深夜のアビドス高等学校は、昼間よりもずっと静かだった。
砂を含んだ風が、窓の外を薄く撫でていく。
廊下の明かりは落ち、校舎の中には誰の足音もない。
そんな誰もいないはずの校舎に、小さな影が一つあった。
小鳥遊ホシノ。
彼女はいつもの眠たげな顔のまま、静かに廊下を歩いていた。
向かった先は、普段は使われていない空き教室。
埃っぽい机と椅子が並び、窓際のカーテンがかすかに揺れている。
ホシノはその中の一つの机に腰を下ろした。
「……こういうの、苦手なんだけどな~」
軽い声でそう呟く。
けれど、誰も答えない。
ホシノは鞄から紙を取り出した。
それは退部届だった。
小鳥遊ホシノは、アビドス高等学校対策委員会を退部する。
淡々とした形式の簡素な紙、名前を書いて、理由を書いて、提出すれば終わり。
それだけのはずなのに、ペンを握る手はなかなか動かなかった。
「……」
ホシノはしばらく茫然と退部届を見つめていたが、やがて、覚悟を決めたのか小さく息を吐く。
そうして書き始めて、胸の奥が少し痛みだすがそれを気づかないふりをするのだった。
次に取り出したのは、何枚かの便箋だった。
セリカちゃんへ
アヤネちゃんへ
ノノミちゃんへ
シロコちゃんへ
――先生へ。
一人ずつに向けた、別れの手紙。
何を書けばいいのか、分からなかった。
ごめんね。みんな怒るよね。
でも、これが一番いいと思ったんだ。
そんな言葉ばかり浮かんでくる。
どれも、言い訳染みた言葉ばかりで嫌になる。
「うへ〜……セリカちゃん、絶対怒るよね〜」
アヤネちゃんは泣きそうな顔で理屈を並べるだろう。
ノノミちゃんは泣き崩れて、きっと寂しそうに怒るだろう。
シロコちゃんは黙って追いかけてくるかもしれない。
先生は――
先生は、きっと止めてくれる。
だから、会わない方がいい。
ホシノはそう自分に言い聞かせて、便箋に思いを綴って静かにペンを置いた。
その時だった。背後から、気配もなく腕が伸びてきた。
「うぇっ!?」
次の瞬間、ホシノの体が後ろからがっちり羽交い絞めにされた。
痛くは無いが、けれど、逃げられないほど強い。
ホシノが驚いて振り向こうとするより早く、耳元で声がした。
「ん! 捕まえた!」
シロコテラーだった。
「えっ、ちょ、な、なに!? 大きいシロコちゃん!?」
「確保した!」
「何言ってるの!?」
ホシノが拘束から逃れようとじたばたしていると。
すると、空き教室の扉が勢いよく開いた。
「確保! 確保!」
「よかった! 無事に捕まえられたんだね!」
入ってきたのは、臨戦ホシノと先生だった。
二人とも、なぜか妙に楽しそうだった。
「先生!? 臨戦おじさん!? 二人も何してるの!?」
「ごめんね、ホシノ」
先生は申し訳なさそうにしながらも、手にはなぜかヘアゴムを持っていた。
「ちょっとだけ協力してほしい」
「協力っていうか、これもう襲撃だよね!?」
「うへ〜。夜襲だね〜」
「認めないでよ!」
シロコテラーがホシノを押さえたまま、先生が器用に髪をまとめる。
臨戦ホシノに横からヘアゴムを渡し、慣れた手つきでポニーテールに整えていく。
「待って待って待って! 私の髪で何してるの!?」
「ん。セット」
「似合うと思うよ〜」
「似合うとかじゃなくて! 先生も見てないで助けて!!」
「ホシノ、少しだけじっとしてて」
「先生まで自然に参加しないで!」
そして、あれよあれよという間に、ホシノの髪は臨戦ホシノと同じようにポニーテールにまとめられた。
さらに、臨戦ホシノが身につけていた装備が次々とホシノに渡される。
「はい、これ着てね〜」
「着ないよ!?」
「ん。強制的に着せる」
