社会科見学の計画を立て始めてから、およそ一週間。
各学園との調整や移動手段の確保、参加するアリウス生の選定と班分けまで一通り終わり、先生たちは予定通り最初の目的地であるトリニティ総合学園へとやって来ていた。
今回の参加者は先生を中心に、募集で来たスバルと現地スバル。そして、これまで自治区の外へ出る機会が少なかった生徒を中心に選ばれた数名のアリウス生だった。
本来ならばアリウススクワッドも同行する予定だったのだが、急遽どうしても外せない用事が入ってしまい、不参加となってしまった。
そして今回、社会科見学へ参加するアリウス生の中には偶然にも、スバルが少なからず気に掛けていた少女も混ざっていた。
立木マイア。
彼女もまた、ベアトリーチェの支配が終わった後もしばらくは外の世界へ強い警戒心を抱き、自治区の外へほとんど出ようとしなかった側の一人だった。
最近になってようやく外へ興味を持つようになったものの、一般社会についての知識はまだ乏しい。
トリニティ自治区へ足を踏み入れてからも、マイアは周囲を珍しそうに眺めながら、どこか落ち着かなさそうに先生たちの近くを歩いていた。
「すごい……」
ぽつりと漏れた言葉に、先生が振り返る。
「何か気になるものあった?」
「全部ですね」
「全部!?」
「建物も綺麗ですし、人も多いし……道に穴が空いてないですね」
「最後の基準が悲しいなぁ……」
しかしマイア本人は大真面目だった。
アリウス自治区では、今でこそ修復が進んできたとはいえ、まだ過去の傷跡があちこちに残っている。それに比べれば、隅々まで整備されたトリニティの街並みはまるで別世界に見えても不思議ではない。
通りには綺麗な制服を着た生徒たちが行き交い、道沿いには菓子店や衣料品店、雑貨店などが整然と並んでいる。どこからともなく甘い焼き菓子の香りまで漂ってきており、アリウス生たちも自然とそちらへ視線を向けていた。
「先生、本当に今日は、好きに見て回っていいんですか?」
「もちろん。ただし社会科見学だからね。買い物の仕方とか値段とか、ちゃんと勉強もしながらだけどね」
「わかりました!」
マイアが笑顔で頷いていた、その少し後ろでは、スバルがそんな彼女の様子を静かに見守っていた。
自分が知っているマイアとは、歩んできた道も経験したことも違う。
それでも彼女がこうして外の街並みを見て目を輝かせているだけで、スバルには感じるものがあった。
「……良かった」
「どうかした?」
「いえ。何でもありません」
やがて一行が事前に指定されていた待ち合わせ場所へ近付くと、少し離れたところからこちらへ向かって手を振る生徒の姿が見えてきた。
「先生~! こっちっす!」
「ん?」
先生も足を止め、声のした方向を見る。
そこに立っていたのは、先生にとって見覚えのないトリニティの生徒だった。
長い髪を揺らしながらこちらへ駆け寄ってくると、一度先生たちの人数を確認し、それから軽く頭を下げる。
「初めましてっす、先生。自分、正義実現委員会の仲正イチカっていうっす」
「初めまして、イチカ。今日はよろしくね」
「はいっす! 今日はティーパーティーから、皆さんの案内と護衛を任されてるっす。まあ、この辺りで何かあってもすぐ対応出来るんで、安心して見学していってほしいっすよ」
明るく気さくな口調だった。
正義実現委員会から護衛が来るとは事前に聞いていたものの、実際に誰が担当するのかまでは知らされていなかったため、先生は改めてイチカへ頭を下げる。
「助かるよ。こっちは私とこっちが募集で呼んだシャーレのスバル、それからこっちがアリウスのスバル。それに今日の社会科見学へ参加してくれるアリウスのみんなだよ」
「よろしくお願いするっす」
