翌日。
先生のもとに、アヤネから連絡が入った。
『先生。昨日、ブラックマーケットの銀行から持ち帰った資料の確認が終わりました』
シッテムの箱越しに聞こえるアヤネの声は、いつもより重かった。
『できれば、すぐにアビドスへ来ていただけないでしょうか』
その一言だけで、良くないことが分かった。
先生は臨戦ホシノ、シロコテラー、そしてナギサを連れてアビドスへ向かった。
対策委員会の部室に入ると、そこにはいつもの賑やかさはなかった。
アヤネは机に資料を広げたまま、俯いていた。
セリカは腕を組み、苛立ちと悔しさが混ざった表情で床を睨んでいる。
ノノミも、普段の柔らかな笑顔を少しだけ薄めていた。
シロコは黙って資料を見つめている。
そしてホシノは、いつものように眠たげな顔をしているが、その目だけは笑っていなかった。
「先生……」
アヤネが顔を上げる。
「来てくれてありがとうございます」
「うん。資料から何か分かったんだね」
「はい」
アヤネは一枚の書類を先生に差し出した。
そこには、アビドスが返済してきた金の流れが記されていた。
返済先。
経由口座。
名目上の処理。
そして、その先。
先生は読み進めるうちに、言葉を失った。
「……これは」
「私たちが返済していたお金です」
アヤネの声が震えていた。
「そのお金が、いくつもの口座を経由して……最終的に、アビドス襲撃のための資金として使われていました」
部室に、重い沈黙が落ちる。
「つまり、私たちは……」
セリカが奥歯を噛み締める。
「自分たちを襲わせるためのお金を、ずっと払わされてたってことでしょ……?」
誰もすぐには答えられなかった。
先生もまた、衝撃を隠せなかった。
アビドスの生徒たちは、学校を守るために必死で働いていた。
借金を返すために、節約して、アルバイトをして、毎日を削ってきた。
その返済金が、彼女たちを苦しめるために使われていた。
あまりにも悪質だった。
「……ひどい」
先生は、ようやくそれだけを口にした。
その後ろで、臨戦ホシノ、シロコテラー、ナギサが先生には聞こえないように小声で会話していた。
「やっぱり今から潰しちゃおっかな〜?」
臨戦ホシノの声はいつものようにゆるかった。
だが、目は笑っていなかった。
「その時は手伝う」
シロコテラーが即答する。
ナギサは紅茶もないのに、まるでティーカップを置くような落ち着いた所作で口を挟んだ。
「今、カイザーコーポレーションを潰すと、あの場面で船が無くなりませんか?」
「あ〜、そうだったね〜」
臨戦ホシノは面倒くさそうに頭をかいた。
「しょうがないから見逃すしかないか〜」
「ん。残念」
「残念で済ませていい会話じゃないよね、そっちのおじさん」
現地ホシノが半目で臨戦ホシノを見る。
臨戦ホシノはへらりと笑った。
「うへ〜。先生には内緒ね〜」
「聞こえてたとしても、私もわからないのに先生が分かるはずないと思うけどね〜」
「それもそうだね〜」
アヤネたちはまだ資料を見ていたため、その会話に深く突っ込む余裕はなかった。
先生は資料を置き、アヤネたちを見る。
「これだけだと、まだ全体の流れまでは分からないんだよね」
「はい。分かっているのは、私たちの返済金が不正に流用されていた可能性が高い、ということまでです」
「なら、もう少し詳しい情報を調べよう」
先生は静かに言った。
「誰が関わっているのか。どこで処理されているのか。どうやったら止められるのか。ちゃんと調べよう」
「……はい」
アヤネは小さく頷いた。
セリカも、悔しそうにしながらも顔を上げる。
「絶対、ただじゃ済ませないから」
「ん。調べる」
シロコも頷く。
ノノミは胸の前で手を合わせた。
「まずは、できることからですね〜」
少しだけ、部室の空気が動いた。
絶望だけではない。
怒りもある。
悔しさもある。
