新人先生、授業を頼まれる
アビドスでの一件が片付き、シャーレにもようやく普段通りの日常が戻ってきた。
もっとも、先生にとっての普段通りとは、決して暇になったという意味ではない。むしろ大きな事件が終わった直後ほど、現地で後回しにしていた申請書や報告書、各学園から届いた相談事がまとめて押し寄せてくるため、執務机の上に積まれた書類の山は事件前よりも確実に高くなっていた。
「……これ、昨日より増えてない?」
『増えてますね!』
「昨日ちゃんと減らしたよね?」
『減らしてましたね!』
「じゃあ何で増えるの?」
『先生がお仕事をしている間にも、新しいお仕事は生まれますから!』
「世知辛いなぁ~」
アロナの元気な声に対して、先生は力なく机へ突っ伏した。
平和なのはありがたい。ありがたいのだが、平和になったからといって仕事が無くなるわけじゃないのを思い出していた。
「よし……あと三枚終わったら休憩にしよう」
『先生、それ三十分前にも言ってましたよ?』
「今度こそ本当に休むから」
『本当ですか~?』
アロナから疑いの眼差しを向けられながら、先生が再びペンを握ろうとした時だった。
机の端へ置いていた端末が振動し、着信を知らせる。
「ん?」
表示された名前を見る。
「ナギサ?」
掛けてきたのは、トリニティ総合学園ティーパーティーの桐藤ナギサだった。
先生は椅子へ座り直し、そのまま通話へ出る。
「もしもし?」
『先生、お仕事中のところ申し訳ありません』
「大丈夫だよ。ちょうど休憩しようと思ってたところだから」
『……本当ですか?』
「どうしてみんな私の言うことを疑うの?」
『普段の行いではないでしょうか』
「ナギサまで……」
「ふふ、すいません。皆さん先生の事が心配なんですよ」
受話口の向こうから小さく笑う声が聞こえた。
だが、いつもの雑談をするために連絡してきたわけではないらしい。僅かな間を置いた後、ナギサの声から柔らかな調子が少し薄れた。
『話は変わりますが。少々、ご相談したいことがあるのですが』
「相談?」
『はい。ただ……出来れば、シャーレにいらっしゃる皆さんには内密にお願いしたいのです』
「みんなに?」
先生は不思議そうに首を傾げた。
ナギサが先生個人へ相談を持ち込むこと自体は珍しくない。しかし、わざわざシャーレにいる生徒たちへ秘密にしてほしいと念を押すのは少し妙だった。
「ナギサ個人の相談?」
『いえ』
返ってきた答えは早かった。
『私個人というより、ティーパーティーとしてのお願いになります。ミカさんとセイアさんも同席する予定です』
「三人とも?」
『はい。出来れば直接お話ししたいので、トリニティまで来ていただくことは可能でしょうか?』
「分かった。じゃあ今から行こうか?」
『ありがとうございます』
「場所はいつものところでいい?」
『はい。お待ちしております』
それだけ確認すると、通話は終わった。
「…………」
先生は端末を机へ置き、少しだけ考え込んだ。
ティーパーティーの三人からの相談。しかもシャーレの面々には秘密にして欲しいと念を押してきた。
もしかしたら何か大きな問題でも起きたのだろうか。
「まあ、行けば分かるか」
ここで考えていても答えは出ない。
先生は立ち上がると、必要最低限の荷物だけをまとめ始めた。シャーレにいる生徒たちへ見つかれば事情を聞かれる可能性が高いので、今日はなるべく目立たず外へ出た方がいいだろう。
幸い、今なら廊下も静かだった。
「よし、行くか!」
『駄目ですよ!』
駆け出そうとした所でアロナから待ったの声が掛かり、先生の足を止めた。
「アロナ? まだ何もしてないよ?」
『今、護衛も付けずに、一人でこっそりシャーレを抜け出そうとしてましたよね?』
「…………」
『してましたよね?』
「いやぁ……」
『先生?』
「ちょっとトリニティまで散歩に……」
