新人先生、何も起きない一日を過ごす
――ガタン、ゴトン。
規則正しく響く車輪の音に、先生はゆっくりと目を開いた。
「……?」
気がつけば、人気のない電車の座席に一人で腰掛けていた。
窓の外には綺麗な景色が流れているが、そこがキヴォトスのどこなのかは分からない。それどころか、どうして自分が電車に乗っているのかすら思い出せなかった。
ここはどこなのか。なぜ自分はここにいるのか。
考えようとするが、頭に薄い靄でもかかっているように思考が鈍り、疑問を掴もうとするたびにするりと手の中から逃げていく。
「……なんだろ」
不思議な感覚だった。
恐怖はない。ただ何か、とても大切なことを忘れているようなそんな漠然とした違和感だけが残っている奇妙な感覚。
先生がぼんやりと車内を見渡した時、対面の座席に一人の少女が座っていることに気づいた。
水色の長い髪。
どこかで見たことがある。
けれど、どこで会ったのかはどうしても思い出せない。
少女はしばらく先生を見つめた後、屈託のない笑顔をしたと思ったら少し離れた座席へその指を向けた。
「……アイツのミスでした」
少女が指さした先には、いつからいたのか分からないプラチナブロンドの少女が座っていた。
「…………えっ?」
突然指をさされた少女は、自分のことを言われたとは思っていなかったらしく目を丸くしたまま固まる。
水色の少女はその様子を見て、堪えきれなかったように小さく笑った。
「冗談です……私のミスでした」
金髪の少女が何とも言えない目で見ていることなど気にせず、水色の少女は再び先生へ向き直る。
先ほどまでの僅かな笑みは消え、その表情は静かなものへ変わっていた。
「私の選択、それによって招かれた全ての状況。結局、この結果にたどり着いて初めて、あなたの方が正しかったことを悟るなんて……」
少女の言葉を聞いているはずなのに、不思議と頭には残らない。
それでも先生は、ただ黙って続きを聞いていた。
「今更図々しいですが、お願いします先生。きっと私の話は忘れてしまうでしょうが、それでも構いません。何も思い出せなくても、恐らくあなたは同じ状況で、同じ選択をされるでしょうから……」
電車の走る音が遠ざかっていく。
先生の視界も、少しずつ霞み始める。
「大事なのは経験では無く、選択。あなたにしかできない選択の数々。責任を負う者について、話したことがありましたね。あの時の私にはわかりませんでしたが……今なら理解できます」
「君は……?」
「大人としての、責任と義務。そして、その延長線上にあった、あなたの選択。それが意味する心延えも―――」
少女の声が唐突に途切れた。
◆
「……ん?」
先生は自室のベッドの上で目を覚ました。
見慣れた天井。薄暗い部屋が視界に広がった。
枕元の時計へ視線を向ければ、まだ夜明け前だった。
「……夢?」
先生は寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こし、つい先ほどまで見ていたものを思い返そうとする。
「なんか……電車に乗ってたような……」
誰かと話していた…水色の髪をした誰か。
あともう一人、金髪の――。
「……誰だっけ?」
思い出せない。
大事なことを言われていたような気もするが、思い出そうとすればするほど内容だけが薄れていく。
先生はしばらく天井を見上げた後。
「……まあいっか」
再び布団へ潜り込むと数分もしないうちに、先生は再び眠りへ落ちていった。
そしてその夜、不思議な夢を見ていたのは先生だけではなかった。
◆
「ホシノ先輩!」
「どうして……!?」
「先輩!!」
数多の銃声が響いていた。砂埃舞い崩れた建物を覆う。
足元には銃弾が散らばり、見慣れたアビドスの街並みが戦場へ変わっている。
「……」
何故か身体が自分のものではないように重い。
頭の奥では誰かが何かを囁き続けているような感覚がある。
気付いた時には目の前でシロコが倒れている。
少し離れた場所にはノノミ、セリカにアヤネも倒れている。
「……は?」
どうして皆が倒れているのか。
どうして自分が銃を持っているのか思い出せない。
そして、奥の暗がりに倒れていた人物を見た時背筋が凍った。
血の滲んだ服を着た先生が、壁へ背を預けたまま動かなくなっていた。
「……先生?」
返事はない。
「先生」
もう一度呼んでみるが動かない。
自分の手から香ってくる火薬の匂い。
「……ぅ…ぁ……」
理解したくない。
それでも頭のどこかでは分かってしまう。
「……私が」
喉が震える。
殺したの…?
