サオリが現地ナギサの護衛につくようになってから、数日が経っていた。
最初こそ、現地ナギサはサオリに対して少しぎこちなかった。
当然と言えば当然だった。
突然、先生の不思議な機能によって呼び出された生徒。
トリニティ生ではなく、ゲヘナ生でもない。
物腰は落ち着いているが、明らかに戦場慣れしている。
それでいて、どこか深い影を抱えているような少女。
錠前サオリ。
現地ナギサから見れば、頼もしくもあり、同時に少し謎めいた存在だった。
サオリの方も、最初はかなり気まずかった。
自分は本来、この時期のトリニティに堂々といていい存在ではない。
ましてや、桐藤ナギサの護衛など、どんな皮肉だとそう思わない日はなかった。
だが、それでもサオリは与えられた役目を立派に果たしていた。
現地ナギサの傍に立ち、周囲を警戒し、必要以上の会話はせず、ただ淡々と護衛として振る舞う。
それが、今の自分にできることだった。
◆
その日も、現地ナギサはテラスで紅茶を飲んでいた。
視線は何度も遠くへ向かい、考え込む時間が増えている。
裏切り者は、まだ見つかっていない。
補習授業部の調査も、先生からの報告も、決定的な答えには届いていない。
その事が、現地ナギサの弱い心を少しずつ削っていた。
「……」
サオリは少し離れた場所に立ち、周囲をいつもの様に警戒していた。
そんな時、一人のティーパーティー所属の生徒が駆け寄ってくる。
「ナギサ様」
「どうしました?」
現地ナギサは顔を上げた。
生徒は少し言いづらそうにしながらも、報告を始める。
「ミカ様が、先生に会いに行かれたようです」
「……ミカさんが?」
現地ナギサの指が、カップの取っ手を強く握る。
「はい。旧校舎方面へ向かわれたとのことです」
「先生に、ですか?」
「そのようです」
生徒は淡々と一礼し、去っていった。
テラスに沈黙が落ちる。
現地ナギサは紅茶を見つめた。
水面が、かすかに揺れている。
「ミカさんが……先生に……何故?」
ぽつりと呟くその声には、明らかな不安が混じっていた。
サオリは少しだけ現地ナギサに視線を向けると彼女の表情は曇っていた。
どうにも考えすぎている顔だった。
「桐藤ナギサ」
「……何でしょうか?」
「落ち着け」
サオリは短く言った。
現地ナギサが少しだけ顔を上げる。
「……私は落ち着いています」
「そうは見えない」
「……」
「深呼吸しろ」
サオリは淡々と続けた。
「今のお前は、情報を一つ得るたびに最悪の結論へ走ろうとしている」
「……最悪の結論へ走っているつもりはありません」
「なら、今何を考えていた?」
現地ナギサはサオリの質問に答えられなかった。
ミカさんが先生に会いに行った。
それだけの事実から、彼女の中ではいくつもの不安が膨らんでいた。
ミカさんは何を話しに行ったのか。先生は何を聞くのか。
もし、ミカさんが何かを隠していたら。
もし、先生がミカさんを信じてしまったら。
もし、自分が何も知らないまま取り残されたら。
サオリはその沈黙を見て、小さく息を吐いた。
「ゆっくり深呼吸をするんだ。気持ちを落ち着かせろ」
「……はい」
現地ナギサは、ゆっくりと息を吸った。
そして吐く。もう一度。
少しずつ、指先の力が抜けていく。
「……ありがとうございます、サオリさん」
「礼を言われるほどのことではない」
「いいえ」
現地ナギサは苦笑した。
「私一人では、また疑心暗鬼に飲まれていたかもしれません」
「……」
「あなたは強いですね」
サオリはわずかに眉を動かした。
現地ナギサはカップを置く。
「冷静で、揺らがず、危機の中でも自分を見失わない。私も、あなたのような強さがあれば……」
その言葉に、サオリはしばらく沈黙した。
そして、静かに首を横に振る。
「私は強くない」
「ですが――」
「まだまだ弱い」
サオリの声は低かった。
「私にも、どうしようもできなかったことがある」
現地ナギサは、サオリを見つめる。
サオリは少しだけ視線を落とした。
「誰にも頼れず、かつての仲間に追われたことがある」
「……仲間に?」
「ああ」
サオリは続ける。
「守りたいと思っていたものを守れず、大切な人も奪われた」
その言葉は淡々としていた。
けれど、そこに含まれる重さは、現地ナギサにも分かった。
「何をしても届かない。何を選んでも手遅れになる。そう思うしかない状況だった」
「……」
「その時、唯一手を差し伸べてくれたのは先生だけだった」
現地ナギサの目が揺れる。
「先生が……」
「私は、先生に救われたんだ」
サオリは拳を握る。
