『――START』
仮想空間の上空に浮かんでいた開始の文字が消えた瞬間、廃都市に配置されていた四人がほとんど同時に地面を蹴った。
その踏み込みだけでアスファルトが弾け、遅れて四つの爆音が重なる。互いの出方を探るような時間など最初から存在しない。臨戦ホシノ、シロコテラー、ミカ、そしてヒナは、開始から数秒も経たないうちに廃都市の中央へと肉薄していた。
「うわっ!?」
配信画面越しに見ていた先生が思わず声を上げる。
だが、驚いている間にも画面の中では最初の攻防が始まっていた。
真っ先にショットガンを構えた臨戦ホシノが狙ったのはミカだった。左腕に装備した巨大な盾を前へ押し出し、その陰から躊躇なく引き金を引く。
至近距離からばら撒かれた弾丸がミカを襲うが、彼女は楽しそうな笑顔を崩すことなく地面を強く踏み込み、身体を捻ることで射線から滑り出た。
「おっと☆」
そして回避した勢いさえ殺さず、そのまま別の相手へ拳を振るう。
標的になったのは黒いドレスを纏うシロコテラーだった。
まともに受ければ尋常では済まない一撃。しかしシロコテラーは表情一つ変えることなく腰を落とし、頭上を通過していく拳を紙一重でやり過ごす。
「ん」
拳を避け終わるよりも早く、手にした銃の向きが変わった。
その銃口の先にいるのはヒナ。
複数の弾丸が続けざまに彼女へと叩き込まれる。
「…………」
だがヒナは避けなかった。
肩や腕へ着弾しても、まるで自分には関係のない出来事のように涼しい顔を崩さず、視線すらシロコテラーへ向けようとしない。
その代わり、彼女が最初から狙い続けていた相手の臨戦ホシノへデストロイヤーの銃口が向けられる。
「……そこね」
直後、凄まじい量の銃弾が放たれた。
「おっと」
臨戦ホシノは即座に盾を正面へ構える。
火花と轟音が連続して弾け、ヒナの放つ弾丸の雨が巨大な盾へ容赦なく叩き込まれていく。
ほんの数秒、ただそれだけの攻防だった。
しかしその数秒の中で、四人は互いに一度ずつ攻撃し、それと同時に相手の攻撃を凌いでいた。
やがて誰からともなく一斉に距離を取る。
「…………」
シミュレーターを管理していたユウカは言葉を失っていた。
その隣にいるリオも、いつもなら何かしら解説を入れてくるヒマリすら、ほんの一瞬だけ画面を見つめたまま固まっていた。
配信コメントも最初の攻防が終わった直後だけは、まるで視聴者全員が理解を拒絶したかのように止まっていた。
そんな中。
「おー……相変わらず凄いな~」
先生だけが、いつもと大して変わらない調子で感心していた。
「みんな動き速いなぁ」
「先生!!」
ユウカがゆっくりと顔を向ける。
「今の攻防を見てた感想がそれだけですか!?」
「え?」
「…………いえ、もういいです」
ユウカは先生のキョトンとした顔を見て早々に諦めた。
その頃になってようやく視聴者側の理解が追いついたのか、コメント欄が凄まじい勢いで流れ始める。
『今何が起きた!?』
『速すぎてほぼ見えなかった』
『風紀委員長避けてなくない!?』
『ミカ様、普通に殴りに行ったぞ!?』
『黒いドレスの子何者だよ!?』
『小さいピンク髪の子もヤバすぎでしょ!?』
『ヒナの弾幕を盾で受けてたぞ』
『シャーレって何飼ってんの?』
「人を猛獣みたいに言わないで!」
先生は反射的にコメント欄へ突っ込んだ。
そして当の四人は、視聴者の反応など当然知る由もなく、すでに次の攻防へ意識を切り替えていた。
一度距離を取ったことで、ほんの僅かな静寂が生まれる。
ミカの笑顔が少しだけ薄くなり、シロコテラーは無表情のまま鋭く視線を動かす。ヒナもまた、静かに目を細めながら一人の相手を見ていた。
三人の視線が向かう先は臨戦ホシノだった。
先ほどの攻防だけでも分かる。
防御の判断、盾とショットガンを組み合わせた攻防一体の戦い方。
周囲を見る余裕、どれも間違いなく一流だった。
しかし、それと同時に三人とも気付いてしまった。
――ホシノだけ、本気で勝とうとしていない。
