シャーレの訓練場。
「そこまで!」
水着サオリの声が響いた瞬間、現地クルミは張り詰めていた力を抜いてその場へ座り込んだ。
「やっと終わったぁ……もう腕上がらないんだけど……」
「まだ基礎訓練だぞ。実戦で相手が待ってくれると思うか?」
「思わないけど! だからって基礎からこんなにキツくする必要ある!?」
容赦のない水着サオリへ文句を言いながら、現地クルミは汗で額へ張り付いた前髪を掻き上げる。
少し離れた場所ではオトギも壁際へ腰を下ろしており、疲れた様子で水を口へ運んでいた。
「CQCって思っていたより疲れますね」
「力任せにどうにかしようとするからだ。相手の力と重心を利用しろ」
「なるほど……次は意識してみますかね~」
「ユキノもだ。さっきから力が入りすぎている」
「……分かっている。次までに改善してみせる」
ユキノも肩で息をしながら答えると、そんな彼女を見て現地ニコがいつもの笑顔を浮かべた。
「相変わらず真面目ですね、ユキノちゃんは…」
「そうでもないさ」
「先日も先生の指揮で模擬戦を何試合もしていたじゃないですか」
「……あれはミヤコが悪いんだ…勝ち逃げしようとしたから」
「ユキノ、意地になってない?」
クルミが呆れたように突っ込む中、水着サオリは深くため息を吐いてから四人を見る。
「とにかく今日は終わりだ。身体を冷やす前にシャワーを浴びてこい。明日もやるなら、今日教えたことくらいは覚えておけよ」
「は~い……」
完全に疲れ切った現地クルミが立ち上がると、残りの三人も訓練場を後にしてシャワールームへ向かった。
◆
「はぁ~……生き返った」
しばらくしてシャワーを終えた現地クルミは、まだ少し湿っている髪をタオルで拭きながら廊下を歩いていた。
「クルミちゃんは表現が大袈裟ですね~」
「あんたが元気すぎるのよ。あれだけ投げられてなんでそんなにピンピンしてるの?」
「三回ほど綺麗に投げられてたよね」
オトギが何気なく付け足すと、現地ニコは笑顔のまま首を傾げる。
「投げられてる時に下手に抵抗しない方が体力の消耗を抑えられるんですよ?」
「投げられるコツを聞いてる訳じゃないわよ!」
そんな二人の後ろでは、ユキノも先ほどまでの疲労が多少抜けたのか、いつもの落ち着いた表情へ戻っていた。
「サオリさんのCQCは学ぶ価値がある。次はもう少し食らいつけるようにしたい」
「また明日もやる気なの?」
「当然」
「私は休みたいんだけど……」
「どうせクルミちゃんも明日になればやる気になっていますよ」
「ならないわよ!」
いつものように言い合いながら、自分たちへ貸し与えられたフロアへ戻り、いつもの様にユキノが扉を開けると。
すでに室内の明かりが点けられて、室内のソファには二人の先客が座っていた。
「おかえりなさ~い♪」
「お疲れ~」
そこにいたのは、先生に呼び出されたニコとクルミ。
現地クルミは何故自分たちの部屋に二人がいるのか分からず、怪訝そうな顔をする。
「ちょっと! 勝手に入って何してるの!?」
「すこーし用事がありまして、皆さんを待っていたんです」
「私たちをか?」
ユキノが尋ねると、ニコとクルミは一度顔を見合わせた。
「もしかして何も知らないんですか?」
「何の話だ?」
「……ある意味タイミング良かったわね」
「何がだ?」
ユキノが眉を寄せると、ニコはいつもの柔らかな笑顔のまま告げた。
「実はついさっき、貴方たちの雇い主がシャーレに向かって来ていると情報を掴みましてね」
「…………」
FOX小隊四人の動きが一斉に止まった。
数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのは現地クルミだった。
「……誰が向かってるって?」
「連邦生徒会防衛室長の不知火カヤさんですよ。忘れちゃったんですか?」
「忘れてないわよ! それでなんで防衛室長がここに来るわけ!?」
「さあ、そこまでは私たちも知りません。ただ、カンナ局長も一緒らしいので火急の用件かもしれませんね」
「公安局長まで?」
オトギも少し驚いた様子を見せ、現地ニコは顎へ手を添えて考える。
「もしかすると、私たちと連絡が取れなくなったのでシャーレに依頼を出して探しに来たのかもしれませんね」
ユキノの表情が一気に険しくなる。
「…まずいな」
「何がまずいのよ?」
クルミが尋ねると、ユキノは僅かに表情を曇らせた。
「今、防衛室長に私たちがここにいることを知られれば、また何かしらの任務を与えられる可能性がある」
「……先生の好きな食べ物を調べろ、みたいな?」
「それだけならまだいいわよ!」
クルミの言葉に現地クルミが即座に反論する。
「問題はその前よ。最近はカイザーが絡んでそうな変な任務ばっかりだったんだから!」
「そうですね。SRT復活のためとはいえ、あまり気持ちのいい任務ばかりではありませんでしたから」