『先生の超優秀な相方のアロナちゃんに嘘をつくんですか!?』
そう言われてしまうと先生も、これ以上誤魔化す気にはならなかった。
「でもナギサから、シャーレのみんなには内緒にしてほしいって言われたんだよ」
『だからって、一人で出掛けていい理由にはなりません!』
アロナの声が一段大きくなる。
『先生、この前だって一人で残業していたら危ない目に遭ったじゃないですか! その前だって、その前の前だって、先生が護衛も付けずに行動すると大抵何か起きてます!』
「ぐっ……」
反論出来ない。
シャーレを爆破された件など、つい最近の出来事である。あれは護衛がいてどうにかなった話でもない気はするが、少なくとも、自分一人でも大丈夫だと胸を張れるほど安全な目に遭ってきたわけではない。
『もし先生がまた勝手に一人で出掛けたって知られたら、皆さんにそれはもう怒られますよ?』
「…………」
先生の脳裏に、全員に囲まれて「どうして一人で行ったの?」と問い詰められる未来が、やけに鮮明に想像出来た。
「……それはマズイな」
『ですよね?』
「でも、誰か連れていったらナギサとの約束を破ることになるし……」
『う~ん……』
今度はアロナも考え込んだ。先生が一人で外へ行くのは駄目。
しかし、シャーレの生徒を連れていくのも駄目。少しばかり面倒な条件だった。
すると、アロナが何かを閃いたように声を弾ませた。
『募集です!』
「…………募集?」
『はい!』
先生は少し考えてから、アロナが何を言いたいのか理解した。
「新しく募集した生徒なら、まだシャーレのみんなじゃないから?」
『そうです! 今から来る生徒さんは、この世界で何が起きているのかも知りません。ナギサさんが言った『シャーレの皆さんには内密に』という条件にも、一応引っ掛からないのではないでしょうか!』
「一応って言ったね?」
『細かいことは気にしないでください!』
「結構な屁理屈だと思うんだけどなぁ……」
とはいえ、他に良い案が思いつかないのも事実だった。
結局、現地ナギサから頼まれた、シャーレのみんなには内密にという条件と、アロナから突き付けられた、護衛も付けずに一人で出歩かないという条件を同時に満たすため、先生は募集を使うことになった。
かなり強引な抜け道であることは先生自身も理解している。
新しく募集された生徒なら、少なくとも今この瞬間まではシャーレで生活している生徒ではない。だから秘密を知っている者を増やすことには変わりないものの、ナギサから言われた条件には一応反していない――というのがアロナの理屈だった。
「これ、ナギサに怒られないかなぁ」
『その時はきちんと説明しましょう!』
「説明するの私なんだよね?」
『頑張ってください!』
「アロナもかなり乗り気だったよね?」
『さあ、募集しますよ!』
「流された……」
先生が何とも言えない顔をしている間にも、募集は進んでいく。
今となっては何度も見慣れた光が室内へ広がり、その中心に一人の少女の姿が形作られていった。
先生はいつものように、まず相手を驚かせないよう少し距離を取ったまま待つ。
やがて光が完全に収まった。
現れた少女は、見知らぬ場所へ突然放り出されたにもかかわらず、取り乱すことなく素早く周囲へ視線を走らせた。
「…………」
何処なのかを確認するように一つずつ見ていき、最後に先生へ視線を向ける。
「…………先生?」
それまで周囲を警戒していた少女の表情が、明らかに変わった。
「え?」
先生は少し驚いた。
募集で来る生徒たちが自分を知っていること自体は、もう珍しくない。むしろ最近では、初対面なのに妙に親しげだったり、逆に何かを知っているような顔で見られたりすることにも慣れてきている。
それでも、目の前の少女が先生を見る表情には、単に知っている人を見つけたという以上のものがあった。
