先生が袋の中へ詰め込まれてから、どれほどの時間が経ったのか。
狭く、暗く、揺れ続ける空間では、時間の感覚すら曖昧になっていた。
途中からは車両を降りたらしく、外から複数人の足音が聞こえるようになった。
スマホは落とした。
シッテムの箱もない。
アロナの声も聞こえない。
先生は袋の中で、小さく息を吐いた。
――完全に一人になっちゃったな。これからどうしようかな?
そんな事をのんきに考えていると、先生を運んでいた者たちの足が止まる。
大きな扉が開く音が聞こえたと思ったら、先生の入った袋が、冷たい床へ乱雑に下ろされた。
「開けなさい」
女の声が響いた。
袋の口が解かれ、先生はようやく外へ転がり出る。
「うわっ!」
床へ手をつきながら、何とか身体を起こす。
袋の中に詰め込まれていたせいで、服は皺だらけになり、全身へ埃が付着していた。
先生は咳き込みながら周囲を見回す。
そこは薄暗く、広大な空間だった。
高い天井、冷たい石造りの壁。
等間隔に灯された照明が、部屋の奥にいる一人の女を照らしている。
豪奢な椅子へ腰掛けた赤い肌の異形の女。
彼女は先生を見下ろしながら、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「ふふふ……アリウスへようこそ、先生」
先生は服に付いた埃を軽く払いながら立ち上がる。
「貴女が、私をここに招待した人かな?」
先生の言葉に、女の笑みが僅かに深くなった。
「ええ。その認識で合っていますよ」
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がる。
「初めまして、先生」
「私はベアトリーチェという者です」
ベアトリーチェは、自らの存在を誇示するように両腕を広げた。
「私が、そこのサオリ達を使って、先生をここまでエスコートさせていただきました」
ベアトリーチェが指差した先へ、先生は視線を向けると、壁際には四人の生徒が立っていた。
現地サオリ。現地アツコ。ヒヨリ。ミサキ。
アリウススクワッドの四人だった。
全員が武器を携え、先生の動きを警戒している。
その時ふと現地サオリと目が合う。
彼女は何も言わなかった。
先生も、すぐには声をかけなかった。
代わりに、ベアトリーチェへ向き直った。
「使う……?」
先生の声から、先ほどまでの軽さが消える。
「サオリに頼んで、じゃないかな?」
「言葉は正しく使いなよ」
広間の空気が、僅かに変わった。
現地サオリの目が見開かれる。
ベアトリーチェは先生の反応を面白がるように、口元へ手を添えた。
「いいえ」
「彼女たちは、私の道具です」
「“使う”で合っていますよ」
「……」
先生の眉間へ、深い皺が寄る。
その様子を見たベアトリーチェは、楽しそうに笑った。
「何か問題でも?」
「生徒達を道具扱いする人とは、あまり仲良くなれそうにないなと思ってね」
「それは残念です」
「ですが、私も先生と友人になるためにお呼びしたわけではありません」
先生は小さく息を吐く。
「それで、私に何か用かな?」
「では、単刀直入に言いましょう」
ベアトリーチェは先生の目を真っ直ぐに見つめる。
「先生が不思議な力によって、この世界へ呼び寄せた――」
「もう一人の秤アツコ。彼女をここへ呼び、私へ献上しなさい」
先生の表情が固まる。
「アツコを?」
「ええ」
「先生には、彼女たちを一時的に呼び寄せる方法があるのでしょう?」
「もう一人のアツコを私へ差し出せば、先生は解放して差し上げます」
ベアトリーチェは慈悲深い者を装うように微笑んだ。
「簡単な取引です」
「先生一人の命と、生徒一人」
「どちらを選ぶかなど、考えるまでもないでしょう?」
先生は数秒、何も言わなかった。
アツコを差し出せば、先生は助かる。
拒否すれば、ここで何をされるか分からない。
銃もない、シッテムの箱もない。
守ってくれる生徒もいない。
先生には、戦う力など何一つ残されていなかった。
それでも先生は、ベアトリーチェから目を逸らさなかった。
「嫌だ、と言ったら?」
ベアトリーチェは、待っていたと言わんばかりに口角を上げた。
「こうなります」
彼女が片手を上げる。
その合図に従い、アリウススクワッドが一斉に武器を構えた。
複数の銃口が、先生へ向けられる。
ヒヨリの手は微かに震えていた。
ミサキは無表情を保っている。
現地アツコは、銃を持ちながら先生を見つめていた。
現地サオリだけは、真っ直ぐに先生を狙っているが、その指は引き金へ掛かっていなかった。
「さあ、先生!」