普段より僅かに笑みを薄くした現地ニコの言葉に、ユキノも何も言い返すことができなかった。
SRTを復活させる。
その目的のためにカヤへ協力してきた。
だが最近与えられていた任務に対して、ユキノ自身も何も感じていなかったわけではない。
その一方でシャーレへ来てからは、先生の指揮を受けて模擬戦をしたり、水着サオリからCQCを教わったりと、少なくとも自分たちが信じてきたものに反するようなことは何一つしていなかった。
「……隠れるぞ」
「賛成!」
現地クルミが即答すると、オトギも周囲を見回す。
「どこに隠れます?」
「シャーレ内なら空き部屋はいくつかある。だが、その前に先生へ話しておく必要があるだろう。我々だけ隠れても先生がカヤへ話してしまえば意味がない」
「それが最善でしょう。先生なら理由くらいは聞いてくれるでしょうし」
現地ニコが頷いたところで、クルミは少し嫌そうな顔でユキノを見る。
「まさか、先生に理由を聞かれたらまた『色々ある』で押し通す気じゃないでしょうね?」
「必要ならそうするつもりですけど」
「便利な言葉ね……」
「とにかく行くぞ。防衛室長に見つかる前に先生へ頼まないと」
ユキノが先頭に立ってフロアを出ていき、現地ニコ、現地クルミ、オトギの三人もその後を追っていく。
そんなFOX小隊四人の背中を見送りながら、クルミは小さくため息を吐いた。
「……こっちの私たちって、最初は先生を調べるためにシャーレへ潜り込んだはずなのに、今じゃカヤから逃げるために住み着いてるみたいになってない?」
「まぁ、私たちもあの時同じ状況だったら、こうなっていたと思いますけどね」
「…そうね」
◆
「先生!」
「うわっ!?」
廊下を歩いていた先生の前へFOX小隊が突然飛び出してきて、先生は驚いて持っていた書類を落としかけた。
「びっくりしたぁ……どうしたの?」
「頼みがある。今、防衛室長の不知火カヤがシャーレに来ているらしい。ヴァルキューレ公安局長の尾刃カンナも一緒だ」
「カヤとカンナが? じゃあついでにみんなも挨拶でも――」
「しないわ!」
先生の言葉を現地クルミが強い口調で遮った。
「先生、私たちがここにいること絶対に言わないで!」
「え、なんで?」
「……色々あるんです」
「ふ~む?」
先生はとうとうジト目になった。
「最近みんな『色々ある』で全部誤魔化してない?」
「今回は本当に色々あるんですよ!」
「ニコまで……」
先生は困ったようにFOX小隊を見回した後、少しだけ表情を真面目なものへ変える。
「危ないことじゃないよね?」
「違う。今、私たちの居場所を知られると面倒なことになる可能性がある。だから私たちがシャーレにいることは黙っていてほしい」
「う~ん……」
しばらく悩んだ先生だったが、やがて小さく頷いた。
「まあ、みんなが嫌なら勝手に言わないよ」
「助かります」
「ありがとうございます、先生! 後日、膝枕してあげますね♪」
「じゃあ早く隠れないと!」
現地クルミが急かすようにユキノの腕を引き、四人は階段の方向へ駆け出した。
「一つ上の空き部屋を使うぞ」
「了解!」
「廊下は走らないでね~!」
「今だけは許してちょうだい!」
現地クルミの声だけが返ってくるのを聞きながら、先生は遠ざかっていくFOX小隊を見送って首を傾げた。
「……何なんだろ?」
その直後。
「先生ぇぇぇぇ!!」
「今度は何!?」
今度は正面玄関の方向から、聞き覚えのある声が響いた。
「せ、先生……!!」
「カヤ!? どうしたの?」
先生の前までフラフラ歩いてきたカヤは顔面蒼白で、近くの椅子に座ってからも落ち着かない様子で周囲を見回していた。
その隣には、一緒にここまで来たカンナも座っている。
「どうしたの、その顔、真っ青を通り越して真っ白だけど…」
「た、助けてください先生! 私、このままだと殺されちゃいます!」
カヤの口から出た殺されるという単語に先生も真面目な顔になる。
「誰に?」
「分かりません!」
「分からない…?」
いきなり話が噛み合わず、先生は思わず身を乗り出す。
「でもFOX小隊が消えたんです!」
「……………………FOX小隊が?」
先生は多分カヤが盛大な勘違いをしていると思い、真面目に話を聞くモードを解除して、近くにあった自販機から自分とカヤとカンナの分の飲み物を買って渡した。
「はい! 連絡が取れなくなって拠点へ行ってみたら、そこには激しい戦闘の跡だけが残っていて、四人ともどこにもいなかったんです!」
「…………ソレハコワイネー」
ほんの少し前まで元気に自分の前へ現れ、その後は全力で隠れに行った狐たちを思い出す。
「……先生?」
「い、いや。続けて?」
ここにいるとは言わないと約束してしまった以上、今更口を滑らせるわけにもいかない。
そんな先生の事情など知る由もなく、カヤはカンナが拾った一枚のワッペンを机へ置いた。
