闇市。
違法な露店市場ではあるが、もはや法など機能していないこの国の住人に気にする者はいなかった。
多くの人は明日の糧を得るために、その露店をめぐり法外な値段で売られている食料品を物色している。
「配給があると聞きますが……」
「足りると思うか? 敗戦国の政府が配る配給が?」
血眼になって食料を求める人々をしり目に首をかしげるジョンに対し、簪はシレッと辛辣なことを告げる。
だが残念なことにそれは事実だった。
事実1947年山口良忠という人物が、違法な闇市での食料品購入を拒否し、配給のみで生活したところ栄養失調で死去したという話もある。
武士は食わねど高楊枝を美徳とする国民性ではあるが、それにも限度というものがある。
明日生きるために食わねばならない以上、今の国民にとって順法精神などクソほどの価値もないのだろう。
「ギリギリの状態ですね本当に」
「都市二つが原爆に焼かれ、沖縄は実質占領中。政府に至っても敗戦処理で麻痺している現状ではギリギリにもなる」
「やはり日本が憎いですか?」
「…………」
ジョンの問いかけに、ため息をつき簪は告げた。
「お前と会ったときはそうだった」
「今は?」
「私は案外現金な性格だったらしい。首輪が外れたとたん、意外なことに日本への憎しみはわずかに弱まった。今は正直さっさとこの厄ネタの塊から離れたいという感想しかない」
呪印が刻まれていた首をつつきながら、わずかに弱ったような声音を出す簪。
「これでも私は政府に家族を奪われた身だ。兄の戦死を知り、想像以上に戦況が悪いことを悟った父は母は、政府上層部に停戦・休戦の提言をし――非国民として更迭され、見せしめに処刑された」
「それは……」
「ほかの一族も似たようなものだ。命だけは奪われなかったが、忍としての記憶と力を封じられ日本各地へ散り散りとなり、直系であった私だけが呪印を刻まれ体のいい労働力として使いつぶされかけていた」
だが、と言葉をきり、ため息とともに懐から取り出した新聞をジョンに投げつけた。
「9月新聞だ。戦犯として責任を取らせる人間を決める東京裁判。出頭命令を受けた、私の父と母を殺した連中の最後の一人が自殺したと報じられていた。残りの奴は戦地で戦死だ」
「それじゃあ」
「あぁ、私が復讐しなければならない相手はもう全員死んでいる」
首輪が外れ、自由になり――どれ、逃げる前に復讐でもと考えた時に思い至ったのだろう。
自分の怒りがもうどこにも向けようがないことを。
「このまま仮の政府を襲撃してめちゃくちゃにしてやろうかとも考えたが、あそこは各流派の上忍連中が集まり護衛している。無駄死にするだけだろうし……八つ当たり以上の意味もない結果として、私はやることがなくなってしまったのだ」
どこか遠くを見るような眼をする簪。
ジョンはその彼女の態度に、彼女が困惑しているのを見て取った。
「なぁジョン。私はどうすればいいと思う? このまま日本にいるのだけは嫌だ。だが、同時にアメリカに渡ったとしても、やることは特に思い浮かばないんだ」
「……じゃぁ」
ジョンはそんな孤独な女戦士を哀れに思い、思わず口をついて言葉が出ていた。
「私の奥さんにでもなりますか?」
「…………」
しばらくの無言が続いた後。
「……正気かお前」
「いえ、すいません……。ちょっとヘージロさんがうらやましくて」
「そんな理由で結婚申し込まれたこっちの身にもなれ。馬鹿が」
こればかりは返す言葉もないので、ジョンがわずかに縮こまる。
「だがそうか……誰かの妻になるか。兄さんが死に、父と母が殺され、非国民の烙印を押されて以降――一度も考えたことがない未来だ」
意外過ぎる道が提示されたためか、わずかに簪の声の調子が変わった。