ベアトリーチェの声が、広間へ響き渡る。
「答えを聞かせてください!」
先生は、自分へ向けられた銃口を一つずつ見た。
そして軽く息を吐く。
次の瞬間、先生は鋭い眼光でベアトリーチェを睨みつけた。
「断る!」
広間に、先生の声が響く。
ヒヨリの肩が跳ねた。
ミサキは何を言ってるんだろうという顔で先生を見つめる。
現地アツコも誰にも聞こえない声で「え?」と呟く。
現地サオリの目が大きく見開かれる。
ベアトリーチェの笑みが消えた。
「……自分の立場を分かっているのですか?」
「分かってるよ」
「貴方は今、生徒の守りを失った、ただの脆弱な大人です」
「知ってる」
「私が命じれば、今すぐ貴方を撃たせることもできるのですよ」
「それも分かってる」
先生の立ち振る舞いは驚くほど堂々としていた。
「そのうえで断ってるんだ」
「アツコは、私を信じて募集に来てくれた生徒だ」
「その子を裏切って、自分だけ助かるなんてできない」
先生は一歩も退かない。
「大事な生徒を売るような真似をするくらいなら――」
「私は喜んで死ぬ」
誰も動かなかった。
広間の中で、先生とベアトリーチェだけが睨み合う。
現地サオリの耳には、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえていた。
喜んで死ぬ。
先生は今、確かにそう言った。
アツコを守るために。
まだ出会ってから、それほど時間も経っていない一人の生徒を守るために。
ベアトリーチェの口元が震える。
怒りではない。笑いを堪えていた。
次の瞬間、広間へ甲高い笑い声が響き渡った。
「ははっ……! ははははははっ!」
ベアトリーチェは、心底愚かなものを見るような目で先生を見つめる。
「なんと馬鹿な人なのでしょう!」
「自らの命より、生徒一人を優先する?」
「そんなものを美徳だと思っているのですか!?」
ベアトリーチェは笑いながら椅子へ戻る。
「その威勢が、いつまで持つか見ものですね!」
そして、現地サオリへ鋭い視線を向けた。
「サオリ! この馬鹿な大人を、閉じ込めておきなさい!」
「……わかりました」
ベアトリーチェは再び先生へ微笑みかける。
「気が変わったら、すぐに言ってくださいね」
「私には、たっぷりと時間がありますので」
現地サオリとミサキが先生の両腕を掴む。
先生は抵抗しなかった。
連れていかれる直前、ベアトリーチェへ振り返る。
「残念だけど、期待には応えられないと思うよ」
先生が冷めた目で見つめていた事にベアトリーチェの笑みが、僅かに引きつった。
◆
先生はアリウススクワッドに囲まれながら、薄暗い廊下を歩いていた。
両腕は現地サオリとミサキに掴まれている。
少し後ろを、現地アツコとヒヨリがついてくる。
誰も口を開かなかった。
靴音だけが、冷たい廊下へ響いている。
やがて現地サオリが、先生の腕を掴む力を強めた。
「……なぜだ」
先生が現地サオリを見る。
「なんで、マダムの言うことを聞かなかった!?」
現地サオリの声には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「殺されるところだったんだぞ!」
ミサキが僅かに顔を向ける。
ヒヨリも驚いたように現地サオリを見た。
先生は少しだけ目を丸くしたあと、軽く笑った。
「その時は、その時だよ」
「なっ……」
「だけど、生徒を裏切ることだけは絶対にしたくないんだ」
現地サオリの足が止まりかける。
「それに、サオリたちも困らせちゃったね」
「心配させてごめんね」
「……っ!」
現地サオリは、思わず先生の腕を離しそうになった。
「誰が……」
声が掠れる。
「誰が、お前の心配など……!」
「そう見えたけど?」
「違う!」
「そっか、それなら良かった」
「何が良いんだ!」
先生は、サオリの怒鳴り声にも笑みを崩さなかった。
ミサキが小さく息を吐く。
「本当に変な人だね」
「ミサキまで何を言っている!」
「だって、普通は命が惜しいでしょ」
先生は頷いた。
「もちろん惜しいよ」
「じゃあ、どうして……」
「命は惜しいけど、生徒を売って生き残るのはもっと嫌だから」
ヒヨリが、信じられないものを見るように先生を見つめる。
「そ、それだけですか?」
「それだけだよ」
「そんな理由で死にかけたんですか!?」
「死にかけたねぇ」
先生は少し困ったように頭を掻いた。
現地アツコは、無言で先生を見ていた。
やがてサオリへ向けて、静かに手を動かす。
『先生は、本気だった』
現地サオリは答えない。
『自分の命を投げ出して守ろうとしてた』
「……見れば分かる」
