長かったアビドスでの一件を終え、先生たちがようやくシャーレへ戻ってきた頃には、窓の外に広がるキヴォトスの空もすっかり暗くなっていた。
振り返ってみれば、今日は最初から最後までまともに休める時間などほとんどなかった。地図にも載っていない線路を追い、その途中ではカイザーPMCの部隊と交戦し、ビナーによって無残に引き裂かれた線路の先を何時間も砂漠の中で歩かされ、ようやく辿り着いた兵器工廠では、長いこと探し求めていた列車砲シェマタが既にデカグラマトンの手によって解体済みだった。
そこへさらに、自分たちをずっと覗き見していた地下生活者まで引きずり出され、ホシノが突然テラー化し、散々好き勝手してきた地下生活者は能力まで没収された挙げ句、アビドスの面々からしっかりと落とし前をつけられ、最後はシロコテラーと臨戦ホシノによって矯正局へ放り込まれていった。
先生自身、途中から何が普通で何が異常なのか分からなくなっていた。
「ただいまぁ……」
シャーレの扉を開きながら出した声には、普段の元気がほとんど残っていなかった。
出迎えたのはテスだった。休憩スペースで何かを読んでいたらしく、先生の声を聞いて顔を上げると、そのままソファから立ち上がった。
「お帰り~」
先生の全身には砂埃が残っている。髪も少し乱れ、表情にも隠し切れない疲労が浮かんでいた。
テスはそんな先生を上から下まで一度眺めると、何かを察したように小さく息を吐いた。
「なんか大変だったみたいだね…?」
「色々あったんだよ……」
「その色々を聞くと、毎回こちらの想像を軽々と超えてくるから、今は休んだら?」
「たぶんその判断が正しいよ」
先生が力なく笑ったところで、奥の廊下から足音が聞こえてきた。
「先生?」
書類を数冊抱えたカヤが姿を現す。
戻ってきた先生を見るなり、安心したように僅かに表情を緩めたものの、それも一瞬だった。すぐに眉が寄り、いかにも何か言いたげな顔へ変わっていく。
「ようやく戻ったんですか」
「うん、ただいま」
「ただいま、ではありません。途中で一度くらい連絡してくださいよ!」
「そういえば定時連絡するの忘れてたな……」
「そうですよ! アビドスへ向かったと思えば連絡が途切れ、その直後にはカイザーPMCの部隊が壊滅したという情報が入り、その後は矯正局から上空に突然謎の人物が檻の中に出現したという、意味の分からない報告までこちらに届いているんですよ?」
先生はしばらく黙ってカヤを見つめていたが、やがて観念したように頷いた。
「全部関係あるよ」
「どうして全部関係あるんですか!?」
カヤの声がシャーレの中へ響き渡る。
普段ならここから長い事情聴取が始まるところだったのだろう。しかし、今日の先生にはそれへ付き合うだけの体力すら残されていなかった。
大きな欠伸を一つすると、肩へ掛けていた鞄を近くの椅子へ置く。
「カヤ、ごめん」
「何ですか?」
「もう無理……。今は泥の様に眠りたい」
カヤは何か言い返そうとしたが、先生の顔を見たところで止めた。
疲れている、というだけならまだいい。今の先生からは、今日一日の出来事すべてに振り回されて精神まで擦り減ったような雰囲気が漂っていた。
「砂漠ずっと歩いたし、カイザーは出てくるし、でっかい蛇はいるし、列車砲はハッピーセットになってたし、最後には人間がワープホールへシュートされるのまで見たから……」
「最後の一つが一番気になるのですが…?」
「わたし、気になります!」
テスまでカヤに便乗してくる。
「お願い、明日。絶対明日話すから」
「……仕方ないですね、分かりました」
カヤも諦めたように肩を落とす。
「今日は休んでください。ただし、明日は最初から最後まで報告してもらいますからね!」
「うーい……」
「あと、今日は執務室で寝ないでくださいよ?」
「今回はちゃんと仮眠室行くよ」
「今回は、ではなく今後ずっとそうしてください」
カヤの小言を背中に受けながら、先生はふらふらと仮眠室へ向かった。
今日はもう何も考えたくない。
柔らかい布団へ入って、目を閉じて、朝まで眠る。
普段なら当たり前でしかない行為が、今の先生にはこの上なく魅力的に思えた。
◆
仮眠室へ入った先生は、着替える気力すらほとんど残っていなかった。
上着だけを脱いで椅子へ掛けると、シッテムの箱をベッドの近くへ置き、そのまま身体を布団へ沈める。
「……やっぱりベッドって偉大だね」