「大きいシロコちゃん、ストップストップ!怖いよ!」
数分後。
雑に解放されたホシノは、その場でよろめきながら立った。
服装も、髪型も、装備も。
その姿は、臨戦ホシノと瓜二つになっていた。
先生が少し離れて確認する。
「うん。そっくりだね」
「ん。そっくり」
臨戦ホシノは満足げに腕を組んだ。
「うんうん。おじさん、やっぱり何着ても似合うね〜」
「それ、自分で言ってて恥ずかしくないの?」
「まぁ同一人物だしね~」
そう言いながら、臨戦ホシノは自分のポニーテールを解いた。
桃色の髪がふわりと下りる。
アビドスに居るいつものホシノに近い雰囲気へ戻していく。
すると今度は、臨戦ホシノの方が現地ホシノそっくりになった。
ただし、中身は未来の自分に近い存在である。
現地ホシノは、目を白黒させていた。
「え、何これ……? 三人とも何をやろうとしてるの……?」
臨戦ホシノは何事もなかったように、シロコテラーへ向き直る。
「んじゃ、明日の朝には向こうに行くから、そっちの私の見張りは大きいシロコちゃんに任せたよ~。ヒナちゃんと便利屋への連絡も忘れないでね~」
「ん。任された」
「気を付けてね……本当に大丈夫だよね?」
先生が不安そうに言うと。臨戦ホシノは親指を立てて答えた。
「大丈夫! おじさん最強だから」
「わかった、信じてるからね」
そんな三人のやり取りを見せられた現地ホシノは、ようやく三人が何をやろうとしているのかを完全に理解して我に返った。
「待って!」
突然の大声に三人がびっくりして振り向く。
「そっちの私が、私の身代わりになる気!?」
ホシノは慌てて先生を見る。
「先生、止めてよ! なんでそんな乗り気なの!?」
臨戦ホシノは首を傾げて何言ってんだこいつという表情をしていて、先生はきょとんとした顔をしており、シロコテラーも不思議そうな視線を向けていた。
「うへ?」
「え?」
「……ん?」
三人とも、共通しているのは不思議そうな目で現地ホシノを見ているのだった。
その反応を見て、現地ホシノも何かがおかしいことに気づく。
「あれ?」
臨戦ホシノが、へらりと笑った。
「君の身代わりなんてするわけないじゃ〜ん」
「……え?」
「君が黒服に会うときは、私にも声かけてってお願いしたよね〜?」
臨戦ホシノの声は、いつも通り緩い。
けれど、笑顔の奥に妙な圧があった。
「それを無視されたから、自分で借りを返しに行くんだよ〜」
現地ホシノは一歩後ずさった。
「うへ〜……臨戦おじさん、ちょっと怖いんだけど…?」
「怖くないよ〜。おじさん、怒ってないしね〜」
「怒ってる人の言い方だよ、それ!」
「うへ〜?」
臨戦ホシノは笑ったまま、一歩近づく。
現地ホシノはさらに一歩下がる。
しかし、背後にはシロコテラーがいた。
「それにホシノ先輩は、いつも勝手に自分を犠牲にする」
「……」
「だから、残された側がどう感じるか、この機会に直接見るべき!」
そう言われてしまい、現地ホシノは言葉を詰まらせた。
「大きいシロコちゃん……」
「ん。私は怒ってる」
「言い切ったね……」
「ん!怒ってる!」
二回言った。
ホシノは乾いた笑いを漏らす。
「あはは……」
誤魔化すしかなかった。
誤魔化せていないことは、自分でも分かっていた。
臨戦ホシノは、そんな現地ホシノの前に立つ。
「それにさ〜。君が黒服の元に行った場合アビドスがどうなるかもちゃんと見てきなよ〜?」
その言葉に、現地ホシノの表情がわずかに揺れる。
「アビドスが……? 借金が半分減るだけじゃないの…?」
「あっはは。本当におじさんはバカだな~」
「……」