驚きと戸惑い。そして、それ以上にほんの少しだけ安心したような色。
「先生……ですよね?」
「う、うん。そうだけど」
答えると、少女は僅かに肩の力を抜いた。
「良かった……」
「良かった?」
「あ……いえ」
自分が口にした言葉へ気付いたのか、少女は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
だが、すぐに改めて先生へ向き直る。
「梯スバルです」
「スバル……」
名前を告げた後、スバルは先生を見つめながら少し不思議そうに周囲へ目を向けた。
「ここは……シャーレ、で合っていますよね?」
「うん、そうだよ」
「ですが……」
スバルはもう一度室内を確認する。
見覚えがあるようで、どこか違う。
その僅かな違和感を感じ取っているのだろう。
「もしかして私は、また少し面倒なところに来てしまったんでしょうか?」
「どういう意味!?」
スバルの口元に、ほんの僅かに笑みが浮かんだ。
その反応を見て、先生も少し安心する。
少なくとも、突然呼び出されてパニックになっているわけではなさそうだった。
「じゃあ、とりあえず説明するね」
「お願いします」
先生はどうして募集したのかについて簡単に説明した。
話を聞いている間、スバルは何度か小さく頷いていた。
特に驚いた様子もなく受け入れているあたり、彼女自身にも思い当たるところがあるのかもしれない。
「……なるほど」
先生の説明が終わると、スバルは静かに息を吐いた。
「それで、さっそくだけどトリニティまで護衛をお願いしてもいいかな?」
「トリニティ……ですか」
「うん。ティーパーティーの三人に呼ばれてるんだ~」
「…………」
スバルは何かを考えるように目を伏せた。
彼女の知っている過去において、トリニティとアリウスの間には決して軽く語れないものがあった。
それでも今のスバルは、トリニティという名前を聞いただけで敵意を表へ出すようなことはしなかった。
ただ、そこに向かう理由だけは少し気になるようだった。
「相談の内容は聞いているんですか?」
「まだ。電話じゃ話せないみたい」
「そうですか……」
スバルは静かに頷いた。
「わかりました。では、行きましょうか」
「…いいの?」
「はい」
迷いのない返答だった。
「先生が行くなら例え地獄にでもお供しますよ」
「はは、頼もしいね」
スバルは少しだけ困ったような笑みを浮かべた。
「先生を一人にして、また何か起きても困りますから」
「みんな私を何だと思ってるの?」
「放っておくと、いつの間にか大変なことの中心にいる人……でしょうか?」
「否定出来ない……」
肩を落とした先生の姿を見て、スバルは今度こそ楽しそうに笑った。
目の前にいる先生は、自分の知っている先生よりもずっと多くのことをまだ知らない。
自分たちがこれまで経験してきたことも、この先生がこれから経験するかもしれないことも。
それでも、困っている生徒がいれば首を突っ込み、自分自身の安全については後回しにしてしまうところは何も変わっていないらしい。
「それじゃあ、お願いね。スバル」
スバルは静かに頷いた。
「先生の護衛くらいなら、お任せください」
そして二人は、他のシャーレの面々へ気付かれないよう、トリニティへ向かうのだった。
◆
トリニティへ向かう道中、スバルはいつもより少しだけ静かだった。
募集によって突然この世界へ来たのだから当然と言えば当然なのだが、先生にはそれ以外にも理由があるように見えた。
車窓の向こうへトリニティ自治区の街並みが見え始めると、スバルの視線は自然と外へ向けられた。
車窓の向こうには整然とした街並みが広がり、綺麗に整備された店の前をトリニティの生徒たちが行き交っている。
道端にあるカフェでは、生徒たちが楽しそうに談笑している。
「…………」
「スバル?」
「……すみません」
