『緋弾のアリア:洛中の蜘蛛は平穏(お茶)を愛す』 作:トート
「待ちなさいっ!!」
アリアが叫び、今度こそ犯人を確保するべく地を蹴った。
東京武偵高校を騒がせた連続爆弾魔との戦いは、ついに最終局へと突入しようとしていた。
バァンッ! と激しい音を立ててワンボックスカーの運転席のドアが閉まる。
完全に戦意を喪失した武偵殺しは、血走った目でイグニッションキーを回し、猛烈な勢いでアクセルペダルを踏み込んだ。
キュルルルルルルッ!! と激しいタイヤのスキール音が、朝の交差点に甲高く響き渡る。
『どけぇーっ! 死にたくなかったら、そこをどけっ!』
フロントガラスの奥で、犯人が狂ったように叫ぶ。
大型のワンボックスカーが、まるで凶器そのものと化してアリアとキンジを目がけて突進してきた。
まともに激突すれば、防弾制服を着ていようとも骨ごと粉砕されるのは免れない。
「そんな脅し、私に通じるわけないでしょ!」
アリアは一歩も引かなかった。
ピンク色のツインテールを鋭く翻し、突進してくるワンボックスカーのボンネット目がけて、蝶のように軽やかに跳躍する。
空中でガバメントの銃口が、車のフロントタイヤへと正確に向けられた。
タン、タン、タン、タン!
放たれた9ミリ弾が、前輪のゴムを正確に打ち抜いてバーストさせる。
しかし、激しい白煙を上げながらも、数トンにおよぶ鉄の塊の慣性は止まらない。
前輪を潰されたワンボックスカーは、制御を失って激しく横滑り(スピン)を始め、そのままアリアを巻き込むような軌道で横転しかけていた。
「しまっ……!?」
アリアの大きな瞳が、迫り来る鉄の壁を捉えて微かに見開かれる。
空中では、いかにSランクの身体能力を持っていようとも、避けるための足場がない。
横転する巨体に、その華奢な身体が押し潰されそうになったその時。
「――だから、危ないと言ったんだ」
低く冷徹な声が、アリアのすぐ真横から響いた。
ヒステリアモードの持続する遠山キンジ。
彼はアスファルトの路面を爆発的な速度で蹴り上げると、横転する車のわずかな隙間に滑り込み、空中のアリアの身体を横抱き(お姫様抱っこ)の形で完璧にキャッチした。
そのままの勢いで地面を転がり、車の直撃をコンマ数ミリの差で回避してみせる。
ズガガガガガガガガッ!!!
彼らのすぐ真横を、横転したワンボックスカーが激しい金属摩擦音と火花を撒き散らしながら滑り抜けていき、交差点の中央でどっかりと横倒しになって停止した。
「……はぁ。怪我はないか、アリア」
キンジは腕の中のアリアを見つめ、大人の色気を孕んだ甘い声で囁いた。
「あ……う、うん……。ありが、とう……って、ちょっと離しなさいよ、このバカ!」
アリアは顔を真っ赤に染めながら、キンジの胸元をポカポカと叩いて飛び退いた。
急激に男前になったキンジに対する戸惑いと、武偵としてのプライドが彼女の心を激しく乱しているようだった。
二人がそんな掛け合いをしている最中。
横転した車の割れたフロントガラスから、血を流した武偵殺しが這い出てくるのが見えた。
満身創痍でありながらも、男はまだ諦めていない。
懐から最後の予備の拳銃を抜き、キンジたちの背後に向けて引き金を引こうとした。
だが。
「そこまでにしときなはれ、武偵殺しはん。往生際が悪い男は、女の子に嫌われますえ?」
いつの間にか、男のすぐ真横に、パタパタと軽快な草履の音を立てて歩み寄る影があった。
椥辻糸織。
彼はいつもの穏やかな糸目の笑顔のまま、懐からチタン製の扇子をすっと取り出し、まるで舞を踊るかのような優雅な動作でそれを一閃させた。