イチカもアリウス生たちへ視線を向け、一人一人へ軽く会釈する。
マイアたちは初めて会う正義実現委員会の生徒を少し警戒するように見ていたものの、イチカの柔らかな雰囲気もあってか、すぐに小さく頭を下げ返していた。
「今日はそんなに堅苦しく考えなくて大丈夫っすよ。分からないことがあったら、何でも聞いてくださいっす」
「わ、わかりました」
マイアが答えると、イチカも安心したように笑った。
「それじゃあ、早速――」
そう言い掛けたところで、先生はふとイチカの後ろへ視線を向けた。
そこには見覚えのある顔とそれ以上に見覚えのある服装の三人が佇んでいたからだった。
「……なんでまだ着てるんだ?」
先生の口から、思わずそんな言葉が漏れた。
イチカの背後には、例のクソダサTシャツを堂々と着たナギサ、ミカ、セイアの三人が並んでいた。
「先生、お待ちしておりました」
「おっはよ~、先生☆」
「やあ。今日は随分と人数が多いんだね」
三人とも、もはやその格好を恥ずかしがる様子すらない。
むしろ完全に普段着として馴染み始めていた。
「今日は、よろしくね…?」
先生はそんな三人を眺めた後、ちらりとイチカを見る。
すると先ほどまで爽やかな笑顔を浮かべていたイチカの表情が、一瞬で疲れ切ったものへ変わった。
「御三方! いい加減に早く着替えてきて下さいっす! 何度言わせるんすか!?」
「何故ですか?」
ナギサが本当に分からないという顔をする。
「何故って、その格好でトリニティ中を歩くつもりなんすか!?」
「別に構わないでしょう」
「構うっすよ!」
「でも、もう一人のナギちゃんたちが着てるわけじゃないからモーマンタイじゃんね?」
ミカも特に気にした様子はなく、自分のTシャツの裾を軽く摘まんだ。
「私たちは募集で来た別人なんだし、この世界の私たちには関係ないでしょ?」
「それは事情を知ってる人にしか通じない理屈っすよ!」
イチカが頭を抱える。
「何も知らないトリニティ生が見たら卒倒するっすよ! 現に朝ここで待ち合わせしてからずっと一緒にいる私ですら、何度目眩したと思ってるんすか!?」
「大袈裟ですね」
「大袈裟じゃないっす!」
ナギサへ食い下がるイチカの横で、セイアは完全に我関せずという顔をしていた。
「今更着替えるのも面倒だね。それに、服装など本人が好きなものを着れば良いのではないかな?」
「好きで着てるんすか、それ!?」
「意外に着心地がよくてね、重宝しているよ」
「それでもお願いですから着替えて欲しいっす! 後でティーパーティーに何を言われるか戦々恐々なんですよ!」
「ドンマイとしか言えないね」
「私を助けると思って着替えて来てくださいっす~!!」
イチカの悲鳴がトリニティの通りへ響く。
マイアを含めたアリウス生たちは、そのやり取りを何とも言えない顔で眺めていた。
先生も少しだけ考えてから、アリウス生たちへ念のため説明する。
「一応言っておくけど、トリニティではああいう服が普通ってわけじゃないからね?」
「わかりました」
マイアは素直に頷いた。
「本当にそこだけは覚えないでほしいっす……」
既に疲れ切った様子のイチカが、肩を落としながら呟いた。
若干の不安を残しつつも、社会科見学そのものは順調に始まった。
「まずは、実際のお店を見ながら商品の値段とか、普通の買い物について覚えていこうか」
先生の説明を、アリウス生たちは真面目に聞いている。
「欲しいものがあっても、まず値段を確認する。自分が持ってるお金で買えるか考える。必要なら他のお店とも比べてみる。そういうところからやってみよう」
「わかりました」
「質問してもいい?」
「もちろん」
思っていた以上に反応も良い。
この前まで自治区の外へ出ることさえ怖がっていた生徒もいるという話だったため、先生も最初はかなり心配していた。