声を掛けられ、スバルが我に返る。
「何か気になるものあった?」
「いえ」
一度そう答えたものの、もう一度窓の外を見る。
「カフェ……なんだか高そうな場所だな、と」
「入ったことないの?」
「……あまり、こういうところには来られなかったので」
その言葉は淡々としていたが、先生はそれ以上深く聞かなかった。
「じゃあ、時間ある時に一緒に行こうか」
「え?」
「せっかくここまで来たんだから。色々見てみるのもいいと思うよ」
「…………」
スバルは一瞬、どう答えるべきか迷ったようだった。
「先生は……いつもそんなことを言うんですか?」
「多分? 気付いたら言ってるから」
「ハァ……相変わらず人たらしですね」
そう言いながら、スバルの表情はほんの少し柔らかくなっていた。
◆
やがて先生とスバルはトリニティへ到着し、指定されていたティーパーティーの管理している一室へ案内された。
扉を開けると、既に三人が待っていた。
「お待ちしておりました、先生」
「ごめん、待たせた?」
「いえ。予定より早いくらいです」
現地ナギサは立ち上がり、いつものように先生を迎えようとする。
しかし、その途中で先生の隣にいる見知らぬ少女へ気付き、僅かに動きを止めた。
「……そちらの方は?」
「ああ、ごめん。先に説明するね」
先生は事情を話した。
一人で来ようとしたところアロナに止められたこと。
しかしシャーレの生徒へ秘密にしてほしいというナギサとの約束もあったため、募集で新しく来た生徒を護衛として連れてきたこと。
「つまり、私たちの頼みを守るために、新しい生徒を異世界から呼び出した、と?」
現地セイアが少しだけ面白そうに目を細める。
「言葉にすると凄いことやってるね」
「今気付いたのかい?」
現地ミカが楽しそうに笑った。
「こんなわがままも守るなんて先生らしいね☆」
「褒められてる?」
「もちろん」
そんな先生たちのやり取りを横で見ていたスバルだったが、やがて一歩前へ出た。
「梯スバルです。突然同席する形になってしまい、すみません」
「その腕章は――」
ナギサの表情が僅かに変わる。
「アリウスの方ですか?」
「はい」
「……そうですか」
現地ナギサは何かを考えるようにスバルを見たが、すぐに先生へ視線を戻した。
「今回のお話を考えれば、むしろアリウスの生徒さんが同席してくださるのは都合が良いかもしれません」
「アリウス?」
その言葉に、スバルが露骨に反応した。
先ほどまで比較的穏やかだった表情から僅かに柔らかさが消え、声も一段低くなる。
「……アリウスに、何かあったんですか?」
「…………」
三人が少し気まずそうに顔を見合わせた。
その反応を見たことで、スバルの表情はさらに真剣になる。
スバルはティーパーティーの三人へ向き直った。
「アリウスにいるみんなが、何か問題を抱えているんですか!?」
「問題……」
現地ナギサは少し言葉を選ぶ。
「そうですね。確かに問題ではあります」
「何があったんです!?」
スバルの問い掛けに対し、現地セイアが小さく溜息を吐いた。
「まずは落ち着いて座った方がいいと思うよ。話せば、それほど緊急性の高いものではないと分かるからね」
「……本当に?」
「少なくとも、君が想像しているような話ではないと思う」
それでもスバルは完全には警戒を解かなかった。先生と並んで席へ座る。
現地ナギサは用意されていた紅茶をそれぞれの前へ置くと、少し困ったような表情で本題へ入った。
「最近、アリウスの生徒さんたちが自治区の外へ出る機会が増えていることは、先生もご存じですよね?」
先生は頷く。
エデン条約を巡る一件を経て、以前よりアリウスと外部との接触は増えている。
まだ全てが解決したわけではない。しかし、それでも少しずつ外へ出ようとする生徒は増えていた。
「そのこと自体は、私たちも良い変化だと思っています」