途方に暮れ道に座り込んだ子供のようだった震えた声が、少し明るいものに変わった気がした。
「目標なんぞ、今はなくてもいいか。生きていれば勝手に沸いてくる……そうだろう。ジョン」
「えぇ、ですね。ゲーテ曰く、つまらないワインを飲むには人生はあまりに短すぎるといいます」
「どういう意味だ?」
「つまらないことにこだわるよりかは、より良いものを見つけるために注力したほうがいい……ということが言いたいのかと」
「なんでちょっとあいまいなんだ」
「ゲーテという偉人は無類のワイン狂いでして……。本当に言葉そのままの可能性が……」
「酔っ払いめ。母も泥酔した父は嫌いだった」
そう言いながらも、簪の口元には笑みが浮かんでいた。
まるで自分を本当に縛り付けていた何かから解放されたかのように。
「……朱鷺や平次郎のように、日本にいる連中も屑ばかりではない。皆それぞれ、信じた正義が違っただけだ。だがそれでも、私の新しい人生はここではもうできないと思う」
「はい……」
「力を貸してくれるか、ジョン」
「この仕事が無事終われば、喜んで。上司にはもう相談はしていますので」
「……かたじけない」
そういって簪はゆっくりと頭を下げた。
「さて、未来の私のために少しばかり命を懸けるとするか」
「頼りにしていますね」
「任せておけ……。日本に最後に残す『酒寄』の名を、穢しはしない」
…†…†…………†…†…
正倉院襲撃決行前夜。
正倉院の監視を森の中で続ける平次郎とジョンは、双眼鏡を覗きながら雑談をしていた。
「……で、つい『私の奥さんにでもなりますか?』といってしまいまして」
「……正気かお前」
「同じ言葉を簪さんからももらいました」
「当たり前だ。某なら殺していたぞ」
「そこまで言います!?」
驚くジョンに対し、お前はわかっていないなとあきれたように首を振る。
「いいか、簪殿は家族を殺され呪印があったとしてもなお、政府が出した無茶な任務を淡々とこなしてきた女傑だ。某が聞き及んだだけでも、普通なら4回死んでもおかしくない任務からすべて生還してきている。自らの力で、ここまで生き抜いてきた傑物なのだ」
「そんなにすごい人だったんですか」
「そんなにすごい人だったのだ。そんな相手によりにもよって憐みで『結婚しません?』だと。ナマスに斬られても文句は言えんぞ」
「私よく無事でしたね……」
「お前の言葉に気遣いがあったからだろう。それと同時に、日本女の矜持もよく知らんだろうという理解から簪殿が理性を働かせたのもある。次会ったときは死ぬほど感謝しておくとよい」
「そうさせてもらいます」
素直にそう言うジョンに、平次郎は奇妙なものを見る目を向ける。
「にしても本当にお主は奇妙な男だ」
「はい?」
視線を向けるどころか声にすら出した。
「欧米諸国にとっては、敗戦したアジア小国の民など奴隷に等しかろう。何故そのように腰が低い?」
「あの地獄を生き延びたものにとって、あなたたち日本が弱小国だとは口が裂けても言えませんよ」
自死を覚悟した突撃に、腹切り。
戦犯の汚辱を受けるくらいなら死を選ぶという、戦士として極まり切った思考を現在まで残す特異性。
何より、普通なら降伏を選ぶとなった状況に陥ってなお、原爆というとどめを刺されるまでとまらなかったその狂奔は合衆国兵士にとっては恐怖の象徴だった。
「実は私、沖縄上陸戦に参加していたんです……」
「それは……運がよかったな、生き延びられて」
超人たる忍をもってしてもあの地獄は生き延びたのは奇跡だと言わしめた。
明確に記録として残されている数値を上げると
日本側の死者・行方不明者は約18万人。
そのうち9400人が民間人。訳28000人が
対しアメリカ軍側は死者・行方不明者約2万人。
