『緋弾のアリア:洛中の蜘蛛は平穏(お茶)を愛す』   作:トート

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闇夜に奔る銀糸と、イ・ウーの足音

お台場の地下訓練場に、再び静かなほうじ茶の香りが漂う中、少年たちの運命の糸は、より複雑に、より深く絡み合い始めていた。

 

 

東京武偵高校の男子寮に、静寂の夜が訪れる。

昼間の喧騒が嘘のように静まり返った午前2時。遮光カーテンの隙間から差し込む月光だけが、302号室――椥辻糸織の部屋の畳を青白く照らし出していた。

ベッドの上で、シオリは制服ではなく、夜の闇に完全に同化する黒い着流しに身を包んで静かに座していた。

その表情からは、昼間のあの穏やかな糸目の笑顔が完全に消え去っている。

鋭く切れ上がった銀色の瞳が月光を反射して冷たく輝き、彼の両手の十本の指には、暗殺者の武器である『鋼糸・微塵』が、すでに神経の延長線として完璧に接続されていた。

 

「……さて。お隣の可愛い小鳥さんは、ようやく寝入らはりましたか」

シオリは壁に視線を向け、声を出さずに唇だけを動かした。

 

知覚能力――【糸鳴り】。

 

彼が床の隙間から建物全体へと這わせた極細の鋼糸が、隣の301号室の微細な振動をシオリの脳内へと立体的に伝えていた。

遠山キンジの、少しばかり浅いが規則正しい呼吸音。

そして、そのすぐ近くで眠る神崎・H・アリアの、小さくて愛らしい心音。

昼間はシオリを奴隷にすると言って息巻いていたSランク武偵も、今はただの年相応の少女として、毛布にくるまって泥のように眠っている。

シオリがその糸の探知範囲を、男子寮の敷地外――お台場の深夜の埋立地、そして武偵高の裏手に広がるコンテナヤードへと静かに広げていった、まさにその時だった。

 

チリッ――。

シオリの右手の薬指に結ばれた糸が、ごく微かな、しかし明らかな「殺気」の波紋を捉えた。

 

(……おや。夜更かしさんのお出ましどすな。それも、ただの泥棒猫ではおへん。……この足運び、そして衣服の下に隠された高密度の金属。……なるほど、これがアリアはんの追っている『影』の端くれどすか)

 

シオリの銀色の瞳が、冷徹な光を一段と深くした。

【糸鳴り】が捉えたのは、コンテナヤードの影に身を潜め、男子寮の警備システムの死角を正確に突いて接近してくる二つの人影。

彼らが纏う気配は、先日の爆弾魔『武偵殺し』の残党などという生温かいものではなかった。

徹底的に訓練され、組織的に人間の命を間引くことに特化した、本物の暗殺者の気配。

 

アリアが所属していたロンドン武偵局、ひいては世界の武偵界を裏から揺るがす巨大な犯罪組織――「イ・ウー」。

その魔の手が、ついにこのお台場の、キンジやアリアのすぐ足元にまで伸びてきていたのだ。

 

「せっかくお茶の美味しい季節やというのに、不躾な害虫が這い回るのは感心しませんわ」

シオリは音もなくベッドから立ち上がると、開け放たれた窓のサッシへとパタパタと草履の音を立てることなく移動した。

黒い着流しの裾が夜風にふわりと揺れる。

 

次の瞬間、彼の身体は夜空へと滑り出すように、3階の窓から音もなく飛び降りていた。

鳥のように宙を舞い、アスファルトの地面に一ミリの衝撃音すら立てずに着地する。

これが、平安の昔から洛中の闇で磨かれてきた、椥辻家流の隠密術。

シオリは影から影へと文字通り「溶ける」ように移動し、不審な二人の侵入者が潜むコンテナヤードの闇へと、先回りするように回り込んだ。

大型の錆びついたコンテナの屋根の上。

 

シオリはそこに音もなく立ち尽くし、眼下の闇を見下ろしていた。

数メートル下では、夜戦用の暗視ゴーグルを装着し、消音器(サイレンサー)付きの自動拳銃を構えた特異な戦闘服の男二人が、男子寮の勝手口に向けて歩を進めようとしていた。