ナギサはそう前置きする。
「ただ……」
そこで言いづらそうに言葉を止めた。
「何かトラブルが?」
先生が尋ねる。
「はい」
「どんな?」
ナギサはしばらく迷った後、観念したように口を開いた。
「先日、トリニティ自治区を歩いていたアリウスの生徒さんが、見知らぬ人に飴を貰って付いていきそうになりました」
「えぇ!?」
先生が固まる。
「!?」
スバルも固まった。
「飴ですか?」
「そうです」
「飴って……あの、食べる飴ですか?」
「他にどの飴があるんだい」
現地セイアが疲れたように答える。
現地ナギサも頭が痛そうに話を続けた。
「偶然近くを通り掛かったトリニティの生徒が異変に気付き、間へ入ったので何事もありませんでした。ただ、本人は飴をくれる良い人だったのに、と不思議そうにしていたそうで……」
「…………」
スバルは何も言えなくなった。
先ほどまで浮かべていた険しい表情が、別の意味で崩れていく。
「数日前には、明らかに条件のおかしい高額アルバイトへ応募しようとしていた子たちもいた」
「高額アルバイト?」
「仕事内容は曖昧。身分証明書を預ける必要があり、詳しい場所は採用後に教える、と書かれていたそうだ」
「…………」
先生が額を押さえた。
「それは駄目なやつだね」
スバルも数秒黙った後、小さく息を吐いた。
「……すみません。想像していたものとは、かなり違いました」
スバルはすぐに表情を戻した。
「ですが、放っておいていい話でもありませんね」
「スバルさんの言う通りです。そして、これはまだ分かりやすい例です」
「まだあるの?」
先生が尋ねると、今度は現地セイアが本当に疲れたような溜息を吐いた。
「彼女たちはね、どういうわけか食べ物を出されると急激に警戒心が下がるんだ」
「…………」
「普段なら怪しい相手を見れば警戒するし、銃を向けられれば即座に反応出来る。それなのに、食べ物を渡されると話が変わる」
「例えば?」
そう先生に問われた現地セイアは指を一本立てた。
「日雇いの現場作業をした子がいた。仕事内容から考えれば、一日働いて一万円前後は貰っていいものだったそうだ」
「うん」
「報酬は現物支給だったそうだ」
「何を貰ったの?」
「大きめのお弁当を一つだけだ」
「…………」
「本人は非常に喜んでいたそうだよ」
先生は静かに顔を覆った。
「別の子は施設警備を半日行った」
「そっちは?」
「パンが三つ」
「安いよ!」
流石に先生も声を上げた。
現地ミカが隣で苦笑いを浮かべていた。
「流石にダメだよね~☆」
「もちろん、本人たちは不満を言っていません。むしろ『こんなに貰っていいのか』と喜んでいるのですが……」
「それが一番危ないね……」
「ええ」
現地ナギサの表情は真剣だった。
「戦闘能力や危険察知能力の問題ではありません。ですが彼女たちは、一般社会で生活するために必要な知識があまりにも不足しています」
「箱入り娘みたいだね」
「少々特殊すぎる箱だがね」
スバルはそんなやり取りを聞きながら、しばらく無言で紅茶を見つめていた。
「…………」
「スバル?」
先生が声を掛ける。
「……すみません」
少し遅れて顔を上げる。
「アリウスにいるみんなのことを考えていました」
心配そうではある。しかし最初の頃のような険しさは、もう無かった。
「あの子たちのためにも、頑張らないと」
先生は頷いた。
「そうだね。でもスバルもあまり無茶はしちゃだめだよ?」
「……私?」
一瞬、スバルの目が少しだけ見開かれた。
「心配していただき……ありがとう、ございます……」
どこか照れたように視線を逸らす。
そんな二人を見ていた現地ミカが、楽しそうにニヤニヤしていた。
「……ミカ?」
「何でもないよ~☆」
「絶対何かある顔だよ」
現地ナギサが一度咳払いをする。
「先生、改めてお願いがあります」