「っ!」
現地ホシノはベッドから勢いよく身体を起こした。
「はぁ……っ、はぁ……!」
心臓が早鐘を打っている。
全身に嫌な汗をかいていた。
「……夢?」
何を見ていたのか分からない。
酷く嫌な夢だったことだけは覚えている。
何かを失った、取り返しのつかないことをした。
そんな感覚だけが胸の奥へこびりついていた。
現地ホシノはしばらくぼんやりと座っていたが、気づけば枕元の端末を手に取っていた。
「……なんで?」
なんでスマホを手に取ったのか自分でも分からなかった。
それでも今すぐ先生の声を聞かなければいけない、そんな妙な焦燥感があった。
そんな衝動に身を任せて時間も気にせずに先生に電話をかけていた。
数回のコールが鳴ると通話がつながる。
『……ふぁ~い?』
「あ」
『ホシノ?こんな時間にどうしたの?』
「……」
いつもの先生の声が聞こえて来た。
それだけで、胸に詰まっていた何かが少しだけ軽くなる。
『ホシノ?』
「あ~……ごめんね~。ちょっと声聞きたくなっちゃってさ~」
『ふぁ~…そうなの?』
「ごめんね、本当に声が聞きたかっただけなんだ~」
『えぇ……?』
「じゃ、起こしちゃってごめんね。先生まだ寝てていいよ~。おやすみ~」
『お、おやすみ?』
そう言って通話を切る。
「……」
ホシノはスマホを握ったまま首を傾げる。
「なんだったんだろう……」
◆
『コード名【アトラ・ハシースの箱舟】起動プロセスを開始します』
「……アリス!」
見覚えのある崩壊していく都市の中で、リオは立っていた。
赤く染まった空。空中を飛び交う無数の兵器。
その中心でかつてゲーム開発部の少女たちと笑っていたはずのアリスが、まるで別の存在のように浮かんでいる。
『名もなき神々の王女として、使命を遂行します』
「待ちなさい!!」
リオは必死に手を伸ばす。
「こんなのは違う!」
合理的な判断をしてきたつもりだった。
危険なものは排除する、被害が出る前に、自分一人で全てを終わらせる。
だからこそ誰にも相談しなかった。ゲーム開発部にも、ヒマリにも、ネルにも、先生にでさえ。
自分にしかできないと諦めていたから誰にも頼らなかった。
「……」
なのに、目の前では世界が壊されていく。
「私は……」
ここにきて初めて認める事になる。
「間違えたというの……?」
自分の過ちを。
「……!」
リオは机の上で顔を上げた。
いつの間に眠ってしまったのか室内はまだ暗い。
「……夢?」
自分は今どんな夢を見ていた?
思い出そうと記憶を探るが、何も思い出せない。
ただ胸の奥へ、取り返しのつかない判断をしてしまったような後悔だけが残っている。
「……」
リオは無意識にスマホを手に取った。
少し迷い先生へ発信する。
『もしもし……?』
「先生」
『リオ?』
「……今日は、シャーレに居るかしら?」
『その予定だけど…?』
「そう」
『…何かあった?』
「いえ。何でもないわ。急に電話してしまってごめんなさい」
『え?』
「おやすみなさい、先生」
『リオ?』
そうして一方的に通話を終える。
「……」
リオはスマホを眺めながら頭を動かしていた。
「私は……なぜ先生の安否を確認したのかしら…?」
その答えは出てこなかった。
◆
アズサは眼前の敵を逃がさない様に必死に走っていた。
胸の奥を埋め尽くしているのは、自分の身も焼き尽くしてしまいそうな憎悪。
先生が死んだ。サオリが殺した。
それだけわかっていればいい。
「サオリ!!」
目の前にサオリの姿が見える。
アズサは迷わず爆弾を投げつける。
「お前だけは……!」
サオリの近くで爆薬が爆発して、爆音が辺りに響く。
「……え?」
だがサオリは倒れていなかった。
代わりにその前へ飛び込んだ少女が、身体中から血を流して倒れていた。
「アツコ……?」
サオリの顔が歪む。
アズサは自分の手を見る。
「……違う」
こんなはずではない。
「私は……!」
先生の仇を…ただ、それだけだったのに。
「っ!」
アズサは飛び起きると、そこはトリニティにある寮の自分の部屋のベッドの上だった。
「……夢?」
内容はもう思い出せない、だが誰かを憎んでいたのは微かに覚えている。
何か絶対に取り返せないことをした。
