『緋弾のアリア:洛中の蜘蛛は平穏(お茶)を愛す』 作:トート
東京湾に浮かぶ巨大な人工島――お台場。
そこには、銃器や刃物、あらゆる凶悪犯罪に対抗するため、武力を公認された探偵――通称『武偵』を育成する特殊な学び舎が存在する。
東京武偵高校。
朝の陽光を浴びる校庭は、今日もいつも通りの騒がしい喧騒に包まれていた。
防弾制服に身を包んだ生徒たちが、腰に拳銃を下げ、あるいは背中に自動小銃を背負って行き交う。
ここは日常と戦場が隣り合わせにある、若きエリートたちの巣窟だ。
そんな中、校舎の屋上へと続く階段を、パタパタと軽快な音を立てて登る足音があった。
「……ふぅ。今日も、東京の空は忙しおすなぁ」
屋上のフェンスに背を預け、購買で買ったばかりの緑茶のペットボトルを傾ける少年。
彼の名は、椥辻糸織。
特殊捜査科(特殊課)に所属する2年生であり、武偵ランクは『A』。
女の子のような響きを持つ名前だが、中身はれっきとした男である。
色素の薄い、さらさらとした黒髪。
常に穏やかな笑みを浮かべた、細い糸のような目。
武偵高の厳格な制服を、皺一つなく上品に着こなしているが、足元だけは革靴ではなく草履を履いている。
その姿は、殺伐とした武偵高の空気から、完全に浮き上がっていた。
彼の実家である椥辻家は、表向きは京都の伝統ある華道・茶道の家系。
しかし、その裏の顔は――。
平安の昔から洛中の闇に潜み、王城の平穏を脅かす「害悪」を秘密裏に間引き続けてきた『京の隠密・暗殺者』の末裔。
シオリ自身、お茶を飲むような「平穏な時間」を何よりも愛している。
実力を隠してAランクに甘んじているのも、面倒な騒動に巻き込まれず、穏やかな日常を過ごすためだった。
だが、この東京という街は、少しばかり彼を退屈させてはくれないらしい。
「おや、あそこに居はるのは……遠山はん、どすか?」
シオリの細い目が、校門へと向かう一人の少年を捉えた。
遠山キンジ。
探偵科の2年生。
いつも眠たげで、やる気がなさそうで、どこか人生を諦めたような雰囲気を纏っている少年。
武偵高という特殊な環境に身を置きながら、必死に「普通の一般高校への転校」を望んでいる、奇妙な男。
シオリは、その遠山キンジという存在が、少しだけ気に入っていた。
自分と同じように、戦いを嫌い、平穏な日常を必死に守ろうとしているその姿勢に、奇妙な親近感を覚えていたからだ。
「……遠山はん、また一段と顔色が悪いおすね。寝不足どすか?」
シオリはクスリと微笑みながら、右手の指先を小さく動かした。
彼の両手の指には、鈍い輝きを放つ十本の指輪が嵌められている。
彼が指を揺らした瞬間。
袖口から、肉眼での目視は不可能な極細のワイヤー――椥辻家代々の秘宝『鋼糸・微塵』が、音もなく滑り出た。
糸は風に乗り、屋上から校庭へと、蜘蛛の糸のように静かに垂れ下がっていく。
知覚能力――【糸鳴り】。
シオリが放った糸が、目に見えない波紋となって周囲の空間に広がっていく。
糸の微細な振動を通じて、周囲数百メートルの人間の配置、呼吸、心音、さらには筋肉の緊張度合いまでが、シオリの脳内に立体的な映像として伝わってきた。
(……うん、今日も武偵高の皆さんは元気でおす。……おや?)