一方、その本人である臨戦ホシノには、相手を侮っているという自覚など微塵もなかった。
――ん~……まあ、あんまり派手にやるのもねぇ
戦闘前こそ先生の前で多少格好をつけたものの、これはあくまでも模擬戦だ。
使っているのはミレニアムが開発したばかりの最新シミュレーション装置であり、先生だけでなくキヴォトス中に配信までされている。
ならば、装置を壊さない程度に適度に楽しめば十分。
そんな、ごく常識的な判断だった。少なくとも相手が普通の生徒ならば。
「…………」
ヒナが静かにデストロイヤーを構える。
「ん」
シロコテラーも銃を持ち直す。
「えへへ☆」
ミカも拳を握った。
三人の視線を受け、臨戦ホシノがようやく嫌な予感を覚えた。
「……あれ?」
三人とも、明らかに自分を狙っている。
「もしかして――」
ホシノが異常に気が付いた時にはもう遅かった。
最初に動いたのはヒナだった。
デストロイヤーの銃口が真っ直ぐ臨戦ホシノを捉え、ほとんど間を置かずに高速弾が連続して放たれる。
「っ!」
ホシノは反射的に盾を構えた。
直後、耳をつんざくような轟音と共に何発もの銃弾が正面から盾へ叩き込まれる。先ほどの牽制とは比べ物にならない威力に、ホシノの身体が盾ごと少しずつ後方へ押し込まれていった。
足元のアスファルトが削れ、両足が地面へ食い込む。
「うわっ……!」
盾そのものは耐えている。
だが、ヒナの射撃は止まらない。
むしろ盾を構え続けなければならないせいで、ホシノの動きが完全に封じられていた。
「これ……ちょっとまず――」
言い終わるより先に。
「ん」
盾の横を何かが転がっていった。
「……は?」
小さな金属音を立てて地面を転がったのは。
シロコテラーが普段使っている手榴弾だった。
「シロコちゃん!?」
ホシノはほとんど無理やり身体を横へ投げ出し、ヒナの弾幕から抜けると同時に手榴弾の爆心地から逃れた。
爆風が背中を押し、地面へ転がるように着地する。
「危な――」
「いらっしゃいませ~☆」
すぐ近くから聞こえてきた声に顔を上げると、そこには拳を振りかぶったミカがいた。
まるで最初から、ホシノがこの方向へ逃げることまで分かっていたかのように。
「……あ」
次の瞬間、ミカの拳が臨戦ホシノの腹部へ深々と突き刺さった。
「――っ!?」
空気が破裂したような音。
ホシノの身体が一瞬で地面から離れ、そのまま砲弾のように廃都市を横切っていく。
途中にあった瓦礫を吹き飛ばし、さらに近くの廃ビルへ激突。
外壁を突き破りその勢いのまま内部の壁まで粉砕しながら、建物の奥深くへと消えていった。
だが残る三人は、まだ攻撃の手を止めていなかった。
ヒナが廃ビルへ銃口を向けてシロコテラーも、ほぼ同時に同じ方向へ照準を合わせる。
次の瞬間、二人による制圧射撃が始まった。
窓が吹き飛び、外壁が崩れ、建物の至るところが破壊されていく。
仮想空間の建物なので、いくら破壊しても現実の被害はない。
理屈では分かっている。だが画面上の迫力は、現実と何ら変わらなかった。
「じゃあ最後は私かな☆」
ミカが楽しそうに片手を上げる。
「え?」
先生が嫌な予感を覚えた。
仮想空間の上空に影が生まれる。
直後、隕石が空から降り注ぎ。
轟音と共に廃ビルが崩壊し、周辺一帯を凄まじい爆風と土煙が飲み込んだ。
建っていたはずの建物が文字通り更地になった。
「…………」
配信を見ていた者たちが静まり返る。
ユウカは口を半開きにして固まり、リオも端末から顔を上げたまま動かない。
ヒマリですら、口を手で押さえて無言になっていた。
コメントも一瞬だけ止まったかと思ったら次の瞬間には一気に爆発した。
『やりすぎだろ!!!!』
『ミカ様が落としたの!?』
『ヒナ委員長も撃ちすぎ!!!』
『黒いドレスの子も容赦なさすぎだろ!』
『吹き飛ばされた子死んだだろ!!』
『これ本当に模擬戦だよね!?』
『シャーレ怖すぎ!』
そんなコメントが流れる中。
先生は土煙で覆われた画面を見ながら、ほんの少しだけ眉を下げた。
