デカグラマトンが姿を消してから、数日が経ったある日のことだった。
その日もシャーレは、いつもと何一つ変わらず騒がしかった。
午前中の仕事が一段落し、ようやく休憩時間を迎えた先生は、休憩スペースに置かれているソファへ身体を沈め、手元の飲み物を口にしながら周囲を眺めていた。視界へ入ってくるものだけを見れば、今日もキヴォトスは平和そのものであり、少なくともこの場所にいる限りでは、何か大きな異変が起きているなどとは到底思えない。
「これ本当に身長伸びるの~?」
「噂では伸びるらしいですよぉ」
「だったら続ける価値はある」
部屋の隅では、臨戦ホシノとヒナ、それにシュロの三人が両腕を大きく上げたり下げたりしながら、妙に真剣な表情でばんざい体操を続けていた。
どこから仕入れてきた情報なのかは知らないが、毎日続けると身長が伸びるらしい、という噂を聞きつけたらしく、それ以来、休憩時間になると三人揃って同じ体操を始めるようになっている。
「でも、これくらいで本当に伸びるのかなぁ」
臨戦ホシノが半信半疑な様子で身体を伸ばす横で、ヒナは一切手を抜かずに腕を上げ続けている。
「何もしないよりはいい」
「ヒナちゃん、本気だねぇ」
「……何か?」
「いや、何でもないよ~」
そんな三人のすぐ横では、さらに別の意味で身長を伸ばそうとしている者がいた。
「ミカさん、もう少し強く引っ張ってください!」
「任せてナギちゃん! こっちの方が早く大きくなれるじゃんね!」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか!?」
セイアが床へ仰向けになり、両腕をナギサ、そして両足をミカの二人がかりで引っ張られていた。
「セイアさん、耐えてください! ここを乗り越えればきっと!」
「何を根拠に言っているんだい!?」
「大丈夫大丈夫! 物理的に伸ばせばそのうち身長も伸びるって!」
「なぁ……これって拷問じゃないのかな!?」
心底不安そうなセイアの声が聞こえるものの、ミカとナギサはまったく止める気配がない。
先生はその光景を眺めながら、止めるべきか少し迷った末、今のところ悲鳴までは上がっていないことを確認し、とりあえず様子を見ることにした。
その反対側では、元理事とアルが小さな机を挟んで向かい合っていた。
「つまり、会社経営というのは勢いだけでどうにかなるものではない。売上と支出を把握して、資金繰りを考えて、それから――」
「なるほど……!」
アルは普段以上に真剣な表情でノートへ何かを書き込んでいる。
「利益を出すためには、まずしっかりとした経営計画が必要なのね!」
「そうだ。少なくとも、なんとなく格好いいからで事業を始めるな」
「そ、そんなことしてないわよ!?」
「お前の場合、かなり怪しいんだが」
「失礼ね!」
元理事は明らかに面倒そうな顔をしていたが、それでも頼まれた以上は最低限のことを教えるつもりらしく、アルが書き留めた内容を確認しながら時折訂正を入れている。
その少し離れたところからは、今度は甲高い声が響いてきた。
「どうして……どうしてこんな糸目の色ボケピンク頭に勝てないんですかぁ!!」
「ちょっと! それどういう意味ですか!!?」
カヤと臨戦トキがチェス盤を挟んで向かい合っていた。
盤面を見る限り勝負は既に決しており、カヤの駒が臨戦トキのキングを完全に追い詰めている。
その横ではケイが腕を組みながら、呆れたような溜息を吐いていた。
「トキはこれで百連敗ですね」
「そんな不名誉な記録は今すぐ抹消してください」
一方、勝った側のカヤも素直に喜んでいる場合ではなかった。
「というか、さっきの発言についてちゃんと説明してください! 誰が色ボケなんですか!」
「あなた以外に誰がいるんですか?」
「言い切りましたね!?」
「ちょっと二人とも、チェスの勝敗よりそっちで喧嘩するのやめない?」
先生が遠くから声を掛けると、二人は一瞬こちらを見た後、揃って視線を逸らした。
「……別に喧嘩ではありません」
「ただの事実確認です」
「そっかぁ……」
先生は、それ以上深く関わらないことにした。