『FOXHOUND』
そこに書かれた文字を見て、先生が目を見開いて硬直する。
「!」
「知っているんですか!?」
「いや~? 全然まったく、これっぽっちも知らないよ~? ホントダヨ!」
「そうですか……」
少しだけ期待したカヤの顔が再び青ざめる。
そんなカヤの前で腕を組んで深刻そうな表情をしている先生は内心で叫んでいた。
――あれってセイアのワッペンじゃーーん!!
――え、なに? もしかしてバレたら私って怒られる感じ?
――でも、よく考えたらFOX小隊を襲ったのは事実だし、実行犯は私の生徒たちだし…じゃあ、私の責任かぁ…。
――落ち着け…イメージするのは常に最高の土下座をしている自分だ!
「FOX小隊の拠点には複数の銃器を使用した痕跡が残されていました。戦闘の規模から考えても、何者かと交戦した可能性は高いでしょう」
内心で大人の覚悟を固めている先生にカンナが冷静に状況を説明していく。
「さらにFOX小隊四名が全員消息不明となっている以上、最悪の場合は何者かに制圧された後、連れ去られた可能性もあります。そして現場から発見された所属不明のワッペンがこれです」
「なるほど……」
先生は神妙な顔で頷きながら、内心では何とも言えない気持ちになっていた。
――普通にごめんなさいと言いたい所だけど、ユキノたちとの約束もあるから言えない…!
先生はとりあえず話を進めることにした。
「でもさ、どうしてFOX小隊がいなくなったことでカヤまで狙われてると思ったの?」
「それは……」
先ほどまで一気に話していたカヤの勢いが、目に見えて失われた。
「FOX小隊がいなくなっただけなら、別にカヤが狙われてるとは限らないんじゃない?」
「……」
カヤの視線が左右へ泳ぐ。
その様子を隣で見ていたカンナも、以前から抱いていた疑問を口にした。
「私も気になっていました。防衛室長、そもそも何故あなたがFOX小隊の拠点を把握し、彼女たちと連絡を取っていたのです?」
「うっ、それは……」
カヤは再び黙り込んだ。
先生はそんな彼女を急かすことなく、少しだけ優しい声で話しかける。
「カヤ。困ってるなら話してよ。できることなら手伝うからさ」
「……!」
その一言に、以前先生から言われた言葉がカヤの脳裏に蘇る。
『私を頼ってくれていいからね』
そして今も先生は、本気で自分を心配してくれている。
こんな状況にもかかわらず、カヤはほんの少しだけ頬を緩ませた。
――やっぱり先生は、私のことを……。
だが、今はそんなことを考えている場合でもない。
「……分かりました。先生、実は私……カイザーと協力関係にありまして」
「……」
先生が瞬きをし、隣にいたカンナの目が大きく見開かれた。
「防衛室長!?」
「やっぱり本当に繋がってたんだ……」
「やっぱり?」
カヤが先生を見る。
「元理事から聞いてたんだ。カヤはカイザーと繋がってる可能性が高いって」
「元理事長から!?」
カヤの顔が引きつった。
「だからあの人、私の提案にあんな反応だったんですね……!!」
「提案?」
「い、いえ! 何でもありません!」
慌てて誤魔化すカヤを見ながら、先生はさらに尋ねる。
「それで、どうしてカイザーと組んでたの?」
「……戦力が必要だったからです」
「戦力?」
「はい。SRT特殊学園の生徒たちをヴァルキューレへ統合し、その戦力を私の直属として……」
そこまで言ったところで、カヤの声がどんどん小さくなっていく。
「あー。それで、その戦力を一体何に使うつもりだったの?」
「…………」
「カヤ?」
「……クーデターです」
「…………」
先生の表情が止まった。
カンナも固まったまま動かない。
「……ほ?」
「クーデターです。その……空席の連邦生徒会長の座に私が座っちゃおうかな~って」
「…………マジ?」
カヤが俯いたまま小さく頷いたのを見て。
先生はゆっくりと椅子へ背中を預け、何とも言えない表情で天井を見上げた。
「カヤぁ……」
「その顔やめてください!」
「だって……前に会った時から色々危なそうだとは思ってたけど、まさかクーデター計画してるとは思わないじゃん!!?」
「私にも色々あったんです!!」
「色々でクーデターする!?」
「私だってキヴォトスを良くしようと思って!」
「それでクーデターを計画するの?」
「……」
「カヤぁ……」
「同じリアクションをしないでください!」
先生とカヤがそんなやり取りをしている横で、カンナは頭痛でも堪えるようにこめかみを押さえていた。
「防衛室長、これは流石に聞かなかったことにはできませんよ」
「分かっています! ですが今はそれよりカイザーです! 私が邪魔になったから先にFOX小隊を消して、次は絶対私を狙ってくるんですよ!!」
「でもカイザーがやったって確証はないんでしょ?」
――うちの狐がカヤの狐襲っちゃったからカイザーじゃないよ!
