解析データを保存してからモニターを閉じようとした。
ただ、その直前もう一度だけ安全装置が作動する寸前の一フレームへ視線を戻す。
臨戦ホシノの周囲に浮かんだ、赤黒い揺らめき。それが何を意味しているのかは、今の自分には分からない。
臨戦ホシノ自身が何をしようとしていたのかも、まだ誰も知らない。
ただ一つ確かなのはあの日、シャーレ中へ配信された最強決定戦で最後まで戦い切れなかった四人の中に。
まだ、一枚も見せていない切り札を残していた者がいたかもしれないという事実だけだった。