柔らかな布団の感触と、微かに鼻をくすぐる畳の香り。
先生がゆっくりと意識を取り戻した時、最初に目に入ったのは見覚えのない木目の天井だった。
「……ん?」
まだ完全には覚醒していない頭のまま何度か瞬きをしてから、周囲へ視線を巡らせる。身体の下に敷かれているのは、普段シャーレで使っているものとは比べ物にならないほど上等な布団。部屋の片隅には立派な床の間があり、障子や調度品も丁寧に整えられている。
「……高級旅館?」
そんな場所へ泊まりに来た記憶など当然なかった。
先生はぼんやりと昨日の出来事を思い返そうとして――そこで一気に目を見開いた。
百鬼夜行の雪山。
待ち構えていたアヤメ。
シュロが呼び出したクロカゲ。
そして、戦闘の余波で山の上から押し寄せてきた大量の雪。
「そうだ、雪崩!」
勢いよく上体を起こし、まず自分の身体を確認する。多少あちこちが痛むものの、大きな怪我をした様子はない。それよりも気になったのは、一緒に巻き込まれたみんなのことだった。
「ナグサ! キキョウ! シュロ! アヤメ!」
呼びかけながら部屋を見渡すが、返事はない。
この部屋にいるのは先生一人だけだった。
すぐに布団から出ようとしたところで、枕元に一枚の紙が置かれていることに気付く。
折り畳まれたそれを手に取り開いてみれば、少々癖のある文字が先生宛てに並んでいた。
『先生起きた? 雪山から屋内に移動していてびっくりした?
そこは彼岸亭の客間だよ。私が先生をそこまで運んだんだよ。これで貸し借り無しだからね。
それで突然一方的にこんなお願いを頼んでごめんなさい、でも聞いてほしい。
百鬼夜行のどこかで、この世界のナグサと決着をつけたいから待ってるね。
ちゃんと分かるように焼き鳥を焼いといてあげるから、匂いを辿れってナグサに言っといて。
こっちの立会人はコクリコに頼んだから。出来れば先生にも見届けて欲しいな。
散々色んなものから逃げてきたけど、先生の在り方を見ていたら、最後の最後で自分のやりたい事が分かった気がする。
追伸
先生が連れてきたナグサ達は隣の部屋で寝てるよ。
この世界のナグサ達は地下牢に閉じ込めてあるから、鍵を使って出してあげてね。
鍵は先生が使ってた枕の下に置いとくね。
私からナグサにする初めての頼み事、もちろん断らないよね?』
「…………」
先生は最後まで読み終えると、少し間を置いてからもう一度最初へ戻った。
募集で来たナグサたちは無事。百花繚乱も無事。そしてアヤメは、現地ナグサとの決着を望んでいる。
短い手紙の中に必要な情報が全部詰め込まれていた。
「……アヤメが運んでくれたのか」
思わず呟きながらも、先生の視線は自然とある一文へ戻っていく。
『散々色んなものから逃げてきたけど、先生の在り方を見ていたら、最後の最後で自分のやりたい事が分かった気がする。』
昨日までのアヤメを思い出す。
先生たちを待ち伏せし、ナグサへ怒りをぶつけ、それでも雪崩に巻き込まれた自分たちを最終的には見捨てずに彼岸邸まで運んでくれたであろう少女。
その彼女が、自分から誰かへ頼み事をした。それも、現地のナグサへ。
先生は少しだけ表情を緩めた。
「生徒からの頼み事なら、ちゃんと付き合わないとね」
手紙を丁寧に畳んでから枕を持ち上げると、そこには本当に鍵が置かれていた。
「本当に何から何まで用意してるなぁ……」
感心しながら鍵を手に取る。
ただ、一つだけどうしても引っ掛かる部分があった。
「本当に焼き鳥の匂いで合流していたんだな…」
◆
隣室の襖を開けると、まず目に入ったのは三つ並べられた布団だった。
ナグサ、キキョウ、シュロ。
三人とも静かに横になっている。少なくとも外傷らしいものは見当たらず、寝息も聞こえる。
「良かった……」
先生が胸を撫で下ろした、その時。
「う~ん……そうやって、私から先生を奪う気だろ。悪魔が…」
布団の中で悪夢?を見ていたキキョウが不機嫌そうに顔を覗かせた。
「あれ…先生…?」
「おはよう。大丈夫?」
「……ここどこ?」
「多分、彼岸邸だと思う」
