『緋弾のアリア:洛中の蜘蛛は平穏(お茶)を愛す』 作:トート
東京武偵高校を揺るがす巨大な陰謀の足音が、遥か彼方から聞こえ始めていることも知らずに、少年たちの騒がしい朝は、こうして一時の平穏を取り戻すのだった。
◇
武偵殺しの襲撃事件から、数日が経過した。
お台場の海風が湿気を帯び始める季節、東京武偵高校の男子寮は、いつもと変わらぬ無機質な鉄筋コンクリートの威容を誇っていた。
しかし、その建物の3階、探偵科2年・遠山キンジの私室の内部だけは、未曾有の暴風雨に晒されていた。
「ちょっと、あんた! なんで私の部屋に、あんたの不潔な私物がまだ残っているのよ!」
「待てアリア、落ち着け! そもそもここは元々、俺の部屋だ! なんで転校してきたばかりのお前に、俺が生活スペースのすべてを明け渡さなきゃならないんだよ!」
薄い鉄扉を突き抜けて通路にまで響き渡る、鋭い怒鳴り声と情けない悲鳴。
部屋の中央では、鮮やかなピンク色のツインテールを激しく揺らし、腰に二丁のコルト・ガバメントを下げた神崎・H・アリアが、キンジのベッドの上に我が物顔で鎮座していた。
彼女は、イギリスのロンドン武偵局からやってきた最高峰の『Sランク』武偵。
先日の事件でキンジの「隠された実力」――ヒステリアモードの戦闘能力を目の当たりにしたアリアは、彼を自分の奴隷、もとい相棒(パートナー)にすると一方的に宣言。
あろうことか、武偵高の運営陣をその権力と実績でねじ伏せ、内密に手続きを書き換えてキンジの部屋へと強引に引っ越してきたのだ。
「うるさいわね! Sランクのこの私が、実績もやる気もないあんたとペアを組んであげるって言ってるのよ! もっと光栄に思いなさい!」
「頼んでねえ! 俺は、あの兄貴みたいに命を擦り減らすような武偵の真似事は御免なんだ! 普通に、一般高校へ転校したいだけなんだよ!」
頭を抱えて畳の上に転がるキンジ。
せっかく武偵殺しの恐怖から解放され、望んでいた「最低限の平穏」が戻ってくるはずだったというのに、それ以上の災厄が部屋の中に居座ることになってしまった。
ヒステリアモードが完全に解け、普段の無気力な状態に戻った今のキンジには、この苛烈な少女を物理的に追い出す力など微塵も残されていなかった。
アリアの放つ圧倒的な威圧感と、キンジの絶望。
六畳一間の狭い防弾仕様の部屋の中で、二人の不協和音が最高潮に達し、今にも掴み合いの喧嘩が始まろうとしていた、まさにその時だった。
トントン、と開け放たれた玄関のドアの鉄板を、遠慮がちに、しかし一定の小気味よいテンポで叩く音がした。
「――ごめんやす。遠山はん、ちょっと朝から賑やかすぎるおすえ? 隣の部屋まで、可愛い小鳥がさえずるような声が、筒抜けに聞こえておりますわ」
「え……?」
キンジとアリアが同時に声を止め、反射的に玄関の方を向いた。
そこには、武偵高の厳格な防弾制服を皺一つなく上品に着こなし、手にお盆を持った椥辻糸織が佇んでいた。
お盆の上には、湯気がふわりと立ち上る、丁寧に淹れられた宇治茶の湯呑みが二つ。