けれど、それでも前に進もうとしている。
先生はそれを見て、静かに頷いた。
その時、臨戦ホシノがぽんと手を叩いた。
「そういえば先生って、柴関ラーメン食べたことあったっけ?」
「柴関ラーメン?」
「うへ〜。アビドスの名店だよ〜。ないなら食べに行こうよ〜」
シロコテラーも頷く。
「ん。それがいいと思う」
ナギサは少しだけ目を瞬かせた。
「ラーメンですか……」
あまり縁がなさそうな響きだったのだろう。
けれど、興味がないわけではなさそうだった。
先生はアビドスの面々を見た。
「どうせ行くなら、みんなも一緒に――」
「先生」
臨戦ホシノが、柔らかい声で遮った。
「みんなにも考える時間が必要なんだよ。ここはみんなを信じて、私たちは少し席を外しておこうよ」
「ん。それに、何かあればすぐ連絡が来ると思う」
シロコテラーも続ける。
先生はアビドスの皆を見た。
アヤネは資料を整理しながら、少しだけ疲れた表情をしている。
セリカはまだ怒りを飲み込めていない。
シロコも、いつもより口数が少ない。
ノノミは皆を気遣うように微笑んでいた。
ホシノは、静かに窓の外を見ていた。
「……分かった」
先生は頷いた。
「じゃあ、少しだけ外すね。何かあったらすぐに連絡して」
「はい。ありがとうございます、先生」
アヤネが頭を下げる。
ホシノは臨戦ホシノをじっと見た。
「臨戦おじさん」
「ん〜?」
「変なことしないでよ〜」
「うへ〜。ラーメン食べるだけだよ〜」
「その割には、さっきから大きいシロコちゃんと何かこそこそ準備してるよね〜」
「気のせい気のせい」
臨戦ホシノは視線を逸らした。
シロコテラーも鞄の中を確認しながら、静かに頷く。
「ん。準備は大事」
「何を持ってくの?」
「包帯と血糊」
「……ラーメン屋に行く準備じゃないよね、それ」
現地ホシノが半目になる。
臨戦ホシノはにこにこ笑った。
「うへ〜。備えあれば憂いなしってやつだよ〜」
「憂いの方向性が嫌すぎるんだけど」
先生は首を傾げた。
「何か言った?」
「何でもないよ〜」
「ん。ラーメンの話」
◆
臨戦ホシノとシロコテラーに案内されて辿り着いたその店は、どこか懐かしい雰囲気のあるラーメン屋だった。
暖簾をくぐると、店内には香ばしいスープの匂いが漂っている。
「いらっしゃい!」
元気な声で迎えてくれたのは、柴犬が二足歩行しているような獣人の大将だった。
柴大将はシロコテラーを見るなり、少し不思議そうに首を傾げた。
「あれ? シロコの嬢ちゃんだよな? 突然大きくなったな」
「ん。成長期だから」
シロコテラーは真顔で答えた。
「ははは! それなら今日も腹いっぱい食べてってくれよ!」
「そうするつもり」
先生は思わずシロコテラーを見る。
「今ので通るんだ」
「ん。通った」
「通したのは大将の懐の深さだと思いますが」
ナギサが小さく呟く。
柴大将は今度は先生とナギサを見る。
「それに、そっちの二人はご新規さんだろ?」
「はい。今日は二人が一押ししているここのラーメンを食べに来ました」
先生が答える。
ナギサも丁寧に一礼した。
「私も今日は、おいしいラーメンを楽しみに来ました」
「そうか! じゃあとびっきりおいしい一杯を出さなきゃな!」
柴大将は嬉しそうに笑う。
臨戦ホシノが手を上げた。
「じゃあ今日はみんな柴関ラーメンでいいよね? じゃあ四つお願〜い、大将」
「あいよ!」
一行はテーブル席に座った。
しばらくして、湯気の立つラーメンが運ばれてきた。
濃厚な香り。
つやのある麺。
丁寧に盛りつけられた具材。
「おいしそうだね」
先生が箸を取る。
「うへ〜。ここのラーメンはいいよ〜」
「ん。おすすめ」
シロコテラーも頷く。
ナギサは少しだけ慎重にレンゲを手に取った。
「ラーメンをいただく機会はあまり多くありませんが……香りはとても良いですね」
