その日のシャーレは、珍しいほど静かな夜を迎えていた。
日中は生徒たちの声や笑い声、時折どこからともなく聞こえてくる怒声まで絶えることのない建物も、深夜になればさすがに落ち着きを取り戻す。廊下を行き交う者の姿もなくなり、窓の外にはキヴォトスの夜景だけが広がっていた。
そんな時間になっても、まだ灯りの消えていない部屋が一つだけあった。
「…………」
机に向かっていた元理事は、端末に表示された情報を前にして長いこと動けなかった。
そこに記されているのは、カイザーグループが市場へ流そうとしている、とある債権の情報。
債務者――アビドス高等学校。
金額はおよそ四億五千万ほどか。
元理事にとって、見間違えようのない名前だった。
「……そう来たか」
小さく呟き、椅子の背へ身体を預ける。
かつてカイザーPMCの理事だった頃ならば、この数字を見ても何も感じなかったかもしれない。
債権は債権であり、数字はただの数字。
そこに生徒の生活や学校の未来を見ることなどなく、利益になるかどうかだけを判断していた。
だが今は違う。嫌でも思い浮かぶ。
アビドスで笑っていた対策委員会の生徒たち。
何度追い詰められても学校を捨てず、借金を返そうとしていた姿。
そして何より先生の顔が頭に浮かんだ。
生徒が問題を抱えていれば、自分の仕事が増えることなどお構いなしに首を突っ込む。
敵だった相手ですら、目の前で困っていれば手を伸ばす。
拾わなくてもいい問題児を拾い。居場所の無い者へ部屋を貸し。
後になって自分の首が絞まってから騒ぐ愚か者。
「……馬鹿な男だ」
元理事は吐き捨てるように言った。
けれど、その声に以前ほどの棘はなかった。
ここで何もしなければ、先生はいずれこの債権の問題を知る。
そうなればどうするかなど考えるまでもない。
間違いなくアビドスへ向かうだろう。
そしてまた、自分には関係ないはずの問題へ首を突っ込む。
「……ハァ」
元理事は端末を操作し、自分の口座を開いた。
カイザー理事時代に蓄えていた資産。
シャーレで働き始めてから受け取ってきた給料。
そして何故か募集生徒たちから頼まれることの多かった、あまり表で説明したくない仕事の報酬。
「どうして私が、あいつらの資金洗浄まで……」
ぼそりと愚痴をこぼしながら、別の口座も確認する。
募集で来た生徒たちが時折ぽろりと口にする未来の企業動向や商品情報。それらを参考にした、限りなく黒に近いが自分としてはインサイダー取引ではないと主張したい取引で増やしてきた資金もあった。
先生に知られれば間違いなく突っ込まれる。
防衛室長に知られても何を言われるかわからん。
何かの間違いでセミナーの会計にでも知られたら帳簿を全部ひっくり返されるのは簡単に想像できる。
「…………」
そこまで考えた元理事は、自分でも何をやっているのだろうかと小さく息を吐いた。かつてはカイザーPMCの理事として莫大な金を動かしていた自分が、今ではシャーレで給料を受け取りながら、未来から来た生徒たちに頼まれた胡散臭い仕事で小遣いを稼いでいるのだから、随分と奇妙なところまで流れ着いたものだった。
もっとも、そのおかげで四億五千万円という途方もない金額にも、どうにか手が届く。
どうにか、というだけだ。
元理事は複数の口座残高を一つずつ確認しながら、冷静に計算していった。理事時代に蓄えた資産、シャーレで働くようになってから積み上げてきた給料、表ではとても説明できないような報酬、そして未来の情報を参考にして増やしてきた資金。
それらをかき集めれば、あの債権を買い取ることはできる。
「…………」
端末に表示された数字を見つめながら、元理事はしばらく指を動かさなかった。
四億五千万円。
いくら自分の過去の清算をするためとはいえ、簡単に捨てられるような額ではない。悪党として生きてきたからこそ、金が持つ力も、その金が自分を守る盾になることも誰より理解している。