そして、京都の老舗から直々に取り寄せたと思われる、色彩豊かな、芸術品のように美しい京菓子が綺麗に並べられている。
常に穏やかな笑みを浮かべた「糸目」の美少年。
彼は、部屋の中に充満している殺伐とした銃火器の気配など全く気にする様子もなく、パタパタと軽快な草履の音を立てて、当然のように畳の上へと上がってきた。
「な、椥辻……!? お前、なんでここに……っていうか、隣の部屋ってどういうことだ?」
キンジが狐につままれたような顔をして、座り込んだまま尋ねる。
「おや、言うておりへんでしたか? 僕の部屋は、遠山はんの丁度お隣、302号室どす。いつもはお静かで、お茶を嗜むのにも大変良い環境やと感謝しておしたのに……今日からはえらい華やかになりはりましたなぁ」
シオリはクスリと微笑みながら、ベッドの上でトゲトゲとしたオーラを放っているアリアの前へと歩み寄り、お盆から温かいお茶と京菓子をそっと差し出した。
「どうぞ、ロンドンから遥々来はったお嬢さん。長旅と先日の捕縛劇でお疲れどすやろ。これを食べて、少しお心を落ち着けなはれ。お怒りになると、せっかくの可愛らしいお顔が台無しになってしまいますえ」
「あ……。あんたは、あの時の……」
アリアはシオリの顔を見て、一瞬だけ身体を硬直させ、その大きな瞳に強い警戒の色を混ぜた。
数日前、お台場の直線道路で、20ミリ口径のガトリング弾の雨を扇子一本で跳ね返し、目に見えない糸で爆弾魔を瞬時に無力化した正体不明の化け物。
イギリスの戦闘技術の粋を極めたアリアをして、「底が知れない」と感じさせた数少ない男の一人だ。
だが、今目の前にいるシオリからは、暗殺者のような毒気も、戦闘の昂ぶりも一切感じられない。
それどころか、差し出された京菓子のあまりの愛らしさと、格調高いお茶の芳醇な香りに、アリアの小さな鼻がピクリと動いた。
「……これ、何? 綺麗なピンクと白だけど」
「京都の『干菓子』どす。和三盆を使っておりますよってに、お口の中で、さらりと雪のように甘う溶けますえ」
「……ん」
アリアは少しだけ躊躇し、シオリの手元を盗み見るようにしたが、漂う甘い香りの誘惑に勝てず、小さな指で干菓子を摘んで口へと運んだ。
その瞬間、アリアの眉間の皺が一気に和らぎ、大きな目がさらに丸くなる。
「あ……甘い。何これ、すごく美味しい……!」
「それは良おす。お茶もどうぞ。イギリスの紅茶も大変結構なものどすけれど、朝の目覚めには、日本の温かい緑茶も乙なものどすえ?」
「……んぐ。……ぷはぁ。何だか、すごく落ち着くわね、これ……」
さっきまで般若のように怒り狂い、ガバメントに手をかけていたアリアが、お茶と和菓子を口に含んだだけで、まるで陽だまりの中で丸くなる猫のように大人しくなってしまった。
シオリの狙い通り、椥辻家が何世代にもわたって磨き上げてきた「茶の湯の空気」が、Sランク武偵の殺気を完全に霧散させ、部屋の主導権を奪い取ったのだ。
(こいつ……お茶一杯と菓子一個で、あのアリアを完全に手玉に取りやがった……!)
