小さくなったベアトリーチェを完全な簀巻きにして確保した後、先生たちはようやくポルタパシスを後にすることになった。
来る時には何が待ち受けているのか分からず、重苦しい空気に神経を尖らせながら歩いた道だったが、帰りは随分と雰囲気が違う。最大の原因は、先ほどまで黒い片翼を背中から生やしていた現地スバルが、何事もなかったような顔で歩いていることだろう。
禁足地の出口が近付くにつれて、その翼は徐々に輪郭を失い始めた。黒い羽根が一枚ずつ光の粒子へ変わるように消えていき、最後には最初から何もなかったかのように現地スバルの背中から完全に姿を消した。
「……消えましたね」
スバルが横目で確認すると、現地スバルは肩越しに自分の背中を見てから、僅かに残念そうな表情を浮かべた。
「そうだな」
「そんなに残念そうな顔をしなくても……。むしろ、よく分からない力なんですから消えてくれた方が安心でしょう?」
「片翼だったのに」
「片翼だったから何なんですか!?」
「気に入っていたのに!」
「知ってますよ! 羽が感情を全部バラしてましたから!」
スバルの呆れた声に先生が笑い、水着サオリも小さく肩をすくめる。アツコは簀巻きにされたベアトリーチェを抱えたまま、そんな二人を楽しそうに眺めていた。
やがて一行が禁足地の外へ出ると、そこには先ほど追跡を断念したアリウス生たちがまだ大勢残っていた。
「先生!」
「スバル先輩たちも戻ってきた!」
「無事だった!?」
先生たちの姿に気付いた途端、心配そうに待っていた生徒たちが一斉に駆け寄ってくる。禁足地の奥から何度も轟音や振動が伝わってきていたため、外に残された彼女たちも気が気ではなかったらしい。
「みんな無事だよ。少し大変だったけど、ベアトリーチェもちゃんと捕まえたから」
「本当ですか!?」
「ほら」
先生が視線で示した先に、アツコが抱えている簀巻きがある。
「……なんか小さくない?」
「私たちも驚いたんだけど、戦いが終わったらこうなっちゃったんだ」
「マダムだよね?」
「一応ね」
しばらく全員が小さくなったベアトリーチェを眺めていたものの、やがて一人の生徒がもっと重要なことを思い出したように顔を上げた。
「じゃあ……捕まえたってことは?」
「焼肉が出来る!?」
「あ、そっち!?」
先生が思わず聞き返した瞬間、周囲から歓声が上がった。
「やったぁぁぁ!!」
「肉だー!」
「戻ろう! もう準備始まってるはず!」
「急げ急げ!」
心配そうに待っていたのが嘘だったかのように、アリウス生たちは一斉に自治区の中心部へ向かって走り出した。
「切り替えが早いなぁ……」
先生が苦笑すると、水着サオリも遠ざかっていく後輩たちを見ながら頷いた。
「昔なら考えられない光景だな」
「うん。でも、今はこっちの方がいいと思うよ」
アツコも穏やかな顔で答える。
「マダムが帰ってきたくらいで、もうみんなの日常は壊れないんだね」
その言葉に、先生も小さく頷いた。
◆
アリウス自治区の中心部へ戻った先生たちは、そこでさらに予想外の光景を目にすることになった。
「……何これ?」
自治区の入口近くには、見慣れない大型トラックが何台も停車していた。
車体にはそれぞれゲヘナとトリニティの印があり、荷台の扉は大きく開け放たれている。そしてその中には、どう考えてもアリウスだけで消費するには多すぎる量の肉や野菜、飲み物などが積み込まれていた。
「ここに置けばいいのか?」
「はい、マコトさん。そちらの箱は冷蔵が必要ですので、日陰へお願いします」
「この程度、万魔殿議長たる私にかかれば――重っ!?」
「マコト先輩、無理して一人で持たないでください。落として台無しにしたらアリウスの皆さんに恨まれますよ」
「これは少々持ち方が悪かっただけだ!」
「はいはい」
ゲヘナ側ではマコトとイロハが荷台から肉を下ろし、その横では現地ミカが二箱ほど平然と抱えて歩いている。
「これどこー?」
「ミカさん、それはあちらへお願いします!」
「りょーかい☆」