チッ――。
シオリの袖口から、十本の指輪に繋がれた極細の鋼糸『微塵』が音もなく解き放たれる。
その知覚不可能な糸の束は、武偵殺しが銃を構えるよりも早く、彼の両手首、両足首、そして全身の関節をあやとりのように複雑に絡め取っていた。
『な……っ!? 体が、動かん……!? 何だ、これは……!』
武偵殺しは目を見開いて絶叫した。
目には何も見えない。
それなのに、まるで鋼鉄の鎖で全身をがんじがらめに縛り付けられたかのように、指一本動かすことができないのだ。
少しでも身悶えしようとすれば、目に見えない糸が皮膚に食い込み、鋭い痛みが全身を走る。
「椥辻家が誇る束縛陣――【蜘蛛の巣】。僕の可愛い蜘蛛の糸は、一度絡め取ったらヘリコプターの出力でも千切れませんわ」
シオリははんなりとした都弁で囁きながら、左手の指先をほんのわずかに引き絞った。
それだけで、武偵殺しの身体は完全に地面に縫い付けられ、完全に無力化された。
「すご……。本当に、何も見えないのに……」
アリアがその光景を見て、ごくりと息を呑んだ。
ロンドンでも数々の凄腕の武偵を見てきたアリアだったが、これほどまでに気配を消し、これほどまでに洗練された異質な技術を操る男は見たことがなかった。
ただのAランク。特殊捜査科の椥辻糸織。
その名前を、アリアは自身の脳裏に深く刻み込まざるを得なかった。
「さて、これで一件落着どすな。東京の朝は、やっぱりこうでなくてはいけまへん」
シオリは満足そうに頷くと、捕縛した糸の末端を近くの頑丈なガードレールへと結びつけ、十本の指輪から音もなく切り離した。
これで犯人は、警察か武偵高の回収班が来るまで、絶対にここから逃げ出すことはできない。
「……おい、椥辻。お前、さっきから」
キンジがベレッタをホルダーに収めながら、鋭い眼光をシオリへと向ける。
ヒステリアモードの超感覚を持ってしても、シオリの「底」が見えない。
彼がどれほどの実力を隠しているのか、それを問い詰めようとしたその時。
ピピピピピッ、とキンジの防弾制服のポケットから通信機の呼び出し音が鳴り響いた。
「……チッ。俺だ」
キンジが不機嫌そうに通信機を出して耳に当てる。
画面に表示されているのは、武偵高の運営陣からの緊急連絡。
そして、その通信の内容を聞いた瞬間、キンジのヒステリアモードの気配が、急激に萎むように消え去っていった。
「え……? 留年……? 俺の単位が足りないって、どういうことだよ……っ!?」
さっきまでの王者のような色気はどこへやら、キンジは頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
元のやる気のない、冴えない「ヘタレのキンジ」への完全な逆戻りである。
「ちょっと、あんた急にどうしたのよ! 気持ち悪いわね!」
アリアが怪訝そうな顔でキンジを見下ろす。
「……ふふ。遠山はん、またいつものお顔に戻りはりましたな。安心いたしましたわ」
シオリはそれを見て、クスリと楽しそうに微笑んだ。
やはり自分には、この騒がしくもどこか抜けている日常の風景が一番似合っている。
「椥辻……笑い事じゃねえよ……。俺の、俺の平穏な一般高校への転校計画が……」
「まあまあ、元気出しなはれ。これも何かの縁どす。お台場の空の下、まだまだ僕らとお茶を飲む時間は続きますえ?」
シオリは優雅に扇子をパチンと畳むと、色素の薄い黒髪を風になびかせた。
東京武偵高校を揺るがす巨大な陰謀の足音が、遥か彼方から聞こえ始めていることも知らずに、少年たちの騒がしい朝は、こうして一時の平穏を取り戻すのだった。