それだけが、嫌な感触として残っている。
「……先生!」
アズサは迷うことなく端末を取った。
『……もしもし?』
「先生、生きているか!?」
『なんて?』
「質問に答えてくれ」
『生きてるに決まってるでしょ!?』
「怪我は?」
『してないよ! 強いて言うなら寝不足くらいだよ!』
「……そうか、よかった」
『どうしたのアズサ? 何かあった?』
「いや」
そこで初めて、アズサ自身も自分が何をしているのか分からなくなった。
「……すまない。忘れてくれ」
『いや気になるよ!?』
通話を切る。
「……」
アズサは首を傾げた。
「どうしたんだ私は……?」
◆
「大事な生徒を売るような真似をするくらいなら、私は喜んで死ぬよ」
先生の声が聞こえてくる、サオリの手には銃が握られている。
目の前では先生がベアトリーチェを睨みつけていた。
「サオリ!」
先生は決して逃げようとしなかった。
「この馬鹿な大人を撃ちなさい!!」
サオリの指が震える。
それでも先生の言葉を最後まで信じられなかった。
だから自分の奥深くに刻まれているベアトリーチェの教えに従う事にした。
引き金を引くと銃声が鳴り響き、その後に倒れる音が耳に入ってきた。
「……っ!」
そこから全てが壊れた。怒りに染まったアズサ。自分へ向けられた憎悪。
自分を庇って目の前へ飛び込むアツコ。
「アツコ!」
自分が撃った一発から。全てが連鎖していく。
「違う……!」
サオリは倒れた先生を見る。
「私は……!!」
現地サオリは目を覚ました。
激しく呼吸が乱れているのに気が付いた。
何か酷く恐ろしい夢を見ていた気がする。
「……」
思い出そうと試みてみるが、どうしても夢の内容は思い出せなかった。
ただ、自分の手で絶対にしてはいけない何かをしてしまったような感覚だけが残っていた。
「……先生」
気がつけば。その日の朝、サオリはいつもより早く行動を開始することにしたのだった。
◆
ヒナは必死に走っていた、アリウス自治区に向かって。
辺りから銃声や爆発音が聞こえてくるが気にしていられない。
先生の身に何か大変なことが起きている。
「お願いだから間に合って……!」
どれだけ速く走っても。なかなか目的地にたどり着かない。
それでも諦めずに必死に走ってようやく辿り着く。
「先生!」
人だかりのその中心には血を流して倒れている先生が見えてしまった。
「……先生?」
誰かが言った、もう息をしていないと。
「……起きて…先生……」
問いかけても先生は動かない。
「あぁ……!」
涙を流しながらヒナの膝から力が抜けた。
「……!」
ヒナはベッドから身体を起こした。
「……夢?」
何を見ていたのかは思い出せない。
ただ間に合わなかった。
そんな絶望感だけが胸に残っている。
「……」
気づけば先生へ電話をかけていた。
『もしもし?』
「先生…?」
『どうしたのヒナ?』
「今どこ?」
『家だけど?』
「怪我は?」
『……してないよ~』
「体調は?」
『度重なる睡眠妨害で寝不足……』
「……そう、私と同じね」
『まだ学生なんだからちゃんと寝なきゃだめだよ!』
「無理よ」
『ヒナさん!?』
「でも今日はもう少し寝ることにするわ。おやすみなさい先生」
『待ってヒナ――』
通話を切る。
「……」
ヒナはしばらくスマホを眺め。
「……元気そうで…よかった」
どうして自分が安堵しているのか、ヒナには終ぞわからなかった。
◆
ミカを疑う人は周りに、誰もいなかった。
だからクーデターはいとも簡単に成功した。
ティーパーティーも、トリニティも、すべてが自分の思う通りになった。
それなのに――。
「セイアちゃん……」
当然返事は返ってこない。
「ナギちゃん……」
自分の大切な人たちはもういない。
自分を騙したアリウスにすべて奪われた。
だからミカは怒りに任せて全員を追い詰めた。
サオリを、アツコを、ミサキを、ヒヨリを……。
アリウスに属する全員を追い詰めた――そうしたらもう誰も動かない。
「……」
手が赤い。服も。顔も。
全身が返り血に濡れている。
「これで……」
自分を騙した相手はいなくなった。
邪魔する相手も、裏切る相手もすべて消し去った。
「……これで」
私は幸せになった?