キンジは隣でその光景を見て、背筋に冷たいものを感じていた。
ヒステリアモード時の自分ならアリアを圧倒できるが、通常時の自分では成す術がない。
それを、この特殊課の糸目は、ただの日常の所作だけで完璧にコントロールしてみせた。
やはりこの男、戦いだけでなく、人間を観察し、その場の空気を支配する能力すらも、武偵高の領域を遥かに超越している。
「遠山はんも、どうぞ。顔色が一段と悪いおすえ。しっかりお茶を飲んで、養生しなはれ。男の人がそんなに情けない顔をしてはると、幸運が逃げていってしまいますわ」
「あ、ああ……ありがとな、椥辻。助かった……」
キンジも勧められるままに湯呑みを受け取り、熱いお茶を啜った。
喉を通り抜ける上質な苦味と旨味が、ささくれ立っていたキンジの神経をじんわりと解きほぐしていく。
数日ぶりに、いや、数時間ぶりに訪れた、部屋の中の完全な静寂。
シオリは二人が大人しくお茶を飲む様子を、満足そうに糸目の笑顔で見つめていた。
「それにしても、神崎・H・アリアはん。遠山はんの部屋にこうして男所帯も気にせず転がり込むやなんて、えらい大胆な真似をしはる。僕の故郷の京都なら、ちょっとした噂話になってしまいますわ」
「だ、大胆って……変な意味じゃないわよ! 私はただ、このバカの持ってる『力』を、私の目的のために使わせるって決めただけなんだから! 武偵に男女の差なんて関係ないの!」
アリアはお茶の温かさに頬を緩ませながらも、ツインテールをバタバタと揺らして必死に言い訳をする。
その仕草は、Sランク武偵というよりは、年相応の我が儘な少女のそれだった。
「力、どすか……」
シオリはその言葉を聞き、ほんのわずかに、肉眼では捉えられないほど微かに目を細めた。
指先に意識を集中させ、袖口の奥に隠された極細の鋼糸『微塵』へと、微弱な波紋を送り出す。
知覚能力――【糸鳴り】。
部屋の畳の隙間、壁の裏へと、空気の振動に紛れて音もなく広がっていくシオリの糸。
その糸が捉えるアリアの生体反応は、先ほどまでの怒りとは別の、何か深い場所に根ざした「焦燥」と「強迫観念」を正確に告げていた。
彼女がそれほどまでにキンジの力を欲する理由。
それは、彼女自身が背負っている、何か巨大な運命の重さに他ならない。
「遠山はんの力は、少しばかり身体に毒なところがありますさかいに。……けど、あんまり無理に引き出そうとしたら、糸が限界を超えて切れるように、お互い壊れてしまいますえ?」
シオリの口調は、どこまでも穏やかで、はんなりとした響きを持っていた。
だが、その言葉の裏には、平安の昔から闇を間引いてきた暗殺者の末裔としての「冷徹な警告」が、薄氷のように張り詰められていた。
シオリは平穏を愛する。お茶を飲む静かな時間を何よりも尊ぶ。
だからこそ、自分と同じように平穏を望むキンジが、アリアの焦燥に巻き込まれて再起不能に破壊されるようなことがあれば――その時は、椥辻家の裏の顔が、この高慢な少女を排除することになる。
その、笑顔の裏に潜む一瞬の「絶対的な死」の気配。
通常状態のキンジはただの日常会話として聞き流していたが、ロンドンで数々の死線を潜り抜けてきた戦闘の天才であるアリアは、本能的にそれを察知した。
ゾクッ、とアリアの背筋に、冷たい戦慄が走る。
目の前にいる、温かいお茶を淹れてくれたはずの糸目の少年。
彼の笑顔の奥に、光すら届かない、底の歪んだ深い銀色の深淵が見えたような気がしたのだ。
アリアの身体の筋肉が、無意識のうちに戦闘時の緊張状態へと移行する。
「……あんた、やっぱりただの武偵じゃないわね。私に何か隠してるでしょ。特捜科の椥辻糸織」
アリアが湯呑みを畳に置き、ガバメントのグリップに手をかけながら、鋭い視線をシオリへと注いだ。
「隠すやなんて、滅相もない。僕はただ、お隣同士、仲良くお茶を飲みたいだけの、お節介な蜘蛛にすぎまへんえ」