『それに、サッちゃんも心配していた』
「していない!」
現地サオリは即座に否定する。
現地アツコは、少し楽しそうに目を細めた。
先生はその手話の意味が分からず、首を傾げる。
「何て言ったの?」
「何でもない!」
現地サオリは再び先生の腕を掴み、乱暴に歩き出した。
連れてこられたのは、狭い独房だった。
古びた鉄格子。冷たい石の床。小さな寝台が一つ。
窓はなく、廊下の照明だけが中を僅かに照らしている。
「入れ」
現地サオリに促され、先生は独房の中へ入る。
鉄格子の扉が閉じられ、重い鍵が掛けられた。
「ここから出ようなどとは考えるな」
「分かってるよ」
「マダムの気が変われば、次は本当に撃たれるかもしれない」
「そうだろうね」
「少しは危機感を持て!」
先生は一瞬考えた。
「結構怖いよ?」
「そうは見えない!」
「生徒に囲まれてるからかな」
「私たちはお前の敵側だぞ!!」
「…それでも生徒だからね」
現地サオリは言葉を失った。
先生は独房の床へ腰を下ろす。
「サオリたちも、もう休んだ方がいいよ」
「私はお前の心配などしていない」
「私がサオリを心配してるんだよ」
「……」
「さっきから顔色が悪いからね」
現地サオリは反射的に顔を背ける。
「自分の心配だけしていろ!」
先生はそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、おやすみ」
「大人しくしていろよ」
現地サオリは呆れたように呟き、踵を返す。
ミサキとヒヨリも、その後を追った。
現地アツコだけが、少しの間、鉄格子の前に残る。
先生と目が合う。
「アツコも、おやすみ」
現地アツコはゆっくりと頷いた。
そしてサオリたちを追い、廊下の奥へ姿を消した。
先生は一人になった独房で、冷たい壁へ背中を預ける。
「さて……」
救援メッセージは送れなかった。
シッテムの箱もない。
脱出する方法もない。
「本当にどうしようかな……?」
先生は天井を見上げた。
それでも、アツコを差し出すという選択肢だけは、最初から存在していなかった。
◆
先生を独房へ閉じ込めたあと、アリウススクワッドの四人は無言で廊下を歩いていた。
ヒヨリが何度も口を開きかける。
しかし、何を言えばいいのか分からず、すぐに閉じる。
ミサキもいつも通り無表情だったが、何か思う所があるのか、その目は僅かに伏せられていた。
現地アツコは、自分の手を見つめながら歩いている。
誰も、先ほどの出来事を口にしなかった。
それでも全員が、同じ言葉を思い出していた。
『大事な生徒を売るような真似をするくらいなら、私は喜んで死ぬ』
自分の命より、生徒を優先する。
ベアトリーチェからは、一度も教えられたことのない考えだった。
ベアトリーチェは、アリウスの生徒たちを道具と呼んだ。
先生は、アツコを大事な生徒と呼んだ。
同じ大人。同じように生徒を従える立場。
それなのに、あまりにも違っていた。
現地サオリは、拳を強く握る。
自分はこちらのアツコを守るため、向こうのアツコをマダムへ差し出そうとしている。
先生を人質にしてまで、先生の善意を利用して。
自分たちへ食事を持たせてくれた人を裏切って。
だが先生は、自分の命を差し出してでも、アツコを守ろうとした。
アツコを救うために、他人を犠牲にしようとした自分。
アツコを守るために、自分の命を投げ捨てようとした先生。
自分と先生の姿が、現地サオリの中で並ぶ。
「……クソッ!」
思わず、声が漏れた。
ヒヨリが心配そうに見つめてくる。
「サオリ姉さん……?」
「何でもない」
現地サオリは歩調を速める。
だが、どれほど早く歩いても、先生の言葉がいつまでも頭から離れなかった。
『生徒を裏切ることだけは、絶対にしたくないんだ』
マダムに従わなければ、こちらのアツコが危険に晒される。
だが、マダムに従えば、先生と向こうのアツコを犠牲にすることになる。
何が正しいのか分からない。
誰を選べばいいのかも分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
先生は、自分たちとは何の関係もないはずのアツコのために、迷わず死を選んだ。
そして自分は、その先生を心配してしまった。
もう、以前のようには戻れない。
ベアトリーチェの言葉を、何の疑問もなく信じていた頃には。
現地サオリは足を止め、振り返る。
薄暗い廊下の先。
先生を閉じ込めた独房は、すでに見えなくなっていた。
アリウススクワッドの四人は、それぞれの胸に同じ疑問を抱えたまま、暗い廊下を歩き続けた。