 

「お仕事中、恐れ入ります」

闇の奥から、はんなりとした、しかし心臓を直接凍りつかせるような冷徹な声が響いた。

 

『――っ!?』

侵入者の二人が弾かれたように上空を仰ぎ見る。

そこには、月光を背に受け、色素の薄い黒髪をなびかせた少年が、鋭く切れ上がった銀色の瞳で彼らを見下ろしていた。

常に浮かべているはずの笑顔はそこにはない。

洛中の闇を統べる、本物の暗殺者の顔がそこにあった。

侵入者の一人が、驚愕を殺意へと瞬時に変え、消音器付きの銃口をシオリへと向けようとした。

だが、彼が引き金に指をかけるよりも早く、シオリの十本の指が夜空を美しく、そして残酷に踊った。

 

チチチチチッ――!

 

肉眼では絶対に見えない極細の鋼糸『微塵』が、月光の反射すら許さない速度でコンテナヤードの空間を奔った。

次の瞬間、侵入者の男が構えていた自動拳銃が、まるで最初からそう設計されていたかのように、部品ごとにバラバラと解体されてアスファルトの床へと崩れ落ちた。

ネジ一本、スプリング一つにいたるまで、シオリの糸がコンマ数ミリの精度で物理的に「切断」したのだ。

 

『な……っ!?』

声にならない絶叫を上げる男。

もう一人の侵入者が、即座に腰のナイフを抜いてシオリへと突撃しようとしたが、彼の身体はその一歩を踏み出すことすら許されなかった。

 

ギチ、ギチギチ……。

男の首筋、手首、足首、そして衣服のあらゆる隙間に、すでに目に見えない鋼糸が幾重にも巻き付いていた。

少しでも動けば、その頸動脈が糸の鋭利さによって容易に切断される。

 

椥辻家が誇る絶対の捕縛陣――【蜘蛛の巣】。

深夜のコンテナヤードは、一瞬にして、シオリが支配する巨大な蜘蛛の網と化していた。

 

「そこまで慌てなさんな、不審者はん。下手に動くと、お命が右と左に泣き別れになってしまいますえ?」

シオリはコンテナの上からひらりと舞い降りると、草履の音を立てて男たちの目の前に立った。

銀色の瞳には、一切の感情が通っていない。

 

「僕らは、東京での平穏な日常(お茶の時間)を何よりも愛しておりますの。それを神崎・H・アリアはんというお嬢さんを狙って、夜中にガサゴソと騒ぎ立てるのは、ひどく無粋な真似どすえ」

 

『お前……特殊捜査科の……何者だ……っ!』

捕縛された男が、冷や汗を滝のように流しながら、暗視ゴーグルの奥の目を恐怖に見開いた。

武偵高の資料には、こんな化け物が特殊課にいるなどとは一言も書かれていなかった。

Aランクの椥辻糸織。その正体は、組織(イ・ウー)の末端エリートである自分たちを、指先一つで虫ケラのように無力化する怪物だった。

 

「椥辻糸織と申します。……さて、あんた方にお尋ねしたいおす。あんた方の後ろに居はる『イ・ウー』の親玉は、次に何を企んでおすか? 素直にお話しさはるなら、京都名物の美味しいお漬物の話でもして差し上げますけれど」

シオリは再び、その口元に穏やかな、しかし底の知れない笑みを浮かべた。

だが、指先の糸は寸分の緩みもなく、男たちの命の灯火を完全に握りつぶしている。

お台場の暗い海風が吹き抜ける中、シオリの張った目に見えない蜘蛛の糸は、巨大な犯罪組織の核心に向けて、より深く、より冷徹に、その触手を伸ばそうとしていた。

 

『お、お前……正気か……。俺たちが、組織の秘密を口にすると思っているのか……っ!』

 