シオリは上品に制服の袖を口元に当て、何事もなかったかのように、はんなりと笑ってみせた。
張り詰めた空気を、再び日常の側へと強引に引き戻す。
東京の喧騒の中に飛び込んできた、双剣双銃の少女。
彼女の存在が、自分たちの愛する平穏な日常をどこへ導いていくのか。
シオリは指先に残る鋼糸の微細な振動を感じながら、これから始まる騒がしくも愛おしい同居生活の行方を、静かに見守ることに決めるのだった。
◇
翌日、東京武偵高校の地下に広がる、広大な屋内実戦訓練場。
コンクリートの壁に囲まれ、あちこちに遮蔽物となる鉄骨やバリケードが乱雑に配置されたその空間は、日々生徒たちが銃弾を飛び交わせる硝煙の匂いに満ちていた。
「――見つけたわよ、特捜科の椥辻糸織!」
訓練場の入り口から響き渡ったのは、鈴を転がすような、しかし明確な敵意を孕んだ少女の声だった。
ピンク色のツインテールを誇らしげに揺らし、腰に二丁のガバメントを下げたアリアが、大股で歩み寄ってくる。
その後ろからは、「勘弁してくれよ……」と言いたげに頭を抱えた遠山キンジが、完全にやる気のない足取りでついてきていた。
当のシオリはといえば、訓練場の隅に置かれた折りたたみ椅子に腰掛け、マイボトルから携帯用の湯呑みへと温かいほうじ茶を注いでいるところだった。
周囲の殺気立った空気など、彼の周囲だけは完全に遮断されている。
「おや、アリアはんに遠山はん。奇遇どすなぁ。実技の授業はもう終わらはりましたか?」
シオリはいつもの穏やかな糸目の笑顔のまま、はんなりと首を傾げた。
「はぐらかさないで! あんた、昨日私の前で格好つけておいて、武偵ランクは『A』なんですってね? 20ミリ弾を弾いて、爆弾を止めておいてAランクだなんて、絶対に何か裏があるわ!」
アリアはシオリの目の前でピシッと人差し指を突きつけ、大きな瞳を爛々と輝かせた。
ロンドン武偵局の最高峰であるSランクのプライドが、身近に潜む「正体不明の強者」をどうしても放っておけないようだった。
「裏やなんて、滅相もない。僕はただの、目立たない特殊課の生徒どすえ」
「嘘よ! だったら、今すぐ私と模擬戦(デュエル)をしなさい! あんたのその化けの皮、私がこのガバメントで剥ぎ取ってあげるんだから!」
カチャ、と小気味よい金属音を立てて、アリアの手首がブレる。
次の瞬間には、彼女の両手にはすでに二丁の黒いガバメントが握られ、銃口がシオリの眉間へと正確に向けられていた。
武偵高の規則では、訓練場内での合意の上での模擬戦は認められている。アリアはその特権を使い、力ずくでシオリの本性を暴くつもりだった。
「おい、アリア、やめろって! 椥辻は別に敵じゃないだろ!」
キンジが慌てて止めに入ろうとするが、アリアの闘志はすでに最高潮に達しており、聞く耳を持たない。
「うるさいわね、キンジは下がってなさい! さあ、武器を抜きなさい、椥辻糸織!」
銃口を突きつけられ、一触即発の緊迫感が訓練場を支配する。
しかし、シオリは湯呑みをそっとお盆の上に置くと、やれやれというように小さく溜息をついた。
「……えらい気の短いお嬢さんどす。せっかくのお茶が、硝煙の匂いで台無しになってしまいますわ」
シオリはゆっくりと立ち上がると、懐からいつも愛用している一本の京扇子をすっと取り出した。
刃物も、銃器も持たない。ただの優美な扇子だ。
アリアはその不遜とも言える態度に、さらに眉を吊り上げる。
「……私を舐めてるの? 弾丸を弾いたあの扇子ね。いいわ、今度は木端微塵にしてあげる!」
アリアの指が、ガバメントの引き金へと同時にかけられた。
距離はわずか数メートル。Sランク武偵の近接射撃の精度をもってすれば、相手がどのような身のこなしをしようとも、確実に四肢を撃ち抜いて行動不能にできる絶対の距離。
「――行くわよ!」
アリアの叫びとともに、訓練場に猛烈な銃声が炸裂した。
タン、タン、タン、タン、タン、タン――!!