しかし実際には、皆周囲を警戒しながらも、それ以上に初めて見るものへの好奇心が勝っているらしい。
「なんか順調っすね。この調子なら、今日はかなりいい経験になるんじゃないっすか?」
イチカも少し安心したように笑う。
「うん。最初にトリニティを選んで正解だったかも」
街は綺麗、治安もいい、店舗も豊富、店員たちも丁寧。
社会科見学の最初の目的地として、これ以上ない環境に思えた。
少なくとも。値札を詳しく見るまでは。
最初に違和感へ気付いたのはマイアだった。
菓子店の前で足を止め、小さな焼き菓子の値札をじっと見ている。
「これ……一個で、この値段なんですか?」
「お、どれどれ~?」
先生もマイアと一緒に値札を覗き込むと驚愕した。
思っていた値段より数段高かった。
「まあ……ちょっと良いお菓子なんじゃないかな?」
「お菓子って、こんなに高いんですか?」
「全部が全部じゃないよ!」
先生は少し苦笑しながら答える。
まだ最初の一軒だ。高級店だっただけかもしれない。
ところが、次の店でも似たような状況が起きた。
「先生!」
「今度は何?」
「紅茶ってこんなにするの?」
「………え?」
さらに雑貨店。
「このカップ……」
「…………高いね」
衣料品店。
「先生、この服……」
「おかしいな……?」
先生が少しずつ不安になり始める。
アリウス生たちも、最初は真面目に値段をメモしていたのだが、次第にこれが普通なんだなというダメな方向に学びを得てしまった。
「外って、お金がいっぱい必要なんだね!」
「待って待って! その結論はまだ早いから!」
先生が慌てて止めた。
「でも全部このくらいの値段だよ?」
「それは……どういう事だ…?」
「トリニティだからっすねぇ……」
イチカが申し訳なさそうに横から答えた。
「あっそういうこと!?」
「そうっす。トリニティは他の学園と比べると、全体的にちょっと物価高いんすよ。特にこの辺は富裕層向けのお店も多いんで」
「最初に言ってよ!」
「先生がトリニティなら買い物の勉強に向いてそうって嬉しそうだったんで、言いづらかったっす!」
「そこは止めてくれるとうれしかったな~!」
先生が頭を抱えていると、ナギサが不思議そうな顔で値札を覗いた。
「それほど高いとも思いませんが?」
「え?」
先生が顔を上げると、ちょうどセイアも同じ商品を確認して静かに頷いた。
「私も特別高価とは思わないね。品質を考えれば妥当な範囲ではないかな?」
アリウス生たちはナギサとセイアを見る。
「これが普通なの?」
「ええ、一般的なお値段だと思いますよ」
ナギサが平然と答える。
「ナギちゃんステイ!」
今度はミカが慌てて割り込んだ。
「ナギちゃん、これ全然普通じゃないからね!?」
「そうなのですか?」
「そうだよ!」
ミカが値札を指差す。
「こんなの普通の学生が気軽にポンポン買う値段じゃないから!」
「しかし、この程度なら日常的に――」
「ナギちゃんの日常を基準にしちゃ駄目!」
「心外ですね……!」
ナギサは本気で納得していないようだった。
先生は今度はセイアを見る。
「セイアは?」
「私もナギサに同意するよ」
「そうだった! セイアちゃんもナギちゃんも普段がアレだから忘れてたけど、クッソセレブだったじゃんね!」
ミカが頭を抱えた。
「事実を述べただけなのだが…?」
「御二方の普通は一般的な普通とはちょっと違うっすよ! 今日はアリウスの皆さんに一般的な金銭感覚を覚えてもらう日なんすよ!? ティーパーティー基準を植え付けたら余計ややこしくなるっす!」
先生はアリウス生たちを見ながら自分の考えが間違えたことを考えていた。
「……もしかして、場所選び間違えたかな?」
