黒い片翼を背中に生やしたまま、現地スバルはしばらく満足そうにその場へ立っていた。
本人はあくまで平静を装っているつもりらしいが、マイアが翼を褒めるたびに黒い羽根が小刻みに揺れ、先生がマイアの言葉に同意するたびに少しだけ大きく羽ばたくものだから、喜んでいることは誰の目にも明らかだった。
「……もう一人の私。少なくとも今のところ自我に異常は無さそうですが、本当に大丈夫なんですか? 全く安心出来ないんですが」
スバルが半ば呆れながら尋ねると、現地スバルは自分の片翼を一度だけ確認してから、いつものように妙に格好をつけて視線を逸らした。
「問題ない。あの程度の精神攻撃で私を支配出来ると考えていたのなら、相手の見通しが甘かったというだけの話。それに、私は最初からタレ派だと言っているのに、レモンを押し付けようとした時点で話し合う余地はなかった」
「牛タンの味付けを巡る話を壮大な思想の違いみたいに言わないでください!」
「思想の違いは大切だろ!?」
「そこだけ急に真剣にならないでください!」
スバルの呆れた声がポルタパシスの奥へ響く。
水着サオリは額へ手を当て、アツコも困ったように笑っていた。
つい数分前まで、現地スバルが自分たちの知る黙示録の天使に呑み込まれるのではないかと本気で恐れていたというのに、蓋を開けてみれば本人は片翼を得たことを喜び、精神攻撃の内容は牛タンの食べ方を巡る謎の押し問答だった。緊張感を維持しろという方が無理な話だった。
「でも、このままここに居続けるわけにもいかないよね」
先生が奥へ続く通路へ視線を向ける。先ほどまでは現地スバルの異変へ意識を奪われていたが、本来追っていた相手を忘れたわけではない。
「ベアトリーチェはもっと奥に行ったのかな?」
「そうみたいですね」
「この世界のスバルが無事だったのは幸運だが、ベアトリーチェまで同じとは限らない。この場所に何があるかは、私たちも全て知っているわけではないからな」
「私たちの時も、全部を理解出来たわけじゃなかったしね」
アツコもそう言いながら周囲を警戒して見回していた。
崩れた壁の向こう側に、さらに奥へと続いている暗い通路。そして今も時折、遠くから聞こえてくるラッパの音。
先ほどまでより僅かに弱まってはいるものの、それでも不自然な圧迫感は消えていない。
スバルが少し声を落とす。
「……先生。さっきの件で分かったと思いますが、ここは本当に何が起きるか分からない場所です。もう一人の私が無事だったからといって、安心しないでください」
「分かってるよ。今度はちゃんとみんなの言うことを聞くよ。だからベアトリーチェを見つけたら、まず状況を確認しよう」
そう言って先生も素直に頷いた。
「お願いします」
「私も手伝います」
マイアがすぐに声を上げた。
先ほどまで現地スバルの翼へ目を輝かせていたものの、もう浮ついた様子はない。
「ここまで来た以上、スバル先輩だけに任せたくありません。それに、マダムが何をしようとしているのかも確かめたいです」
「無茶はしないでね」
「はい」
マイアは素直に頷く。
「私は後ろから援護します」
「それなら頼りにしてるよ」
「任せてください」
先生の言葉に、マイアの表情が少しだけ明るくなった。
「では進みましょう――って、待ってください! 何で貴方が当然のように先頭へ行くんですか!?」
「私が一番機動力があるからな」
「今その翼を使えるかどうかすら分からないでしょう!」
「試せば分かる事だ」
「そんなノリで未知の力を使うな!!」
「慎重すぎますね、もう一人の私は」
「あなたが無鉄砲すぎるんですよ!」
言い合いながらも、一行は再びポルタパシスの奥へと進み始めた。
先ほどよりも奥へ進むにつれて、周囲の空気はさらに変わっていった。
床の一部には黒ずんだ痕跡が残っている。それが何かの焼け跡なのか、それとも別の何かなのか、先生には判断出来なかった。
「奥に進むに比例して段々と空気が重くない?」
マイアが先生の近くで銃を構えながら答える。
「私もそう感じます。息苦しいというか、ずっと誰かに見られているような嫌な感じがします」
先生とマイアが少し速度を落とす一方で、水着サオリとアツコはさらに周囲への警戒を強めていた。
スバルも現地スバルのすぐ横を歩きながら、時折その片翼へ視線を送っている。
「……何ですか?」
現地スバルが横目でスバルを見つつ話しかけてくる。
「いえ、まだ消えないんだなっと思って」
「残念ですか?」
「どうして私が残念がるんですか!?」
「羨ましそうに見つめているので、てっきり……」
「見てません!」
現地スバルは小さく肩をすくめる。その背中で黒い翼がわずかに揺れた。
「……本当に感情がそのまま出てますね、その翼」
「仕様です」
「何の仕様ですか!?」
「止まって。そこの馬鹿二人!」
アツコの声にスバルたちも真剣な顔になる。
そして全員が足を止めた。
