補習授業部での活動が開始されてから、早くも一週間が経った。
その間に行われた最初の追試は、控えめに言って悲惨な結果に終わった。
もちろん、全員が悲惨だったわけではない。
ヒフミだけは、きちんと合格点を取っていた。
「えへへ……私、頑張りました!」
そう言って照れくさそうに笑うヒフミに、先生は素直に拍手を送った。
「すごいよ、ヒフミ」
「ありがとうございます、先生!」
だが、問題は他の面々だった。
アズサは戦術や実技ならともかく、一般教養の一部が妙に偏っていた。
コハルは真面目にやっているのに、焦れば焦るほど空回りした。
ハナコは分かっているはずなのに、なぜか答案用紙の余白に先生が反応に困るような謎の文章を書き込んでいた。
そして、結果を見た先生はこう判断した。
「もう少し集中できる場所で勉強しようか」
こうして、現地ナギサに頼みこんで、今は使われていない旧校舎の一室が、補習授業部の新たな活動場所になった。
◆
旧校舎の教室は、思ったよりも静かだった。
窓から差し込む光は柔らかく、外の喧騒もほとんど届かない。
古い机と椅子。
少しだけ埃っぽい黒板。
しかし、勉強するには悪くない場所だった。
何より、この一週間で補習授業部の空気はだいぶ変わっていた。
最初は混沌としていた。
いや、今も十分混沌としているのだが、少なくとも生徒同士の距離は少しずつ縮まっていた。
「ハナコ! また変なこと言ったでしょ!」
コハルが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「え? 私はただ、公式を覚える時は体で覚えた方が忘れにくいと……」
「エッチなのはダメ! 死刑!」
「まだ何も言っていませんよ?」
「言い方がもうダメ!」
コハルは机を叩きながら抗議している。
ハナコは穏やかな笑顔のまま、まったく悪びれていない。
その横では、ヒフミがアズサに問題を教えていた。
「ここはこの公式を使うんです。えっと、まずこの数字を代入して……」
「なるほどな」
アズサは真剣な顔でノートを見つめている。
「ヒフミは教えるのが上手いな」
「そ、そうですか? えへへ……ありがとうございます」
ヒフミは嬉しそうに頬を緩めた。
アズサも、ほんの少しだけ表情を和らげる。
アツコはその近くで静かに二人を眺めていた。
時折、アズサが迷っている箇所を指差す。
「そこ、符号が逆」
「あっ……本当だ。助かる、アツコ」
補習授業部のメンバーは、確かに問題を抱えている。
けれど、全員悪い子ではない。
むしろ、皆それぞれに頑張ろうとしている。
「いい雰囲気になってきたね」
先生が呟くと、隣にいたナギサが頷いた。
「そうですね。少なくとも、初日のような惨状ではなくなりました」
「初日はすごかったね」
「忘れましょう」
ナギサは遠い目をした。
ミカはコハルの勉強を見ながらにこにこしている。
「コハルちゃん、ここ間違ってるよ〜」
「えっ!? 嘘!?」
「コハルちゃんはもう少し落ち着いて解いてみるといいんじゃない?」
「次から気を付けます…」
「タメ口でいいのに~☆」
「それは無理です!」
セイアは少し離れた席で、ハナコの答案を見ていた。
「ハナコ、解答そのものは正しいが、余白の文章は必要かい?」
「まあ。読んでくださったんですね」
「読まざるを得ない位置に書かれていたからね」
「ふふ。ありがとうございます」
「褒めてはないんだがね…」
何だかんだで、勉強は順調に回り始めていた。
その一方で、先生にはもう一つの日課ができていた。
毎日、夕方頃。
補習授業部の勉強が一段落した後、先生は現地ナギサと話し合いをしていた。
裏切り者の件や補習授業部の様子。
最初のうちは、現地ナギサも何とか優雅さを保っていた。
しかし、一週間が経っても裏切り者の取っ掛かりすら掴めていない現状は彼女の精神を少しずつ削っていった。
「先生……」