これを払えば、今まで積み上げてきた蓄えのほぼ全てを失う。
何かあった時に逃げるための金も、カイザーに復讐するための資金も全部。
それでも元理事の頭にもう一度、アビドスの生徒たちの姿が浮かんだ。
そして先生の姿も。
「……全く、私も随分と毒されたものだな」
自分でも呆れるような声が漏れる。
昔の自分なら絶対にこの選択だけは選ばなかった。
利益にもならなければ、見返りもない。
それどころか、誰にも言わなければ自分が何をしたのか知られないまま終わる。
だがそれでいいと元理事は思った。
元理事は端末へ指を伸ばした。
債権の確認画面に表示された四億五千万円という数字を、一度だけ無言で見つめる。
そして、そのまま決済した。
数秒後、取引は無事に完了した。
口座残高が一気に減るが、元理事はそれを感慨深く眺めることもなく、続けて取得したアビドス高等学校への債権を開いた。
ここで債権者になったままにしておけば、借金はカイザーから自分へ移っただけだ、それでは意味がない。
だからさらに別の手続きを進める。
――この債権を放棄しますか。
確認実行。
あっけない終わりだった。
長い間アビドス高等学校を縛り続けた巨額の借金は、少なくともこの債権に関しては、もう誰かが取り立てることも交渉材料に使うこともできない。
元理事は端末を閉じると、椅子からゆっくり立ち上がった。窓の外には、変わらずキヴォトスの夜景が広がっている。
そこからアビドスが見えるはずもない。それでも元理事はしばらく夜景の向こうを見つめていた。
「……自分で蒔いた種を自分で刈り取っただけのことだ……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それ以上でもそれ以下でもない。
償い、善意、恩返し。
そんな綺麗な言葉を、自分に使う気にはなれなかった。
自分はカイザーPMCの理事として、アビドスを追い詰める側にいた。その事実は消えない。
四億五千万円を払ったところで、善人になれるわけでもない。
ならば、悪党は悪党らしく、最後まで悪党として後ろ指を差されていればいい。
感謝されるつもりも褒められるつもりも。まして誰かに話すつもりなど当然なかった。
――なおその考えが甘かったことを知るまで、数日もかからなかった。
◆
次の日。
先生に許可を貰ってからヒナはゲヘナ自治区を一人で歩いていた、すると遠くから聞こえてきた爆発音に足を止めた。
「…………ハァ、めんどくさい」
何となく嫌な予感はしていた。
色々経験した自分からすれば、ゲヘナ自治区で爆発音が聞こえることそのものは珍しくない。むしろ静かな日の方が、何か裏で大きな問題でも起きているのではないかと疑ってしまう程度には、慣れ親しんだ日常だった。
それでも深い溜息が漏れる。
「未来でも今でも、本当に変わらないのね……」
黒煙の上がっている方角へ歩き始めると、次第に銃声まで聞こえてきた。
そしてどこか聞き覚えのある高笑いまで聞こえて来た。
「ハーッハッハッハッハ!! 諸君! あと少しだ! この一帯を掘り進めれば、きっと素晴らしい温泉が我々を待っているぞ!!」
「カスミ部長! 風紀委員会です!」
「そんなもの知るものか! 温泉の前ではあらゆる権力など無意味なのだよ!!」
温泉開発部。その向かいでは、風紀委員会の生徒たちが必死に彼女たちを止めようとしている。
ヒナは思わずこめかみを押さえた。
「どうしてこうなるのかしら……」
ただ、自分が出る必要はなさそうだった。
「温泉開発部」
戦場の向こうから、静かな声が聞こえてきた。
「今日こそ、大人しくしてもらうわ」
先ほどまで絶好調だったカスミの笑顔が、一瞬で消えた。
風紀委員たちの後ろからゆっくりと歩いてくる現地ヒナが見えたからだった。
「…………」
カスミの額に汗が浮かぶ。
「カスミ部長?」
近くにいた部員が不思議そうに声を掛ける。
「どうしました?」
「諸君…撤退だ…!」
「え?」
「撤退! 撤退だぁぁぁぁぁ!!」