「まだ始まったばかりっすよ!」
イチカは励ましてくれた。ただ、その声にあまり自信は無さそうだった。
それでも、せっかく来たのだから何も見ずに帰るわけにはいかない。
先生たちはイチカとミカから【トリニティ価格】と【一般的な価格】の違いを説明してもらいながら、いくつかの店舗を回ることにした。
アリウス生たちも、最初こそ混乱していたものの、普段なら入る機会のない店を見て回ること自体はかなり楽しいらしい。
特に衣料品店へ入った時は、今まで以上に反応が良かった。
「わぁ……」
マイアが思わず声を漏らす。
店内には様々な服が並んでいた。
シンプルなものから、可愛らしいもの、少し大人びたものまで様々置いてあった。
アリウスでは実用性を重視した服ばかりを使ってきた生徒たちにとって、自分の好みだけで選ぶための服がこれだけ大量に並んでいる光景そのものが新鮮だった。
「少し自由に見てきていいよ~」
先生が声を掛けると、何人かのアリウス生が嬉しそうに店内へ散っていく。
ただ、値札を見た途端に足が止まった。
「これは流石に見るだけかなぁ~?」
「そうですね」
スバルも先生の横で値札を見ながら苦笑する。
「今日の目的は買い物そのものではありませんし、値段を見るだけでも勉強にはなると思います」
「そうでしょうか?」
後ろからナギサの声が聞こえた。
「ナギサ?」
「気に入ったのでしたら、買えばいいのでは?」
そうナギサに言われ、先生がもう一度値札を確認する。
「これを…? 結構するよ?」
「リーズナブルですよね?」
「嘘だろ!?」
先生が思わず強く答えた。
するとセイアまで服を手に取って確認する。
「確かに安価とは言えないが、品質は良さそうだ。長く着るなら悪くないと思うよ」
「セイアまでどうしたの!? いつものわんぱくフォックスに戻ってよ!!」
先生はどこか嫌な予感がした。そしてその予感はすぐに現実のものになる。
アリウス生の一人が、とても気に入ったらしい服を手にしながらも、値札を見て棚へ戻そうとした所を見たナギサが声を掛けた。
「それが欲しいのですか?」
「うん……でもお金足りないから……」
「では、私が出しましょう」
「え?」
突然ナギサに言われたアリウス生は固まってしまった。
「ナギサ!?」
「何でしょうか?」
「今なんて?」
「私が代わりに支払うと言っただけですが?」
「聞き間違いじゃなかった……」
セイアもごく自然に財布を取り出す。
「ならば、他の子たちも気に入ったものがあれば選ぶといい」
「ちょっと待つっす!」
「ナギちゃん! セイアちゃん!」
イチカとミカがほぼ同時に飛んできた。
「何ですか?」
ナギサは終始不思議そうだ。
「何ですかじゃないっす! 今日は社会科見学っすよ!?」
「承知しています」
「何でも買ってあげたら金銭感覚の勉強にならないっすよ!」
「ですが、欲しいものがあるのに諦めさせるのはかわいそうでしょう?」
「そういう話じゃないっす!」
イチカが必死に説明する横で、ミカもセイアへ詰め寄る。
「セイアちゃんも財布しまって!」
「どうしてだい?」
「今日の目的忘れてるでしょ!」
「忘れてはいないよ。商品の値段を学び、買い物を経験するのだろう?」
「経験の部分だけ豪快に飛ばしてるじゃん!」
「実際に購入するのだから、より実践的では?」
「お金出すのセイアちゃんじゃん!」
至極真っ当なツッコミだった。
しかしナギサもセイアも、まるで気にしていない。
むしろ二人とも、遠慮して服を棚へ戻そうとしているアリウス生たちの方へ向き直る。
「皆さん、せっかく来たのですから、好きなものを選んでくださいね」
ナギサが柔らかく微笑む。
「遠慮する必要はないよ。気に入ったものを自分で選ぶといい」
セイアも続ける。