その時、シオリの眉が、ほんの少しだけピクリと動いた。
【糸鳴り】が捉えた、異質な振動。
それは校門の外。
遠山キンジが乗ろうとしている通学用の自転車。
そのサドルの裏側に、明らかに不自然な「高密度の金属」と「微弱な電子音」が感知された。
(……なるほど。これが噂の『武偵殺し』の仕掛けどすか)
ここ最近、武偵高の生徒を執拗に狙う、正体不明の連続爆弾魔。
通称『武偵殺し』。
その魔の手が、ついにシオリの気に入っている「平穏な友人」にまで伸びてきたらしい。
「せっかくの朝の静寂を邪魔するやなんて……無粋な真似をしはる」
シオリは手にしたペットボトルを飲み干すと、それをゴミ箱へと放り投げた。
放り投げられたボトルは、まるで吸い込まれるように、綺麗な弧を描いてゴミ箱の真ん中に収まる。
彼がゆっくりと歩き出した時。
遠くで、キンジが自転車のペダルを漕ぎ出す音が聞こえた。
同時に、【糸鳴り】が爆弾の起爆スイッチが作動したことを告げる。
時速15キロメートルを超えると作動する、速度感知式の爆弾。
「そこまで慌てなさんな、遠山はん。心臓に悪おすえ?」
シオリは穏やかな笑みを絶やさないまま、屋上のフェンスに足をかけた。
そして、ひらりと、鳥のように宙へ舞い降りた。
◇
「な、なんなんだよ、これ……っ!」
遠山キンジは、必死に自転車のペダルを漕ぎ続けていた。
現在の場所は、お台場の外縁へと続く、見通しの良い直線道路。
彼の背後からは、不気味なスピーカーの音声が響いている。
『警告。速度を落とせば、即座に爆破します。そのまま走り続けなさい』
サドルの下に仕掛けられた、武偵殺しの爆弾。
速度を落とせば死ぬ。
かといって、このまま走り続ければ、いつかは体力が尽きるか、行き止まりに突き当たって自滅する。
(クソッ、なんで俺がこんな目に……! 俺は普通に、一般高校に転校したいだけなのに!)
キンジの額から、滝のような汗が流れ落ちる。
心臓が早鐘を打ち、足の筋肉が悲鳴を上げ始めていた。
武偵高で学んだ知識が、これが冗談ではないことを冷酷に告げている。
バックミラーに映る自分の顔は、恐怖で完全に引きつっていた。
その時だった。
「――遠山はん、おはようおす」
唐突に、すぐ真横から、信じられないほど場違いな「のんびりとした声」が聞こえた。
「ぶ、ぶふぇっ!?」
キンジは驚きのあまり、ハンドルを獲られそうになった。
必死に体制を立て直し、声のした方へ向く。
そこには、自転車と並走するように、涼しい顔で道路を『走っている』椥辻糸織の姿があった。
制服の裾をなびかせ、足元は草履。
それなのに、シオリは時速20キロメートル以上で走る自転車と、全く同じ速度を維持して併走しているのだ。
息一つ乱れていない。
それどころか、いつもの穏やかな糸目の笑顔のままだ。
「な、椥辻……!? お前、なんでここに……っていうか、その足、どうなってんだよ!」
「京の人間は、歩くのには慣れておりますよってに。それより遠山はん、えらい派手な目覚まし時計を背負ってはりますなぁ」
シオリはキンジのサドル下をチラリと見ながら、はんなりと微笑んだ。
「笑い事じゃねえ! 爆弾だ、爆弾! 速度を落としたらドカンだぞ!」
「知っておりますえ。……ああ、危おす」
シオリがそう呟いた瞬間。
ヒュン、と空気を切り裂く音が響いた。
道路の先。
ビルの屋上から、こちらに向けて放たれた複数の影があった。
それは、武偵殺しが放ったと思われる、自動追尾式の小型ドローン。
その機体には、容赦なくキンジを仕留めるためのサブマシンガンが搭載されていた。
「待ち伏せまで用意してはる。手際が良いの。……けど、僕の平穏を邪魔するのは、感心しませんわ」
シオリは並走しながら、両手を袖の中からすっと突き出した。
その指先が、まるであやとりでもするかのように、複雑に、そして美しく交差する。
シオリの囁きとともに、キンジの目の前の空間が、一瞬だけ朝の光を浴びて「銀色」に明滅した。
肉眼では絶対に見えないはずの、極細の鋼糸『微塵』。
それが、キンジの自転車の周囲数百メートルに、完璧な球体の防護陣として張り巡らされたのだ。
椥辻家が誇る絶対防御陣――【蜘蛛の巣】。
バラバラバラバラッ!
