「ん? う~ん……?」
アヤメが意識を取り戻して最初に視界に飛び込んできたのは、自分の眼前で目を閉じたまま気持ちよさそうに眠っているナグサの顔だった。
アヤメはぼんやりとした意識のまま、目の前にある見慣れた顔を数秒ほど眺める。
「…………だっる」
起きて最初に見る顔がよりにもよってナグサなのが気に食わなかった。
「なんでナグサなんだよ……」
まだ完全に覚醒していない頭で悪態を吐きながら、アヤメは身体を起こそうとする。
「いたた……。えっと…どうしてたんだっけ?」
ぼんやりと朧げな記憶を辿ることにした。
確か先生たちを雪山で待ち伏せしていて、シュロに裏切られた。
クロカゲに追い回され、焼き鳥を食べたナグサが何故か光った。
「いやこれはどうでもいい事だ。確かその後…」
目の前に迫っていた白い壁。
「そうだ雪崩……!」
そこで一気に意識が覚醒したアヤメは周囲を見回す。
「…………何これ」
自分とナグサの少し下には、キキョウとシュロが倒れて、仲良く気絶していた。
「……先生?」
よくよく見てみると、先生は他の四人を庇うような姿勢のまま、完全に意識を失っていた。
それだけではなく自分たちの周囲を、薄い青色の膜のようなものが覆っている。
外側には大量の雪が見える。だが、その青い膜に守られている部分だけは雪が入り込めず、人が数人横になれるだけの空間が確保されていた。
「……バリア?」
アヤメが手を伸ばす。
指先が青い膜へ触れた瞬間、僅かな波紋が広がった。
「こんなの聞いてないんだけど」
少なくとも自分の知っている先生は、こんな力を持っているとは聞いていない。
「…………」
視線を先生へ移す。
その手元で普段先生が持ち歩いているタブレットのような端末にまだ微かな光が残っていた。
アヤメが疑問に思って触れようとしたタイミングで。
プツン。
「……あ」
シッテムの箱の画面が消えた。
それと、同時に周囲を覆っていた青い膜も光の粒となって崩れていく。
アヤメはその様子をしばらく見てから一つの考えに思い当たった。
「……まさか」
最後の瞬間、雪崩に飲み込まれる直前に先生は自分たちを庇っていたという現実。
ナグサもキキョウもシュロも、そしてついさっきまで敵として先生へ銃を向けていた自分まで助けようと奮闘した事に。
「…………意味分かんない。敵まで庇うとか、馬鹿じゃないの」
当然、アヤメが吐き捨てた言葉に対して返事がくることは無かった。
「よいしょ……っと」
アヤメは頭上の雪を掻き分け、何とか外へ這い出した。
「……寒っ!」
外へ出た瞬間、猛烈な冷気が身体を襲う。
雪崩に巻き込まれてから、かなり時間が経っていたらしい。
空はすでに夕暮れ。薄暗くなり始めた雪山には、さらに新しい雪が降り始めていた。
「最悪……」
アヤメは身震いする。そして首元へ手を伸ばすと先生から借りたマフラーが手に当たる。
そういえばまだ巻いていたんだった。
そしてポケットへ手を入れると今度はカイロが出て来たが、こちらはもう完全に冷たくなっている。
機能を終えたカイロを触りながら、振り返り先生達を見下ろすが、先生たちはまだ誰一人起きる気配がない。
アヤメはつまらなそうに視線を逸らした。
「……まあそのうち起きるでしょ」
キヴォトスの生徒がこれくらいでどうにかなるとは思えない。
先生だって、さっきまで何かよく分からない力を使っていたのだ。
「……私には関係ないし」
なるべくもう考えない様にしてから、アヤメは彼岸邸へ向かって歩き出す。
「…………」
だが自然と足は止まってしまう。
もう一度振り返っても誰も起きない。
「いやいや」
アヤメは首を横へ振る。
「知らない知らない」
もう一度歩き始めるが、またすぐ止まってしまう。
「…………」
降っていた雪は段々と強くなっていく。
そして当然だが夜になれば、さらに気温も下がるだろう。
もし、あのまま誰も目を覚まさなかったら。
「…………チッ」
首元のマフラーが嫌に視界へ入る。
ポケットの中には、捨てられなかったもう温かくなることのないカイロ。
「頼んでもないのに、助けられたから助けるだけ……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「別に私が心配してるわけじゃないし!」
アヤメの独り言が雪山に溶けていく。
「一方的な借りを作るのが嫌なだけだから!」
さらにもう一度。
「これで貸し借り無しだから……」
そこまで言って、アヤメは大きく溜息を吐いた。
「……ほんっとに、だる」
◆
彼岸邸。
「アヤメ?」
先生達を待ち伏せしていたはずのアヤメの姿を見つけたアザミが、最初に駆け寄ってきた。
「随分遅かったですね。何か――」
そこでアヤメが担いでいた者を見て驚きで静止する。
アヤメの後ろには先生達が気を失った状態で連れて来られていた。