その二人の言葉にアリウス生たちが顔を見合わせた。
「…………!」
その瞬間、アリウス生たちの目が輝いた。
「選んでくる!」
「私も!」
「これでもいいの!?」
「構いませんよ」
「やった!」
先ほどまで遠慮していたのが嘘のように、皆が嬉しそうに服を選び始める。
「待ってくださいっすー!!」
イチカの悲鳴も。
「だからそういう勉強じゃないって!」
ミカの制止ももう誰の耳にも届かなかった。
「…………」
先生はその光景を呆然と眺めていた。
隣ではスバルも同じような顔をしている。
「これ……駄目なんじゃないでしょうか?」
「私もそう思う」
「止めなくていいんですか?」
「止めたいんだけど……」
先生は楽しそうに服を選ぶアリウス生たちを見る。
今まで自治区の外へほとんど出たことのなかった子たちが、自分の好みで服を選び、友達同士で「どっちが似合う?」と相談している。
「……経緯は滅茶苦茶だけどこれはこれで大事な経験だと思うんだよね」
「それは……」
スバルも言葉に詰まってしまう。なぜならその気持ちがわかってしまうから。
その時、先生はあることに気付いた。
「あれ? もう一人のスバルは?」
「え?」
二人が周囲を見回すが、先ほどまで近くにいたはずの現地スバルがいない。
そして、少し離れた服売り場で現地スバルがマイアと一緒に、何食わぬ顔で服を見ていた。
「この服、マイアに似合うと思う」
「でも、高いですよ…」
「あの二人が払うから問題ない」
「まぁ、そうですけど…」
マイアはナギサとセイアを見る。
二人は別のアリウス生たちへ「もっと選んでも構いませんよ」と声を掛けていた。
それを聞いていた現地スバルが別の服を手に取る。
「こっちも悪くない」
「スバル先輩も選ぶんですか?」
「いいかマイア、これだけは覚えておいて。貰える物は病気以外貰っておけという素晴らしい言葉があるんだ」
先生が口を半開きにした。
「しれっと便乗してる……」
スバルはすぐにもう一人の自分に向かっていく。
「ちょっと待ってください!」
「何だ?」
「何だではありません! 何を普通にあなたまで選んでるんですか!」
「私服」
「それは見れば分かります!」
「外へ出るなら必要だろう?」
「理屈は合ってますけど、そういう問題じゃありません!」
現地スバルは騒いでいるもう一人の自分を半ば無視して、手に持っている上着を身体へ合わせる。
「似合う?」
「似合ってますけど! そこじゃないんですよ!」
「ならこれにしようかな」
そして近くにいるマイアへ向き直る。
「マイアはどうします?」
「……私はこれにしようと思います」
「よし、決まりだな」
「勝手に話を進めないでください!」
「ナギサ達に案内を頼んだのは、判断ミスだったかなぁ?」
社会科見学の案内役としてトリニティに詳しい人間を連れてきた。その判断自体は間違っていなかったはずだった。
しかし、どうやら金銭感覚まで一般的とは限らなかったらしい事に遅れて気が付く先生なのだった。
◆
その後、ナギサとセイアが一体いくら使ったのか、先生は考えないことにした。
少なくともアリウス生たちは非常に満足していた。
それぞれ新しい服の入った袋を抱え、嬉しそうに中身を見せ合っている。
マイアも最初こそ遠慮していたものの、最終的には自分で選んだ服を一着と、しれっと現地スバルに勧められたものを一着買ってもらったらしい。
「良かったね」
「……うん!」
マイアは少しだけ恥ずかしそうに買い物袋を抱え直した。
「自分で服を選んだの、初めてかもしれません」
その言葉を聞けば、今日の出来事を完全な失敗だとは思えなかった。
一般的な金銭感覚を身につけてもらうという意味では、かなり怪しくなってしまったけれど、友達と一緒にお店で自分の好きな服を探す。