「……ミカ?」
「……!」
後ろから声が聞こえてくる。
「先生……?」
そこに先生が立っていた。
血塗れの自分の足元に倒れているスクワッド、自分の行いを全部を見ていた。
「…違うの!」
先生は何も言ってくれない。
「先生、これはね――」
怒っているわけではない。
嫌っているわけでもない。
ただ。悲しそうな顔をしていた。
「違うの……」
ミカが助けを求める様に手を伸ばすが、先生はその手を取ってはくれなかった。
「――先生!!」
現地ミカは勢いよく身体を起こした。
「はぁ……はぁ……」
涙が頬を伝っている。
「……え?」
自分がどうして泣いているのか分からない。
「夢……?」
一体何を見ていた?
何も思い出せない。
ただ自分の周りから大切な人が全員いなくなったような、耐え難い寂しさだけが残っている。
耐え切れずに自分のスマホを取る。
『……ミカ?』
「セイアちゃん!」
『こんな時間から大きな声を出さないでくれないかい?』
「……よかった」
自分には大切な人がいる。
「……えへへ。ごめんね☆」
『……本当にどうしたんだい?』
「な、なんでもないよ!」
悟られる前にすぐに通話を終える。
そして次に電話を掛けたのは。
「ナギちゃん!」
『ミカさん!? 今何時だと思ってるんですか!?』
「ごめんね~☆」
『一体何の用ですか!?』
「声が聞きたかっただけ!」
『はぁ!?』
目的を達成したので即座に切る。
そして最後は――。
「先生!」
『今度はミカ!?』
「先生、元気!?」
『寝不足だね!』
「そっか!」
『何!? 今日何なの!?』
「えへへ☆ じゃあまたね、先生!」
『お願いだから説明してくれない!?』
通話終了。
「……」
ミカは端末を胸へ抱く。
何故こんなことをしたのか自分でもよく分からなかった。
ただ少しだけ安心した。
◆
「今日はカレーだぞ!」
「珍しく豪華だね~!」
「久しぶりにまともな食事ですね!」
「お、美味しそうです……!」
子ウサギ公園の一角でRABBIT小隊四人の目の前には湯気を立てる大きな鍋があった。
「ミユ、運ぶ時は気をつけろよ」
「は、はい……!」
ミユは両手で鍋を持つ。
重い、でも皆が楽しみにしているカレーを溢すわけにはいかない。
「よいしょ……」
一歩、二歩。慎重に歩を進めていたが鍋に視界を遮られてしまい足元の石に気が付かなかった。
「あっ!」
躓いてしまい鍋が傾く。
「え?」
スローモーションでカレーの入った鍋が宙を舞う。
ベシャという音を立てて鍋が盛大にひっくり返った。
「…………」
全員が現実を受け止めきれずに固まった。
「私たちのカレーが……」
サキの声が震える。
モエから笑顔が消える。
ミヤコも茫然自失で何も言えない。
「…………」
ミユの目に涙が溜まる。
「ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁい!!」
必死に謝る自分を見つめる仲間の表情を直視出来る勇気は出なかった。
「ひぃぃぃぃ!?」
ミユが飛び起きた。
「はぁ……はぁ……」
頬が嫌な汗で濡れている。
「……?」
何を見ていたのか思い出せない。
「……カレー」
でも何故か猛烈にカレーが食べたい。
「……」
ミユは端末を取った。
『もしもし……?』
「せ、先生……」
『もう驚かないぞ……。よし、ミユこんな時間にどうしたの?』
「カレー……」
『へ?』
「今日……カレーを作ってくれたりしませんか……?」
『……いいけど』
「本当ですか……?」
『うん?』
「ありがとうございます……!」
『どゆこと?』
「よかったぁ……!」
『???』
通話を終える。
ミユは安心したように胸を撫で下ろした。
「……なんでカレーなんでしょう?」
本人にも分からなかった。
◆
「……おはよ~」
いつもの時間に少し眠そうな先生がシャーレへやって来る。
建物へ入ると、いつもの賑やかな声が聞こえてきた。
「……ここは相変わらず平和だなぁ」
朝方の妙な電話ラッシュなど忘れかけながら、先生は休憩スペースを覗くと、ソファでは臨戦ホシノが、シロコテラーの膝を枕代わりにして完全に横になっていた。
「いやぁ~、やっぱり大きいシロコちゃんの膝は寝心地がいいねぇ」
「ん。さっきからずっとゴロゴロしてる」
「今日はまだ仕事もないし、いいじゃんいいじゃん」