そして一口。
ナギサは目を瞬かせた。
「……おいしいです」
「でしょ〜?」
臨戦ホシノが嬉しそうに笑う。
少し前まで部室に漂っていた重い空気が、湯気と一緒に少しだけ溶けていくようだった。
先生もラーメンを食べながら、ほっと息を吐く。
「こういう時間も、大事だね」
「うへ〜。そうだよ先生。ずっと難しい顔してたら疲れちゃうからね〜」
「ん。腹が減っては調査もできない」
「それはそうだね」
ナギサは上品に麺を口へ運びながら、静かに頷いた。
「緊張した状況だからこそ、こうした休息は必要です。……ただ」
「ただ?」
「お二人が先ほどから時折、店の外を確認しているのが気になります」
臨戦ホシノとシロコテラーの動きが止まった。
「うへ〜。気のせいじゃないかな〜?」
「ん。ラーメン屋の景観を楽しんでいる」
「ラーメン屋の景観…?」
先生は不思議そうに首をかしげていたが、ナギサは微笑んだ。
「なるほど。そういうことにしておきましょう」
そんな時だった。
「お、ここね!」
新たな客が店に入ってきた。
便利屋68の四人だった。
アルは店内を見回すなり、先生たちに気づいた。
「あら、先生じゃない!」
「やぁ、君たちも来たんだね」
「当然よ! 覆面水着団が認めた店だもの!」
「その認識はだいぶ危ないと思うよ」
先生が苦笑する。
ムツキは楽しそうに手を振った。
「やっほー、先生」
カヨコはナギサを一瞥し、それから臨戦ホシノとシロコテラーを見て、無言で少し距離を取った。
「カヨコちゃん、そんなに警戒しないでよ~」
「ん。そろそろ好感度が上がってもいい頃合いなのに」
「どの口が言ってるの…?」
カヨコは淡々と言った。
ハルカはおろおろしながら席につく。
「あ、あの、先生方のお隣で大丈夫でしょうか……? もしご迷惑なら、私、店の外で立って――」
「もちろん、隣で大丈夫だよ」
「あ、ありがとうございます……!」
柴大将はそんな大所帯を見て、豪快に笑った。
「今日は賑やかだな! みんな食べてけ食べてけ!」
便利屋68も隣の席に座り、それぞれラーメンを注文した。
アルはラーメンを前にしながら、どこか感動したように頷いている。
「なるほど……これが覆面水着団の愛した味……」
「普通にラーメンとして食べなよ、アルちゃん」
ムツキが笑う。
しばらく、店内には穏やかな時間が流れた。
そういえばと先生と便利屋68が改めて軽く自己紹介をし、ナギサが丁寧に挨拶を返し、ハルカが何度も頭を下げ、カヨコが冷静に会話を整える。
臨戦ホシノとシロコテラーはラーメンを食べながら、時折、何かを確認するように視線を交わしていた。
そうして楽しい時間を過ごしていると。
不意に、遠くから風を切るような音が聞こえた。
ヒュン、と空気を裂く音。
『先生! 迫撃砲です!』
アロナの声が、鋭く響いた。
「みんな、伏せて!」
先生は咄嗟に立ち上がった。
思考よりも先に体が先に動いていた。
後ろにいる生徒たちを守るように、先生は前へ出る。
だが、そのさらに前に。
「やっぱり先生は変わらないね――」
臨戦ホシノが割り込んだ。
いつものような眠たげな声で、その手にはすでに盾が展開されていた。
「でも今回は私がいるんだから頼ってよ~」
次の瞬間。店内は、大きな爆発に巻き込まれた。
耳をつんざくような轟音が、柴関ラーメンの店内を呑み込んだ。
爆風。
舞い上がる煙。
砕けた窓ガラスの音。
倒れる椅子と、ひっくり返る丼。
だが、爆発の中心にいたはずの先生たちは、誰一人として大きな怪我をしていなかった。
臨戦ホシノの盾が、間に合っていた。
「……危なかったね〜」
煙の中で、臨戦ホシノが盾を下ろす。
店内は半壊していた。
壁には大きな穴が空き、テーブルはひっくり返り、器は割れ、せっかくのラーメンは床へと散っている。