ドローンから放たれた無数の9ミリ弾が、キンジをハチの巣にするべく降り注ぐ。
しかし。
その銃弾のすべてが、キンジの体に届く直前、空間の何もない場所で「カン、カン!」と高い音を立てて弾かれた。
弾道が完全に逸らされ、アスファルトの地面を無意味に削り取る。
「な……っ!? 銃弾が、曲がった……!?」
キンジは目を見開いた。
「曲がったのではありまへん。僕の可愛い蜘蛛たちが、少しだけお節介を焼いただけどす」
シオリは指先をクイクイと動かす。
それだけで、空間に張られた目に見えない糸が、迫り来るドローンを絡め取っていく。
ギチ、ギチギチ……。
まるで目に見えない巨人の手に潰されるように、空中のドローンたちが次々とひしゃげ、火花を散らして爆発した。
その一連の動作を、シオリはただの「笑顔」のまま、歩調を崩さずに行ってみせたのだ。
(こいつ……やっぱり、ただのAランクじゃねえ……!)
キンジは戦慄した。
特殊捜査科の椥辻糸織。
普段は物静かで、目立たない男。
だが、その実力は、武偵高の常識を遥かに超越している。
「さて、ドローンは片付きましたけど……本命が来はりましたえ、遠山はん」
シオリが視線を上空へと向ける。
そこには、上空を並走する、一台の赤い大型バイクの姿があった。
いや、バイクではない。
それは道路の側壁を、重力を無視して駆け下りてくる――。
「――そこまでよ! 武偵殺し!」
少女の、鈴を転がすような、しかし凛とした鋭い声が響き渡った。
ピンク色のツインテールをなびかせ、宙を舞う人影。
その両手には、鈍く光る一対のコルト・ガバメント。
神崎・H・アリア。
イギリスのロンドン武偵局から転校してきたばかりの、最強のSランク武偵。
彼女が、この爆破パニックの渦中に、文字通り「空から」降臨した。
「……おや」
シオリは、その少女の姿を見て、さらに笑みを深めた。
「これはまた……えらい気の短いお嬢さんが、飛び込んできはりましたなぁ」
東京武偵高校を揺るがす大事件の渦中で。
京の隠密の末裔と、狂乱の武偵殺し、そして誇り高き双剣双銃(アサルト)の少女が、ついに交錯する。
物語の歯車は、シオリの張った目に見えない糸に導かれるように、激しく回り始めようとしていた。
ヒュウウウウウウウ――ッ!
お台場の高い空から、切り裂くような風の音が響く。
ピンク色のツインテールを鮮やかにたなびかせ、重力をあざ笑うように宙を舞うアリアは、空中という一切の足場がない空間でありながら、完璧な射撃体勢を維持していた。
タン、タン、タン、タン、タン!
ガバメントの銃口から、目にも留まらぬ速さでマズルフラッシュが弾ける。
放たれた銃弾は、キンジの自転車の後方――道路の側壁の影に潜んでいた、武偵殺しの残党である隠しドローンたちのプロペラを正確に撃ち抜いていく。
一瞬の狂いもない、神業とも言える精密射撃。
撃ち落とされたドローンたちが、アスファルトの路面に激突して激しい火花を散らした。
「うわああああっ!? 上から女の子が降ってきたぁ!?」
必死にペダルを漕ぎ続けるキンジが、バックミラー越しにその光景を見て悲鳴を上げる。
ただでさえサドルの下に爆弾を仕掛けられてパニックだというのに、今度は空から二丁拳銃の少女が降ってきたのだ。
キンジの心臓は、もはや限界に近いほどの警告音を脳内で鳴らし始めていた。
そんな狂乱の戦場にあって。
ただ一人、完全に時間が止まっているかのように穏やかな空気を纏う少年がいた。
「おやおや……割と派手な登場をさはるお嬢さんどすなぁ」
シオリは、時速20キロメートル以上で疾走するキンジの自転車と完全に歩調を合わせ、涼しい顔で並走を続けていた。
足元は相変わらずパタパタと音を立てる草履。
それなのに、彼の呼吸は一切乱れていない。
色素の薄い黒髪が風に優しく揺れ、その糸目の奥にある深みのある銀色の瞳は、空中のアリアの動きを冷徹に捉えていた。
【糸鳴り】が感知する微細な空気の振動が、空中から降下してくるアリアのあらゆる情報をシオリの脳内に送り届けていた。
(心拍数は極めて安定。……着地の瞬間に合わせて、足首と膝の筋肉が完璧なバネの役割を果たしようとしておす。……なるほど、これが本場のSランクの器どすか。大した技術の持ち主やわぁ)
シオリは内心で感心しながらも、その体勢には一寸の隙もない。
彼の両手の指に嵌められた十本の指輪から伸びる鋼糸は、アリアの銃撃によって飛び散ったドローンの破片や火花から、キンジの体を完全に守る位置を維持していた。
ドガァァァンッ!
