「止まれ馬鹿!!!」
慌てたスバルの叫び声が闇の中へ消えていく。しかし返事は返ってこなかった。
聞こえてくるのは、遠ざかっていく足音と、まるでそれを歓迎するかのように奥から流れてくるラッパの音だけだった。
「……そんな」
スバルは青ざめた顔のまま、現地スバルが消えた方向を眺めていた。
水着サオリも銃を握る手へ自然と力が入り、アツコも普段の柔らかな表情を完全に消している。
その三人の反応を見れば、何も知らない先生にだって、この場所が単なる入ってはいけないと言われている場所では済まないことくらい理解出来た。
「三人とも、何を知ってるの? さっきから様子がおかしいよ」
先生が問い掛けるものの、すぐに返事は返ってこなかった。
スバルは答えるより先に、現地スバルを追うべきか、それとも何も知らない先生たちをここへ残すべきかという判断に迷っているようだった。だが迷っていられる時間はない。
「先生、詳しい説明は後です」
ようやくスバルが口を開くと、その声には普段にはない切迫感が滲んでいた。
「私とサオリ、アツコさんでもう一人の私を連れ戻してきます。先生と他のみんなはここで待っていてください。絶対に奥へ入らないでください!」
「でも――」
「今は私の言うことに従ってください!」
強く遮られ、先生も言葉を止める。
スバルがここまで必死になっている姿を見るのは珍しい。
しかも水着サオリもアツコも、彼女の判断に異論を唱える様子はなかった。
「私からも頼む。先生はここに残っていてくれ」
水着サオリも真剣な表情で続ける。
「私たちはこの場所で起きることを知っている。もし以前と同じことが起きるなら、この世界のスバルを一刻も早く連れ戻さなければならない」
「以前と同じ……?」
先生がさらに尋ねようとした、その時だった。
「スバル先輩!」
先生たちの話を聞いていた一人の少女が、その横をすり抜けるように奥へ駆けていった
「マイア!?」
社会科見学から戻ってきた後、荷物を置きに行ったはずのマイアだった。
どうやらすぐに追跡へ戻ってきたらしい。手には武器まで持っている。
しかし今の彼女の顔からは、先ほどまで騒いでいた浮ついた様子など完全に消えていた。
「マイアさん、待ってください!!」
スバルが慌てて手を伸ばすが、その手は無情にも届かなかった。
「スバル先輩を一人には出来ません!」
マイアもそのまま禁足地へ飛び込んでしまった。
「ちょっ――!」
先生も反射的に一歩踏み出す。
「マイアまで入っちゃったよ!」
「……クソっ!!」
スバルが歯を食いしばる。これで、現地スバルだけを追えばいいという状況ではなくなった。
「仕方ない」
水着サオリが銃を構え直す。
「追うぞ。マイアまで巻き込むわけにはいかない」
「うん」
アツコもすぐに頷いた。
「先生は――」
「悪いけど、私も行くよ」
先生が今度はスバルの言葉を遮った。
「二人も入っちゃったのに、ここで待っていられない。それに何が危ないのか分からないなら、なおさら一緒に行った方がいいでしょう?」
「ですが……!」
「スバル」
先生は真っ直ぐ彼女を見る。
「私にも、ちゃんと何が起きてるのか教えてくれないか?」
「…………」
スバルは数秒迷った末、とうとう観念したように息を吐いた。
「分かりました。ただし、絶対に私たちから離れないでください」
「うん」
「何か異変があったら、私たちの指示に従ってください。それだけは約束してください」
「約束する」
先生の返事を確認し、スバルは禁足地の奥へ向き直った。