「だから言える。どうしようもないと思った時ほど、一人で抱え込むな」
「……」
「お前が今やろうとしていることは、私がかつて間違えたことに似ている」
現地ナギサは息を呑んだ。
サオリの言葉は、まっすぐだった。
慰めではない。綺麗な励ましでもない。
それは、実際に失いかけて、壊れそうになって、それでも救われた者の言葉だった。
「……私は先生に頼っているつもりでした」
「頼り方が足りない」
「足りない、ですか」
「全部を一人で決めようとしている。先生を信じると言いながら、先生に見せるものを選びすぎている」
サオリは少しだけ目を細めた。
「それでは、いざという時に届かない」
現地ナギサは、しばらく言葉を失った。
だが、やがて小さく頷く。
「……そうですね」
カップの中の紅茶を見る。
もうすっかり冷めていた。
「私は、もう一度先生と今回のことについて話してみようと思います」
「それがいい。不安があるなら、伝えろ。疑いがあるなら、隠さず言え。話さなければ、いくら先生でも動けないだろ?」
「……そうですね」
現地ナギサは少しだけ表情を和らげた。
「サオリさん。あなたが護衛に来てくださって、本当によかったです」
「……そうか」
サオリはわずかに視線を逸らした。
その言葉は、少しだけ胸に刺さった。
自分が本来どういう立場なのかを知っているからこそ、余計に。
けれど、今だけはその言葉を否定しなかった。
その時だった。
慌ただしい足音がテラスに近づいてくる。
先ほどとは別の生徒が、息を切らせながら駆け込んできた。
「ナギサ様!」
「何事ですか?」
現地ナギサはすぐに表情を引き締める。
生徒は焦った様子で報告した。
「旧校舎付近で騒ぎが発生しています!」
「旧校舎で……?」
「はい! 救護騎士団の蒼森ミネが武力行使に出たとの報告が!」
現地ナギサの顔が強張る。
「ミネ団長が!?」
「詳細は不明ですが、ミカ様と交戦状態に入り、先生も巻き込まれているようです!」
「……先生も?」
現地ナギサの声が低くなる。
生徒はさらに続ける。
「それと、セイア様らしき人物を巡って争っているとの情報もあります!」
「セイアさん……?」
現地ナギサの中で、点と点が繋がってしまった。
セイア。
ミカ。
先生。
武力行使。
ミネ団長。
現地ナギサの目が見開かれる。
「まさか……!!」
サオリが嫌な予感を覚えた。
「桐藤ナギサ、待て。早まるな!」
「サオリさん!」
現地ナギサは勢いよく立ち上がった。
その表情には、完全に確信が宿っている。
「裏切り者が分かりました」
「……」
「ミネ団長が裏切り者です!!」
サオリは天を仰いだ。
「……どうしてそうなる」
「先生が連れて来たセイアさんが居る場所で、ミカさんと先生を襲撃したのでしょう!? これ以上ない証拠です!」
「落ち着けと言ったばかりだぞ…」
「落ち着いています!」
「今のお前は一番落ち着いていない」
だが、現地ナギサはもう止まらなかった。
「行きますよ、サオリさん!」
「……」
「裏切り者を捕まえます!」
サオリは深く息を吐いた。
先ほど、先生に頼れと言ったばかりだ。
冷静になれとも言った。
だが、現地ナギサは完全に別方向へ走り出している。
サオリはもう一度、静かに天を仰いだ。
「先生……」
小さく呟く。
「あなたは本当に、難しい相手ばかり救おうとする」
そしてサオリは、現地ナギサの後を追った、護衛として。
そして、これ以上話をこじらせないために。もっとも、その願いが叶うかどうかは、現時点でまったく分からなかった。
◆
旧校舎前。
ミネ団長の突撃救護は、ミカの介入によってようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
先生はシッテムの箱を抱えながら、何とも言えない顔をしていた。
少し離れた場所では、ナギサ、ミカ、アツコ、補習授業部の面々が遠巻きに様子を見ている。
「結局、何だったんですか……?」
「救護騎士団の団長が、救護のために襲撃してきた」
「言葉にすると余計に意味が分からないわね……」
「ふふ。とても情熱的でしたね」
「ハナコは感想が毎回変なのよ!!」
その一方、セイアはもう一度懇切丁寧にミネへ事情を説明していた。
「だから、私はこの世界の百合園セイアではないんだよ」
「しかし、外見はセイア様です」
「似ているだけだ」
「声もセイア様です」
「似ているだけだ」
「言動もセイア様に近いです」
「そこは否定しづらいけどね」
セイアは少しだけ顔をしかめる。