『先生、今回もお疲れ様でした』
シッテムの箱からアロナの声が聞こえてくる。
「ありがと、アロナ」
『今日はもう何もしないで、ちゃんと休んでくださいね!』
「そうするよ……。じゃあおやすみ……アロナ……」
『おやすみなさい、先生』
その声を最後まで聞くより先に、先生は布団へ潜り込んだ。
目を閉じると、疲労のせいか眠りへ落ちるまでほとんど時間は掛からなかった。
それから、どれくらい経った頃だろうか。
静まり返った仮眠室の扉が、ほんの僅かだけ開いた。
「…………」
その隙間からゆっくり顔を覗かせたのはシロコテラーだった。
「ん」
完璧。
そう判断したシロコテラーは、いつの間に用意したのか一つの枕を胸に抱えたまま、音を立てないよう慎重に扉を押し開けた。
先生は疲れている。今日も大変だった。
だから、一人で寝かせるのは少し可哀想。
一緒に寝てあげた方が安心する。
少なくともシロコテラーの中では、極めて自然かつ合理的な結論だった。
あと一歩で仮眠室の中へ身体を滑り込ませられる、そう思った瞬間に肩を掴まれる。
「シロコちゃん?」
背後から聞こえてきた声に、シロコテラーの動きがぴたりと止まった。
振り返るとそこには臨戦ホシノが立っていた。
「こんな場所で、何してるのかなぁ?」
「…………」
シロコテラーは何も答えない。
臨戦ホシノは視線を少し下へ動かした。
「その枕は?」
「先生が寂しくないように、添い寝してあげようと思って」
「駄目だよぉ~」
「なぜ?」
「先生、今日はすっごく疲れてるんだから。一人でゆっくり寝かせてあげないと」
至極まともな意見だった。
シロコテラーは臨戦ホシノをしばらく無言で見つめる。
「ホシノ先輩は――」
「ん?」
「どうしてここにいるの?」
「いやぁ~、先生がちゃんと寝てるか確認しようと思ってねぇ」
「…………」
「…………」
二人の視線が交差した。
「嘘は良くない」
「嘘と決めつけるなんて酷いなぁ~」
「先生と一緒に寝るつもりだったんでしょ?」
「そんなことないよ?」
シロコテラーは無言のまま、臨戦ホシノの脇へ視線を落とした。
「じゃあ、その枕は?」
「…………」
臨戦ホシノの脇にも、しっかりと枕が抱えられていた。
「…………」
「…………」
しばらく沈黙が続く。
「シロコちゃん」
「何?」
「ここは公平にさぁ、二人とも諦めようよ」
「ホシノ先輩が先に帰って」
「いやいや、シロコちゃんが先でしょ~?」
「嫌」
「おじさんも嫌だなぁ」
先生を起こさないように声を抑えているため、言い争いそのものはかなり静かだった。
しかし、深夜の廊下で枕を抱えた二人が仮眠室の前を陣取り、小声で睨み合っている光景が怪しくないわけではない。
「二人とも、そんな所で何してるの?」
「「…………」」
二人が同時に振り返るとそこにはミカがいた。
「こんな時間に仮眠室の前で枕持って、何してるのかな☆」
ミカは二人の沈黙を見て、すぐに何かを察したらしい。
口元の笑みが少しだけ深くなる。
「もしかして先生と一緒に寝ようとしてた?」
「違うよぉ」
「ん。ホシノ先輩が抜け駆けしようとしていた」
「シロコちゃん!?」
「へぇ~?」
ミカは楽しそうに二人を眺める。
「じゃあ、私も抜け駆けしちゃおうかな~?」
「駄目」
シロコテラーが即答した。
「何で!?」
「今日の先生はとっても疲れてるから」
「私なら静かに寝られるよ☆」
「ミカは寝相悪そう」
「失礼じゃない!?」
思わずミカの声が少し大きくなった。
そして、悪いことというのはこういう時に限って続く。
「……何を騒いでいるの?」
「「「…………」」」
廊下の奥に立っていたのはヒナだった。
「…………」
ヒナは状況を察したらしく何とも言えない顔になった。
「先生は?」
「寝てる」
シロコテラーが答える。
「そう」
ヒナは小さく頷く。
「なら静かにしなさい。今日はかなり疲れているでしょう」
「流石ヒナちゃん!」
ミカが感心したように声を上げた。
「じゃあいい子のヒナちゃんは帰るよね?」
その場の視線がヒナへ集まる。
「…………」
後ろに回していたヒナの手にも小さな枕が一つ、しっかりと抱えられていた。
「ヒナちゃ~ん……?」
「……これは違うわ」
「何が?」
「私は先生がきちんと休めているか確認しに来ただけよ」
「ホシノ先輩と同じこと言ってる」
誰も彼も似たようなことを考えていたらしい。