目にも留まらぬ速さでガバメントの銃口からマズルフラッシュが連射される。
放たれたのは、対人用のゴム製弾丸。しかし、Sランクの超絶的な戦闘技術に裏打ちされたその弾道は、シオリの右肩、左膝、そして逃げ道を塞ぐように左右のコンクリートの床へと一寸の狂いもなく収束していく。
まさに、初手から相手の機動力を完全に奪い去るための、苛烈極まる銃撃の檻。
激しい硝煙の臭いとともに、シオリの立っていた場所が白煙に包まれた。
「もらったわ……!」
アリアの口元に勝利の笑みが浮かびかけた、まさにその瞬間。
(――おや、弾道が少しばかり素直すぎやしませんか)
白煙の奥から、まるで春の風のようにのんびりとしたシオリの声が響いた。
「なっ……!?」
アリアの大きな瞳が、驚愕に揺れる。
白煙が晴れたそこには、衣服の端一つ、髪の毛一筋すら傷ついていないシオリが、相変わらず穏やかな糸目の笑顔のまま佇んでいた。
彼の右手には、広げられた一本の京扇子。
そのチタン製の親骨が、アリアの放ったゴム弾を正確に受け流し、全て床へと叩き落としていたのだ。
否。それだけではない。
知覚能力――【糸鳴り】。
アリアが引き金を引いたコンマ数秒の前。
シオリはすでに、空間に放っていた目に見えない極細の鋼糸『微塵』の微細な振動を通じて、アリアの指先が引き金に伝える圧力、銃身の僅かな傾き、そして弾道の軌跡のすべてを完璧に先読みしていた。
シオリからすれば、アリアの神速の射撃すら、あらかじめ五線譜に書き込まれた退屈な楽譜をなぞっているようにしか見えていなかったのだ。
「布切れ一枚で、私の射撃を……! だったら、これならどう!?」
アリアの負けず嫌いな魂に、完全に火がついた。
彼女は左右の足を爆発的なバネのように使って地を蹴ると、ジグザグに遮蔽物を飛び越えながら、シオリの死角へと超高速で回り込んでいく。
その速度は、普通の武偵であれば目で追うことすら不可能な、まさに『閃光』。
タン、タン、タン! タン、タン、タン!
アリアが跳躍し、空中で身体を反転させながら、三連射(バースト)の銃撃をシオリの後頭部へと浴びせる。
上空と背後、二つの死角を同時に突く完璧な奇襲。
見学していたキンジですら、「これは躱せない」と息を呑んだ。
しかし、シオリの身体は、まるでお台場の海風に舞う一枚の木の葉のように、不自然なほどの滑らかさで真横へとブレた。
「――を……蜘蛛の、巣」
シオリが口の中で音もなく呟いた瞬間。
キン、キン、キン、と鋭い金属音が空中に響き、アリアの放った弾丸が何もない空間で虚しく弾かれ、訓練場の天井へと跳ね返っていった。
シオリが両手の十本の指輪から瞬時に張り巡らせた、肉眼での目視が不可能な鋼糸の防護陣。
それが、アリアの必殺の銃撃を、ただの「羽虫」をあしらうように叩き落としたのだ。
「嘘……! 弾道が、また曲がった……!? あんた、一体何を使っているのよ!」
空中から着地したアリアは、激しい息を吐きながらも、すぐに次弾を装填するためにガバメントのスライドを引こうとした。
だが、彼女の両手は、なぜかそこから一ミリも動かすことができなかった。
「……え? 身体が、動か……ない……?」
アリアは目を見開いた。
自分の手首、足首、そして腰の周りに、何か冷たくて、髪の毛よりも細い「何か」が、いつの間にか幾重にも絡みついていることに気づいたのだ。
「勝負あり、どすえ。アリアはん」
シオリはいつの間にか、アリアの僅か一歩手前の距離にまで、音もなく歩み寄っていた。
足元は草履のまま。それなのに、近づいてくる気配すら一切感じさせなかった。
シオリが左手の指先をほんの僅かに引き絞ると、アリアの身体を縛る目に見えない鋼糸『微塵』がキュッと緊張し、彼女の自由を完全に奪い去る。
それは、先日の事件で武偵殺しを瞬時に無力化した、椥辻家代々の最強の捕縛陣――【蜘蛛の巣】。