「多分なの?」
「彼岸邸で合ってますよ」
今度は別の布団から、眠そうな声が飛んでくる。
シュロが欠伸をしながらゆっくり身体を起こしていた。
「知ってるの?」
「手前、花鳥風月部なんですけど?」
「あ、そうだった」
「忘れないでくださいよぉ!」
呆れたように言うシュロの隣では、ナグサも既に目を覚ましていた。
「……アヤメは?」
身体を起こしながら最初に尋ねたのは、それだった。
「いないよ。ただ、これが置いてあった」
先生が手紙を差し出す。
ナグサとキキョウは並んでその内容へ目を通していく。最初は真剣な顔をしていた二人だったが、ある一文まで辿り着いたところでナグサの視線が止まった。
『ちゃんと分かるように焼き鳥を焼いといてあげるから、匂いを辿れってナグサに言っといて。』
「流石アヤメ、よく私の事を分かってる」
「やっぱり普段からこうなんだ!?」
先生が思わず声を上げると、キキョウが額へ手を当てた。
「先生。もうそこは深く考えない方がいいかも」
「でも本当に匂いで場所分かるの?」
「今の私なら余裕。この世界の私でも多分行ける」
「多分なの!?」
「焼き鳥がねぎまならいける」
「どういう自信なのよ……」
キキョウは完全に諦めた顔になっていた。
先生もこれ以上追及するのはやめ、代わりに枕の下から見つけた鍵を取り出す。
「とりあえず、百花繚乱のみんなを迎えに行こう。地下牢にいるって」
「地下牢なら手前が案内しますよ」
シュロも布団から出て来た。
「ただ手前、朝食まだなんですけど食べてからでいいですか?」
「それは後で食べよう」
「今がいいです」
「後でね?」
「ねぎまならすぐに出せるよ?」
「手前はネギが嫌いなんですよ!」
「うん、知ってる」
「知ってるなら出さないで欲しいですねぇ!!」
ナグサに食って掛かるシュロを見て、キキョウが小さく溜息を吐く。
「馬鹿なやり取りしていないでさっさと行くわよ」
こうしてシュロの案内で彼岸邸の地下へ降りていくと、豪華な客間とは打って変わって、そこには冷たく薄暗い木造造りの空間が広がっていた。
「……本当に牢屋あるんだ」
「本拠地ですから」
「できれば無い方が嬉しかったなぁ」
先生のぼやきにシュロが肩を竦める。
やがて階段を降り切った先から、聞き覚えのある声が飛んできた。
「先生!?」
「ユカリ!」
格子の向こう。
現地ナグサ、現地キキョウ、レンゲ、ユカリの四人がそこにいた。
多少疲れてはいるものの、目立った怪我はない。
「ご無事でしたの!?」
「うん。そっちも大丈夫?」
「何とか無事ですわ!」
ユカリが嬉しそうに寄ってくる一方、現地キキョウは先生の姿を見て眉をひそめた。
「……先生、何でここにいるの?」
「色々ありまして」
「その説明で納得できると思う?」
「雪崩に巻き込まれて、起きたら彼岸邸の客間だった」
「ごめん聞いたら余計分からなくなった」
レンゲも牢の奥から先生を見る。
「それで、どうしてその先生がここの鍵まで持ってんだ?」
「アヤメが置いていってくれたみたい」
その名前が出た瞬間、牢の中の空気がわずかに変わった。
先生はそれ以上の説明を加えず、鍵を差し込んで牢の扉を開ける。
カチャリと音を立てて錠が外れると、真っ先に外へ飛び出してきたのはユカリだった。
「先生~!」
「どうしたの?」
「お腹空きましたわぁ!」
「第一声それ!?」
「昨日から碌なものを食べておりませんの!」
「それは大問題だね……」
続いてレンゲ、現地キキョウも外へ出る。
最後に残ったのは現地ナグサだった。
「ナグサ?」
先生が呼ぶと、現地ナグサは少しだけ顔を上げた。
「……アヤメは?」
「百鬼夜行でナグサの事を待ってるってさ」
先生は現地ナグサに置き手紙を差し出す。
彼女は黙って受け取ると、一行ずつゆっくり目を通していった。
最初は表情を変えなかった。
けれど。
『私からナグサにする初めての頼み事。もちろん断らないよね?』
そこまで読んだところで、手紙を持つ指に少しだけ力が入った。
「…………」