そして、そんな四人が仮眠室前へ溜まっていれば、今度は廊下を通り掛かった者が当然気付く。
「皆さん、こんな時間に何をしているのですか?」
ナギサだった。
その隣にはセイアがおり、少し後ろからアツコとサオリまでこちらへ向かってくる。
「何かあったのか?」
サオリが警戒した様子で尋ねる。
「これから類を見ない大戦争が起こるかもしれない」
シロコテラーが答えた。
「なんだと…!?」
サオリの表情が僅かに変わる。
「ならば我々がここで警護を――」
「いやいや、そういう話じゃないから!」
臨戦ホシノが慌てて止める。しかし、もう遅かった。
そもそもシャーレという場所は、誰かが廊下で何かを始めれば、何故かそれを嗅ぎ付けた者が少しずつ集まってくる傾向がある。
今回も例外ではなかった。
「ぴょんぴょん、今の私はウサギなので先生と一緒に寝ていても問題ないですよね?」
「は? 殴りますよトキ」
休憩スペースにいた者。
仕事を終えた者。
たまたま近くを通った者。
気付けば、仮眠室の前だけ異常な人口密度になっていた。
「ちょっと待ってください。そもそも最初に入り込もうとしていたのはシロコさんなんですよね?」
「ん。添い寝するだけ」
「それを問題にしているのですが……」
「じゃあ私なら良いよね☆」
「タイラントは黙っててください」
「今の発言でナギちゃんにパンチスタック溜まったからね?」
誰か一人が話せば、周りの誰かが口を挟む。
それに別の誰かが反論し、また別の者が参加する。
声量そのものはそれほど大きくないはずなのに、人数が人数だけに廊下全体がどんどんと騒がしくなっていく。
その頃、仮眠室の中では。
「…………」
先生の目が、ゆっくりと開いた。
しばらく天井を見上げながら、何故自分が起きたのか分からなかった。
だが、扉の向こうから聞こえてくる声に耳を傾けると、すぐに理由を察した。
『先生は休ませないと駄目だよね?』
『だから私は静かに添い寝するだけ』
『それなら私でもいいじゃん☆』
『良くないわ』
『皆さん、もう少し声を抑えてください』
『ナギサも十分大きいと思うが』
『先生の警護なら私が引き受ける』
『サオリまで増えないで!』
『ぴょんぴょん!』
『どんな手を使ってでも先生と添い寝してやるつもりですから!』
『反吐が出る』
『ねぇ、冷蔵庫にしまっておいた私の焼き鳥食べたの誰…?』
「…………」
先生は布団を頭まで被ったが布団越しでも全部聞こえた。
先生の眉間へ、少しずつ皺が寄っていく。
今日くらい本当に静かに寝かせてほしいと切に願うのだった。
◆
キヴォトスのどこか。
普段、生徒たちが足を踏み入れることなど決してない場所では、シャーレの騒がしさとはまるで対照的な、重苦しい話し合いが行われていた。
外界から隔絶された広い空間には、いくつもの異形の存在が集まっている。
黒服。
マエストロ。
ゴルコンダ&デカルコマニー。
かつて同じ組織へ所属していた者たちの中から、既に追放された一人の存在について話していた。
「……やはり妙ですね」
最初に口を開いたのは黒服だった。
声そのものは普段と変わらず穏やかだったが、その中には僅かな警戒が混じっていた。
「あの者は、ゲマトリアより追放された後、地下の牢へ封じていたはずですが」
それは、この場にいる者なら誰もが知っている事実だった。
地下生活者。
かつては彼らと同じゲマトリアへ名を連ねながら、その思想も行動も、そして何より自身の欲求を優先するあまり周囲との協調を完全に失い、最終的には組織そのものから追放された存在。
ただ追い出しただけではない。
再び好き勝手に外へ干渉出来ないよう、ゲマトリア側は彼を地下深くへ閉じ込めていた。
本人が自由に行き来出来る状態ではなかった。
それが、いつの間にか外へ出ていた。
「封じられた役者が、誰の手も借りず舞台袖から再び舞台へ上がったとは考えにくい」
マエストロが静かに言葉を続けた。
その声音には、目の前で起きている状況すら一つの舞台として眺めているような独特の響きがある。
「閉ざされていた幕が開いたというのならば、そこには幕を引いた者がいる。その者なくして、役者が勝手に舞台へ戻ることはないだろう」
マエストロの言葉にゴルコンダも続いた。
「しかし、我々の中にあの者を再び外へ出す理由を持つ者が居るとは思えないのだが」
「そういうこった!」
「確かに、私は関与していませんね」
黒服は静かに答えた。