そんな当たり前の経験を、今日初めて出来た生徒もいる。
それはそれで、大切な一歩なのかもしれなかった。
「社会科見学としては……どうなんでしょうね?」
スバルが小さな声で話し掛ける。
「それは聞かないで」
「ですよね」
二人揃って苦笑する。少し前では現地スバルも、新しく買ってもらった上着を早速羽織っていた。
「…………」
壁へ背を預け、腕を組む。
新品の私服になったせいで、以前にも増してばっちり決まって見える。
現地スバルが褒めて欲しそうにこちらに視線を送りながら。
「どう?」
「似合ってるよ」
「……だろうな」
僅かに口元が緩む。スバルがそれを見逃さなかった。
「いつもの興味ないねって言わないんですか~?」
「別にいつも言うわけじゃありません」
「その調子で普段の言動も直してくれると私的にはありがたいのですが」
「それとこれとは別です」
「都合良すぎませんか!?」
再び二人のスバルが言い合いを始める。
先生がニコニコしながらその様子を見ていると、少し離れた場所からミカがアリウス生たちを呼び集めていた。
「みんな~、ちょっといい?」
「?」
アリウス生たちが集まる。
ミカは皆が抱えている買い物袋を見て、楽しそうに笑った。
「今日、楽しかった?」
「うん!」
「服も嬉しい?」
「嬉しい!」
「そっかそっか☆」
ミカも満足そうに頷く。
それから横にいるナギサとセイアを見る。
二人は大量の買い物をしたにもかかわらず、まったく気にした様子もなく穏やかな顔をしていた。
「じゃあ最後に、すっごく大事なこと教えてあげるね」
「大事なこと?」
「そうだよ~☆」
ミカはナギサとセイアを交互に指差した。
「みんな、あの二人みたいになっちゃ駄目だよ~? お金は大事だからちゃんと計画的に使おうね~☆」
ナギサが目を瞬かせる。
「どういう意味ですか?」
セイアも不満そうに眉を寄せた。
「ちゃんと計画的だっただろう? 人を金使いの荒い奴みたいに言うのは心外だね」
「いや~…今日に限ってはミカ様が全面的に正しいっすね」
イチカが即座に援護する。
「私もそう思う」
先生も頷いた。
「私もです」
スバルまで続く。
ナギサとセイアが揃って黙り込んだ。
「何故です?」
「何故だい?」
「そこからなんだ……」
先生は思わず天を仰いだ。
トリニティでの社会科見学は、治安という意味では確かに何の問題もなかった。
買い物も出来た。店員とのやり取りも経験した。自分で商品を選ぶということも覚えた。
ただし一番教えたかった、一般的な物価を学ぶという目的だけは、どう考えても達成出来たとは言い難かった。
「まあ……でもそれらを差し引いても二人には感謝かな」
先生は楽しそうに買い物袋を抱えているアリウス生たちを見る。
「社会科見学としてですか?」
「……外を楽しんでもらうって意味で」
「なるほど」
スバルも少しだけ笑った。
少なくとも今日の出来事をきっかけに、外の世界が怖い場所だけではないと思ってもらえたのなら。
多少予定通りではなくても、意味のない一日ではなかったはずだ。
「さて次は――ゲヘナだね」
「…………」
次の目的地を知ったイチカの表情が僅かに固まった。
「どうしたの?」
イチカは何とも言えない顔で先生を見る。
「いえ……今日みたいに平和に終わるといいっすね」
「大丈夫だよ。今回みたいに事前にちゃんと許可も取ってるし、向こうにも案内役をお願いしてるから」
先生は笑った。
「そうっすか……」
先生はかなり自信があるらしい。
トリニティでは物価という予想外の問題こそあったものの、事故や騒動が起きたわけではない。
ならば次も、きちんと準備していたので大丈夫だろう。
少なくとも、この時の先生はそう信じていた。