しかし静かになったのも束の間、今度は別の場所から楽しそうな声が聞こえてくる。
「テス先生、準備はいい?」
「うん! 当てたらお菓子くれるんだよね!?」
「ちゃんと当てられたらな」
「よし、じゃあ始めるか」
「……本当にいいんですかね?」
先生がそちらへ顔を向けると、目隠しをしたテスが棒を両手で握り、水着サオリ、アツコ、スバルの三人に囲まれていた。
どうやらピニャータで遊んでいるらしい。
「誰かわたくしを助けなさい!!」
今回の標的はお菓子の入った紙人形ではなく、天井からロープで吊り下げられているベアトリーチェだった。
先日から身体が小さくなったままシャーレで管理されている彼女は、また何かしょうもない悪さをしたらしく、いつの間にかピニャータの代わりとして吊るされている。
「どうして毎回わたくしがこんな扱いを受けなければならないのですか!?」
「悪いことするからだよ」
アツコが至って普通の声で答える。
「バレなきゃ犯罪じゃありません!!」
「そっか。あっテス先生、もう少し右だよ」
「こっち?」
「ああ、その辺りだ」
「あなた達は無視して誘導してるんじゃありません!!」
「よし、そのまま振り抜け」
「サオリィィィ!!」
先生はしばらく眺めた後、念のため水着サオリへ声を掛ける。
「怪我しない程度にねー」
「分かっている」
「先生も止めなさい!!」
ベアトリーチェの抗議は、誰にも聞き入れられなかった。
さらにその奥では、RABBIT小隊とFOX小隊、それにニコとクルミまで集まり、一台のゲーム機を囲んでいた。
「次、私の番」
「サキ、さっきやったでしょ」
「今のは練習だ」
「何回練習するつもりなんですか……」
「静かにしてください。今、敵兵が近くにいます」
「ミユ、そこ隠れられるよ」
「えっ、本当ですか?」
画面に映っているのはメタルギアソリッドだった。
潜入任務に慣れている面々だけあって異様に真剣であり、操作している者が少しでも雑な動きをすると、周囲から一斉に指摘が飛んでくる。
「そのルートは危険」
「でも最短だよ」
「最短で見つかったら意味ないでしょ」
「こういう時はダンボールです!」
「結局そこに行き着くんですね……」
先生は「リアルで出来ることをゲームでもやって楽しいのかな」と少しだけ思ったが、本人たちが楽しそうなので口には出さなかった。
そして、休憩スペースの窓際では、さらに妙な光景が広がっていた。
「……美味しい」
シロコテラーが焼き鳥を一口食べながら呟く。
その隣ではナグサも同じように焼き鳥を食べていた。
「ここのはタレがいいね」
「うん」
ただ、問題はそこではない。
「……私も食べ物を出せるスキルが欲しかった」
シロコテラーが、ナグサの袖から何本目か分からない焼き鳥が出てくるのを見つめながら真剣に言う。
「新衣装で来ると良いね」
「期待する」
二人の会話を少し離れた場所から、キキョウとアヤメが無言で眺めている。
その顔には、
――そもそも、どうして袖から無限に焼き鳥が出てくるんだ。
という疑問がありありと浮かんでいた。
「……先生」
アヤメが何か聞きたそうにこちらを見る。
「私に聞かれても分からないよ」
「まだ何も言ってないんだけど」
「顔に書いてあるから」
先生は苦笑しながらソファへ深く身体を沈めた。
今日もシャーレはいつも通り騒がしく、それぞれが好き勝手に時間を過ごしている。
「……今日も平和だなぁ」
先生がそんなことを呟いた、ちょうどその時だった。
机の上に置いていた端末が震え、着信音が鳴り響いた。
「ん?」
表示されていた名前に、先生は少しだけ眉を上げた。
「ケイ?」
ただし、今この休憩スペースにいるケイではない。
先生はすぐ近くで臨戦トキの百一回目の対局準備を見守っているケイへ視線を向けた後、端末を手に取った。
「もしもし?」
『先生、今少し大丈夫ですか?』
聞こえてきたのは、現地のケイの声だった。
普段であればどこか強気で、時折皮肉も混じる彼女の声が、今日は妙に硬い。
「大丈夫だよ。どうしたの?」
先生がそう尋ねると、電話の向こうで僅かな間があった。