「彼の思考そのものには興味深い点もあります。しかし、もう一度解放する価値があったかと問われれば……正直、疑問です」
「私も同意しよう」
マエストロは僅かに顎を引く。
「暴走する役者は、舞台そのものを破壊する。どれほど異質であろうと、作品そのものを台無しにする存在に美は無い」
そこまで話したところで、デカルコマニーが問い掛けた。
「ならば、誰が檻を開けたのだ?」
「そこが問題です」
黒服の視線が僅かに細くなる。
「地下生活者が再び活動を開始した時期。そして檻に残されていた痕跡。偶然に封印が解けたと見るより、誰かが意図的に彼を外へ出したと考える方が自然でしょうね」
「だが我々では無いのであろう?」
ゴルコンダが改めて問い返す。
「そうですね。ただ我々以外に、あの場所を知り、なおかつ侵入出来る者など――」
その時だった、聞き覚えのある女性の笑い声が、どこからともなく静かな空間へ響いた。
「ふふふ……」
「…………」
全員の意識が、同じ方向へ向けられた。
「わたくしが戻りましたよ」
暗がりの向こうから、ゆっくりと足音が近づいてくる。
一歩、また一歩と優雅に歩んできて人影が、徐々に光の中へ姿を現した。
そこに立っていたのは、本来であればこの場所に存在するはずのない人物だった。
赤い肌に長い髪。
そして、以前と何一つ変わらない傲慢さを滲ませた見慣れた笑み。
「……ベアトリーチェ」
黒服が静かにその名を呼んだ。
「ええ、寂しかったですか?」
ベアトリーチェは満足そうに微笑む。
「久しぶりですね、皆さん」
「…………」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
本来ならば、彼女はここにはいない。
エデン条約を巡る騒動の後。
先生たちによって止められ。
その身柄は矯正局へ送られていた。
少なくとも、自由にキヴォトスを歩き回れる立場ではなかったはずだ。だが目の前の彼女は本物だった。
そして今、同じく本来なら自由になっているはずのない地下生活者が、何者かによって地下牢から解放された。
黒服の中で、別々だった二つの事実が静かに一つへ繋がっていく。
「……なるほど」
黒服が僅かに目を細めた。
「何がです?」
ベアトリーチェは余裕を崩さず問い返す。
「地下生活者を解放したのは、貴女でしたか」
ベアトリーチェは否定しなかった。
むしろ、その問いを待っていたとでも言うように口元の笑みを深くした。
「ええ」
「何故?」
ゴルコンダが短く問う。
「簡単な話ですよ」
ベアトリーチェはまるで何でもないことのように答えた。
「わたくしが矯正局から姿を消すのであれば、同じ時期に別の大きな騒動が起きていた方が都合が良いでしょう?」
「……なるほど」
黒服は静かに頷いた。
地下生活者が解放されれば、本人は勝手に動き始める。
先生へ執着し自分の目的のために騒動を広げる。
結果として、周囲の目はそこへ向く。
その裏でベアトリーチェが動くための隙が生まれる。
「彼を囮として使った、ということですか」
「言い方が悪いですね」
ベアトリーチェは悪びれもせずに笑う。
「彼にも再び外へ出る機会を与えただけですよ。何をするかまでは、わたくしの知ったことではありません」
「それを世間では囮と呼ぶのですよ」
黒服の声には、ほんの僅かに呆れた色が混じっていた。
「それにしても」
マエストロがゆっくりとベアトリーチェを眺める。
「舞台へ戻る役者が二人いたとはね。一人は既に退場したようだが」
「退場?」
ベアトリーチェの眉が僅かに動く。
黒服が答える。
「地下生活者ならば、既に先生たちに捕らえられたようです」
「…………もうですか?」
「詳しい経緯までは分かりませんが、少なくとも彼が再び自由に動くことは難しいでしょう」
ベアトリーチェの笑みが深くなる。
自分が矯正局から抜け出すための陽動として解放した相手が、まさかこれほど早く捕まるとは思っていなかったらしい。
「ふふふ…落伍者の割には役に立ったというべきでしょうか?」
「……変わりませんね」
黒服が呟く。
「何がです?」
「いいえ。こちらの話です」
黒服はそれ以上答えなかった。
地下生活者が先生たちを盤上の駒として扱っていたように。
彼自身もまた、ベアトリーチェにとっては自分が逃げるために放った駒に過ぎなかった。
そのことを本人が知る機会があるかどうかは、今となっては分からない。
