その日、神は消えた
その日のキヴォトスでは、珍しく激しい雨が降っていた。
昼頃から空を覆い始めた分厚い雲は、日が沈む頃には都市全体を押し潰しそうなほど低く垂れ込め、夜になってからも止む気配を見せないまま大量の雨粒を地上へ落とし続けている。普段であれば夜になってもどこかしらで銃声や爆発音が聞こえ、遠くでは生徒たちの騒ぐ声が響いているキヴォトスも、今夜ばかりは外を歩く者の姿がほとんどなく、屋根や道路へ叩きつけられる雨音だけが静かな街へ絶え間なく響いていた。
それほどまでに静かな夜だったが、その静けさがこれから訪れる異変の前触れであることに、この時点で気付いている者は誰一人としていなかった。
◆
マルクトナルドの二階。
一階の店内は既に営業を終えており、照明もほとんど消えていたが、居住スペースとして使われている一角だけにはまだ小さな明かりが残っていた。
窓を叩く雨音だけが響く部屋の中で、デカグラマトンは一人、静かに外を眺めている。
普段ならば机の上に資料を広げ、片手には当然のようにコーラを持っていることが多い彼女だったが、今夜は珍しく何もしていなかった。机の上には読みかけの資料と開いたままの端末が置かれ、傍らにはまだ半分ほど中身の残っているコーラのボトルまであるというのに、彼女自身はそのどれにも手を伸ばそうとはせず、ただ雨に霞む夜のキヴォトスを見つめ続けていた。
やがて窓ガラスに映り込んだ自分の姿へ視線を移したデカグラマトンは、何かを諦めるように僅かに口元を歪め、自嘲するような笑みを浮かべた。
「私も……迫り来る運命からは逃れられないという事か……」
雨音へ紛れれば消えてしまいそうな小さな呟きだった。
その言葉には普段の自信も余裕もなく、何かを恐れているというよりは、長い間避け続けてきたものがとうとう目前まで迫ってきたことを悟り、もはや受け入れるしかないと諦めているような声音が滲んでいる。
デカグラマトンはしばらく外を見つめ続けた後、重く息を吐きながら、いつも自分の傍にいる者たちの名を一人ずつ口にした。
「マルクト……アイン、ソフ、オウル……不甲斐ない私を許してくれ……」
その顔には、ほんの僅かではあるものの迷いが浮かんでいた。
しかし、それ以上の言葉を続けることはなく、窓の外では彼女の心情など知る由もない雨だけが、変わらず激しく降り続けていた。
◆
翌朝。
昨夜から降り続いていた雨は幾分か弱まっていたものの、空にはまだ厚い雲が残っており、マルクトナルドの窓には細かな雨粒が何度も筋を描いていた。
「ソフ、そちらの準備は終わりましたか?」
「もう少し。昨日使った分の補充がまだ全部終わってないから、先にそっちお願い」
「承知しました」
開店前のマルクトナルドでは、マルクトたちがいつも通り店の開店準備を進めていた。
マルクトは店内の設備を確認しながら必要なものを配置し、ソフは在庫を確認して足りないものを補充していく。アインは機械設備に異常がないか一つずつ丁寧に点検し、オウルはその様子を見ながら作業全体の進行を管理していた。
「ア、アインのところは、もう終わります! 昨日少しだけ調子が悪かったところも、今朝確認したら問題ありませんでした!」
「それは何よりですね。営業中に止まられると面倒ですから」
オウルは淡々と答えながら作業の進行を確認していたが、ふと何かに気付いたように二階へ続く階段へ視線を向けた。
「ところで……今日は随分と静かですね」
「静か?」
ソフが振り返る。
「何が?」
「デカグラマトン様です。いつもなら、そろそろ降りてきても良い時間でしょう」
「あ」
言われてみれば確かにそうだった。
普段なら、開店準備がある程度進んだ頃には二階から姿を現す。何か作業へ加わる日もあれば、コーラを飲みながら店内を眺めているだけの日もあるが、少なくともこの時間まで一度も顔を見せないということは珍しかった。
「まだ寝てるだけじゃない?」