現地ナギサだけではない、残りの二人も改めて先生を見る。
「アリウスの生徒さんたちへ、一般常識や社会で生活していくための知識を教えていただけませんか?」
「わかった。喜んで引き受けるよ」
先生の返事は早かった。
「ありがとうございます」
現地ナギサの表情がようやく少し緩んだ。
「私たちも可能な限り協力します」
「それじゃあ、今度は実際にアリウスに行ってみようか」
「……私も同行して構いませんか?」
スバルが静かに尋ねた。
「引き続きよろしく頼むよ」
先生は笑う。
「スバルもみんなに会ってみたいでしょ?」
スバルは一度だけ目を伏せた。
アリウスにいる生徒たちの事や、この世界のマイヤの事を思い浮かべる。
「…………そうですね、気にならないと言えばウソになりますね」
話は決まった。
これから先生とスバルはアリウスへ赴き、そこで暮らしている生徒たちへ一般社会で生きるための知識を教える。
いたって簡単な頼まれごとだった。
先生が紅茶を一口飲んだ後、ふと何かに気付いたようにナギサへ顔を向けた。
「そういえば、この内容なら、別にシャーレのみんなに内緒にしなくても良かったんじゃない?」
「「「…………」」」
現地ナギサの動きが止まった。
現地ミカがさっと視線を逸らす。
現地セイアは目を閉じたまま何も言わない。
「……あれ?」
妙な反応だった。
「何か他にもあるの?」
「いえ、そういうわけではありません」
現地ナギサはすぐに否定した。
「じゃあどうして?」
「それは……その……。シャーレにいらっしゃる皆さんは……個性的ですから」
先生は黙った。
「別に悪く言うつもりはありませんよ!?」
「う、うん」
「皆さん素晴らしい方々だと思っています」
「うん」
「ですが、一般常識を教えるという役割について考えますと……」
そう言われてしまい先生も少し考えてみた。
先生の頭の中で候補が次々と消えていく。
最後まで残ったのは二人だった。
「ヒナとユメかなぁ……」
「そのお二人なら、比較的安心出来そうですね」
「でもヒナは最近、風紀委員会からしょっちゅう応援要請が来てるみたいだし……」
未来から来たヒナが増えたことで、ゲヘナの問題児たちが多少大人しくなったとはいえ、風紀委員会が暇になったわけではない。
「ユメは……」
先生の脳裏に、いつも明るく笑っている梔子ユメの姿が浮かんだ。
優しいし、面倒見もいい。
アビドスの元生徒会長として責任感もある。
ただし。
「悪意に疎いし……天然なんだよなぁ……」
ナギサと先生の視線が合った。
「ご理解いただけましたか?」
「よくわかったよ」
先生は素直に頷いた。
「ではお願いします」
現地ナギサが深々と頭を下げた。
先生はこれから始まるアリウスでの授業が一体どんなものになるのか想像した。
読み書きや戦い方を教えるわけではない。
知らない人から食べ物を貰っても付いていかないこと。
怪しい求人へ応募しないこと。
働く前に給料と条件を確認すること。
パン三つで半日警備を引き受けないこと。
あまりにも基本的なことばかりである。
それでも、アリウスの生徒たちがこれから外の世界で普通に生きていくためには、きっと必要なものなのだろう。
そして何より先生は少しだけ嬉しかった。
彼女たちの問題が、今日を生き延びられるかではなく、知らない人から貰った飴についていかないようにしよう、になったことが。
以前よりずっと平和で、ずっと普通の先生がいくらでも手伝える問題へ変わったことが。
「よし。じゃあ次はアリウスだね」
先生は立ち上がった。
「わかりました」
スバルも席を立つ。
こうして、新たに募集された梯スバルを加え。
先生たちは、アリウス自治区を訪れることになった。
そこで待っているのは、かつてのような絶望でも戦いでもない。
少なくとも今のところは、ごく当たり前のことを教えるための少し変わった授業だけだった。