極細の鋼糸『微塵』によって四肢を吊るし上げられ、虚空で身悶えする侵入者が、恐怖で声を掠れさせながらも必死に虚勢を張った。

男たちの額からは、冷や汗が絶え間なく流れ落ち、アスファルトの地面に小さな染みを作っていく。

ほんの僅かでも身動きをすれば、肉に食い込んだ糸が容赦なく皮膚を切り裂き、鮮血を噴き出させる。その絶対的な力の差を、彼らの本能は嫌というほど理解していた。

 

「正気か、と問われましてもなぁ。京都の人間は、無駄な争いとお茶の味を濁されるのが、何よりも嫌いなだけどすえ」

シオリはいつの間にか、いつも通りの穏やかな糸目の笑顔に戻っていた。

しかし、その細められた瞼の奥にある銀色の瞳には、一切の慈悲も通っていない。

彼は左手の指先を、まるであやとりの糸を微調整するように、ほんの数ミリだけ手元に引いた。

 

ギチ、ギチチ……。

『が、あ、あぐっ……!?』

 

侵入者の男の首筋から、ツッと一筋の赤い血が流れ落ち、防弾仕様の戦闘服の襟元を濡らした。

頸動脈の僅か一ミリ手前で、鋼糸がその振動を止めている。シオリがその気になれば、瞬きをするよりも短い時間で、この男の首は夜空に舞うことになるだろう。

 

「素直にお話しさはるなら、これ以上痛い思いはさせまへん。……さあ、あんた方の後ろに居はる『イ・ウー』の親玉は、東京で何を企んでおすか? 特に、お隣の神崎・H・アリアはんを狙う理由をお聞かせおくれやす」

 

『う、うぐ……。お、俺たちは、末端の回収班だ……。詳しい計画までは知らされていない……っ!』

もう一人の銃をバラバラにされた男が、恐怖に耐えかねたように早口で叫んだ。

彼らの心音と呼吸の乱れを、シオリは【糸鳴り】を通じて冷徹に分析する。心拍数の跳ね上がり方、筋肉の弛緩度合い。この言葉に、嘘偽りはない。本当に何も知らされていない使い捨ての駒なのだ。

 

『ただ……上層部から、命令は、出ている……。近いうちに、組織の幹部である『魔剣(デュランダル)』が、直接あの女を……神崎・H・アリアを回収するために、この街に降臨する、と……!』

 

「魔剣、どすか……」

シオリはその不穏な二つ名を耳にし、細い目の奥でその知覚の波紋をさらに広げた。

魔剣のデュランダル。世界の裏社会で恐れられる、イ・ウーの最高幹部の一人。その本物の怪物が、アリアを狙ってお台場へと直接やってくるというのだ。

 

(なるほど。お転婆なお嬢さんは、えらい厄介な神仏に目を付けられてはる。……けれど、その魔剣はんが僕らの平穏な日常(お茶の時間)まで踏み荒らしにきはるなら、話は別どすえ)

 

シオリが内心で冷徹な戦闘プランを組み立てようとした、まさにその瞬間だった。

 

チリチリチリッ――!

 

シオリの十本の指に結ばれた糸が、これまでにない激しい「警告の振動」を感知した。

上空。数百メートル先の闇の中から、凄まじい速度で接近してくる熱源と、複数の電子的な駆動音。

 

(あら、夜更かしさんが、まだ居はりましたか。それも……人間ではおへんな)

 

シオリが瞬時に見上げた夜空の向こう。

コンテナヤードの大型クレーンの影から、夜の闇に紛れて姿を現したのは、先日のドローンとは比較にならないほどの大きさを誇る、軍事用の無人暗殺ヘリ二機だった。

その機体下部に固定された、多銃身のミニガンが、不気味な駆動音を立てて超高速で回転を始める。

捕縛された侵入者の男たちも含めて、証拠隠滅のためにすべてを塵に帰そうとする、イ・ウーの冷酷な自動追撃兵器だ。

 

『な……組織の、処分ヘリ……!? 待て、俺たちまで巻き込む気か……っ!』

男たちが絶望の悲鳴を上げる。

次の瞬間、夜のコンテナヤードに、鼓膜を破らんばかりの猛烈な鉄の嵐が吹き荒れた。

 

ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!