シロコテラーはほんの少しだけ口元を緩めると、臨戦ホシノのアホ毛を指先で弄っていた。
その少し離れたところでは、ミレニアムから遊びに来ていたゲーム開発部と、ケイ、臨戦トキが何やら話している。
「いやこれ絶対バグだって! 壁の中に敵が半分埋まってるんだよ!?」
「モモイ。仕様ということにしてしまえば修正しなくても済むのでは?」
「トキ!? それ採用!」
「本気で言ってるのお姉ちゃん!?」
ミドリが呆れて頭を抱える、その横ではアリスだけが楽しそうに画面を覗き込んでいる。
「壁と一体化した敵……新しいタイプのモンスターですね!」
「アリスちゃんまで肯定しないで!」
さらに別のテーブルでは、ナギサ、ミカ、セイア、アツコの四人がトランプを広げていた。
「ミカ、今カードを二枚取りませんでしたか?」
「え~? 取ってないよ☆」
「ミカ。諦めたまえ私も見ていたよ」
「セイアちゃんも!?」
「私も見た」
「アツコちゃんまで!?」
「三対一ですね。諦めて戻してください」
「バレてないと思ったんだけどな~」
その奥では水着サオリがニコとクルミの二人を相手に、こちらは真剣な様子で戦術について話し合っている。
「市街地戦なら最初から全ての退路を塞ぐより、一ヶ所だけ逃げ道を残した方が誘導しやすい場合が多いですよね」
「私もニコに賛成。逃げ道がないって分かったら相手も死に物狂いで抵抗するでしょうし」
「確かに状況次第では有効だな。だが相手がその意図を察した場合、逆に利用される可能性もある。その場合は――」
「……よくわからん!」
先生は少しだけ話を聞いていたものの、途中から専門的になり始めたため理解を諦めた。
そして改めて、休憩スペース全体を見渡す。
「シャーレも随分人数増えたなぁ……」
最初はこんな場所になるとは思っていなかった。
募集で来てくれた生徒、自分たちとは違う世界を知っている生徒。
最初は敵対していた生徒、色々な事情を抱え、帰る場所を失った生徒。
数多くの生徒達が今では誰もが当たり前のようにここで好き勝手に過ごしている。
「まあ、楽しそうだからいっか!」
先生は軽く笑うと、執務室へ向かうため階段へ足を向けた。
階段へ差しかかったところで、上から四人が降りてくる。
「あら先生じゃない!」
「ん?」
上から降りて来たのは便利屋68だった。
「今から仕事?」
「ええ! ようやく私たち便利屋68の実力を必要とする依頼人が現れたということよ!」
「次はちゃんと依頼料払ってくれる人だといいね~」
「ムツキ! 出発前から不吉なこと言わないで!」
「社長、また踏み倒されたら私が……!」
「ハルカは止まってちょうだい!!」
横でカヨコが小さく笑う。
「朝から騒がしくてごめんね先生。夕方までには戻ると思うからさ」
「了解。気をつけてね~」
「先生も私たちがいないからって寂しがらなくてもいいのよ!」
「大丈夫、みんな居るし!」
「ちょっとは寂しがってくれない!?」
相変わらず元気なアルたちを見送り、先生がさらに階段を上がると、今度はアリウススクワッドと鉢合わせた。
「先生」
「みんなもお出かけ?」
「ああ。今日はトリニティで少し用事がある。夕方には戻るつもりだ」
現地サオリが答える。
だが。
「……」
先生は首を傾げた。
「サオリ?」
「何だ?」
「今日なんかずっとこっち見てない?」
「……気のせいだろう」
「そうかな~?」
今朝見た夢など。
サオリ自身もう何一つ覚えていない。
それでも目の前で普通に立っている先生を見ると、理由も分からず胸の奥が少しだけ軽くなった。
「それよりもリーダー!」
ヒヨリが横から口を挟む。
「トリニティで何か美味しいものを食べさせてもらえませんかねぇ……」
「ヒヨリ、用事の目的変わってるけど」
ミサキの冷静な指摘に、ヒヨリが情けない声を漏らす。
「でもせっかく外に行くんですしぃ……いいじゃないですか!?」
「帰りに何か買って帰ろうか?」
現地アツコが楽しそうに笑う。
「姫ちゃん!」
「アツコ、あまりヒヨリを甘やかすな」
そう言いながらもサオリ自身そこまで本気で止める気はないようだった。
「いってらっしゃい。トリニティのみんなにもよろしくね」
「ああ」
スクワッドとも別れ、さらに進むと。
「おっ、ミヤコたちじゃん。おはよ~」
今度はRABBIT小隊が装備を整えて歩いてきた。
「今日もパトロール?」
「はい。いつもの区域を一通り回ってきます」