ミネは真剣な顔で考え込んでいた。
彼女にとって、百合園セイアは現在安静にしているはずの要救護対象である。
その人物が旧校舎周辺を走り回り、爆発に巻き込まれ、膝に擦り傷まで作っている(自分のせい)。
救護騎士団の団長として、看過できるはずがなかった。
だが、目の前のセイアがこの世界のセイアではない。
その説明も、完全には信じがたいが、周囲の反応を見る限り嘘とも言い切れない。
何よりミカ様が二人いる現実、それらを総合的に考えた結果ミネはゆっくり盾を下ろした。
「……事情は、ある程度理解しました」
「ようやくかい? もう三回は同じ説明をしたけどね」
セイアは小さく息を吐いた。
「それで、ミネ」
「なんですか」
「この世界の私がいる場所まで、案内してくれないか?」
ミネの表情がわずかに険しくなる。
「今のセイア様は安静中です。部外者を不用意に近づけるわけには―――」
「ミカもずいぶん後悔していた様子だった」
セイアは静かに言った。
その言葉に、現地ミカが少し肩を震わせる。
「この事件は、それぞれの思い違いと話し合い不足が招いてしまっただけなのさ」
「……」
「誰も話さなかった。誰も頼らなかった。誰も真正面から向き合わなかった」
セイアは、現地ミカを一瞬だけ見た。
それから、ミネへ視線を戻す。
「だから、今から話しに行くんだよ。君が守っているこの世界の私とミカがね」
「……」
ミネはしばらく考え込んだ。
救護とは、怪我を治すことだけではない。
心が傷ついている者に、向き合う場を作ることもまた救護なのかもしれない。
そう判断したのか、ミネは静かに頷いた。
「分かりました。案内しましょう」
「助かるよ」
セイアは満足げに頷いた。
「じゃあ、先生。ミカ。行こうか」
「う、うん……」
「そうだね」
現地ミカは緊張した顔で頷く。
先生も静かに答えた。
その時だった。
「そこまでです!!」
外の方から、鋭い声が響いた。
全員が振り返るとそこには、現地ナギサがいた。
その後ろには疲れた顔をしたサオリもいる。
現地ナギサは息を切らしながらも、凛とした表情でミネを指差した。
「サオリさん! 裏切り者が居ましたよ! 捕まえてください!」
場の空気が止まった。
「……」
サオリは無言で現地ナギサを見る。
先生も目を丸くした。
「ナギサ!?」
現地ミカは露骨に焦った顔になる。
「ナギちゃん……!?」
ミネは心底不思議そうに首を傾げていた。
「裏切り者……?」
「そうです!」
現地ナギサは完全に確信した顔だった。
「ミカさんと先生を巻き込み、武力行使に出た。これ以上ない証拠です!」
「救護を行おうとしただけですが」
「その救護が襲撃に見えるのです!」
「それは……セイア様が抵抗するから…」
ミネが少しだけ考え込む。
「うーん襲撃に見えたのは否定しづらいな…」
サオリは現地ナギサの前へ一歩出る。
「少し落ち着け」
「私は落ち着いています!」
「落ち着いている者は、出会い頭に捕縛命令を出さない」
「ですが!」
サオリは静かにミネを見た。
「彼女はそんなことをするような人なのか?」
現地ナギサは言葉に詰まる。
ミネは救護騎士団の団長。
過激な面はある。
いや、かなりある。
だが、セイアを害するために動く人物かと問われると、即答はできなかった。
「……ですが、状況が」
「状況だけで決めつけるな」
サオリの声は低かった。
「今のお前は、自分が恐れている答えに現実を合わせようとしている」
「……」
現地ナギサが黙る。
その横で、現地ミカが拳を握りしめていた。
顔は青ざめている。
唇が震えている。
けれど、逃げなかった。
「……ナギちゃん」
現地ミカの声に、現地ナギサが振り返る。
「ミカさん?」
「違うの」
現地ミカは苦しそうに言った。
「ナギちゃんが探していた裏切り者は……私なの……」
現地ナギサの表情が凍った。
「……え?」
風が吹いた。旧校舎前の乾いた風。
それでも、現地ナギサの耳には自分の鼓動しか聞こえなかった。
「何を……言っているのですか……?」
現地ミカは目を伏せる。
「セイアちゃんを襲わせたのは、私」
「……」
「私は、セイアちゃんを……」
「やめてください!!」
現地ナギサの声が震えた。
「そんな冗談は……!」
「冗談じゃないよ!」
現地ミカの目から涙がこぼれる。
「ごめんね、ナギちゃん……」
現地ナギサは完全に思考停止した。
サオリはその様子を見て、静かに息を吐く。
ミネも困惑している。
先生は言葉を探すが、今はどの言葉も軽すぎるように思えた。
その時。ぱん、と乾いた音が響いた。