「ナグサ先輩?」
ユカリが心配そうに名前を呼ぶ。
現地ナグサは俯いたまま、しばらく何も答えなかった。
「……ずるい」
「え?」
「アヤメ、ずるいよ」
その声に怒りはなかった。むしろ、困ったような。それでいて少し嬉しそうにも聞こえる。
「初めての頼み事なんて書かれたら……断れるわけないじゃん」
手紙を胸元へ寄せる。
そして牢の外へ一歩踏み出した。
「行く」
短い言葉だった。
けれど、そこに迷いはなかった。
「分かった」
先生もそれ以上何も聞かなかった。
こうして全員で彼岸邸を出ると、昨夜まで吹き荒れていた雪は止んでいた。
空気はまだ冷たかったが、視界は十分に確保できる。
先生は周囲を見渡した。
「さて次の問題は場所だね」
「手紙には百鬼夜行のどこか、としか書いてない」
現地キキョウが呆れたように言う。
「広すぎでしょ」
「でも焼き鳥を焼いてるから辿れって書いてあるよね」
先生が何気なく口にした瞬間。
その場にいた全員のある意味で期待した視線が、二人のナグサへ向いた。
先生が少し迷った末に尋ねる。
「……分かる?」
ナグサは目を閉じた。
鼻を少し動かし始める。
「…………」
すると現地ナグサまで同じことを始めた。
数秒後。二人がほぼ同時に顔を上げる。
「「こっち」」
「この距離から分かるんだ……」
先生は若干引いていた。
「初めてナグサ先輩を怖いと思いましたわ」
ユカリは恐怖を覚えた顔で震えていた。
シュロも試しに鼻を動かしてみるものの、当然何も分からない。
「手前には分かりませんが」
「修行が足りない」
ナグサが真顔で言う。
「焼き鳥の修行って何ですか!?」
そんな会話を続けながら、一行は二人のナグサを先頭に歩き始めた。
◆
「……本当に辿り着いたよ」
先生が思わず呟いた。
焼き鳥の匂いを頼りに辿り着いた場所は、百花繚乱が普段使っている訓練場だった。
雪山から離れたそこには、戦闘訓練用の広い空間が確保されている。
「遅いよ」
その中央でアヤメが待っていた。
首には、先生から借りたマフラーがそのまま巻かれている。
その近くにはコクリコとアザミ。
「ん~、いい匂いですねぇ」
いつのまにか先生たちの列から離れ、焼き鳥を一本貰っているシュロ。
アザミも焼き鳥を食べながら先生たちを見る。
「ちゃんと来たんですね」
「アヤメが呼んだからね」
「罠だとは思わなかったんですか?」
「え、全然」
アザミは先生のその言葉に完全に毒気が抜けたのかそれ以上深く聞くことも無く、二本目の焼き鳥へ手を伸ばした。
コクリコだけは、現地ナグサとアヤメを静かに見比べていた。
「アヤメ、本当にやるのかえ?」
「もちろん」
返事に迷いはなかった。
コクリコはしばらくアヤメの顔を見つめる。
彼女が何を考えているのか確かめるように。
「そうかい」
小さく笑い、アヤメの背中を軽く押す。
「悔いの残らない様に遊んどいで」
「…………」
アヤメも一瞬だけ目を細めた。
「うん」
先生は対面のやり取りを見届けてから、隣にいる現地ナグサへ視線を向ける。
「ナグサ、大丈夫?」
「分からない」
随分と正直な返事だった。
先生は少しだけ考えてから、柔らかく笑う。
「じゃあ、そのわからない気持ちも全部アヤメに聞いてみるといいよ。アヤメはナグサの友達なんでしょ?」
「…………」
現地ナグサが先生を見る。
後ろにはユカリたちが自分の事を心配そうに見つめている。
未来から来た自分とキキョウもいる。
「……うん、私の大事な友達」
小さく頷く。
コクリコが声を掛けた。
「さて、立会人だったねぇ」
「あ、そうだった」
「忘れておったのかえ?」
「色々ありすぎて……」
「ふふ、忙しい人だねぇ」
先生も苦笑しながら前へ出た。
コクリコも同じように歩き出す。
二人は訓練場の中央から少し離れた場所で並び、それぞれ自分が見届ける相手へ視線を向けた。
しばらく静寂が流れる。
「それじゃあ――」
「始めようかえ」
先生とコクリコが、ほぼ同時に口を開いた。
「「両者、前へ」」
その合図にアヤメが歩き出す。