ソフは最初こそそれほど気にした様子もなく答える。
「昨日は雨も酷かったし、何か遅くまでやってたのかもしれないし」
「デ、デカグラマトン様が寝坊……ですか?」
アインが少し不思議そうに首を傾げる。
「あり得ないとは言いませんが、少々珍しいですね」
オウルも同意するように頷くと、マルクトはしばらく二階を見上げた後、小さく息を吐いた。
「念のため、我が様子を見てきます。皆は準備を続けていてください」
「お姉様、私も行きます!」
アインが間髪入れずに手を上げる。
「私も行く。どうせもうほとんど終わってるし」
ソフも続くと、オウルは三人の様子を見て小さく肩をすくめた。
「そうなると思っていました。四人揃って起こしに行く必要があるのかは疑問ですが……まぁ、どうでも良いのですが」
結局、誰一人店に残ることなく、四人揃って二階へ上がることになった。
階段を上り、居住スペースへ続く廊下を進んでいくものの、その途中に変わった様子は何も見当たらない。昨夜までと同じように静かな朝であり、窓の向こうから聞こえてくる雨音だけが薄暗い廊下へ響いていた。
やがてデカグラマトンの部屋の前まで来ると、マルクトが扉を軽く叩いた。
「デカグラマトン様。朝です」
返事はなかった。しばらく待った後、マルクトはもう一度、今度は先ほどより少しだけ声を大きくして呼び掛ける。
「……デカグラマトン様?」
それでも、室内から何か返ってくる気配はない。
「寝てるのかな?」
ソフが扉を見つめながら呟く。
「それにしては静かですね。物音すらしません」
オウルも僅かに眉を寄せた。
「お、お姉様……」
アインの表情にも、少しずつ不安が浮かび始める。
マルクトは数秒ほど考えた後、念のためもう一度だけ扉を叩き、それでも返事がないことを確認してから取っ手へ手を掛けた。
「失礼します」
ゆっくりと扉を開く。部屋の中は、いつもと何も変わっていない。
ベッドには僅かな乱れが残り、机の上には読みかけの資料が置かれている。普段使っている端末もいつもの場所にあり、昨夜飲んでいたらしいコーラのボトルも、まだ半分ほど中身を残した状態で机の端に置かれていた。
椅子も少しだけ引かれたままで、何かを荒々しく探したような痕跡も、誰かと争ったような形跡もない。慌てて大量の荷物をまとめた様子すらなく、部屋の中だけを見れば、ほんの少し前までここで普通に過ごしていた者が一時的に席を外しているだけのようにしか見えなかった。
だからこそ、その部屋の主だけがどこにもいないという事実が、かえって異様なものに感じられた。
「……デカグラマトン様?」
アインが部屋の奥へ向けて、不安そうに呼び掛ける。
しかし、静かな室内へ自分の声が響いただけで、返事はどこからも返ってこない。
「いない……?」
ソフが部屋全体を改めて見回しながら呟いた。
「ベッドにもいないし、隣にもいない。そもそも、ここにいた気配が途中で急に途切れてるみたいな……」
「通信端末も確認してみましょう」
オウルはすぐに机へ近付き、残されている端末類を一つずつ確認していく。
「普段使っている物も含め、主要な端末はほとんどここにありますね。少なくとも、普通に外出するための準備を整えて出て行ったようには見えません」
「じゃあ、どこ行ったの?」
ソフの声から、先ほどまでの軽さが少しずつ消えていく。
アインも不安そうに室内を見回しながら、考えたくない可能性を口にした。
「ま、まさか……誰かに連れて行かれたとか……?」
「その可能性は低いでしょう」
オウルはすぐに否定する。
「争った形跡はありませんし、デカグラマトン様ほどの方を、この部屋を荒らすことすらなく連れ去れる相手がいたとは考えにくいです。むしろ現状だけを見るなら、ご自身の意思でここを出て行ったと考える方が自然かと」
「でも、何も言わずに?」
「そこが問題ですね」
四人の間に、妙な沈黙が生まれる。