――でもおかげでクーデター阻止できたよ! えらいぞセイア百万年無税
「他に思い当たる相手がいません! 私が不要になったから一番強い戦力だったFOX小隊を先に潰したんです! だったら次は私じゃないですか!」
「まあまあ、落ち着いて」
「無理です!」
息を荒くしながらカヤは先生へ縋るような視線を向けた。
「先生、私を守ってください! お願いです!」
「う~ん……」
先生は困ったように眉を下げる。
カヤがやろうとしていたことはなかなかにバイオレンスだったカイザーとの協力に連邦生徒会へのクーデター。
流石に全てを笑って済ませるわけにはいかない。
「これは『全部大丈夫!』って簡単に言える話じゃないなぁ……」
「そんなぁ!?」
「いや、だってクーデターだよ!?」
「分かってますけど! でも殺されたくないんですけど!」
「あぁ、そこは大丈夫。カヤを絶対殺させやしないよ」
「……え?」
カヤが目を丸くする。
「カヤが問題を起こそうとしてたことと、カヤの命が危ないことは別でしょ? だからまず安全を確保して、その後でクーデターとかカイザーのことはちゃんと――」
「随分面白い話してるじゃないか」
「うわっ!?」
上のフロアに繋がっている階段から突然聞こえてきた声に先生が驚いて振り返ると、そこから元理事が歩いてきていた。
「いつからいたの!?」
「クーデター辺りからだな」
「最重要なところから聞いてたの!?」
カヤの顔も盛大に引きつる。
「元理事長……」
「あの時ぶりだな、防衛室長“殿”」
元理事はカヤの向かいで立ち止まると、先ほどまでの話を頭の中で整理するように顎を撫でた。
「なるほどな。カイザーと組んでクーデターを計画して、そのカイザーに裏切られたと思って先生のところへ逃げ込んできたわけか」
「やっぱり裏切られてないかもしれないなんてことは無いですかね?」
「お前がここに逃げ込んだのを向こうがどう捉えるかだな。それとも連中が自分たちとの繋がりを知りすぎた人間を放っておいてくれる善良な企業だと期待してみるか? それにクーデターなんて計画してたなら、連中の情報もそれなりに握ってるんだろう?」
「それは……」
「あるんだな」
「……はい」
「なら悪いことは言わん。しばらくシャーレから出るな」
「……そんなに危険なのですか?」
「確証はないが、連中が何も変わってないとするなら、本気で消すと決めた相手を一人で逃げ切らせるほど甘くないぞ」
「…………」
その言葉を聞いた途端、カヤの顔からさらに血の気が引いていく。
「元理事、怖がらせすぎじゃない?」
「事実を言ってるだけだ。先生、ここで根拠もなく『大丈夫だ』なんて言う方が無責任だぞ?」
「それはそうだけど……」
カヤの身体が僅かに揺れたため、隣にいたカンナが慌てて肩を支える。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です……」
「全然大丈夫じゃなさそうだよ!?」
先生はしばらく考えた後、カヤへ向き直る。
「じゃあ、しばらくここにいなよ」
「……え?」
「安心できるまで好きなだけシャーレに居てくれていいよ。部屋も空いてるし、危ない間は外に出なければいいんでしょ?」
「先生、また人を増やすのか?」
元理事が呆れたように尋ねる。
「今回は命がかかってるんだから仕方ないでしょ!」
――実際はカイザーに狙われてないんだし、その内改めて話をすればいいでしょ。
「最近毎回そんな感じだろ」
「そうだっけ?」
先生は元理事の言葉を軽く流しながら、もう一度カヤを見る。
「でもクーデターの件はちゃんと後で話し合うからね。カンナとも、連邦生徒会とも。その辺りまで全部無かったことにはできないよ」
「……わかってます」
「ちゃんと覚悟してるならここにいていいよ。安全になるまではちゃんと守るから」
「……」