アメリカ戦史上第三位の死者・行方不明者数を記録している。
「本当にあそこはひどかった。どこから日本兵が出てくるかもわからない坑道陣地。それを封殺するために、中にいる人間が誰かを確認すらせずに、私たちはガソリンを流し込み爆雷を投下した。ガソリンと炎に撒かれ飛び出してきたのが10にも満たない子供だったときの同僚たちの顔がいまだに脳裏から離れない。でも何より印象的だったのは……」
脳裏に焼き付いて離れないのは、気弱そうなメガネをかけた青年将校が、白旗を掲げ合衆国軍の前に現れた時のこと。
その青年将校の後ろには、みすぼらしい姿になり果てた沖縄民間人がいたことだった。
「……彼はこれ以上国民を戦闘に巻き込むのは忍びないといい、『民間人のみ』を投降させてくれないかと申し出ました」
「……その青年将校自体はどうなった?」
「『私はこの地の死守を命じられております。軍人として、責任を果たさねばならない』と……徹底抗戦の後に自決を」
「馬鹿な男だ……。だが侍であったな」
「えぇ……あの時私も理解したのです。アジア人は人種として欧州人に劣っていることなど何もないと。同じ、人間であったのだと」
「それゆえに私は惜しく思う。彼らが戦争に狂っていったことを……。いくつもの非道を犯し、それが正しいとまかり通ってしまった現実を」
「戦はしょせん戦だ。参加した者は大なり小なり血に狂う。高潔であった軍人をお前がたまたまよく目にしただけで、日本軍にも屑はいた。だがそれは合衆国も同じ、というわけか」
「……えぇ。死んだ軍人から戦利品と称して刀や拳銃といったものを略奪した者。捕虜とした人間を私的に『利用』し、懲罰を受けたものも多かった」
ため息とともに、ジョンは胸の内を明かした。
「だから私は戦争が嫌いです。多くの人間が『血に狂い』すぎる。見たくないものがあふれ出しすぎる」
「だから諜報員になったのか」
「戦争を未然に防げる数少ない職業ですからね。ですが、キャプテン・ステイツは違うようです」
自分の上司と同格の相手。
対ドイツ諜報活動のスペシャリスト。
その胸の内にあるのが単純な出世欲だという現状に、ジョンは失望を隠しきれていなかった。
「私は今回ただの罪滅ぼしのつもりで参加しました。あの戦争を超えてなお、友人に会いたいという一念を保ち続けたカグヤさんの願いをかなえることで、あの地獄を作り出した一人として……せめてもの罪滅ぼしをしようと。ですが今は少し違います」
「というと」
「キャプテン・ステイツ。あの男は生かしては置けない……。彼は出世のためなら、おそらくは次の戦争へ合衆国を導くことすらいとわない」
温度の感じられない平次郎の前では今まで一度も出していなかった、諜報員の声が響いた。
「だから……ここで始末します」
「……そうか」
「……止めないんですね?」
「敵国の優秀な諜報員が一人減るのをなぜ止める必要がある?」
軍人らしい平次郎の言葉に、ジョンの眉根がわずかにゆがむ。
そんな彼の分かりやすい変化に平次郎は苦笑を浮かべながら、口を開いた。
「拗ねるな拗ねるな。今は日本が負け、半ば属国となっているとはいえ将来はどうなるかわからんのだ。互いに敵対する可能性があるという現実は、どうしても見据えて動かねばならん」
「それは、そうですが……」
「だがそれでも、今はお前と共闘できることを誇りに思うよ」
平次郎はそう言い、ジョンに手を差し出した。
「なかなか見上げた理想主義者だ。お前のような男は嫌いではない」
「……私も、あなたのようなわかりやすい頭をしている人は嫌いではないです」
「馬鹿にしておるな貴様!?」
そういいながらも、二人は固い握手を交わした。
極小の短い期間でありながらも――日米同盟が成立した瞬間だった。