少し離れた場所では、ヒヨリを除くアリウススクワッドも忙しなく動いていた。現地サオリとミサキが肉や飲み物を運び、現地アツコは届いた品物を確認しながら手際よく配置を決めている。
そして中央には、大人数に対応出来るほど大きな鉄板がいくつも設置されていた。
「セイアさん、そちらはそろそろ焼けています」
「分かった。こちらの皿へ移しておこう。ナギサも火が強くなりすぎないように見ていてくれ」
「ええ。この人数ですから、焼けたものを先に用意しておかないと追いつきませんからね」
現地ナギサと現地セイアが、それぞれ火加減を確認しながら次々と肉を焼き、すぐに食べられるよう皿へ盛り付けている。
既に周辺には焼けた肉の香ばしい匂いが充満していた。
「……うぅぅぅ……」
そんな幸せな空間の隅から、何やら怨念めいた声が聞こえてくる。
「お肉ぅぅぅ……」
近くの柱にヒヨリが括り付けられていた。
両腕ごとロープでぐるぐる巻きにされ、どう頑張っても鉄板へ近付けない状態になっている。
理由は説明されなくても何となく分かった。
「ヒヨリちゃん。よく聞いてね」
その正面では、サツキが真剣な顔でヒヨリの目を見つめている。
「貴女はだんだん、お肉が食べたくなくな~る。焼けたお肉の香りを嗅いでも、何とも思わなくな~る……」
「お肉が……食べたく……」
「そう、その調子よ」
「もっと……もっと食べたくなってきましたぁぁぁ!!」
「逆効果になってる!?」
サツキが驚いて目を見開く。
「お肉ぅぅぅ!! 今なら三人前でも五人前でもいけますぅぅぅ!!」
「ヒヨリ、食欲強すぎ。太るよ」
ミサキが肉の箱を運びながら冷静に言い放つ。
「苦しいですねぇ……! 悲しいですねぇ……! 目の前にお肉があるのに食べられないなんて、こんなの人のすることじゃありませんよぉ……!!」
「さっき準備中の肉をつまみ食いしようとしたからだろ」
現地サオリの正論に、ヒヨリは何も言い返せず項垂れた。
ちょうどその時、禁足地から戻ってきたアリウス生たちが会場へ雪崩れ込んできた。
「焼肉だぁぁぁ!!」
「皿どこ!?」
「走るな! 肉が逃げるぞ!」
「逃げないよ!」
待ちきれなかった生徒たちが次々と鉄板の周囲へ集まり始める。
現地ナギサやセイアはあらかじめ用意していた皿を配り、現地アツコたちも肉を追加していく。
先生はそんな光景を少し離れた場所から眺めながら、思わず笑った。
「元気だね~」
「そうだな」
水着サオリも苦笑する。
「さっきまでベアトリーチェと戦っていたのが馬鹿らしくなるくらい元気だ」
アツコが笑う。
「これだけ元気なら、もうマダムのことで怯える必要もなさそうだから」
「うん。私もそう思――」
ぐぅぅぅぅぅ……。
先生の言葉を遮るように妙に大きな腹の音が聞こえた。
「……今の誰?」
先生が音の聞こえた方向へ視線を向けると、そこには、顔を真っ赤にしているスバル。
そして、鉄板の上へ並ぶ肉を、まるで宝石でも見るかのように目を輝かせて見つめている現地スバルが並んでいた。
「スバル、お腹空いた?」
「ち、違いますからね!?」
スバルが勢いよく否定する。
「今のはこっちの私です! 見てください、この顔! どう見てもお肉に夢中でしょう!?」
「……肉ぅ!」
現地スバルは反論する様子もなく、焼かれている肉を凝視している。
「確かに……」
先生が少し納得しかけたその瞬間。
ぐぅぅぅぅぅぅ……。
「…………」
今度は明らかにスバルの腹部からさっきよりさらに大きな音が鳴った。
「…………」
「…………」
スバルは耳まで真っ赤にすると、しばらく何とか言い訳を探している様子だったが、とうとう耐えられなくなったのか顔を伏せた。
「……ごめんなさい……私です……」
「別に謝らなくていいよ?」
「朝からずっと歩き回って、その後あれだけ戦ったんですから……お腹くらい空きます……」
「うん、普通だと思う」
「恥ずかしいんですよ……!」
先生が慰めても、スバルは顔を上げようとしない。
その隣で現地スバルがしばらく彼女を見つめた後、何の躊躇もなくその手を掴んだ。
「行くぞ」
「……え?」
「腹が減ったんだろ?」
「それは……そうですけど」