「了解!」
数秒前まで権力など無意味と高笑いしていた人物とは思えない切り替えの早さだった。
カスミは部員すら置き去りにする勢いで踵を返し、全力でその場から逃げ出す。
「逃がさないわよ」
「ひぃぃぃぃ!!」
後ろから現地ヒナの声が聞こえてくる。
カスミは必死に細い路地へ飛び込んだ。右へ左へとただがむしゃらに逃げた。
これだけ曲がれば流石のヒナでもすぐには追いつけない。
「ハァッ……ハァッ……!」
息を整えながら顔を上げる。
「よし……これなら――」
そこでカスミは言葉が止まった。
カスミが逃げ込んだ路地の先に見たくない姿が見えたからだった。
そこにはヒナが立っていた。
「……え?」
カスミは目を擦ってからもう一度よく見てみてもそこに居た。
そこでカスミは先日ゲヘナ中で妙な噂を聞いた話を思い出した。
『風紀委員長が二人になったらしい』
馬鹿馬鹿しい、そんなことがあるわけない。
誰かが配信を見て勘違いしただけだろう。
そう思っていたはずだったのに目の前にはどう見ても空崎ヒナがいる。
「ひええええええええっ!!」
カスミは腰を抜かして、そのまま盛大に尻餅をついた。
「ヒ、ヒナ!? 何故!? さっき向こうにいたはずなのに!?」
「…………貴女は相変わらずね」
「ま、まさか……本当に増えたのか!?」
ヒナは何とも言えない顔でカスミを見下ろす。
「落ち着きなさい」
「無理に決まってるだろう!!?」
カスミは手足を使い、必死に後ろへ下がっていく。
「来るな! 私が一体何をしたというんだ!」
「今まさに街を爆破して温泉を掘っていたでしょう」
「温泉を掘ることの何が悪い!」
「街を爆破しなければ何も言わないわ」
「それでは温泉が掘れないだろう!」
「これだけ言っても考えを改めないのね」
ヒナの雰囲気が徐々にピリピリしたものに変わっていく。
「ひっ!」
その様子にカスミはさらに後退する。
「た、退路を――」
「どこへ行くの?」
背後から聞こえて来た声にカスミの表情は白くなる。
恐る恐る振り返るとそこには追い付いてきた現地ヒナが佇んでいた。
前後をヒナに挟まれ、左右は壁。どう考えても逃げ道はなかった。
噂が本当だったと確信したカスミは震えながら呟いた。
「……これは…悪い夢だろう?」
するとみるみるうちにカスミの目に涙が溜まっていく。
「うわあああああああん!!」
とうとう本気で泣き出した。
「ヒナが二人いるぅぅぅぅぅ!!」
そのままぱたりと気絶してしまった。
だが現地ヒナの意識はもう倒れたカスミには向いていなかった。
「…………」
目の前に現れた自分にそっくりな存在に意識を奪われていた。
顔、髪、角、背丈、どこを見ても自分と瓜二つの存在。
「……私?」
「ええ、そうよ」
ヒナが静かに答えた。
「詳しい説明は、先生から聞いた方がいいと思うわ」
「先生……」
現地ヒナの表情が僅かに変わる。
その反応にヒナはどこか懐かしさを覚えたような。
少しだけ困った笑みを浮かべた。
「でもちょうど良かったわ。貴方に会いに行こうと思っていたのよ」
「私に?」
ヒナは周囲へ視線を向けた。
風紀委員会に温泉開発部の生徒が遠巻きにこちらの様子を窺っている。
そして路地の真ん中で気絶しているカスミ。
「……ここでは話しづらいわね」
「それならどこかで――」
「それとマコトにも来てもらいたいの」
「…………」
今度こそ現地ヒナの表情が露骨に曇った。
「……どうして?」
「この世界の二人に話しておきたいことがあるから」
ヒナの声から、先ほどまでの呆れが消える。
「遺産に関係する、と言えばわかるわよね?」
「…………」
現地ヒナは遺産という単語を言い放った自分をじっと見つめた。
理由は分からない。しかしその表情を見れば、冗談でも軽い話でもないことくらい理解できた。
「……分かったわ」
二人の間で話が纏まる。その横ではカスミが何も知らないまま、幸せそうとは到底言えない顔で気絶していた。