以前なら先生と顔を合わせるたび、どこか警戒した目を向けていたミヤコも、今では当たり前のように自分の予定を伝えてくれる。
「何かあったらすぐ連絡してね」
「分かりました」
「先生も勝手にどこかへ行くなよ」
横からサキが念を押した。
「えっ、なんで私まで?」
「ここで一番弱いからだ!」
「本当の事とは言えヒドイ!」
「こればっかりはしょうがないよね~」
モエまで笑いながら同意する。
「せ、先生……」
「ん?」
ミユが少しだけ先生を見上げる。
「今日の夕食…お願いしますね…」
「カレーでしょ?」
「そうです……」
「がんばっておいしいカレーを作っておくから楽しみにしといてね」
「ありがとうございます……!」
ミユが何故そこまで嬉しそうなのか分からなかったが、嬉しそうならそれでいいかと思う先生だった。
「じゃあ気をつけてね~」
「それでは行ってきます、先生」
RABBIT小隊を見送る。
「先生」
「……今日は色んな人によく会うな~」
今度は現地FOX小隊だった。
「今からヴァルキューレへ行ってきます」
ユキノが簡潔に説明してくれる。
「公安局長から人手が足りないと頼まれている。今日は一日向こうの仕事を手伝う予定だ」
「へぇ。大変そうだけど頑張ってね!」
「先生も頑張ってくださいね」
現地ニコが笑顔で言う。
「…がんばりま~す」
現地クルミまで疑わしそうに見る。
「大丈夫かしら? 私たちが帰ってきた時に書類の山が増えてたら怒るからね」
「なんでクルミにまで監督されてるの!?」
「最近のシャーレ内での先生の二つ名が【仕事増殖バグ】だからじゃない~?」
オトギがさらりと答える。
「そんな二つ名付いてるの!?」
「あっはは、冗談だよ! でも先生も頑張ってね~」
そんなやり取りをしつつFOX小隊も階段を降りていった。
「……みんな忙しそうだなぁ」
便利屋は仕事。
スクワッドはトリニティに用事。
RABBITはパトロール。
FOXはヴァルキューレの手伝い。
それぞれの場所で当たり前のように自分たちの一日を始めている。
「さて」
先生がようやく執務室へ辿り着き、扉を開ける。
「おはよ~」
「遅いですよ、先生」
「まだ始業時間前だよ!?」
中では既にカヤが大量の書類へ目を通していた。
その向かいでは元理事も別の資料を処理している。
「時間前だからといって仕事が減るわけではありません。昨日からこれだけ残ってるんですよ?」
「カヤも随分シャーレに染まったね……」
「誰のせいですか!」
「元理事?」
「お前だろう」
「私!?」
元理事は書類から顔すら上げず即答した。
「そもそも先生が何でもかんでも生徒の頼みを引き受けるせいで仕事が増えてるんだ。人が増えたから何とか回ってるだけだぞ」
「生徒が困ってたらほっとけないしさ~」
「私が来る前は、これを二人でやってたんですか?」
カヤが呆れたように尋ねる。
「元理事がほとんどやってくれてました!」
「胸を張って言うな!」
とうとう元理事が顔を上げる。
「先生、そこに座れ。これとこれとこれ、今日中だ」
「多くない? ねぇ、カヤ~。手伝ってくれたらうれしいなぁ~?」
「先生、こちらも確認してくださいね」
「無慈悲!?」
「いいから手を動かしてください!」
「はい……」
先生は大人しく自分の席へ座り、積み上げられた書類から一枚を手に取った。
休憩スペースからは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
廊下では出かけていく生徒たちの声が響き。
目の前では元理事とカヤが、どちらが次の書類を処理するか小さく言い争っている。
「……」
先生はそんな光景を眺めて、ほんの少しだけ笑った。
「平和だなぁ」
今日もいつもと同じ一日が始まる。
何か大きな事件が起こるわけでもない。
誰かが傷つくわけでもない。
生徒たちは好きな場所へ行き、自分たちのやりたいことをして。
帰ってくれば、またシャーレへ集まる。
そんな何でもない一日。
先生は今日最初の書類へペンを走らせた。
――生徒のみんなが少しでも青春を謳歌してくれるなら、頑張りますか。
この時はまだ、先生も生徒たちも。
今朝自分たちが見ていたものが何だったのかを知らない。
そしてこの当たり前になった日常そのものが本来ならば存在するはずすらなかったものだということも。
まだ誰も知らなかった。