今日の現地ナギサは、明らかに疲れていた。
テラスの席に座り、紅茶を前にしているのにほとんど口をつけていない。
背筋は伸びているが、どこか力がなく。
以前より少しだけ、シナシナして見えた。
「大丈夫?」
先生が心配そうに尋ねる。
「ええ、大丈夫です」
現地ナギサは微笑む。
だが、その笑顔は弱弱しい。
「大丈夫ですと自分に言い聞かせるのも効果があるでしょう?」
「う~ん、余り大丈夫じゃなさそうだね…」
「……」
現地ナギサは目を逸らした。
先生は何とか彼女の不安を取り払えないか考えていた。
裏切り者を見つけるのが一番いいのはわかるのだが、すぐには難しい。
ならせめて、現地ナギサの身を守れる存在が居れば。
そこで、先生はふと思い出した。
「そうだ!」
「どうしました?」
「助っ人機能っていうのがあるんだよ」
「助っ人機能……ですか?」
現地ナギサは首を傾げる。
先生は簡単に説明した。
通常の募集とは少し違い、一時的に力を借りられる機能。
以前、ナギサが勝手にミカを呼んだこともある。
その話を聞いた現地ナギサは、少しだけ目に光を取り戻した。
「つまり、その機能を使えば、外部から信頼できる護衛を呼べるということですか?」
「うん。必ず希望通りとは限らないけど、条件はある程度考えられると思う」
「……」
現地ナギサはしばらく考え込んだ。
「できれば、トリニティの生徒は避けたいです」
「えっいいの?」
「今、誰が信用できるのか分からない以上、トリニティ内部の生徒を護衛につけるのは不安があります」
「なるほど、わかったよ」
「それと……ゲヘナの生徒も遠慮したいです」
現地ナギサは少し言いにくそうに続ける。
「この時期にゲヘナの生徒がトリニティにいるとなると、不要な誤解を招きかねません」
「そっか…」
トリニティ生ではない。
ゲヘナ生でもない。
そして、見た目が強そう。
先生の中で、ある程度条件がまとまった。
「分かった。やってみよう」
先生はシッテムの箱を取り出す。
「アロナ、助っ人機能って使える?」
『はい! 先生の頼れるサポートAI、アロナちゃんにお任せください!』
アロナの声が弾む。
『条件を設定しますか?』
「トリニティ生とゲヘナ生は避けて、護衛ができそうな強そうな生徒でお願い」
『了解しました!』
シッテムの箱が光を放つ。
現地ナギサは少し緊張した顔でその光を見つめていた。
先生は、彼女を安心させるように笑う。
「きっと力になってくれる子が来るよ」
そして光が収まった。
そこに立っていたのは、マスクをつけた少女だった。
青みがかった髪に黒いキャップ。
戦場慣れした者だけが持つ、鋭く静かな空気。
錠前サオリ。
彼女は呼び出された瞬間、先生と現地ナギサの姿を確認した。
マスク越しでも分かるほど、わずかに嬉しそうな雰囲気があった。
だがすぐに違和感に気づいた。
二人のサオリを見つめる瞳が知り合いに対するそれでは無かった。
「初めまして、私はシャーレの先生だよ」
先生が穏やかに言った言葉はサオリの思考を止めるのに十分だった。
現地ナギサも丁寧に微笑む。
「初めまして。あなたのお名前を教えていただけますか?」
初めまして、自分の名前を知らない。
つまり、この二人はまだ自分と出会っていない。
それどころか、自分が誰なのかもわかっていない。
では、ここはいつだ?
どの時点だ? なぜ自分は呼ばれた?
何をすればいい?
サオリの脳内で警鐘が鳴る。
だが、沈黙し続けるわけにもいかない。
サオリは何とか声を絞り出した。
「……錠前サオリだ」
「サオリだね。急に呼んでごめんね」
「……いや……問題ない」
サオリは動揺を隠しながら答える。
「状況を説明してもらえると助かるのだが…」
「うん。実は、サオリにはナギサの護衛を頼みたいんだけど、いいかな?」
「……え?」
サオリは目を見開いた。
護衛…?
誰の…?
桐藤ナギサの…!?