ベアトリーチェはそんな彼らの考えなど気にも留めず、久しぶりに戻ってきた場所をゆっくりと見回した。
「しばらく、こちらで身を隠させてもらいます」
まるで以前と何も変わっていないかのように、当然のこととしてそう告げる。
ゲマトリアを離れ、矯正局へ収容されていた時間など、彼女にとってはほんの僅かな空白に過ぎなかったのだろう。その声音にも表情にも、自分が戻ってきたことを申し訳なく思うような色は欠片もない。
「……その後はどうするつもりです?」
マエストロが静かに問い掛けた。
ベアトリーチェが何の目的もなくここへ戻ってきたとは、誰一人思っていなかった。
地下生活者を牢から解放し、自分が矯正局から姿を消すための陽動として利用した。そこまでして自由を取り戻した以上、次に何をするつもりなのか。その答えは、彼女の過去を知っている者たちにとってある程度想像出来るものだった。
そして案の定、ベアトリーチェは何を当たり前のことを聞くのかと言わんばかりに笑った。
「決まっているでしょう?」
その笑みには、以前アリウスを支配していた頃と何一つ変わらない傲慢さが滲んでいた。
「わたくしには、支配するべき場所があります」
その一言を聞いた瞬間、黒服の視線が僅かに鋭くなった。
「……まさか」
黒服がそこまで口にしたところで、ベアトリーチェは小さく笑う。
彼が何を言おうとしているのか理解しているのだろう。だが、その忠告を聞くつもりなど最初から無いようだった。
「そう急ぐ気はありませんよ」
「…………」
「今はまだ、わたくしが自由になったことを知る者も多くはないでしょう。しばらく身を潜め、状況を確認してから動けばいいのです」
ベアトリーチェはそこで一度言葉を切り、まるで自分が戻る日を心待ちにしている者たちの姿でも想像するように目を細めた。
彼女の記憶に残っているアリウス分校は、今も昔と変わらない。
自分の存在を恐れ、自分の言葉へ従い、逆らうことすら考えられない生徒たち。
先生やアリウススクワッドによって多少環境が変わったとしても、自分が戻りさえすれば、かつての支配を取り戻すことは難しくない。
少なくとも、ベアトリーチェ本人はそう信じていた。
「アリウスは、逃げられませんからね」
自信に満ちた声が、静かなゲマトリアの本拠地へ響く。
黒服はそんな彼女をしばらく無言で見つめていた。何かを言おうとして、結局口を閉じる。
マエストロ、ゴルコンダ、デカルコマニーも、あえて何も言わなかった。
彼女がこれから向かおうとしている場所が、ベアトリーチェの記憶にある頃とは既に大きく変わっていることを伝えても意味がないと分かっていたからだ。
ただ一つだけ確かなのは、先生がアリウスへ関わった以上、以前とまったく同じ光景がそこに残されているとは考えにくいということだった。
それでもベアトリーチェは、周囲の何とも言えない沈黙を気に留めることなく、満足そうな笑みを浮かべ続けていた。
彼女の頭の中にあるのは、かつて自分が支配していた頃のアリウス。
自分の姿を見ただけで怯え、命令一つで動いていた生徒たち、再びそこへ戻れば、全てを取り戻せる。そう信じて疑っていない。
――だが。
今のアリウスが、彼女の記憶に残る場所とはまるで違うものになっていることをこの時のベアトリーチェは、まだ何も知らなかった。
その事実を本人が身をもって思い知ることになるのは、もう少し先の話である。
かつて、恐怖に支配されていた場所。
過ぎ去ったはずの記憶が、再びその地へ帰ってくる。
救われた者たち。残された者たち。未来を知る者。
そして――帰還する、過去の支配者。
今、アリウスを巡る新たな物語が幕を開ける。
「なんですか!? じゃあ私が貢いじゃいけないんですか!?」
「今のはEXスキルじゃない、ノーマルスキルじゃんね」
「貴女にはうんざりです!」
「その気持ちわかる」
「何やってるんですか、団長!!」
「救護」
「焼肉の前はおにぎりをいっぱい食べれられるからお得ですね~♪」
「ああ、遠慮するな。おかわりもいいぞ!」
――今月ピンチなんだ、すまない。
「うぅ……先生……ここ、ハンバーグ寿司が……無い……」
「もしもし。私、アっちゃん。今あなたの後ろに居るの……」
「忘れてしまったわ……バニタスなんて言葉……」プァァァン♪
「この世界のアリウスに一体何があったんですかぁぁ!!?」
次章――『過ぎ去りし刻のオラトリオ』
――以上、ちょっとやってみたかった嘘予告でした。