アリアが地面に着地する直前、彼女の背後で最後のドローンが大きな爆発を起こした。
爆風と黒煙が、お台場の直線道路を激しく包み込む。
「きゃああああっ!?」
アリアの小さな体が、爆風の煽りを受けてわずかにバランスを崩した。
そのままの勢いで、彼女はキンジが必死に漕著している自転車の後部キャリアへと、吸い込まれるように落下していく。
「ちょっと、どきなさいよ、あんたっ!」
「どけって言われても、俺のサドルの下には爆弾が――って、ぶふぉっ!?」
一瞬の衝撃。
上空から降ってきたアリアの体が、キンジの背中にまともに激突した。
衝撃で自転車のフロントタイヤが激しくブレる。
時速15キロメートルを下回れば、即座に大爆発を起こす速度感知式爆弾。
キンジの顔から血の気が完全に引いた。
「な、何すんのよあんた! 前を見なさい、前を!」
アリアはキンジの背中にしがみついたまま、怒鳴り声を上げる。
ピンク色のツインテールがキンジの顔にバチバチと当たり、ただでさえ最悪な状況をさらに悪化させていた。
「俺のせいでこうなったんじゃねえ! 自転車のバランスが――!」
二人が揉み合いになり、自転車が蛇行を始めたその時。
サドルの下から、不気味な電子音が一段と高く響き渡った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――。
爆破までのカウントダウン。
自転車の速度が、一時的に時速14・5キロメートルにまで低下したのだ。
絶体絶命の危機。
キンジの脳裏に、自身の死という最悪の結末が過る。
しかし。
その爆発の火蓋が切られるよりも早く、空間を切り裂く「チッ」という鋭い音が響いた。
並走するシオリの右手が、ほんのわずかに閃いた。
彼の手首から放たれた極細の鋼糸『微塵』が、朝の光を吸い込んで一瞬だけ銀色に煌めく。
糸は生き物のように空間を奔り、キンジの自転車のフロントフォークと、道路の遥か先にある電柱へと結びついた。
空間に張り巡らされた目に見えない糸の束が、強力なゴムのような弾性を持って、キンジの自転車を前方へと『強引に牽引』したのだ。
椥辻家が誇る絶対の防護陣――【蜘蛛の巣】。
グンッ!
「うおっ!?」
キンジの自転車が、まるで見えないジェットエンジンを搭載したかのように、猛烈な勢いで前方へと加速する。
時速は一気に25キロメートルを突破。
作動しかけていた爆弾の起爆装置が、強制的な加速によって再び待機状態へと押し戻された。
「……ふぅ。危おす、危おす。せっかくの綺麗な自転車が、消し炭になるところどしたなぁ」
シオリはいつもの穏やかな笑顔のまま、牽引した糸を指先の微細な振動で一瞬にして回収した。
袖口へと音もなく収まっていく鋼糸。
その一連の神業を、キンジの背中にしがみついていたアリアは見逃さなかった。
「……っ!? あんた、今の……何をしたのよ!?」
アリアの大きな瞳が、驚愕に揺れる。
並走する草履の少年。
彼は自転車と全く同じ速度で走りながら、今、確かにつむじ風のような速度で何かを操り、自分たちの危機を救った。
「何をした、と言われましても……。ただの通りすがりの、お節介な蜘蛛にすぎまへんえ、お嬢さん」
シオリははんなりとした都弁で、上品に首を傾げてみせた。
「蜘蛛……? あんた、武偵高の生徒ね!? その喋り方……京都の人間?」
「椥辻糸織と申します。特殊捜査科の2年どす。以後、お見知り置きを、神崎・H・アリアはん」