「なら食えばいい」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「肉は待ってくれない」
「そんな大袈裟な話はしてませんよ!」
現地スバルは気にする様子もなく、もう一人の自分を半ば引き摺るように焼肉会場へ連れていく。
「ま、待ってください! 自分で歩けますから!」
「席が埋まる」
「だから引っ張らないでくださいってば!」
そのまま二人のスバルは、騒がしいアリウス生たちの中へ消えていった。
先生はその背中を見送りながら、少しだけ笑みを浮かべた。
募集で来たスバルにとっては、きっとこんなふうにアリウスのみんなと何も考えず食卓を囲むこと自体が、まだ少し不思議なことなのだろう。
だからこそ、今は思う存分食べてもらえばいい。
「さて……」
そこで先生は現実へ戻る。アツコの腕の中には、まだ大きな問題が一つ残っていた。
「この子、どうしようか?」
簀巻きになった小さなベアトリーチェである。
焼肉会場から少し離れた場所へ移動すると、先生と水着サオリ、アツコの三人は今後について話し合うことになった。
周囲では現地ナギサたちやマコトたちが焼肉の準備に忙しく動き回っているものの、幸いと言うべきか誰一人として先生たちの足元に転がっている簀巻きへ気付いていない。
「もう一度、矯正局に戻すのはどうかな?」
先生が最初に思いついた案を口にする。
しかし、水着サオリはすぐに首を横へ振った。
「おすすめは出来ない。一度脱走されている以上、同じ場所へ戻してもまた同じことになる可能性がある」
「そっか……」
アツコも簀巻きになったベアトリーチェを見る。
「今のマダムは昔ほどの力は無さそうだけど、それがいつまで続くのかも分からないからね。目の届かないところへ預けて、気付いたらまた元に戻ってました、なんてことになったら困るし」
「じゃあ、どこに置いておくのが一番安全なんだろう」
三人が考え込んでいると、足元から微かな声が聞こえた。
「……うぅ……」
「ん?」
「……ぅ……何が……?」
先生たちが視線を落とすと、小さくなったベアトリーチェがゆっくりと目を開けた。
最初は何が起きたのか理解出来ていないらしく、何度か瞬きを繰り返す。
「ここは……?」
もぞもぞと体を動かした。
「……何ですか、これは?」
ようやく意識が覚醒したのか、自分がロープで完全に簀巻きにされていることに気付いたらしい。
「ベアトリーチェ、気が付いた?」
先生に声を掛けられベアトリーチェの動きが止まる。
ゆっくりと顔だけを先生の方へ向け。
「……先生」
目が吊り上がった。
「この縄を今すぐ解きなさい!!」
「あーうん。元気そうだね」
「誰のせいだと思っているのですか!?」
本人としてはいつも通り威圧しているつもりなのだろう。
しかし、大人の女性だった頃なら、怒鳴りつけられるだけでも多少の威圧感があったのだが、今は小学生ほどの身体で簀巻きにされたまま地面へ転がっている。
「わたくしを見下ろすな!! 貴方たち、自分が何をしているのか分かっているのですか!?」
「……ちっさ」
アツコが素直な感想を口にした。
「アツコ!!」
「そんな姿じゃ、微粒子レベルで存在していた迫力も消えちゃったね」
「黙りなさい!!」
ベアトリーチェは怒りのまま身体を動かそうともがいた結果。
ころんと勢い余って横へ転がった。
先生たちもあまりに間抜けな光景に笑いを堪えて無言になる。
「……見るな!」
「う、うん」
ベアトリーチェは何とかロープを引き千切ろうと力を込めるが、当然ながらびくともしない。
「どうして……!?」
さらに力を込めるが、何も起きない。
以前なら簡単に出来たはずのことすら、今の身体では出来ない。
「わたくしの力が……」
そこでようやく、自分が置かれている状況を本当の意味で理解したらしい。
段々と彼女の顔から血の気が引いていく。
そして、その様子を水着サオリとアツコが冷静に観察していた。
「やはりかなり弱っているな」
「うん。今なら少なくとも、簡単には逃げられなさそう」
「貴女たち……何を話しているのです?」