前方に見える、かなり奥の曲がりくねった通路の先から、明らかに自然ではない紫色の光が漏れている。
「……何かありますね」
マイアも気付く。
「全員、気を付けろ」
水着サオリは気を取り直して銃を構え直す。先ほどまでの緊張感の無いやり取りが一瞬で消えた。
紫色の光は、近付くほど強くなっていく。そして、少し広い空間へ出たところで全員の足が止まった。
そこにはベアトリーチェが佇んでいた。
「……あなた達ですか」
ベアトリーチェは、こちらへ背を向けて立っていた。
追い回されていた時の狼狽した様子は、もうどこにもない。
彼女の全身を包み込む紫色のオーラが、目に入った。まるで煙のように揺らめきながら、身体の周囲を漂っている。
さらに、ベアトリーチェの背後には、巨大な紫色の光輪が浮かんでいた。
「……何だ、あれ」
すぐに気が付いたスバルの表情が強張る。
「先生、下がってください! あれは……さっきよりもずっと濃い」
現地スバルの片翼へ宿ったものとは違う。
しかし、根の部分では同じ何か――スバルにはそう感じられた。
水着サオリもベアトリーチェへ銃口を向ける。
「ベアトリーチェ。その力は何だ!?」
ベアトリーチェがゆっくり振り返る。
「サオリ。従順だった頃の貴女はどこに行ったのですか? 目上の者への口の利き方がなっていませんね」
「今更、あなたを敬う理由はない!」
「ふっ……そうですか」
以前なら、その返答だけで苛立ちを露わにしていたかもしれない。
だが今のベアトリーチェは違った。口元に余裕のある笑みを浮かべている。
「ですが、今となってはどうでも良いことです」
ベアトリーチェは両手を軽く広げる。
「この場所に逃げ込んだことは、結果として正解でした」
「……何をしたの?」
先生のその問いを聞き、ベアトリーチェの視線が先生へ向く。
「やはり貴方も来ましたか。わたくしの生徒たちをあそこまで壊した張本人が」
「壊した?」
「自覚すらないんですか?」
ベアトリーチェの声へ怒りが滲む。
「わたくしの姿を見れば恐れ、命令を下せば従い、逆らうという発想すら持たなかった子供たちが……あんな獣の群れのようにわたくしを追い回したのですよ!!」
「獣の群れ……まあ、追い掛け方はちょっと怖かったけど」
先生は少しだけ困った表情になる。
「先生! 今は余計なことを言わない方がいいですよ」
スバルが小声で制する。
ベアトリーチェはそんなやり取りすら気に入らないのか、眉間へ皺を寄せる。
「あの子たちへどれほど余計なことを吹き込んだのかは知りませんが、それも今日で終わりです」
「どういう意味?」
「この力があれば」
ベアトリーチェが自分の手を見る。紫色の怪しい光がその指先へ集まる。
「もう一度、全てをあるべき姿へ戻せる。わたくしが上に立ち。あの子たちが従うだけ、わたくしの理想郷が戻ってくる!」
「…………」
ベアトリーチェの傲慢すぎる発言に、先生の表情からも笑みが消えた。
「それは、もう無理だよ」
「何ですって?」
「アリウスのみんなは、もうあなたのものじゃない!」
先生ははっきりと言い切る。
「今は自分たちで考えて、自分たちで選んで、自分たちでやりたいことを決めてる。あなたが帰ってきたからって、昔みたいには戻らないよ」
「…………」
ベアトリーチェの口元が僅かに歪む。
「それを決めるのは、貴方ではありません!!」
ベアトリーチェの怒りに呼応するように周囲を漂っていた紫色のオーラが、急速に強くなる。
「先生、下がれ!」
水着サオリの声が聞こえた瞬間、ベアトリーチェが片手を前へ突き出した。
「まずは、新たに得たこの力がどこまで使えるのか……貴方たちで試すとしましょう」
「っ!」
その瞬間、紫色の光が弾けた。
紫色の衝撃波が、先生たちのいる場所へ一気に押し寄せた。
「先生!」
水着サオリが前へ飛び出し、先生を横へ押し退ける。
次の瞬間、二人が立っていた場所が爆ぜた。
「っ……!」
マイアも反対側へ飛び退き、アツコとスバルもそれぞれ距離を取った。
「いきなり攻撃してくるなんて……!」
「先生は大丈夫か!?」
「大丈夫!みんなも怪我は無い!?」
先生はすぐに起き上がる。
「問題ない!」
紫色のオーラをまとったベアトリーチェが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「驚きました。この程度の力でも、以前とは比較になりませんね」
「自分でも分かってないの?」
アツコが尋ねる。
「当然でしょう。この力を手にしたのはつい先ほどなのですから」
「……それなのに使うんだ」
「使えるものを使うことの何が問題なのです?」
「そういうところ、全然変わってないね」
アツコの声が冷たくなる。
ベアトリーチェは笑った。
「貴女こそ、相変わらず反抗的ですね、アツコ」
「もうあなたに従う理由なんてないからね」
「ならばもう一度、従いたいと思えるように、わたくしが再教育して差し上げましょう!!」