「行きましょう」
こうして先生、スバル、水着サオリ、アツコの四人も、現地スバルとマイアを追ってポルタパシスへ足を踏み入れることになった。
禁足地の内部は、外から見ていた以上に異様な場所だった。
アリウス自治区の荒廃した建物とはまた違う。
長い間人の手が触れていないというだけでは説明出来ないほど、空気そのものが重く感じられる。
朽ちた壁に崩れかけた通路。何のために作られたのかも分からない古い構造物。
先生が周囲へ視線を巡らせるたび、どこか見られているような妙な感覚が背中を這った。
「……ここ、本当に何なの?」
小声で尋ねると、スバルは走りながら答える。
「私たちの世界でも、元々は禁足地として扱われていました。ただ……私は一度、ここへ入りました」
「その時に何かあったんだね?」
「……そうです」
スバルの表情が強張る。
「でも今は、詳しく説明している時間がありません。もう一人の私を見つけてから話します」
それだけで十分だった。先生はそれ以上追及せず、前を走る三人についていく。
しばらく進むと、遠くから再びラッパの音が聞こえてきた。
――プォォォォォォ……。
外で聞いた時よりも、明らかに近い。
しかも音が壁へ反響しているせいか、どこから鳴っているのかまるで分からない。
「……この音」
水着サオリが眉を顰める。
「やはり同じだ」
アツコも頷いた。
「うん。嫌な感じがする」
「同じって、何と同じなの?」
先生の問いに、今度はスバルが一瞬だけ振り返る。
「私が、ここで聞いた音です」
「スバルが?」
「はい。そして、この先で――」
そこで。
「スバル先輩!!」
前方からマイアの叫び声が響いた。
「マイア!」
全員が一斉に速度を上げる。曲がり角を抜け。
崩れた壁を越え。少し広い空間へ出たところで。
先生たちはようやく二人を見つけた。
「っ……!」
マイアが、その場で立ち尽くしている。
「ぐ……っ」
現地スバルが壁へ片手をつき、もう片方の手で頭を押さえていた。
「スバル!」
先生が駆け寄る。
「大丈夫!?」
「……先生、待ってください!」
スバルの制止より早く、先生は現地スバルの肩へ手を伸ばしていた。
「……触るな!」
「っ!」
現地スバルが乱暴にその手を振り払う。
その反応に驚き、先生が一歩下がった。
「スバル先輩……?」
マイアも不安そうに近寄ろうとする。
「今は近付かないで!」
今度はスバルが強い声で止めた。
「でも、スバル先輩が苦しんで――」
「分かっています! だからこそです!」
スバルはもう一人の自分を睨みつけたまま、息を呑む。
頭を抱え、苦しんでいる姿。何かに抗うように歯を食いしばり。
聞こえていないはずの声に反応するように、時折身体を震わせる。
見覚えがある光景だった。
「先生……私の時と同じです」
スバルの声が掠れた。
「同じって!?」
「黙示録の天使です」
「……何?」
先生には聞き覚えのない名前だった。
「私たちが、ここに来た時……私はあれの依代にされました」
「依代……?」
「私の身体を使って、黙示録の天使が顕現したんです」
マイアも驚いたようにスバルを見る。
「じゃあ……今のスバル先輩も?」
「分かりません。でも、この状況は似すぎています」
水着サオリも銃を構えながら、現地スバルから目を離さない。
「私たちが経験した時も、最初はこうだった。スバルの中へ何かが入り込み、精神を揺さぶっていた」
「止める方法は?」
「……気絶させるくらいしかない」
アツコの表情も険しい。
「だから、最初からここに入ってほしくなかったの」