カヤは先生を見つめたまま、ほんの少し頬を赤くした。
――やはり。
――ここまで私の身を案じ、自分のいるシャーレにまで匿ってくれるなんて……。
なお先生が続けていた『クーデターについてはちゃんと話し合う』という重要な部分は、綺麗に頭から抜け落ちていた。
「ありがとうございます、先生。あの……できれば先生の近くの部屋でも構いませんか?」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
「?」
首を傾げる先生と、少し機嫌を直したカヤ。
そんな二人の様子を元理事は何とも言えない顔で見つめる。
――何だこいつら。
何か妙なものを感じたが、今はどうでもいい。
それよりも今は如何にしてこの労働力を離さないかだ。
――書類仕事はできる。
――政治関係にも詳しい。
――地獄へようこそ不知火カヤ、歓迎しよう、盛大にな。
カヤが自分の命の危険に怯えている横で、元理事の頭の中では着々と新たなシャーレ事務員確保計画が進んでいた。
◆
その頃、空き部屋では。
指向性マイクを使って先生たちの会話を盗み聞きしながらFOX小隊の四人は静かにカヤが帰るのを待っていた。
「……長くない?」
現地クルミが退屈そうに壁へ背中を預ける。
「もう結構時間経ってるわよ」
「何か込み入ったお話でもしているんでしょうかねぇ」
「先生は大丈夫かな?」
オトギが扉へ視線を向けると、ユキノは少し考えてから答える。
「カヤが先生へ危害を加えることはないでしょう。……多分」
「多分なの!?」
「クルミ、声が大きい」
その時、廊下の向こうから僅かに聞こえてきた声の中に、一つだけ妙に聞き捨てならない言葉が混ざった。
『――クーデター――』
「…………」
四人が一斉に黙る。
「今、クーデターって聞こえなかった?」
「聞こえましたねぇ」
「私にも聞こえました」
現地クルミ、現地ニコ、オトギの三人が扉を見る一方で、ユキノだけは険しい表情のまま黙り込んでいた。
「ユキノちゃん?」
「……今は動くな。先生には我々のことを言わないよう頼んだんだ。カヤが帰るまでここで待つ」
「……分かったわよ」
現地クルミは渋々その場へ座り直したが、ユキノの胸の奥には小さな違和感が残り続けていた。
カヤは先生と一体何を話しているのか。
そして先ほど聞こえた『クーデター』とは。
◆
さらに時を同じくして。
カイザーコーポレーションにも動きがあった。
「……連絡がつかない?」
一人の幹部が報告書から顔を上げると、目の前に立つ部下が緊張した面持ちで頷いた。
「はい。不知火カヤ防衛室長とは数日前からこちらの依頼を失敗してきましたが、先ほど完全に途絶えました」
「あの小娘にはFOX小隊が居るだろう?」
「FOX小隊も数日前から依然として消息不明です」
「……FOX小隊が消え、その後にあの小娘まで連絡を断った。これを偶然だと思うか?」
「……いえ」
幹部は僅かに目を細める。
「位置は?」
「最後に不知火カヤが確認された場所は――連邦捜査部シャーレです」
「シャーレか……最近話題の先生のところへ逃げ込んだか」
室内の空気が一気に張り詰める。
「ではやはり…」
「ああ。あの小娘は我々を裏切った可能性が高い」
幹部は机の上へ置かれていた資料を引き寄せる。
そこに書かれているのは。
「あいつは我々との取引について知りすぎている。このまま放置するわけにはいかない。部隊を準備しろ」
「ですが、この場合相手はシャーレですが…」
「分かっている。だからこそ半端な戦力は送るな。裏切り者の確保を優先する」
そこで一度言葉を切った幹部は、冷たい声で続けた。
「抵抗するなら――話題の先生ごと黙らせろ」
「了解」
部下がすぐに踵を返して部屋を出ていく。
そんなことなど何も知らないシャーレでは、カヤが恐れていた脅威が本当にシャーレへ向かって動き始めていた。