「先生、こうなった以上、下手に目の届かない場所へ置くより、自分たちで管理した方が安全ではないか?」
「自分たちで?」
「シャーレへ連れて帰ろう」
「う~ん」
先生は少し考え込んだ。
矯正局へ戻して、再び脱走される可能性を残すより。
今なら弱体化しているベアトリーチェを、自分たちの目が届くシャーレで監視する。
少なくとも、一番すぐ対応出来る場所ではあるのだが。
「元理事とカヤとテスに何て説明しよう…?」
「待ちなさい!!」
三人が話し合いをしていると、ベアトリーチェが叫び始める。
「何を勝手に話を進めているのです!? わたくしはシャーレなどには行きません!」
「でも、ここに置いておくわけにもいかないし」
「解放すればいいでしょう!」
「ちょっと何言ってるかわからない」
ベアトリーチェの態度に先生は苦笑しながら、水着サオリとアツコを見る。
「じゃあ、お願いしてもいい? 言い訳は……なんか落ちてたから拾ったって伝えておいて」
「任せてくれ」
「先に連れて帰っておくね」
「うん。私はこっちの様子を見てから戻るよ」
話が決まった。
アツコが簀巻きになったベアトリーチェを地面へ置く。
「じゃあ一緒に帰ろうか♪」
「……ちょっと待ちなさい。何故わたくしを地面へ置いたのです?」
「運ぶからだけど?」
「普通に抱えれば――」
ころん。
「…………え?」
アツコが足先で軽く蹴った。
簀巻きになったベアトリーチェが地面を転がっていく。
「…………」
水着サオリがその後ろを歩く。
アツコも追いついてもう一度蹴る。
「ちょっと待ちなさい!!」
ころころころ。
「何をしているのですか!?」
「運んでるんだよ」
「これのどこが運搬なのですか!? わたくしをサッカーボールみたいに扱うな!!」
「あ、嫌なんだ?」
「当たり前でしょう!!」
「わがままだな~」
口ではそう言いつつも、アツコは素直に頷いた。
一瞬、ベアトリーチェの表情へ安堵が浮かぶ。
「最初からそうやって丁重に――」
アツコが簀巻きベアトリーチェを持ち上げた。
「そうです。それで普通に抱えて――」
ボン。
「…………」
地面へ落とす。跳ね返った身体をアツコが両手で受け止め。
ボン、ボン、ボン、ボン。
「バスケならいいという意味じゃないですよ!!!」
ベアトリーチェの絶叫が自治区へ響き渡った。
アツコは楽しそうに簀巻きになったベアトリーチェをドリブルしながらシャーレへ向かっていく。
その隣を歩く水着サオリは、止めようとはしなかった。
むしろ、久しぶりに楽しそうなアツコの横顔を眺め。
「アツコが楽しそうで良かった」
少し嬉しそうに呟いた。
「良くないですよ!! サオリも止めなさい!!」
「アリウス式囚人運搬術パス!」
「おっと! 今のはいいパスだったな!」
「人の話を聞きなさい!! 先生は貴方たちにどんな教育をしたんですか!?」
段々と遠ざかっていくベアトリーチェの怒鳴り声を、先生は何とも言えない表情で見送った。
「……最後のだけは風評被害なんだけどなぁ」
大きな問題が一つ片付いたところで、先生は溜まっていた疲れを追い出すように両腕を頭上へ伸ばした。
「ん~~っ……!」
思い返してみれば、今日は朝から社会科見学でトリニティ、ゲヘナ、ミレニアムという三つの学園を巡り、ようやくアリウスへ帰ってきたと思ったところでベアトリーチェが現れた。そのまま禁足地へ入り、黙示録の天使まで顕現し、最後には命懸けの戦闘にまで発展したのだから、普段の一日と比べても密度がおかしい。
「今日は本当に色々あったなぁ……」
これでようやく一息つける。少しくらいゆっくり焼肉を食べても罰は当たらないだろう。
そう考えながら先生がスバルたちのいる方向へ振り返った。
「私も何か食べ――」
そこで言葉が止まった。
視線の先には現地スバルが立っていた。
そこまではいい。問題は、禁足地を出た時に確かに消えたはずの黒い片翼が、何故か再び堂々と背中から生えていることだった。
「……スバル?」
嫌な予感を覚えながら先生が声を掛ける。
しかし、さらに問題なのは翼だけではない。