「なっ……! なんで私の名前を知ってるのよ!」
アリアがガバメントの銃口を、並走するシオリへと向けようとする。
しかし、シオリの糸目の奥にある気配は、どこまでも底が知れない。
銃口を向けられているというのに、彼の心音は【糸鳴り】を通じても、まるで静かな湖面のように一定だった。
「東京にやってくるSランクの高名な武偵はんの動向くらい、耳に入ってきますえ。それよりも――」
シオリは視線を、直線道路の遥か先へと向けた。
「お喋りはそのくらいにしておきなはれ。本物の『武偵殺し』が、あそこで手ぐすね引いて待ってはりますえ」
道路の先、お台場の交差点の中央。
そこには、奇妙な二輪の移動車両――セグウェイに乗った、不意味なコート姿の人影が佇んでいた。
その手には、キンジの自転車の爆弾をいつでも遠隔操作できる起爆リモコンが握られている。
連続爆弾魔、武偵殺し。
ついにその本尊が、彼らの前に姿を現した。
「見つけたわ……! 待ちなさい、武偵殺し!」
アリアがキンジの背中を蹴り飛ばすようにして、自転車から飛び降りようとする。
だが、敵の罠はそれだけではなかった。
武偵殺しが不敵に笑い、リモコンのボタンを押した瞬間。
道路の左右にあるビルの壁面から、さらなる重火器を搭載した大型ドローンが姿を現す。
激化する戦場。
アリアの焦燥と、キンジの恐怖。
そのすべての感情の揺らぎを、シオリは指先の糸を通じて冷徹に見つめていた。
「……やれやれ。これ以上、僕の平穏な朝を汚されるのは困りますなぁ」
シオリの穏やかな糸目が、ほんのわずかに開かれる。
その奥で、深みのある銀色の瞳が、獲物を狙う蜘蛛のように鋭く光った。
ドササササササッ!
左右のビルの壁面から現れてきた四機の大型ドローン。
その下部にサスペンションで固定された、20ミリ口径のガトリング砲が、けたたましい駆動音を立てて回転を始める。
標的は、アリア、キンジ、そして並走するシオリの三人だ。
「遠山はん、お嬢さん。ちょっと耳を塞いどいた方がよろしおすえ」
シオリは並走する速度を落とすことなく、懐から一本の『扇子』をすっと取り出した。
一見すると、京都の老舗で作られた優美な京扇子。
しかしその親骨は、航空機にも使われる特殊チタン合金で鍛造された、銃弾すら弾くシオリのサブ武器である。
バッ、とシオリが扇子を鮮やかに開いた瞬間。
ガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!
左右のビルから、猛烈な鉄の嵐が吹き荒れた。
アスファルトが激しく爆ぜ、白煙と火花が視界を完全に遮る。
突風のような弾幕がキンジたちの命を刈り取らんと迫るが――。
キィィィィィィン――ッ!!
お台場の直線道路に、耳を聾するような金属音が響き渡った。
「な……に、これ……っ!?」
キンジの背中でガバメントを構えていたアリアが、驚愕のあまり声を裏返した。
彼女の視線の先。
シオリが開いた扇子を緩やかに一閃させると、空間に張り巡らされていた目に見えない鋼糸『微塵』が、まるで巨大な楽器の弦のように強く激しく振動したのだ。
ただの防御ではない。
極細の糸を「面」の形に超高速で交差させ、飛来する20ミリ弾の回転運動をその摩擦力だけで強制的に相殺。
それどころか、糸の弾性を利用して、放たれた銃弾のすべてを『そのままドローンへと跳ね返した』のだ。
ドガガガガガガッ! ブンッ、ドガァァァン!!