次の瞬間、紫色の光輪が大きく輝き戦闘が始まった。
最初に動いたのは水着サオリだった。
連続した銃声が空間へ響く。弾丸がベアトリーチェへ向かって飛ぶ。
しかし、着弾する直前に紫色のオーラが膜のように広がった。
「……っ!」
弾丸は確かに命中した。
しかし、ベアトリーチェの身体を大きく揺らすには至らない。
「効いてない?」
「いや通ってはいる。ただ……効き目が薄いようだ」
水着サオリが目を細める。
「なら私も」
アツコが続く。さらにスバルも横から射線を通す。
三方向からの攻撃。ベアトリーチェの周囲で次々と火花が散る。
「鬱陶しいですね!」
怒号と共に放たれた紫色の衝撃波。
「伏せて!」
先生の声で全員が身を低くする。
頭上を強烈な光が通り抜け、背後の壁を粉砕した。
「先生、こっちです!」
マイアが先生の腕を引く。
「この位置ならまだ安全です。私が周りを見ますから、先生は全体を見てください!」
「助かるよ!」
マイアは先生の近くから動かず、ベアトリーチェへ牽制射撃を続ける。
前へ出るのではなく。先生を守りながら。
他の生徒たちが動きやすいように射線を作る。
「右から来ます!」
「サオリ!」
「分かっている!」
水着サオリが位置を変える。
「スバル、左を頼む!」
「任せてください!」
スバルも素早く回り込み、別方向から撃つ。
複数方向からの攻撃を受け、流石のベアトリーチェも確かに足を止めるが。
「……弱い」
余裕ありげに笑ったベアトリーチェの周囲から紫色のオーラがさらに噴き上がる。
「その程度ですか?」
「っ!」
スバルの撃った弾丸が紫の膜に弾かれる。
「さっきより防御が強くなってる……!」
「使い方が分かってきたんだろう!」
水着サオリが歯を食いしばる。
こちらの攻撃が通じていないわけではない、しかし決定的な傷にならない。
「……これ、まずくない?」
先生が呟く。
「長引けばこっちが不利になる」
マイアも表情を険しくする。
「段々と対応が上手くなってます」
それはまるで力を使いながら学習しているようだった。
ベアトリーチェもそれを理解しているらしい。
「ふふ……なるほど。良いですね」
紫色の光を自分の手のひらへ集める。
「これならば、アリウスを再び支配下へ置くことも難しくありません」
「まだそんなこと言ってるの?」
先生の声が低くなる。
「当然でしょう」
「みんなはもうあなたを恐れてないよ」
「恐怖など、もう一度教えればいいだけです。今日、わたくしを追い回したことも。わたくしへ武器を向けたことも。すべてを後悔させてあげましょう」
ベアトリーチェが笑いながら放ったその言葉に、現地スバルの表情が変わった。
「…………」
黒い片翼が大きく広がる。
「もう一人の私?」
現地スバルは何も答えずに。
ただベアトリーチェを真っ直ぐ見ている。
ベアトリーチェも現地スバルの様子に気付いた。
「何です? その不完全な姿で、わたくしに何かするつもりですか?」
現地スバルの眉が僅かに動く。
ベアトリーチェの目が片翼へ向く。
「片翼しか顕現出来なかったのでしょう?」
「…………」
現地スバルは少しだけ俯いた。
「スバル先輩……」
マイアが心配そうに声を掛ける。
「ふっ」
だが現地スバルは笑った。
「何がおかしいのです?」
「あんたは何も分かっていない」
現地スバルがゆっくり顔を上げる。
「片翼だからいいんだ」
「…………?」
ベアトリーチェの表情が止まった。
「何を言っているのです?」
「この非対称性がいい」
「……は?」
「分からないなら構わない」
「……不愉快ですね。ならば、その不完全な翼ごと消して差し上げます!」
ベアトリーチェが腕を振るうと、紫色の光弾が複数放たれた。
全員が一斉に回避に動く。
その中で現地スバルだけが翼を大きく広げた。
「……私も試してみるか」
そう言うと銃口へ紫色の光が集まり始めた。
ベアトリーチェが使っていた紫色のオーラが現地スバルの銃そのものを包み弾丸へ染み込んでいく。
「スバル先輩の銃が……」
マイアも気付く。
「光ってる?」
「喰らえ!」
紫色の光をまとった弾丸がベアトリーチェへ一直線に飛ぶ。
「その程度!」
ベアトリーチェが紫の防壁を展開する。
水着サオリたちの弾丸を何度も防いだもの。
先ほどと同じように弾くはずだった。
「――っ!?」
だが防壁を貫いた弾丸は、そのままベアトリーチェの肩へ命中する。
「ぐっ……!」
ベアトリーチェの身体が大きく後ろへよろめいた。
纏っていた紫色のオーラが一瞬乱れる。
「…………!」
全員が目を見開く。
「今の……」
マイアが呟いた、その横で先生も同じことに気付いていた。
「……スバルの攻撃は効くんだ!」
先生はベアトリーチェを見つめたまま頷く。
「……ふっ」
本人はかなり満足そうだった。
背中の黒い片翼もその気持ちを隠すつもりなどないように大きく羽ばたいた。