「絶対に見た方がいいよ。ちゃんとね」
臨戦ホシノの声は、今度は少しだけ静かだった。
「自分が居なくても大丈夫なんて、そんな都合のいい話じゃないからね〜」
「でも、私が行けば借金が――」
「ホシノ」
先生が名前を呼んだ。
それだけで、ホシノの言葉が止まる。
先生は静かに首を振った。
「今はこれ以上聞かないよ」
「先生……」
「だからと言って、一人で行かせることもしない」
先生の声は穏やかだった。
「ホシノが何を考えていたのかは、あとでちゃんと聞かせて欲しい。怒るかもしれないし、悲しむかもしれない。でも今は、ホシノを犠牲になんてさせない」
「……」
「今はホシノを助けたいからね」
現地ホシノは何も言えなかった。
最初はいつものように笑って流そうとした。
でも、声が出なかった。
臨戦ホシノが仕切りなおすように軽く手を叩く。
「ハイハイ!とりあえず、今回の主役はおじさんだよ〜!」
「主役って……」
「君は観客席!」
「ひどくない?」
「たまにはいいでしょ〜」
シロコテラーが現地ホシノの肩に手を置く。
「ん。逃げないように見張るからね」
「マジか……」
「ん。逃げたら強めに殴るからね」
「怖いな~!!」
ホシノはため息が漏れた。まだ、納得は出来ていない。
自分が行かなければならない。
自分が犠牲になれば、アビドスは救われる。
その考えは、簡単には消えなかった。
けれど、先生に止められてしまい、臨戦ホシノに先を越され、シロコテラーに逃げ道を塞がれてしまった。
今のホシノにできることは、もうほとんど残されていなかった。
「ねぇ……本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫だよ〜」
「あいつ、すっごく嫌な奴だよ?」
「知ってる」
「私の事も謎に色々分かってるよ?」
「それらも込み込みでさ――」
臨戦ホシノの目が細くなる。
「ちゃんと、あいつに借りを返してやる…!」
現地ホシノは、もう何も言えなかった。
先生は机の上に置かれていた退部届と手紙を見た。
それから、ゆっくりそれらを手に取る。
「これは、預かっておくね」
「あっ」
「今はまだ、出させないよ?」
ホシノは少しだけ目を伏せた。
「……先生、結構強引なんだね」
「私もようやくキヴォトスに馴染んできたかな?」
「でも、嫌じゃないよ」
「それはよかった」
小さな声だった。
先生は優しく頷いた。
臨戦ホシノは自分の髪を軽く整える。
現地ホシノは、臨戦ホシノの装備を身につけたまま、まだ落ち着かない様子で自分の姿を見下ろしていた。
「……これ、見た目だけなら本当に分かんないね」
「でしょ〜?」
「なんか嫌だな〜」
「自分の顔だよ〜?」
「だから嫌なんだよ〜」
二人のホシノが、少しだけ笑った。
それは、まだ完全な笑顔ではない。
でも、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
シロコテラーは窓の外を見る。
「ん。まだ夜明けまで時間がある」
「じゃあ準備しないとね〜」
「ホシノはどうするの?」
「大きいシロコちゃんと一緒にいて。絶対に一人で動かないこと」
「うへ〜。ここまでしっかり見張られるとはね〜」
「ん。逃げたら捕まえる」
「もう捕まってるんだけどね〜」
こうして、誰も知らない深夜のアビドス高校で。
現地ホシノと臨戦ホシノは、秘密裏に入れ替わった。
黒服が待っているのは、“小鳥遊ホシノ”。
けれど、そこへ向かうのは、黒服の想定している“小鳥遊ホシノ”ではない。
先生は、預かった退部届を静かに見下ろすとそれをしっかりとカバンの中にしまうのだった。