柴大将もカウンターの奥から顔を出し、けほけほと咳き込んでいた。
「げほっ……あんたたち、大丈夫か!?」
「みんな無事です!」
先生が答える。
ナギサも周囲を見回し、負傷者がいないことを確認してから、小さく息を吐いた。
「幸い、大きな怪我をした方はいないようですね」
「ん。流石ホシノ先輩、守りならキヴォトス随一だね」
シロコテラーが淡々と言う。
臨戦ホシノは肩をすくめた。
「ありがとねシロコちゃん、でもせっかくのラーメンが台無しだけどね〜」
その時、店の外から複数の足音が近づいてきた。
煙の向こう側に風紀委員会の制服を着た生徒たちが見える。
先頭には、銀鏡イオリ。
その少し後ろには、火宮チナツ。
他にも数人の風紀委員が周囲を警戒しながら展開していた。
「目標に命中したよ。アコちゃん」
イオリが通信機に向かって報告する。
通信の向こうから、甘雨アコの声が届いた。
『了解しました。目標は便利屋68です。その建物内にいる可能性が高いので、速やかに確保してください』
「分かってる。まったく、あいつら……今度はラーメン屋でも始めたのか?」
イオリは舌打ちする。
チナツは煙の上がる店内を見て、表情を曇らせた。
「爆発の規模が大きいですね。負傷者がいないといいのですが……」
『チナツさんは負傷者の確認を。イオリは便利屋68の確保を最優先に』
「了解しました」
だが、二人は知らない。
アコが本当に狙っているのは、便利屋68だけではない。
いや、本命はむしろ別にある。
シャーレの先生。
トリニティと接触したというチナツからの報告を読んで焦ったアコは先生を、ゲヘナ側で一時的にでも確保する。それが、アコの本当の目的だった。
もちろん、現場のイオリやチナツ、そして他の風紀委員たちは知らない。
彼女たちはただ、風紀委員として便利屋68を捕まえに来たつもりだった。
そして、そんな対象の彼女たちは。
「げっ、風紀委員会!?」
アルが顔を青くした。
「こんな所まで私たちを捕まえに来たの!?」
「まあ、そうじゃな~い?」
ムツキは煙を払いながら、どこか楽しそうに笑っている。
「ど、どうしましょうアル様! 私たち、今回本当に何もしていません! でも信じてもらえなかったら、私、私……!」
「落ち着きなさいハルカ! こういう時こそ堂々と……!」
「堂々としてたら余計捕まると思うよ」
カヨコが冷静に言った。
「特に今の私たちが、この場にいる時点でかなり不利」
「カヨコ、そういう冷静な分析はもう少し希望を残して言って!」
アルが泣きそうな声を上げる。
その慌てぶりを横目に、臨戦ホシノとシロコテラーは外を見た。
イオリ。
その姿を確認した瞬間、二人の目がほんの少しだけ細くなる。
「……来たね〜」
「ん。交渉材料」
シロコテラーが小さく呟く。
「うへ〜。じゃあ、予定通りかな〜」
「ん。確保する」
二人のやり取りはこの混乱した場ではほかの人に聞かれなかった。
だが、ナギサには聞こえていた。
ナギサは一瞬だけ目を伏せ、それからイオリの姿を見た。
風紀委員会。
ゲヘナ。
そして、今この場にいる先生。
臨戦ホシノとシロコテラーが何を狙っているのか、完全ではないが薄々察することはできた。
おそらく、後の交渉材料。
それが強引な手段であることも分かる。
けれど、今は風紀委員会が先に店を攻撃した形になっている。
さらに、部隊の動きから遠隔で指揮をしている人が裏に居ることも、ナギサは直感していた。
ならば、ここで多少強引に流れを掴む価値はある。
「……仕方ありませんね」
ナギサは小さく呟いた。
その時、シロコテラーが先生に近づいた。
「先生、少し失礼」
「え?」
べちゃっ。
先生の服に、赤い液体が派手に飛び散った。
「えっ!? シロコ、これ何!?」
「ん。血糊」
「血糊!?」