自分たちが放った弾丸をまともに浴びた大型ドローン二機が、内部の燃料タンクを打ち抜かれて派手に空中爆発を起こした。
降り注ぐ炎の破片。
それを, シオリは開いた扇子で優雅にあおぎ、風圧だけでキンジの自転車から遠ざけてみせる。
「嘘、でしょ……!? 20ミリ弾を、あんな布切れ一枚で……!?」
アリアはシオリの持つ扇子を凝視したが、それがチタン製であること、大本命が「目に見えない糸」であることにはまだ気づいていない。
ただ、この草履を履いた糸目の少年が、ロンドンのSランク武偵である自分すら遥かに凌駕する『化け物』であることだけを、その本能で察知していた。
「布切れとは失礼な。これでも一応、伝統ある仕込み扇子どす。……おっと、お喋りの時間はここまでどすな」
シオリは再び目を細め、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
だが、【糸鳴り】のレーダーは、さらなる異常事態を感知している。
正面の交差点。
セグウェイに乗った武偵殺しが、不気味な電子音声の笑い声を上げながら、手元の起爆リモコンのレバーを完全に引き絞ったのだ。
『チェックメイトです、武偵高校の諸君。さようなら』
ピピピピピピピピピピピピピピ――ッ!!!
キンジのサドルの下で、爆弾の警告音が、もはや一つの連続した高音へと変化する。
速度は関係ない。
敵は手動での「強制起爆スイッチ」を押したのだ。
爆発まで、あと残り1秒。
「ちょっと、あんた――っ!!」
アリアが叫び、キンジを庇うようにその小さな体で後ろから抱きしめる。
キンジは恐怖に目を見開き、迫り来る死を受け入れようと、全身の筋肉を硬直させた。
(……あ。俺、ここで死ぬんだ――)
その瞬間だった。
キンジの脳内で、何かが「パチン」と弾ける音がした。
心臓の鼓動が、それまでの限界値を遥かに超えて、猛烈な速度で脈打ち始める。
全身の血管が沸騰するような熱。
視界が、まるでスローモーションのように、極彩色に色鮮やかに変化していく。
探偵科・遠山キンジの遺伝子に刻まれた、異端の覚醒。
自身の性染色体が女性の刺激を受けることで、脳内に特殊な脳内物質が分泌され、全身体能力が通常の数十倍へと跳ね上がる、絶対の戦闘モード――【ヒステリアモード】。
(……おや?)
並走するシオリの指先が、微かに跳ねた。
【糸鳴り】の糸を通じて伝わってくる、遠山キンジの生体反応。
心拍数、血流量、筋肉の弛緩度、および脳波のサージ電流。
それらすべてが、一瞬にして人間の領域を逸脱し、まるで飢えた猛獣のような「完璧な戦闘生物」の数値へと変貌したのだ。
(これは……面白いおす。遠山はん、あんたやっぱり、ただのヘタレではおへんどしたな)
シオリは内心でほくそ笑みながら、その覚醒の瞬間を特等席で見つめていた。
しかし、爆弾の猶予はもうない。
キンジのヒステリアモードが完全に発動し、彼がその人外の反射神経で行動を起こす、まさにその「1分の1秒」の隙間。
「せっかくの覚醒どす。爆弾ごときに邪魔させたら、無粋というものどすえ」
シオリの十本の指が、まるで見えないピアノの鍵盤を叩くように、超高速で虚空を踊った。
シュウウウウウウウ――ッ!
爆発の光が、キンジのサドルの下から溢れ出そうとしたその瞬間。
シオリが放った数十本の『鋼糸・微塵』が、爆弾の金属筐体の隙間から、内部の電子回路へと直接滑り込んでいた。
肉眼で見えない糸は、爆発の火薬が化学反応を起こすよりも早く、起爆電力を送るための主要基盤をコンマ数ミリ単位で正確に「切断」し。
さらに、発生しかけた熱量を、糸の超伝導性によって周囲の空気へと一瞬で拡散させた。
ポスッ……。
あれほど不気味に鳴り響いていた爆弾が、小さな煙を一本だけ上げて、完全に沈黙した。
不発。
いや、シオリの糸による、物理的な『超高速解体』である。
「……え?」
背中にしがみつく少女が目を見開く。
何が起きたのか分からない。
爆発の衝撃に備えていた彼女の体は、ただ自転車の慣性に従って、前方に投げ出されそうになるだけだった。
だが、ヒステリアモードに突入したキンジの動きは違った。
爆弾が止まった理由など、今の彼の脳内ではどうでもよかった。
目の前で少女がバランスを崩し、宙に浮きそうになっている。
ただそれだけの事実が、今のキンジの「女性を守る」という本能を激しく刺激した。
「――危ないな、お嬢さん」
低く、甘く、あるいは絶対的な自信に満ちた声。
さっきまでの情けない悲鳴が嘘のように、キンジは自転車のハンドルを左手一本で完璧に制御。
空いた右手で、少女の細い腰をスマートに抱き寄せ、自分の胸の中へと引き寄せた。
さらに、自転車のフットブレーキを限界まで踏み込む。
キキキキキキキキィィィィィッ!!!