現地スバルの両手には、どこから取り出したのか分からない大量のレモンが握られていた。
「……ふっ」
「何してるの?」
先生の問い掛けに、現地スバルは答えなかった。
代わりに彼女は、ちょうど近くを通り掛かったアリウス生へ静かに近付き、その生徒が持っていた皿へ何の躊躇もなく手を伸ばした。
「え?」
ぎゅっ。
アリウス生が状況を理解するより早く、絞られたレモン汁が焼きたてのカルビへ降り注いだ。
「…………」
「…………」
数秒の沈黙の後、自分の皿に何が起きたのか理解したアリウス生の目が大きく見開かれる。
「な、何してるんですか!?」
「レモンはいつでも、貴女の傍にいる……」
「いらないよ!!」
「スバル!!?」
異変に気付いた先生が慌てて駆け寄ったものの、既に遅かった。
現地スバルは次の獲物を見つけていた。
「それにも合う」
「これはハラミだよ!?」
ぎゅっ。
「ああああああ!!? 私のハラミがぁぁぁ!!」
「スバル先輩!?」
近くにいたマイアも危険を察し、自分の皿を両手で大事そうに抱えながら後ずさる。
「落ち着いてください! さっきまでタレ派って言ってたじゃないですか!?」
「私もそう思っていた」
「過去形!?」
「だが……」
現地スバルは手に持っていたレモンの一つを自分の目の前へ掲げる。
その瞬間、背中に生えていた黒い片翼がバサァッと大きく開き、焼肉会場には到底似つかわしくない妙に神々しい空気を醸し出した。
「レモンを見るたび思い出すんだ」
「何をですか!?」
「レモンはいつでも、私の傍にいる」
「やっぱり精神汚染されてるじゃないですかぁぁぁ!!?」
異変を察知したスバルの悲鳴が辺りへ響き渡る。
「スバル! お願いだからそのレモンを置いて!!」
先生も必死に説得するが、現地スバルはむしろ安心させるように小さく頷いた。
「心配するな先生。誰か一人だけを贔屓するつもりはない。全ての料理へ平等にかける」
「それが一番駄目なんだよ!!」
ぎゅっ。
「私の野菜ぁぁぁ!!」
ぎゅっ。
「白米にまでかけるなー!!」
さらに別の生徒が守っていたタレにまで手を伸ばし、容赦なくレモンを絞り入れる。
「ちょっと! それ私のタレ!」
「タレにレモン入れたぁぁぁ!!」
もはや惨劇だった。
現地スバルがレモンを両手に一歩踏み出すたび、アリウス生たちは悲鳴を上げながら自分の皿を胸元へ抱え込む。
「逃げろ! 皿を守れ!」
「スバル先輩が来るぞ!」
「レモンをかけられるぞ! 気を付けろー!!」
先ほどまでベアトリーチェを嬉々として追い回していたアリウス生たちが、今度は現地スバル一人から全力で逃げ始めるという、何とも言えない逆転現象が発生していた。
「待て!」
「待つわけないでしょ!」
「まだかけてない」
「だから逃げてるんです!!」
片翼を羽ばたかせながら追跡する現地スバルと、自分たちの夕食を守るために必死で走り回るアリウス生たち。
「スバルー!! 人のご飯に勝手にレモンをかけちゃ駄目ー!!」
その後ろから先生も全力で追い掛ける。
「先生、私が右から回り込みます!」
「スバル先輩! お願いですから正気に戻ってください!」
「もう一人の私! さっさと元に戻りなさい!!」
マイアとスバルまで追跡へ参加したことで、焼肉会場はいつの間にかベアトリーチェが戻ってきた時以上の騒ぎになっていた。
そして、この日の出来事を境に。現地スバルはしばらくの間、アリウスの生徒たちから畏怖と警戒を込めて『なんにでもレモンをかける女』と呼ばれることになるのだった。
◆
その頃、アリウス自治区から少し離れた上空では、一機の小型ドローンが先ほどから一連の騒動を記録し続けていた。
撮影された映像は遠く離れたゲマトリアの拠点へリアルタイムで送信されており、そのモニターの前には黒服が静かに立っていた。
「…………」
黒服は先ほどまで何度も見返していた映像を、改めて最初から再生する。
ベアトリーチェがアリウスの生徒たちに追われ、ポルタパシスへ逃げ込む。
その奥で異質な力を手に入れ、先生たちと交戦した。