先生が混乱している間に、シロコテラーは包帯を取り出し、先生の腕や肩に手際よく、ただし見た目だけは妙に痛々しく巻いていく。
適宜、血糊を足して包帯を乱す。服を少し破れたように見せる。
あっという間に、先生は爆発に巻き込まれて重傷を負った人のような姿になった。
「待って、どういうこと?」
先生が困惑すると、臨戦ホシノが目の前にしゃがみ込む。
その顔は、珍しく真剣だった。
「先生。今から少しだけ、そこに寝っ転がって目を瞑っててほしいな〜」
「寝っ転がって?」
「うん。私たちを信じて動かずに、出来れば喋らないでくれるとうれしいな」
「……」
先生は臨戦ホシノを見る。
シロコテラーも、まっすぐ先生を見つめていた。
二人の表情はいつもの茶番のようには見えなかった。
だから先生は、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
先生は言われた通り、床に横たわり、目を閉じた。
そのため、先生は知らない。
先生が目を閉じた瞬間、臨戦ホシノとシロコテラーが、悪い顔で笑ったことを。
「うへ〜。じゃあ作戦開始だね〜」
「ん。確保作戦」
「確保作戦って何よ!?」
アルが小声で叫んだ。
臨戦ホシノは便利屋68へ向き直る。
「便利屋のみんなは、先生を治療してる演技をお願いね〜」
「えっ、私たちが!?」
「うん。アルちゃんは、先生を助けようとしてる悪のカリスマ社長っぽく」
「悪のカリスマ社長……!」
アルの目が輝く。
「任せなさい! 先生の命、この私が必ず救ってみせるわ!」
「先生は無事だけどね」
カヨコが冷静に言う。
「ムツキちゃんは包帯を持って慌ててる感じでお願い。ハルカちゃんはそのままで大丈夫。もう十分迫真だから〜」
「そ、そのままでいいんですか!?」
「うん。完璧」
「は、はいぃ!」
「カヨコちゃんは冷静に治療指示してる感じで」
「……本当に無茶振りが多い」
カヨコはため息を吐きながらも、先生の横に膝をついた。
状況は最悪だが、風紀委員会の目を逸らすなら、乗った方が早い。
そう判断したのだ。
次に臨戦ホシノは、ナギサを見る。
「ナギサちゃんは――」
「言われなくても分かっています」
ナギサは静かに頷いた。
「私は表に出ればよろしいのでしょう?」
「流石だね…。それじゃあお願いできる?」
「ええ、この程度の腹芸ならトリニティでは朝飯前ですので」
ナギサは一歩、半壊した店の外へ出た。
先ほどまでの冷静な表情は、もうない。
顔は青ざめ、瞳は揺れ、今にも泣き崩れそうな姿。
その変化に、ムツキが小声で感心した。
「あの人、切り替えすご〜」
「トリニティって怖いのね……」
アルが真顔で呟く。
ナギサは外のイオリとチナツを見た瞬間、震える声を上げた。
「貴方たち……!」
イオリとチナツが足を止める。
「な、何だ……?」
「店内に負傷者がいるのですか!?」
チナツがすぐに反応する。
ナギサはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「貴方たちのせいで……先生が……先生が……!」
「先生!? 先生って、今話題のシャーレの先生か!!?」
イオリの顔色が変わった。
チナツも目を見開く。
「先生が中にいらっしゃるのですか!?」
「どうして……どうしてこのようなことに……!」
ナギサは顔を覆い、肩を震わせる。
あまりにも迫真の演技だった。
チナツは即座に店内へ駆け込もうとした。
「負傷者の治療に入ります!」
「待て、チナツ!」
イオリも慌てて続こうとする。
店内では、便利屋68が先生の周囲でそれぞれ演技を始めていた。
「先生! しっかりして私が必ず助けるわ! 目を開けて!」
アルは完全に役へ入り込んでいた。
「先生、包帯だよ〜。あ、これもう巻いてあるね〜」
ムツキは楽しそうに包帯を持っている。