その説明を聞いて。先生はもう一度、苦しんでいる現地スバルを見る。
外からは何が起きているのか分からない。
ただ本人の内側では、確かに何かが始まっていた。
◆
――暗い。
現地スバルは、いつの間にか何もない場所へ立っていた。
距離さえも曖昧な空間。
ただ、遠くから聞こえてくるラッパの音だけが、自分の意識へまとわりついている。
「……どこだ、ここは?」
問い掛けても返事はない。代わりに。頭の中へ直接響くような声が聞こえた。
『スバル…貴女に頼みがある』
現地スバルは周囲を見回す。
「誰だ?」
『牛タンにレモンをかけないか?』
「……興味ないね」
スバルは即答したが、返ってきたのはしばしの沈黙。
だが、謎の声は諦めなかった。
『スバル。牛タンにはレモンが一番だ』
「しつこいぞ! 私はタレ派だ!」
現地スバルの眉間に皺が寄る。
『レモンを見るたび思い出せ……。貴女を導くのはレモンだ』
「……くっ!」
何故か、たったそれだけの言葉なのに頭の奥へ何かが染み込んでくる。
視界の端に黄色いものが見えた気がした。
『レモンはいつでも、貴女の傍にいる……』
「わ、たし……は……!」
駄目だ、何故だか分からない。
ただレモンの話をされているだけなのに。
頭が、意識が、徐々に染まっていく。
『レモンを……』
「やめろ……」
『レモンを……』
「私は……タレ派だ……!」
『レモンを……!』
「ぐあぁぁぁぁぁ!!!」
現地スバルが頭を抱える。
『良い子よ……』
◆
「ぐあぁぁぁぁぁ!!!」
「スバル!」
外の世界でも、現地スバルが突然大きな叫び声を上げた。
先生が再び駆け寄ろうとすると、水着サオリも身体を強張らせた。
「始まったか……!?」
「スバル先輩!」
マイアが悲鳴のように名前を呼ぶ。
「もう一人の私! 聞こえますか!?」
スバルも、もう一人の自分へ向かって叫ぶ。
「自分を見失わないでください! それに呑まれたら駄目です!」
「ぐ……っ!」
現地スバルは返事を返せない。壁へついていた手が震えている。
身体を支える力すら失ったのか、一度膝をつきかける。
「先生、下がってくれ!」
水着サオリが前へ出る。
「もし完全に顕現した場合、今のスバルがどうなるか分からない!」
「でも!」
「先生!」
「…………!」
先生は足を止めた。
目の前で苦しんでいる現地スバルを助けたい。出来る事ならすぐにでも支えてやりたい。
だが、自分は何も知らない。ここで何が起きているのか、黙示録の天使という存在がどれほど危険なのかも。
その場で唯一経験しているスバルたちが本気で警戒している以上、無責任に飛び込むことも出来なかった。
「スバル先輩……大丈夫……ですよね?」
マイアの声も不安からか震えだす。
「…………」
誰も、すぐには答えられなかった。
その時、現地スバルの動きが止まった。
現地スバルは頭を押さえていた手を、ゆっくりと下ろした。
「スバル?」
呼び掛けても返事はない。
代わりに壁へ片手をつきゆっくりと立ち上がる。
「……っ」
募集スバルの顔が強張った。
「駄目……」
見覚えがある。
あの時、自分が自分ではなくなっていった時と。
「正気に戻って……!」
声が届かない。
現地スバルが俯いたまま立ち上がる。
そして、背中から黒い何かがゆっくりと形を持ち始めた。
「…………!」
先生が目を見開く。
最初は影のように見えた。
だが、それは徐々に広がり一枚一枚の黒い羽根となっていく。
「翼……?」
先生の呟きと同時に。
――バサァッ!!