その事実を認識したアザミの目が喜色に歪む。
「凄いじゃないですか! 先生を捕まえたんですか!?」
「……違う」
「それにナグサさん達まで! 流石ですねぇ!」
「話聞いてる?」
アヤメは疲れ切った声でそう返した。
すると奥からもう一人姿を現す。
「随分と賑やかだと思えば、何事だい?」
コクリコの視線が、アヤメの後ろへ向いた。
「……おやおやおや」
先生たちの中に紛れている小さな怪談屋を発見する。
一瞬だけコクリコの目つきが変わったのをアヤメは見逃さなかった。
「大丈夫だよ」
「……なにがだ?」
「気を失ってるだけ」
「……そうかえ」
それだけ確認すると、コクリコはいつもの余裕のある表情へ戻る。
アザミはまだ先生を見ていた。
「コクリコ様! ちょうど良かったです!」
「何がだい?」
「アヤメが先生を捕まえたみたいです!」
「だから違うって言ってるでしょ!」
アヤメが即座に否定する。
「じゃあどうして先生がここにいるんですか?」
「雪崩に巻き込まれたの」
「……雪崩に?」
アヤメは面倒そうに説明を始める。
「先生たちと戦ってたら、シュロのクロカゲが山で暴れすぎて雪崩が起きた。その雪崩に私も先生たちもまとめて巻き込まれただけ」
「それで?」
コクリコが続きを促す。
「気がついたら先生が私たちを庇って倒れてた」
「…………」
「何か青い変な壁みたいなので、雪に埋まらないようになってた」
コクリコが少し目を細める。
「先生の仕業だと思うかえ?」
「多分ね」
アヤメは肩を竦めた。
「少なくとも先生の持ってた変な端末の電源が落ちたら、その壁も消えたから」
「なるほどねぇ」
「それに」
アヤメがシュロを見る。
「シュロも一緒に助けられてた」
コクリコの視線が再びシュロへ向いた。
「そうかえ」
声は先ほどと変わらなかった。
だが、アヤメにはどこか安堵したように聞こえた。
そんなやり取りをしているとアザミが横から先生の腕を掴む。
「どうでもいいじゃないですか!? とりあえず先生だけ牢屋に入れれば良いのでは?」
「は?」
「ちょうど気絶していますし、起きる前に入れておきましょう」
「待ちな」
先生を連れて行こうとしていた所にコクリコが割り込んでくる。
「コクリコ様?」
「今の話を聞いてなかったのかえ?」
「聞いていましたけど……」
「なら、その先生がシュロを救ったことも理解しておるな」
「それは……そうですけど」
「アヤメもじゃ」
「私はついででしょ」
「本人がそう言ったのかえ?」
「…………チッ」
「言ってないだろう?」
アヤメは黙った。
アザミはそれでも納得できない様子で先生を見る。
「でも敵じゃないですか!?」
「そうだね」
コクリコは特に言い訳もせずにあっさり認めた。
「ただ恩人でもある。曲がりなりにも、我らの仲間を救ってくれた相手だよ」
コクリコは先生を見る。
「そんな恩人が目を覚ます前から牢に放り込むなんて、雅じゃないねぇ」
「でも、起きたら絶対に邪魔してきますよ?」
コクリコは気楽に答える。
「その時はその時、風の吹くまま気の向くままさ」
アザミはまだ何か言いたそうだったが、これ以上コクリコに逆らいたくなかったのか無理やり自分を納得させていた。
「……分かりました。では先生たちはどうするのですか?」
「空いている部屋へ運んでおやり」
「客間にですか!?」
「そうだよ。今は恩人だからね」
「面倒くさいです……」
「世の中そんなものさ」
コクリコは楽しそうに笑った。
その横でアヤメは少しほっとしたような顔になった。
「…………」
「どうしたんだい、アヤメ」
「別に」
「そうかえ?」
「……私は助けたかったわけじゃないからね!」
「誰も聞いておらんよ」
アヤメの眉が動く。
アザミまで横から口を挟む。
「というか、なんで助けたんですか? ほっとけばよかったのに……」
「私は、借りを返しただけ」
「その為だけにわざわざここまでしたんですか?」
「うるさい!!」
「アヤメ、顔赤いですよ」
「寒いからでしょ!」
「屋内だけどねぇ」
アヤメの珍しい様子を見ていたコクリコが小さく笑った。
◆
先生たちが空いている部屋へ運ばれていくのを見届けた後。
「…………」
アヤメは一人、廊下に立っていた。
ふと、首元へ手を伸ばす。
「…………」
まだ先生のマフラーを巻いたままだった。
「返すの忘れてたな」
先生が寝かされた部屋に行こうと思ったが。
「…………寒い」
その足取りは止まる。
雪山の中よりは遥かに暖かいとはいえ、彼岸邸の中もそれなりに冷えている。
「…………」
マフラーを少し深く巻き直した。
「……起きてから返せばいいか」
誰も聞いていないのを言い訳にして、アヤメはそのまま廊下を歩き出した。
「ほんとに変な大人…」
そう独り言を呟いたアヤメの顔はどこか憑き物が落ちたような表情だった。