そして最後には現地スバルの一撃によって力を失い、肉体までも幼い姿へ縮んでいった。
「クックック……興味深い」
黒服は映像を一時停止した。画面に映っているのは、ベアトリーチェの背後に浮かんでいた紫色の光輪が砕け、身体から異質な力が抜け始めた瞬間だった。
「マダムは我々と同じく、このキヴォトスの外より訪れた存在。そして、あの場所に存在していた力は……少なくとも、キヴォトスの理に根差したものなのでしょう」
細長い指で画面をなぞるようにしながら、黒服は静かに思考を巡らせる。
「本来ならば、器として高い適性を持つ何者かを介して顕現するはずだった力。それをマダムは、自らの精神力によって強引に従わせた。そこまでは、確かに成功していたのでしょうね」
黒服が映像を進める。
現地スバルが最後の一撃を放ち、紫色の防壁を撃ち抜く。
背後の光輪が砕け、ベアトリーチェが力を失いながら落下していく。
さらに、その身体が少しずつ縮んでいく場面まで映像が進んだところで、黒服は再び手を止めた。
「ですが、キヴォトスの外から来た存在が、キヴォトスに由来する力を無理に取り込む……。それは我々が想像している以上に、相性の悪い行為だったのかもしれませんね」
もちろん、これは黒服自身の推測に過ぎない。
実際に何が起きたのかを証明出来るだけの材料はまだ揃っていない。それでも、目の前に残された結果から逆算すれば、一つの仮説としては十分に成立する。
「取り込んだ力が身体から抜け落ちる際、マダムが元々有していた力まで巻き込んで流出してしまった。結果として、肉体すら現在の力に見合った形へ縮小した……そう考えれば、ある程度の辻褄は合いますね」
黒服は再び画面を動かす。そこでは、小さくなったベアトリーチェが簀巻きにされ、アツコによって地面の上を転がされていた。
「もっとも、今まで散々好き勝手に振る舞ってきたツケを払っただけ、とも言えますが」
愉快そうに笑った黒服は、ドローン越しに映るベアトリーチェへ向けて、どこか他人事のように言葉を続ける。
「マダムには、良い薬でしょうね。私はあれほど忠告したのですから、それでもアリウスへ戻ることを選んだ以上、この結末まで私が面倒を見る義理はありません」
少なくとも、彼にとってベアトリーチェの一件はこれで一区切りだった。
黒服が本当に興味を抱いているものは、別にある。
「さて……」
黒服は視線を隣のモニターへ移した。そこには別のドローンから送られてきた、先生の映像が映し出されている。
「暁のホルスが恐怖を使いこなし、死の神まで付き従わせる。それだけではない。異なる世界から現れた数多の生徒たちもまた、当然のように貴方の傍へ集まり続けている」
先ほどまでどこか面白がっていた黒服の声から、僅かに笑いが消える。
何故、先生の周囲でこれほど不可解な現象が起こり続けているのか。
何故、本来なら決して交わるはずのない者たちまでが、先生を中心として一つの場所へ集まっているのか。
その原理は、黒服をもってしても未だ完全には理解出来ていなかった。
「先生……」
モニターの向こう側にいる本人へ直接問い掛けるように、黒服は静かに呟く。
「貴方は一体、何者なのでしょうね……?」
壮大な疑問だった。
敵味方の区別なく、それら全てを惹き付ける存在。
黒服の興味が、かつてないほど先生へ向けられていく。
『スバルー!! 待ってー!! そのレモンを置いて!! それナギサのお肉だから! エデン条約解消されちゃうから止まってー!!』
片翼を生やし、両手いっぱいにレモンを抱えた現地スバルを全力で追い掛け回していた。
『試さなければ分からないだろ!?』
『もう一人の私! 諦めてレモンを置きなさい!!』
映像の中では、現地スバルを何とか取り押さえようとアリウス自治区を奔走している。
やがて黒服の口元から、再び小さな笑い声が漏れた。
「……クックック。本当に、興味が尽きませんね。先生」
その言葉を最後に、黒服はモニターを眺め続ける。
画面の中では今日も変わらず、生徒たちに振り回されながら、それでも決して彼女たちから離れようとはしない先生の姿が映り続けていた。