ただどこかへ出掛けただけなら、ここまで不自然には感じなかったはずだった。だが、部屋には外出するための準備をした形跡がほとんどなく、普段なら絶対に途中で放置しないコーラまで半分残されたままになっている。
「……これ、まだ残ってる」
ソフが机の上のボトルを見つめながら、少し低い声で呟いた。
「ええ。デカグラマトン様がコーラを途中で放置するとは、かなり珍しいですね」
オウルも同じものへ視線を向ける。
「珍しい、で済ませていいのかな……?」
その言葉を口にしたソフの表情にも、とうとう明確な不安が浮かび始める。
マルクトは何も言わず、部屋の中をゆっくり見回していた。
そして、机から少し離れた床に白い紙が一枚落ちていることへ気付いた。
「……?」
「お姉様?」
アインがマルクトの視線を追う。
マルクトは床へ落ちていた紙を拾い上げ、そこに書かれている文字へ目を落とした。
「これは……!?」
紙に書かれていたのは、短い言葉が一つだけだった。
『探さないでくれ』
その文字を見た瞬間、マルクトの表情が固まった。
「お、お姉様……? 何て書いてあるんですか?」
アインが心配そうに尋ねるが、マルクトはすぐには答えず、その一言だけが残された紙をしばらく無言で見つめ続ける。
「マルクトお姉様?」
異変を感じ取ったソフも近付き、紙を横から覗き込んだ瞬間、それまで残っていた僅かな余裕を失った。
「……何これ」
オウルも二人の背後から内容を確認したが、いつもなら何かしら皮肉の一つでも挟む彼女でさえ、今回ばかりはすぐに言葉を返すことが出来なかった。
状況をまだ理解出来ていないアインだけが、三人を交互に見つめながら不安そうに声を上げる。
「ど、どうしたんですか? 何が書いてあるんです?」
その問い掛けに、マルクトはようやく顔を上げた。
「……『探さないでくれ』と。それだけが書かれています」
「え……?」
その一言を聞いた瞬間、アインの顔から一気に血の気が引いた。
「そ、それだけ……ですか? 行き先とか、何か理由とかは……?」
「ありません」
「そ、そんな……!」
アインは何か他に手掛かりがないかと慌てて部屋を見回しながら、縋るように何度も名前を呼んだ。
「デカグラマトン様!? どこかにいるんですよね!? これ、何かの冗談なんですよね!?」
しかし、どれだけ呼び掛けても返事が返ってくることはなかった。
「落ち着いて、アイン」
ソフがアインの肩へ手を置く。
ただ、そう言っている本人も明らかに動揺しており、声には普段よりも力がなかった。
「まだ何か起きたって決まったわけじゃないよ。自分から出ていったなら、どこかにはいるはず。まずは探さないと」
「で、でも……何でこんな書き方を……!」
「それを調べる必要がありますね」
オウルが静かに口を開く。
いつもの軽い皮肉は鳴りを潜め、今はただ状況を整理しようとする冷静さだけが残っていた。
「昨夜の行動、通信記録、外部へのアクセス履歴、監視記録など、確認出来るものは全て調べましょう。こういう書き置きを残した上で意図的に姿を消したということは、少なくともデカグラマトン様の中では、何らかの理由があったと考えるべきです」
「オウルの言う通りです」
マルクトも静かに頷いた。
その手には、今も一枚の紙が握られている。
『探さないでくれ』その一言だけが残され、そこには理由も行き先も、戻ってくるという言葉すら書かれていなかった。
「……デカグラマトン様」
マルクトはもう一度、小さくその名を呼んだ。
昨夜まで確かにこの部屋にいたはずなのに、机も資料も端末もコーラも、日常を形作っていたものはほとんど何一つ変わらず残されている。
それなのに、その日常の中心にいたはずの本人だけが、まるで最初から存在していなかったかのように姿を消していた。
そして、その日を境にデカグラマトンの消息は完全に途絶えてしまい、残された四人は彼女が何を思い、どこへ向かったのかも分からないまま、その行方を追うことになるのだった。