「ホシノ、大丈夫かな?」
『先生のテンションおかしいだろ』
『もっと焦れ』
『あれ見て「大丈夫かな?」で済ますな』
「えぇ?」
先生はコメント欄を見て苦笑する。
「ハハハ、大丈夫だよ~。あの四人があの程度で終わるわけないでしょ?」
『?????』
「それに他の三人だって、ホシノがあれくらいじゃ倒れないって分かってるから手を緩めなかったんじゃないかな?」
画面の中では先生のその言葉を証明するように。
ヒナも。
ミカも。
シロコテラーも。
誰一人として武器を下ろしていなかった。
勝ったと思って笑っている者もいない。
ただ土煙の向こう側を。
次の一手を待つように、静かに見つめていた。
吹き荒れていた風が、ゆっくりと土煙を押し流していく。
最初に変化を見せたのはミカだった。
楽しそうに浮かべていた笑みがほんの少しだけ消え、隣ではシロコテラーが銃口を下げることなく煙の奥を睨んでいる。
ヒナも黙って同じ方向を見ていた。
すると煙の奥から声が聞こえてきた。
「ちょ~っと油断しちゃったけど……おかげで目が覚めたよ……」
「…………」
三人の表情が同時に変わる。
土煙を突き破るように、臨戦ホシノが勢いよく飛び出してきた。
「お!」
先生が思わず身を乗り出す。
服には土埃がつき、さすがに完全な無傷とはいかない。
それでもその姿には先ほどまでと明らかに違うものがあった。
「……マズいわね」
ヒナが小さく呟く。
「あっちゃ~☆」
ミカも困ったように笑った。
「ん、マズい……」
シロコテラーも苦い顔をした。
その反応に、配信コメントが一斉に疑問で埋まる。
『何がマズいの?』
『なんで三人とも警戒した?』
一般の視聴者には、すぐには違いが分からない。
しかしヒナたちには一目で分かった。
臨戦ホシノの左腕にいつも装備されているはずの巨大な盾が無くなっている。
視線を動かせばその盾は背中へ収納されている。
三人はその意味を嫌と言うほど知っていた。
臨戦ホシノはゆっくり首を鳴らしながら、銃を持ち直す。
「ごめんね。確かに温すぎたよ」
今まで浮かべていた気の抜けた笑みは、もうなかった。
盾という大きな防御を背中へしまったことで、構えそのものが先ほどまでとは別人のように攻撃的に見える。
「ここからは――」
口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
「最大火力で行くよ!!」
ヒナがデストロイヤーを構える。
ミカも銃を構える。
シロコテラーも銃口を正面へ向けた。
三人とも怯んだ様子など無い。
むしろ先ほどまでより、ずっと楽しそうにも見える。
臨戦ホシノもそれを見て、腰を低く落とした。
「じゃあ本物の最強を決めようか!!!」
地面へ足を沈めるように構える。
三人も同時に踏み込む姿勢へ移った。
四人の足が地面を蹴ろうとした。
その瞬間仮想空間の上空に突然真っ赤な文字が表示された。
『エラー。演算負荷、規定値を超過』
「……え?」
ユウカが管理画面を見る。
表示されている数値を確認した瞬間、表情が固まった。
「負荷率……何これ?」
「どうしたの?」
リオが隣から画面を覗き込む。
「150……180……」
「待って」
数値がさらに上昇する。
「200%超えました!」
「嘘でしょ…?」
リオの声にも珍しく焦りが混じる。
ヒマリまで画面へ身を乗り出した。
「理論上の想定値を完全に――」
『安全の為シミュレーションを強制終了します』
そのメッセージを最後に画面は真っ暗になった。
「…………」
そしてシミュレーターそのものも静かに停止した。
「えぇぇぇぇぇ!?」
先生の叫びが部屋中へ響いた。
「そこで終わるの!?」
シミュレーターの緊急停止からしばらくして。
ユウカは先生の前に立っていた。
「先生、もう二度とやらないでくださいね」
「私が戦ったわけじゃないよ!?」
「原因を作ったのは先生ですよね?」
「コメントが!」
「乗ったのは先生です!」
「……そうだけどさ!」