『……あのコーラ狂いが、どこかへ消えました』
「…………」
先生は一瞬だけ黙った。コーラ狂い、その呼ばれ方をする相手は、一人しか思い浮かばない。
「……あの子が?」
『察しが早くて助かります。デカグラマトンです』
先生は自然と身体を起こし、先ほどまでの穏やかな表情を少し引き締めた。
「消えたって、どういうこと?」
『言葉通りです。数日前から行方が分かりません』
「数日前から?」
『はい。私も最初は、いつもの奇行か何かだと思っていました。あの人ですし、突然どこかへ行ったとしても驚くようなことではありませんから』
「否定しづらいなぁ……」
『ですが、今回は少し様子が違います』
現地ケイの声が低くなる。
『何日経っても戻ってきません。通信も一切繋がらず、こちらから追える範囲の記録も途中で途切れています』
「……それは確かに変だね」
『それだけではありません』
先生は黙って続きを待つ。
『デカグラマトンが普段生活している場所に、彼女と一緒に暮らしている子たちがいるんですが、その子たちから話を聞いたところ、本人が自分の意思で姿を消した可能性が高いようです』
「一緒に暮らしている子たち?」
先生には聞き覚えのない話だった。
『詳しくは、直接会って話した方が早いと思います』
「分かった」
『それと……』
現地ケイが一瞬だけ言葉を止める。
『書き置きが残されていました』
「書き置き?」
『「探さないでくれ」と、それだけです』
「…………」
先生の表情が完全に変わった。
行方が分からないだけなら、何かの用事で出掛けている可能性もある。
だが、自分から【探さないでくれ】と書き残し、通信まで切って何日も姿を見せないとなれば話は別だった。
「何か理由は書いてなかったの?」
『何も。ただ、それだけだったそうです』
「そう……」
『こちらでも少し調べていますが、一度直接話したいです』
「分かった。今から行くよ」
『助かります』
先生は通話を切ると、しばらく端末の画面を見つめた。何となく嫌な胸騒ぎがする。
「先生?」
声を掛けられ、先生が顔を上げる。
いつの間にか、ケイがこちらを見ていた。
その隣では臨戦トキもチェス盤から顔を上げ、何事かと先生の様子を窺っている。
「どうしました?」
「誰からの電話だったんですか?」
臨戦トキが尋ねる。
「この世界のケイから」
「私ですか?」
ケイが少し眉を上げる。
「何かあったんです?」
「……うん」
先生は二人の顔を見てから、ゆっくり立ち上がった。
「二人とも、少し付き合ってくれる?」
「構いませんが」
「先生のパーフェクトメイド。この飛鳥馬トキも同行しましょう」
臨戦トキは即答した後、何故か少し得意げに胸を張る。
「それで、どこへ行くんですか?」
「一旦ミレニアムかな?」
ケイが首を傾げる。
「そこで何が?」
先生は少しだけ声を落とした。
「デカグラマトンが突然消息を絶ったんだって」
その話にケイの表情が変わった。
臨戦トキも、先ほどまでの騒がしい雰囲気を一瞬で消す。
「消えた、というのは?」
「数日前から行方不明。通信も繋がらないし、書き置きまで残してる」
「書き置き?」
「『探さないでくれ』って」
ケイはしばらく何も言わなかった。
「……それは」
短く答えたケイの声には、普段の余裕がなかった。
臨戦トキも静かに立ち上がる。
「先生、すぐに行きましょう」
先生は頷き、二人と一緒に休憩スペースの出口へ向かう。
「先生、どこ行くの~?」
途中で臨戦ホシノがばんざい体操を止め、こちらを振り返った。
「ちょっとミレニアムまで。急用が出来たんだ」
「そっかぁ。気を付けてね~」
「先生、帰ってきたらセイアさんをもっと効率的に伸ばす方法について相談があります!」
「誰かこの馬鹿二人を止めてくれ!!」
セイアの悲鳴が聞こえる。
いつも通りの騒がしい声に見送られながら、先生はケイと臨戦トキを連れてシャーレを出た。
外は晴れている。数日前に降った激しい雨の痕跡など、もうほとんど残っていない。
先生はまだ知らなかった。彼女の行方を追うことが、自分たちをこれまで一度も足を踏み入れたことのない場所へ導くことになることも。