激しいタイヤの摩擦音を立てながら、自転車は武偵殺しのセグウェイの僅か数メートル手前で、一ミリの狂いもなく美しく停車した。
「……あらぁ」
並走を止め、パタパタと草履の音をさせてその場に佇むシオリは、小さく口元を伏せて微笑んだ。
【糸鳴り】が捉えるキンジの気配は、今や完全に「色男のそれ」である。
「これはこれは……遠山はん、急に男前になりはって。京の役者も真っ青の色男どすなぁ」
「――下がっていろ、アリア」
キンジはシオリの冗談めかした呟きには目もくれず、腕の中に抱きしめていたアリアを、そっと道路へと降ろした。
その一連の動作の滑らかさと、一切の無駄がない洗練された身のこなし。
アリアは、つい数秒前まで「ただの一般人に戻りたい」と泣き言を言っていたはずの少年が、まるで別人のような鋭い覇気を放っていることに驚き、言葉を失っていた。
「な……なによ、あんた……。急に、雰囲気が……」
「敵は目の前だ。お喋りは後にしてくれ」
キンジは小さく息を吐きながら、防弾制服のポケットから一丁の拳銃を抜き放った。
ベレッタM92F。
武偵高の生徒であれば誰もが手にする、至ってありふれた9ミリ口径の自動拳銃。
しかし、ヒステリアモードに突入したキンジがそれを構えた瞬間、その銃口は絶対的な死の象徴へと変貌する。
『馬鹿な……! 強制起爆装置が作動しなかっただと……!?』
目の前で停車した自転車を凝視し、セグウェイに乗った武偵殺しのコートが小刻みに揺れた。
機械加工された不気味な電子音声の奥から、明らかな狼狽の色が漏れ聞こえる。
自分が仕掛けた完璧な爆弾が、なぜ不発に終わったのか。
その原因が、すぐ傍らで優雅に扇子を畳んでいる糸目の少年の仕業だとは、夢にも思っていないようだった。
『ええい、死ね! 武偵の狗どもが!』
武偵殺しが再び叫び、セグウェイを急加速させて後退しながら、コートの袖口から小型のサブマシンガンを突き出そうとする。
だが、その引き金に指がかけられるよりも早く、空間を切り裂く銃声が二つ、ほぼ同時に響き渡った。
タン、タンッ!!
キンジのベレッタから放たれた弾丸。
それは、武偵殺しが構えようとしたサブマシンガンの銃身を正確に撃ち抜き、その構造を物理的に破壊して路面へと弾き飛ばした。
さらに、もう一発。
完全に虚を突かれた武偵殺しの足元――セグウェイの駆動輪の車軸へと吸い込まれ、その精密なギアボックスを内側から粉砕する。
バリバリバリッ、ドガァンッ!