現地ナグサも、それに合わせるように前へ出た。
一歩、また一歩。両者が近付くほどに、二人の間へ積み重なっていた時間が目に見えるようだった。
昔は隣にいたはずなのに、いつの間にか離れてしまった二人。
アヤメは真っ直ぐ現地ナグサから目を逸らさない。
一方、現地ナグサの表情からは、距離が縮まるほど少しずつ自信が消えていった。
そして向かい合う形で二人の足が止まる。
「……アヤメ」
現地ナグサが、かすかな声で名前を呼んだ。
その声音にはまだ迷いが残っている。
アヤメは彼女をしばらく黙って見つめていた。
その様子に先ほどまでの軽い笑みを消し真剣な顔で、ゆっくりと口を開いた。
「……百花繚乱の委員長が、そんな弱気な顔をするな」
「…………」
その言葉に、現地ナグサの肩が僅かに揺れた。
「委員長は……」
一度、言葉を飲み込む。
「アヤメにしか出来ないよ」
訓練場の空気が静かになる。
少し離れたところで見守っていたユカリたちも何も言わなかった。
「だって私は……」
「――私は!」
ナグサが続けようとした言葉を、アヤメが強い声で遮った。
「みんなが思ってるほど、何でも出来るわけじゃない!」
「……!」
「昔からそうだった。みんな勝手に私なら出来るって思って、勝手に期待して、勝手に頼ってきて!!」
アヤメは拳を握る、その声音に怒りはあった。
けれど、それ以上に今までずっと胸の内へ押し込めてきたものを、ようやく外へ吐き出しているようにも聞こえた。
「百花繚乱の委員長なんだから出来て当然。アヤメなら大丈夫。アヤメなら何とかしてくれる」
少しだけ自嘲するように笑う。
「……そんなわけないじゃん」
「アヤメ……」
「私だって怖かったよ。失敗したくなかったし、みんなの期待に応えられない自分が本当に嫌いだった!!」
アヤメは現地ナグサから目を逸らさなかった。
「期待されればされるほど逃げたくなって……それで、最後には本当に逃げた」
「…………」
「私はそんな、みんなからの期待から逃げ出した臆病者なんだよ」
その言葉を聞いていた現地キキョウが、僅かに俯いた。
レンゲも普段の軽い表情を消している。
ユカリだけは何かを言いたそうにしていたが、それでも今は口を挟まず二人の話を見守っていた。
ナグサもキキョウも俯いて何も言わない。この場で答えを出すのは、あくまで目の前にいる二人なのだから。
「……でも」
現地ナグサが小さく呟く。
「アヤメは強かった」
「ナグサ」
「みんなをまとめられた。私よりずっとちゃんとしてたし……私はアヤメみたいには――」
「だから!」
アヤメが一歩前へ出た。
「そういうところが腹立つって言ってんの!」
「……え?」
「何で勝手に私をそんな凄い奴にして、自分は駄目みたいな顔してんの?」
ナグサが目を見開く。
「私と同じくらい強いくせに!!」
「それは……」
「いつまでくよくよしてるんだよ!」
アヤメの声が訓練場に響いた。
その言葉には、先ほどまでとは違う。
随分と子供っぽい苛立ちが混じっていた。
「私は逃げた! ナグサも逃げた! これでお互い様でしょ!?」
「……随分雑なまとめ方、概ね合ってるけど」
キキョウが小声で呟く。
隣にいたナグサも小さく頷いた。
「ぐうの音も出ない」
一方、当のアヤメは周囲の声など気にせず、現地ナグサだけを見ていた。
「だから、これは別に立派な継承戦とかじゃない。委員長を決める神聖な儀式でもないし、百花繚乱の未来を懸けた戦いでもない」
そこで、アヤメはほんの少しだけ口元を緩めた。
「私と同じくらい強いくせに、いつまでもめそめそしてるナグサを見てたら腹が立った。だから喧嘩しよう」
あまりにも単純な言葉だった。
「それだけ」
「…………」
ナグサは目を瞬かせる。
「……喧嘩?」
「そう」
「私と?」
「他に誰がいるの?」
「…………」
長い沈黙でナグサは一度視線を落とした。
アヤメが何でも出来ると思っていた。
自分には出来ないことも、アヤメなら出来る。
百花繚乱をまとめることも。