一方でリオは、停止したシステムのログを確認しながら眉を寄せていた。
「想定以上ね。四人が同時に出力を引き上げただけで安全装置が作動するなんて……」
「非常に価値のあるデータが取れましたね」
ヒマリはむしろ嬉しそうだった。
「次は演算装置を三倍ほど増設すれば――」
「リオ会長もヒマリ部長も次はありません!!」
ユウカが即座に遮る。
その横では、強制的に現実へ戻された四人も接続装置から出てきていた。
「…………」
臨戦ホシノは明らかに不満そうだった。
「これからだったのに…」
シロコテラーも珍しく少し不満げに頷く。
「ん。まだ決着がついてない」
「ね~、いいところだったのに」
ミカも頬を膨らませている。
ヒナだけは比較的いつも通りだったが、その表情はほんの少し残念そうだった。
「……まあ仕方ないわね」
そんな四人を見比べ先生は首を傾げる。
「結局、誰が一番強かったんだろうね?」
「せーんーせーいー!」
「ご、ごめんなさい!」
先生にとってはちょっとした配信企画だった。
シャーレが決して怪しい組織ではないことを知ってもらい。
ついでにミレニアムの新型シミュレーターを宣伝する。
その程度のつもりだった。
しかしこの日行われた配信は先生が想像していた以上に。
キヴォトス各地へ奇妙な影響を残すことになった。
◆
どこか薄暗い部屋の中。
黒服は、配信のアーカイブ映像を無言で眺めていた。
「…………」
映像が進む。
小鳥遊ホシノが三人から集中攻撃を受ける。
建物を何枚も突き破る勢いで吹き飛ばされ。
さらに大量の銃撃を浴び最後には隕石まで叩き込まれ。
廃ビルごと消し飛ばされた。
それでも彼女は当然のように立ち上がってきた。
「…………」
黒服の脳裏に嫌でも昔の記憶が蘇る。
自分が臨戦ホシノと対峙した時。
ひたすら殴られ続けた、何度も何度もこれでもかというほど。
「…………」
黒服は静かに顎へ手を添えた。
「……あの時、殴打だけで済ませてくださったことには、感謝するべきなのでしょうね」
もしあの時の彼女がこの配信の最後で見せようとしていた本気の攻撃を自分へ向けていたなら。
「…………」
そこから先を想像するのはすぐにやめた。
そしてすぐに違う事に頭を支配される。
「しかし……」
黒服の口元がゆっくりといつもの形へ歪んでいく。
「やはり――」
両手を広げ。
画面の中のホシノを愛おしそうに見つめる。
「小鳥遊ホシノ。貴方の神秘は、素晴らしい……!」
結局、黒服は黒服だった。
◆
ゲヘナ学園。
いつもならどこかから爆発音が聞こえる。
別の場所では喧嘩。
さらに別の場所では何故始まったのかすら分からない銃撃戦。
それがゲヘナの日常だったはずなのだが。
その日は妙に静かだった。
「……平和ですね」
巡回中の風紀委員が不安そうに周囲を見回しながら呟く。
「そうね……」
隣を歩いていた風紀委員も同じようにどこか落ち着かなそうだった。
「逆に怖いです」
原因は極めて単純だった。
『空崎ヒナが増えたらしい』
そんな噂が昨日のシャーレ配信の直後から。
ゲヘナ中を恐ろしい速度で駆け巡っていた。
「…………」
いつもなら少しでも風紀委員が手薄になれば。
好き勝手に騒ぎ始める生徒たち。
しかし今日ばかりは。
「……今日はやめとく?」
「うん」
「もし本当に風紀委員長が二人いたら嫌だし」
「情報が確定するまで大人しくしておこう」
「帰ろ帰ろ」
その日ゲヘナには滅多に訪れない。
奇跡的な平和が訪れていた。
◆
トリニティ総合学園。
「ミカ様」
「ん?」
「これをどうぞ」
「……何これ?」
現地ミカが自分の机を不思議そうに眺めていた。
そこには山ほどのお菓子が献上されていた。
高級そうなケーキから始まり高そうな紅茶、見たこともない焼き菓子。
その他様々な品物が所狭しと並べられている。
「…………」
ミカが目を瞬かせる。
「誰かの誕生日と勘違いしてない?」
「いえ!」
近くにいた生徒が勢いよく首を横へ振る。
「じゃあこれは何なの?」