セイアが手を叩いたのだ。
全員の視線が彼女へ集まる。
「この世界のナギサも来たのは、ちょうどいいかもしれないね」
「……セイアさん?」
現地ナギサは呆然とセイアを見た。
セイアは、落ち着いた声で続ける。
「ナギサとミカ。二人でこの世界の私に会いに行きたまえ」
「この世界のセイアさん……?」
現地ナギサが驚いた顔をしてセイアを見つめる。
「今ミカがしてくれた話について、ちゃんと三人で話し合ってくるといい」
「待ってください……」
声が震えていた。
「今、何と?」
「君たちの思っているような結末にはなっていない、ということだよ」
「セイアさんは……」
現地ナギサは息を呑む。
「生きて、いるのですか……?」
セイアは少しだけ口元を緩めた。
「そうだよ」
その一言で、現地ナギサの瞳が大きく揺れた。
膝から力が抜けそうになる。
サオリがさりげなく横から支えた。
「……っ」
現地ナギサは声にならない息を吐く。
「護衛はミネと……」
セイアはサオリへ視線を向ける。
「すまないが、サオリ。頼めるかい?」
サオリは少しだけ目を細めた。
「……まあ、乗り掛かった舟だ。構わない」
「助かるよ。じゃあ、私は辞退させてもらうおうかな」
「セイアは来ないの?」
先生が聞くとセイアは肩をすくめた。
「この世界のティーパーティー水入らずで、好きなだけ語り合ってきなよ」
そして、先生を見た。
「先生も、この世界の私たちのことを頼むよ」
「分かった。任せて」
◆
ミネの案内で、一行はトリニティ住宅街へ向かった。
道中、現地ナギサはほとんど喋らなかった。
現地ミカも同じ状態だった。
ただ、二人とも互いに視線を向けては、何かを言いかけて、結局言葉にできずにいた。
サオリは少し後ろを歩きながら、その様子を見守っていた。
そして、短く言った。
「……信じたい相手がいるなら、今のうちに話しておけ」
現地ナギサが少しだけ振り返る。
「あなたにも、そういう相手が?」
サオリは答えなかった。
ただ、アツコの顔を思い出していた。
「……行けば分かる」
それだけ言った。
ミネは黙って先導している。
やがて、彼女は一軒の家の前で立ち止まった。
「こちらです」
重い空気が流れる。
現地ナギサの手が震える。
現地ミカは唇を噛む。
先生は二人を見て、静かに言った。
「大丈夫。私も一緒にいるよ」
二人は小さく頷いた。
ミネが扉を開ける。
部屋の中は、思ったよりも穏やかだった。
窓から差し込む光。
柔らかいソファ。
小さなテーブル。
そして、そこに身を預けるように座っている少女。
百合園セイア。
この世界のセイアが、そこにいた。
ただし彼女は重々しい表情で待っていたわけではなかった。
手元のコントローラーをカチャカチャと操作しながら、画面に集中していた。
「……セイアさん?」
現地ナギサが震える声で呼ぶ。
「セイアちゃん……?」
現地ミカも声を漏らす。
現地セイアは、ゲーム画面から目を離さずに返事をした。
「……ん? ああ、君たちか」
実に自然な声だった。
「すまないが、今G第二形態戦の真っ最中でね。少し待ってもらえるかい?」
「……」
「……」
現地ナギサと現地ミカは、返事をしなかった。
そのまま、ほとんど同時に現地セイアへ駆け寄る。
そして、左右から抱きしめた。
「セイアさん……!」
「セイアちゃん……!」
現地ナギサは、震える声で言う。
「無事で……無事でよかったです……!」
現地ミカも泣きながら、何度も謝った。
「ごめん……ごめんなさい……! 私、私……!」
現地セイアは二人に抱きしめられたまま、目を瞬かせた。
そして、ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、困ったように、けれど優しく笑った。
「……まったく、君たちは」
だが、次の瞬間、現地セイアの表情が変わった。
「あっ、待っ――」
ゲーム画面の中で、レオンが攻撃を受ける。
抱きしめられているせいで、うまく操作できない。
回避が遅れてしまい。その後画面が暗転する。
「ああー!!」
悲痛な叫びが部屋に響く。
「私のレオンがぁぁぁ!!」
現地ナギサと現地ミカは、泣いたまま固まった。
先生は苦笑した。
サオリは目を逸らした。
ミネは真剣な顔で言った。
「ゲームによる精神的負傷も、救護対象でしょうか?」
「今は邪魔しないであげよう」
先生がそっと止める。
こうして本来なら涙と謝罪に包まれるはずだったティーパーティー三人の再会は、何とも言えない空気で果たされたのだった。