皆を導くことも自分が背負い切れないものを背負うことも。
きっとそんな期待を、自分はずっとアヤメへ押しつけていた。
「……そっか」
「何?」
「アヤメも、逃げたかったんだ」
「そう言ってるでしょ」
「怖かった?」
「怖かったよ」
「失敗するのも?」
「嫌だった」
「…………そっか」
「何その顔」
ナグサはほんの少しだけ笑った。
「いや、知らなかったなって」
「仮面を被るのは得意だったからね」
短いやり取り。それだけで。
ナグサの顔から、先ほどまで浮かんでいた弱々しさが少しずつ消えていく。
「……分かった。その喧嘩買うよ」
ナグサは真っ直ぐアヤメを見る。
アヤメの口元が上がった。
「そうこなくちゃ」
その瞬間、少し離れた場所から、レンゲが大きく息を吐いた。
「……何だよ。結局喧嘩したかっただけか」
「随分遠回りしましたわね……」
ユカリも呆れた顔をしている。
「本当にね」
現地キキョウも肩を竦めた。
ただ、その表情は以前よりもずっと柔らかかった。
先生も二人を見ながら小さく笑う。
「まあ、本人たちがそれで納得してるならいいんじゃない?」
「手前様は相変わらずですねぇ」
焼き鳥を食べ終えたシュロが言う。
「何が?」
「大体何でも生徒が決めたなら受け入れるところですよ」
「駄目かな?」
「知りません」
「そこは褒めてよ」
「嫌ですねぇ」
そんな会話の横で。
現地ナグサが一度だけ振り返った。
「先生」
「ん?」
「喧嘩の前に一つだけ取り決めたい事が出来た」
「何かな?」
ナグサは少し考えてから、静かに口を開く。
「私が勝ったらアヤメには百花繚乱へ戻ってもらいたい」
アヤメが即座に反応した。
「は?」
「もう一度、百花繚乱に戻って」
「戻れる訳ないでしょ?」
「こっちにも旨味が無いと受けたくない」
「話聞いてた!?」
さっきまでの空気が一瞬で崩れた。
「私、戻るって一言も言ってないよね!? 何で勝手に決定事項みたいになってるの!?」
「勝った方が言うこと聞かせられるかなって」
「喧嘩を何だと思ってるの!?」
「交渉手段」
「怖っ!」
先生が吹き出す。
「ナグサ、結構強引だね」
「先生まで笑わないで!」
アヤメが噛みついてくる。
現地ナグサはそんなアヤメを見ながら、少しだけ楽しそうだった。
「でも、やっぱり委員長はアヤメの方が向いてると思う」
「まだ言う!?」
「これは譲れない」
「じゃあ絶対負けないから!」
「うん、頑張ってね」
「その余裕も腹立つ!」
アヤメが完全に戦闘態勢へ入る。
それを見ていた現地ナグサも、ゆっくりと武器を構えた。
訓練場の空気が再び変わる。
先ほどまでの重苦しさではない。
互いに言いたいことを言った後に残った、どこか清々しい緊張感だった。
コクリコが楽しそうに二人を見る。
「話は済んだようだねぇ」
「うん」
アヤメが答える。
「なら」
コクリコが少し後ろへ下がった。
先生もそれに合わせて距離を取る。
「二人とも」
先生の声に、向かい合っていた二人が同時に視線だけを向けた。
「怪我には気をつけてね」
「喧嘩する前に言うことじゃないでしょ」
アヤメが呆れたように笑う。
ナグサも小さく頷いた。
「大丈夫」
「信じてるからね」
先生が後ろへ下がる。
アヤメは肩の力を抜くように一度息を吐き、先生から借りたマフラーを外して近くの柵へ掛けた。
「……それは?」
「私たちの喧嘩如きで傷付けたくない」
アヤメはそれ以上何も言わず、再びナグサへ向き直った。
対するナグサも静かに構える。
「…………」
「…………」
二人の視線が交わる。
アヤメが薄く笑った。
「手加減したら怒るからね」
「しないよ」
「後で泣いても知らないから」
「アヤメこそ」
「ふふ、言うじゃん」
そのやり取りを最後に二人の表情から笑みが消えた。
先生が息を吸う。
隣ではコクリコも同じように二人を見つめていた。
二人の立会人が、ほぼ同時に手を上げる。
訓練場にいた全員の視線が、中央に立つアヤメとナグサへ集まった。
「――始め!」
その言葉と同時に二人はほぼ同時に地面を蹴った。