今、先生はそう言った。
サオリは現地ナギサを見ると彼女も真剣な表情で頭を下げた。
「お願いします。今の私には、信頼できる護衛が必要なのです!」
「……っ!!」
この瞬間サオリはここが自分たちが調印式を襲う前の時間軸と完全に把握したが、今更断れる空気ではなかった。
何より、二人が自分を信じるような目で見つめてきている。
この時点の二人はまだ何も知らない。
自分が何者なのかも。
何をしてきたのかも。
これから何をするのかも。
サオリは内心で頭を抱えた。
どうすればいい、どう動くべきだ?
この時点で、自分が桐藤ナギサの護衛をする?
これは運命の皮肉かそれとも罰なのか?
それとも、ただの事故なのか?
サオリが一人で自問自答している時だった。
テラスへ向かう足音が聞こえた。
「先生、遅いですね……」
「こっちのナギちゃんに捕まってるのかな〜」
「話が長引いているのだろう」
「いつもならもうそろそろ終わる頃だね」
ナギサ、ミカ、セイア、アツコのいつもの。
四人は先生が戻らないため、迎えに来たのだった。
そして、テラスに入った瞬間。
全員がサオリを見つめた。
「「「「……!?」」」」
四人の内心が、綺麗に一致した。
なんでサオリ(サッちゃん)がいるんだ?
先生はそんな四人の不思議そうな顔に気づき、明るくわかりやすく説明した。
「ちょうどいいタイミングだから紹介するね! この子は助っ人機能で呼んだサオリって言うんだ! 彼女にナギサの護衛を頼もうと思って呼んだんだ!」
先生がうれしそうに教えてくれた、その瞬間四人は同時に顔を背けた。
「……っ!」
「……んぐ!」
「……ふ!」
「……う!」
全員が必死に吹き出すのを耐えていた。
ナギサは口元を押さえ、肩を震わせる。
ミカは(やばい、これ笑っちゃ駄目なやつ)と言いたげな顔で視線を逸らす。
セイアは目を閉じ、必死に平静を保っている。
アツコだけは、サオリと目が合った。
サオリは助けを求めるような目でアツコを見つめていた。
この状況をどうにかしてくれ。何か言ってくれ。せめて説明してくれ。バニタス…
そんな瞳だった。
アツコは、笑いを堪えながら小さく頷いた。
「が、がんばってね……サッちゃん…!」
「……バニタスバニタータム…」
サオリの目から光が消えた。
ミカが限界ぎりぎりの声で言う。
「い、いいんじゃないかな〜? サオリ、強いし……護衛にはぴったりだよ〜☆」
「そ、そうですね……とても頼もしい方ですし……」
「皮肉ではなく、本当に戦闘能力は高いしな、問題は状況の絵面があまりにも……」
「セイアさん、それ以上は言わないでください」
ナギサが止める。
現地ナギサは、四人の反応に少し首を傾げていた。
「皆さん、サオリさんをご存じなのですか?」
ナギサたちは一瞬固まった。
先生も不思議そうに4人を見てくる。
サオリはテラスから見える夕日を眺めながら黄昏ていた。
その立ち姿は先生と現地ナギサから見るとすごくかっこよく映ったが事情を知っている4人から見るとその背中はどこか泣いているようだった。
アツコはまた少しだけ視線を逸らした。
ナギサは咳払いした。
「ええ、まあ……別世界で少し」
「なるほど」
現地ナギサは納得したように頷く。
それだけで納得してしまった。
サオリは内心でさらに頭を抱えた。
先生は穏やかに笑う。
「じゃあ、サオリ。改めてよろしくね」
現地ナギサも微笑んだ。
「よろしくお願いします、サオリさん」
サオリはしばらく沈黙した。
そして、逃げられないことを悟った。
「……分かった。可能な限り、護衛を務めよう」
その言葉を聞いて、現地ナギサは少しだけ安心したように表情を緩めた。
「ありがとうございます」
先生も嬉しそうに頷く。
「よかった。これでナギサも少し安心できるね」
ナギサたちは、また顔を背けた。
サオリは一人、静かに天を仰ぐ。
どうしてこうなった。
答えは出なかった。
ただ一つ分かることは。
エデン条約編は、また一つ奇妙な方向へ外れ始めたということだけだった。