「日頃の感謝です!」
「は?」
「いつもありがとうございます!」
「……ごめん本当にわからないんだけど?」
ミカの頭上に疑問符が浮かんでいるようだった。
だが生徒たちの頭には配信での出来事が鮮明に焼き付いていた。
聖園ミカ=タイラントという図式が一部のトリニティ生徒の間で急速に共有されつつあった。
ただ本人が真実を知るのはもう少し後になってからの事だった。
◆
アビドス自治区。
「今日どうする?」
「いつも通り?」
「いや…でも…」
何人かのヘルメット団が集まり。
いつものように今日の襲撃先を相談していた。
そのうち一人が何となく昨日の配信アーカイブを開く。
「そういえばさ」
「ん?」
「この子ってアビドスの子だよね…?」
「…………」
しばらくして一人が静かに端末を閉じた。
「今日は……やめとく?」
「そうしよう」
「今日は別のところにしよう」
「賛成」
その日以降、アビドス対策委員会のもとへ。
ヘルメット団は一人も現れなかった。
「最近平和だねぇ」
現地ホシノが対策委員会室の机でのんびりと突っ伏している。
「ん。平和なのはいいこと」
シロコも頷いた。
「なんでだろうねぇ~?」
二人はまだ理由を知らなかった。
◆
こうして先生がシャーレへの誤解を解くために始めた一度きりの配信。
その結果シャーレが健全な施設なのだと世間へ理解してもらえたのかはかなり怪しかった。
怪しい施設や得体の知れない場所。
妙な生徒や危険人物が何故か大量に集まっているところ。
そんな元から存在していた認識はそれほど変わっていなかったが。
ただし一つだけ新しい共通認識がキヴォトス各地でかなり早く広まり始めていた。
――あそこには下手に手を出さない方がいい。
だがその世間の流れから。
完全に取り残されている哀れな者が存在していた。
長い年月外の世界から隔絶され。
自分に必要な情報だけを自分に必要な形で集め続けてきた。
「ふふふ……」
暗闇の中静かな笑い声が響く。
その目の前には一つの盤と無数の駒。
「ようやく条件は整いつつある」
地下生活者は満足そうに盤面を眺めていた。
地下生活者は何も知らない。
彼は過去の情報を変わらない真実であるかのように信じていた。
「小鳥遊ホシノ……」
一つの駒を指先で静かに動かす。
「貴女が今なお抱え続ける――」
口元がゆっくり吊り上がる。
「梔子ユメを失った傷……」
その言葉が誰もいない空間へ静かに響く
「そして」
今度は先生を示す別の駒へ指先が伸びる。
「貴方が迷い。貴方が苦しみ。貴方自身の手で物語を進めていく」
地下生活者は何の疑いも抱いていなかった。
盤面は自分の知っている通り進むはずだ。
小鳥遊ホシノは自分の知る通りに傷つき。
先生は自分が想定した通り追い込まれる。
そして全ては自分が描いた通りに盤上で踊ることになる。
「さあ始めましょうか」
最後の駒を静かに盤上へ置く。
暗闇の中で地下生活者の満足そうな笑みだけが。
不気味に浮かび上がった。
「先生、貴方の物語を――盤上へ引きずり下ろす、その一手を」
その頃シャーレの休憩スペースでは。
「くしゅん!」
「ユメ先輩?」
大きなくしゃみをしたユメに、すぐ隣にいた臨戦ホシノが反応した。
「ん~……何だろ。誰か私の噂でもしてるのかな?」
ユメは不思議そうに鼻を擦りながら首を傾げる。
臨戦ホシノはそんな彼女をじっと見つめた後、少しだけ心配そうに眉を下げた。
「風邪じゃないですか? 最近ちょっと冷えてきましたし」
「大丈夫だよ~。これくらい!」
「本当ですか~?」
「本当本当!」
臨戦ホシノはまだ少し疑わしそうだったが、やがて近くに置かれていたブランケットを手に取ると、そのままユメの肩へ掛けた。
「ほら。一応これ使っといてください」
「え~? 大丈夫なのに」
「いいからいいから」
「ホシノちゃん、心配性だな~」
「……ユメ先輩が能天気なだけでしょう」
そんな他愛もない会話を交わしながら、ユメは暖かそうにブランケットを身体へ巻き付けた。