「先生ぇ……死なないでくださいぃ……!」
ハルカは本当に泣きそうだった。
「ハルカ、死んでない。あとそれは不吉だから言わないで」
カヨコは冷静に治療指示をしている風を装っていた。
その光景を見て、チナツは完全に青ざめる。
「先生……!」
「おい、まさか本当に巻き込んじゃったのか……?」
イオリの声が震えた。
彼女は便利屋68を捕まえに来ただけだった。
店ごと吹き飛ばすつもりではあったが、先生が中にいるなど聞いていない。
通信機の向こうから、アコの声が響く。
『イオリ、状況は? 便利屋68は確認できましたか?』
「アコちゃん……先生がいる」
『……先生が?』
「…先生が血まみれで…倒れてる。先生が、大怪我してるんだよ!!」
通信の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
アコにとって、先生の確保は目的だった。
だが、負傷させることまでは想定していない。
まして、現場のイオリたちが動揺している今、この状況は非常にまずい。
『……チナツさん、先生の状態確認を最優先してください。イオリは周囲を警戒してください!』
「分かっています!」
チナツが先生に近づこうとする。
だが、その前に臨戦ホシノとシロコテラーが、ゆっくりとイオリの前へ出た。
二人とも、怒りに震えているような顔をしていた。
もちろん演技である。少なくとも、半分は。
「お前がやったのか……?」
臨戦ホシノの声は低かった。
イオリが肩を揺らす。
「なっ……」
「先生をこんな目に遭わせたのは、お前かって聞いてるんだよ!!」
「待て、私は――」
「ん。あなたが先生を撃った」
シロコテラーが静かに言う。
「撃ってない! いや、砲撃はしたが、先生がいるなんて知らなかったんだ!」
「知らなかったら許されるの?」
シロコテラーの声がさらに低くなる。
イオリは言葉に詰まった。
「それは……!」
「ちょっとこっち来ようか〜」
臨戦ホシノが一歩近づく。
「何でだ!? 私は風紀委員だぞ!」
「ん。先生を攻撃した風紀委員に未来がある訳ない」
「だから誤解だって言ってるだろ!」
イオリが後退しようとした瞬間、シロコテラーが横へ回り込んだ。
そして、イオリが銃を構えるより早く、臨戦ホシノが盾で退路を塞ぐ。
「おい、近い! 離れろ!」
「逃げちゃだめだよ〜」
「ん。無事に確保完了」
「確保って何だ!?」
臨戦ホシノが盾で動きを制限し、シロコテラーが腕を取る。
イオリは必死に抵抗するが、二人の連携は異常に速い。
「くっ……! お前ら、何なんだよ!」
「うへ〜。先生の味方かな〜」
「ん。交渉材料を確保する係」
「待て! 今、交渉材料って言ったか!?」
「言ってない」
「言っただろ!」
チナツが声を上げる。
「イオリ!」
だが、チナツは先生の救護に向かおうとしているため、すぐには動けない。
ナギサはまだ顔を覆って泣き崩れる演技を続けながら、指の隙間から状況を確認していた。
「……なるほど。強引ですが、悪くありませんね」
店内では、先生が目を閉じたまま小声で聞いた。
「……今、何が起きてるの?」
「先生はまだ寝ててね〜」
ムツキが楽しそうに答える。
「今すっごく面白いから」
「面白いことになってるの?」
「そりゃあもう♪」
「それはそれで不安なんだけど」
「大丈夫。誰も怪我したりしてないからそこは安心しててね」
「なら、いっか……」
先生は目を閉じたまま、演技を継続することにした。
こうして、先生は何も知らないまま。
便利屋68は治療している演技をし、ナギサは泣き崩れる令嬢を演じ。
風紀委員会は先生を負傷させたと思い込んで動揺してしまい、臨戦ホシノとシロコテラーは、その隙を突いてイオリを確保した。
こうしてこの襲撃事件は、当初の誰の想定とも違う方向へ転がり始めていた。