「あんた……いつの間に、こんなものを……っ!」
アリアは身悶えしようとしたが、動けば動くほど糸が防弾制服に食い込み、その動きを冷徹に封じ込めていく。
「アリアはんが華麗に飛び回ってはる間、僕の可愛い蜘蛛たちが、床一面に巣を張らせていただいておした。飛び込んで来はったのは、アリアはんの方どすえ?」
シオリは扇子をパチンと心地よい音を立てて畳むと、いつもの穏やかな笑顔のまま、アリアの顔を覗き込んだ。
その表情は、まるで近所の子供の悪戯を優しく嗜める兄のようでありながら、その糸目の奥にある深みのある銀色の瞳は、アリアの動きを完全に支配していた。
(心拍数は上昇。……悔しさと戸惑いで、筋肉が異常な緊張状態にありますな。……でも、このお嬢さん、最後まで僕の糸そのものには気づいてはりまへん。本当に、素直で真っ直ぐな戦い方をさはる)
シオリは内心でアリアの戦闘センスを評価しつつも、これ以上彼女を刺激するのは「平穏な日常」に反すると判断した。
「な、椥辻……お前、本当に手加減してこれなのか……?」
後ろで見守っていたキンジが、冷や汗を流しながら歩み寄ってくる。
通常状態のキンジから見れば、シオリの戦い方はもはや手品か、あるいは怪異の類にしか見えなかった。
アリアというSランクの怪物を、汗一つかかずに、お茶を飲むような手軽さで無力化してしまったのだから。
「手加減やなんて、滅相もない。本気で戦ったら、僕の草履がすり減ってしまいますわ」
シオリはクスリと笑うと、指先を小さく弾いた。
それだけで、アリアの身体を縛っていた目に見えない糸が、サラサラと音もなく解け、シオリの袖口の中へと回収されていく。
「う、うう……! 悔しい……! 悔しいわね……!」
自由になったアリアは、ガバメントをホルダーに収めると、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
生まれて初めて経験する、手も足も出ない完全な敗北。
しかし、シオリの圧倒的な実力を肌で知ったことで、彼女の目の中にあった「実力を疑う不信感」は完全に消え去り、代わりに別の奇妙な感情が芽生え始めていた。
「……決めたわ。あんたも、私の奴隷(パートナー)にしちゃうんだから!」
「……はい?」
アリアの突然の宣言に、シオリは珍しく、その穏やかな糸目をほんの僅かに見開いた。
キンジは隣で「うわ、巻き込まれた……」というように完全に顔を引き攣らせている。
「あんたみたいな規格外の化け物が特捜科に隠れてるなんて、もったいないわ! 私がその化けの皮を全部剥ぎ取って、私の目的のために使わせてもらうんだから! 覚悟しなさい!」
アリアはフンッと鼻を鳴らすと、ツインテールを激しくなびかせて、訓練場の出口へと足早に去っていった。
「……やれやれ。えらいお転婆なお嬢さんに、気に入られてしまいましたなぁ」
シオリは再び目を細めると、畳んだ扇子でトントンと自分の肩を叩いた。
隣では、キンジが深いため息をついている。
「椥辻……すまねえ。俺のせいで、お前まであいつの巻き添えに……」
「何をおっしゃいます、遠山はん。賑やかなのは良いことどす。……それに」
シオリは去っていくアリアの背中を見つめながら、その口元を僅かに歪めて、裏の顔である暗殺者としての冷徹な微笑を覗かせた。
「あの神崎・H・アリアはんが追っている『影』。……僕らの平穏な日常を脅かす害虫であるなら、僕が裏から綺麗に、間引いて差し上げねばなりまへんさかいに」
その言葉に込められた圧倒的な死の気配に、キンジは一瞬だけ背筋を凍らせたが、シオリがすぐに「さて、お茶の続きをいただきましょか」といつもの暢気な声に戻ったため、気のせいかと思い直して首を振るのだった。
お台場の地下訓練場に、再び静かなほうじ茶の香りが漂う中、少年たちの運命の糸は、より複雑に、より深く絡み合い始めていた。