現地スバルの背中から、巨大な黒い翼が片側だけ一気に広がった。
誰も声を出せなかった。
黒い羽根が空気を揺らし、何枚かの羽が静かに床へ落ちる。
その中心に、目を閉じた現地スバルが静かに立っていた。
「スバル先輩……?」
マイアが恐る恐る呼び掛ける。
水着サオリが銃口を僅かに上げる。
アツコもいつでも動けるよう身構える。
募集スバルは、目の前の光景を信じられないものを見るように見つめていた。
「また、あの時と……」
その言葉を聞いた先生も、自然と身体へ力を入れる。
そして、現地スバルがゆっくりと顔を上げた。
何が起きたのか誰も予想出来ない中、現地スバルの口が動いた。
「……レモン一個には…レモン四個分のビタミンCがあるのか……!?」
現地スバルは発した言葉に全員の思考が完全に止まった。
「…………は?」
最初に声を出したのはスバルだった。
「…………」
現地スバル自身も、何かから醒めたように数回瞬きをする。
「私は……?」
周囲をキョロキョロと眺めた後に、自分の背中へ視線を向けると。
「…………お?」
黒い翼が片方だけ大きく堂々と、背中から生えている事に気が付いた。
その光景に現地スバルの目が僅かに見開かれた。
「……ふっ」
現地スバルはゆっくりと姿勢を正す。
片手を顔へ添え、僅かに顔を伏せ。
いかにも「決まっている」と本人が思っていそうな角度で立った。
「片翼の天使か……まるでセフィロスだな」
「そこなんですか!?」
スバルが叫んだ。
「今の状況で最初に気にするところ、本当にそこでいいんですか!?」
「何か問題がありますか?」
「問題しかないでしょうが!!!」
さっきまでの絶望的な空気が、一瞬にして崩れ落ちた。
「スバル先輩! 大丈夫なんですか!?」
マイアが現地スバルへ駆け寄る。
「問題ない」
現地スバルは落ち着き払った様子で答える。
「少し妙な声が聞こえていただけだ」
「妙な声?」
「牛タンにレモンを勧めてきた」
「…………」
先生が目を瞬かせる。
「牛タン?」
「私はタレ派だと言ったのに、しつこくレモンを勧めてきたから困ってしまった」
「黙示録の天使は何をしてるんですか!?」
よくわからない事態にスバルが頭を抱え始める。
「私の時と全然違うじゃないですか!!」
水着サオリも呆然としている。
「……私たちの知っている感じと随分違うな?」
「……そうだね」
アツコも困ったように頷く。
「でも少なくとも、私たちが経験した時よりは幾分かマシ……だと思うよ?」
マイアはそんな三人の困惑など気にしていなかった。
現地スバルの背中に生えた黒い翼を、目を輝かせながら見上げる。
「スバル先輩、すごくかっこいいです!」
「……そうか」
現地スバルは、あくまで冷静を装って小さく頷く。
「この程度、別に大したことではない」
その瞬間背中の翼がパタパタと忙しなく軽く羽ばたき始める。
「……スバル?」
「何だ?」
「その羽、すごく動いてるよ」
「…………え?」
現地スバルは不意を突かれたのか微動だにしない。
だが背中の黒い片翼だけはパタパタパタパタと明らかに喜んでいた。
「……嬉しいんですね!」
マイアが満面の笑みで言う。
「違う」
パタパタパタパタ。
「でもすごい動いてますよ!」
「これは私の意思とは無関係だ」
「もう一人の私」
スバルが半眼になる。
「もう隠せてませんよ」
「……興味ないね」
「そういう時だけその台詞で誤魔化さないでください!」
先生は思わず笑ってしまった。
「でも、確かに今のスバルはかっこいいよね」
スバルが勢いよく振り返る。
「先生までそっち側に行かないでください!」
「いや、だって黒い片翼って普通にかっこよくない?」
「そういう話をしているんじゃありません! それに私だって、絶望すれば両翼顕現だって出来ますよ!」
「分かるか、先生!」
「私を無視するな!!」
スバルを無視して、現地スバルが先生へ視線を向ける。
「分かるよ」
「やはり先生は話が分かる」
「意気投合しないでください!」
マイアも嬉しそうに翼を眺める。
「私も欲しいです!」
「マイアさんは絶対に影響を受けないでください!!」
スバルの悲鳴が、ポルタパシスの奥へ響き渡った。
水着サオリはそんな光景を見つめたまま、深々と息を吐く。
「……あれほど焦った私たちが馬鹿みたいだな」
「もう帰ろっか? 後一応聞くけど本当に大丈夫なの?」
アツコも呆れた表情で真面目に帰る事を検討し始める。
「大丈夫だ」
現地スバルが胸を張る。
「むしろ絶好調だ」
黒い翼が嬉しそうに大きく一度バサバサッと羽ばたいた。
「……絶好調なのは羽の方じゃない?」
先生が笑う。
「…………」
現地スバルは何も答えなかった。
代わりに黒い片翼だけが、また小さくパタパタと動いていた。