バランスを完全に崩したセグウェイが火花を散らし、武偵殺しの体がアスファルトの上をごろごろと無様に転がった。
(ほう……。相手の武器の最も脆弱な接合部と、車両の重心を同時に打ち抜かはりましたか。一瞬の無駄もない、素晴らしい戦闘勘どす。遠山はん、あんたやっぱり僕の目に狂いはなかったわぁ)
シオリは細い目の奥で、キンジの銃撃の軌道を冷徹に賞賛していた。
【糸鳴り】が伝える空間の振動。
キンジが放った弾丸は、銃身の跳ね上がり(マズルライズ)すら完全に計算され、筋肉の微細な収縮だけで制御されていた。
その領域の技術は、普通の武偵高の授業では絶対に身につかない。
「やるじゃない、あんた……! でも、トドメは私が刺す!」
我に返ったアリアが、ピンク色のツインテールを跳ねさせて前に飛び出した。
両手のガバメントが、倒れ伏した武偵殺しへと容赦なく向けられる。
「大人しく捕まりなさい! 武偵法第3条、武偵は犯人を逮捕――」
『クソが……っ! まだ終わらん、まだだ……!』
地面に這いつくばった武偵殺しが、懐からもう一つの黒いスイッチを掴み出した。
それを見たシオリの眉が、ほんのわずかに動く。
(……あら。往生際が悪いおすなぁ。置き土産まで用意してはる)
【糸鳴り】のレーダーが、周囲の地下に埋設されている排水溝の内部から、急激な電圧の上昇を感知した。
交差点の地下に仕掛けられた、予備の広範囲爆薬。
それを起爆させ、お台場の道路ごと彼らを消し去るつもりのようだった。
アリアは敵の手元にあるスイッチに気づいていない。
キンジは超感覚で異変を察知し、アリアの体を後ろに引っ張ろうと手を伸ばす。
「アリア、戻れ――!」
「えっ……!?」
爆発まで、コンマ数秒。
ヒステリアモードのキンジの速度をもってしても、アリアを抱えて爆風の圏外まで逃げ切るには、ほんの少しだけ時間が足りない。
だが、彼らの背後には、お節介な蜘蛛がもう一人控えていた。
「せっかくお台場の朝が静かになったのに、これ以上ドカンパチパチやられたら、お茶を飲む場所がなくなってしまいますわ」
シオリは小さく溜息をつくと、開いていた左手の五本の指を、ピアノの和音を奏でるように優しく引いた。
チチチチチッ――。
路面のわずかな隙間、排水溝の鉄格子の合間から、すでに忍び込ませていた『鋼糸・微塵』が、一斉に地下の暗渠(あんきょ)へと張り巡らされていた。
シオリが指を引いた瞬間。
地下に設置されていた複数のプラスチック爆薬の、まさに「信管」の導線だけが、カミソリで落とされるように一瞬で切断された。
さらに、武偵殺しが握っているリモコンのアンテナ部分。
シオリが指先をわずかに弾くと、目に見えない糸がその先端を綺麗に切り飛ばし、電波の送信を物理的に遮断した。
カチッ、カチカチッ。
武偵殺しが狂ったようにスイッチを連打するが、交差点の地面は何の反応も示さない。
ただのプラスチックの箱と化したリモコンを手に、爆弾魔は絶望に身体を震わせた。
『な……なぜだ! なぜ動かん……!?』
「……え?」
アリアが足を止め、不思議そうに周囲を見回す。
キンジもまた、自分の勘が告げた「爆発の予兆」が、なぜか一瞬にして完全に霧散したことに戸惑いの表情を浮かべていた。
二人の視線が、自然と、その場にのんびりと佇んでいる草履の少年へと集まる。
シオリは十本の指を、制服の長い袖口の中へと静かに収め、何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべていた。
「どうしはったんどす? 遠山はん、アリアはん。そんなに僕の顔を見つめられても、お茶の一杯も出せまへんえ?」
「椥辻……お前、今の……」
キンジの鋭い眼光が、シオリの立ち姿に向けられる。
だが、どれだけ観察しても、シオリの身体からは一切の殺気も、魔力のような気配も感じ取れない。
ただそこにいるだけで、周囲の空間から浮き上がっているような、奇妙な平穏さだけが存在していた。
「……あんた、本当にただのAランクなの?」
アリアがガバメントを握り直しながら、シオリをジロリと睨みつける。
武偵高の常識では測れない二人の少年。
一人は、急に王者のような色気を放ち始めた探偵科のヘタレ。
もう一人は、爆弾やガトリング砲の嵐を、はんなりとした笑顔のまま無力化してしまった特殊課の糸目。
「ただの、のんびりとしたAランクどすえ。それより、あの犯人の男、今なら簡単に捕まえられますわ」
シオリが扇子で指し示した先。
地下の爆破に失敗した武偵殺しは、もはや戦意を完全に喪失し、よろよろと立ち上がって、近くに停められていた逃走用のワンボックスカーへと逃げ込もうとしていた。
「待ちなさいっ!!」
アリアが叫び、今度こそ犯人を確保するべく地を蹴った。
東京武偵高校を騒がせた連続爆弾魔との戦いは、ついに最終局局へと突入しようとしていた。