 

毎分千発以上の弾丸を吐き出すミニガンが、シオリたちの立っている場所を目がけて容赦なく火を噴いた。

アスファルトが激しく爆ぜ、コンクリートの破片と火花が、夜の闇を極彩色に染め上げる。

しかし。

 

キィィィィィィン――ッ!!!

 

夜空を切り裂くような、美しくも高い金属音が、お台場の海へと響き渡った。

 

「夜中にそんなに大きな音を立てたら、近所迷惑どすえ?」

シオリは黒い着流しの裾をなびかせながら、右手の指先をまるで見えない楽器の弦を弾くように、激しく、そして優雅に交差させていた。

彼の周囲に張り巡らされていた数千、数万の『鋼糸・微塵』が、月光を吸い込んで巨大な銀色の「蜘蛛の網」となって夜空に顕現していた。

 

椥辻家流暗殺術が誇る絶対防御陣――【蜘蛛の巣】。

 

ヘリから放たれた無数の機関銃弾が、シオリの身体に届く遥か手前、空間の何もない場所で、まるで巨大な障壁にぶつかったかのように「カン、カン、カン!」と火花を散らして全反射していく。

それどころか、シオリが左手の指を鋭く一閃させると、空間の糸が編み直され、弾かれた銃弾のすべてが、そのまま上空の無人ヘリへと寸分の狂いもなく跳ね返っていった。

 

ドガガガガガガガッ! バリバリバリッ、ドガァァァン!!!

 

自分たちが放った鉄の嵐をまともに浴びた一機目の無人ヘリが、メインローターを粉砕されて派手に空中爆発を起こした。

炎の破片が夜空に飛び散る中、二機目のヘリがなおも銃口を向け直そうとする。

 

「無粋な絡繰(からくり)は、これでお終いどす」

シオリはいつの間にか懐から一本の『京扇子』を取り出しており、それを緩やかに上方へと一あおぎした。

 

一あおぎ。ただそれだけの動作。

しかし、シオリの指先から放たれた数十本の鋼糸が、風圧に乗って生き物のように上空へと奔り、二機目の無人ヘリのプロペラシャフトへと一瞬で絡みついたのだ。

シオリが右手をキュッと引き絞る。

 

ギチチチチチッ――パァンッ!!!

 

凄まじい金属の断裂音。特殊チタン合金をも容易に切断する『微塵』の強靭さによって、無人ヘリの強固な回転軸が、まるで柔らかいバターのように一瞬で大根切りにされた。

推進力を完全に失った二機目の機体が、バランスを崩して近くの海へと滑落し、水柱を上げて静かに沈んでいく。

僅か数分足らずの、息を呑むような攻防。

跡形もなく消え去ったイ・ウーの刺客たちを前に、糸で吊るされたままの侵入者の男二人は、もはや恐怖を通り越して、神仏でも見るかのような目でシオリを凝視していた。

 

「さて、夜更かしが過ぎると、明日の朝のお茶が美味しくなくなってしまいますわ」

シオリはいつの間にか糸を解き、男たちを地面へと静かに降ろしていた。

すでに彼らの戦意はマイナスにまで叩き落とされている。

 

「あんた方の命は、今日のところは預けておきます。……特殊捜査科の椥辻糸織が、静かにお茶を飲んでいる間は、大人しくしておきなはれ。……もし次、僕の平穏を邪魔さはるなら、その時は京都の闇へお連れしますえ?」

 

シオリが穏やかな糸目の笑顔のままそう囁くと、男たちは何度も激しく頷き、命からがら夜の街へと逃げ去っていった。

 

 

数時間後。お台場の東の空が、うっすらと茜色に染まり始める黎明の刻。

武偵高の男子寮301号室。遠山キンジの部屋の玄関ドアが、トントンと静かに叩かれた。

 

「……ん、誰だよ、朝っぱらから……」

眠そうな目を擦りながら、普段の無気力な状態のキンジがドアを開ける。

「おはようおす。遠山はん。今日も良いお天気になりそうどすなぁ」

 

そこには、皺一つない綺麗な制服を着こなし、手にお盆を持ったシオリが佇んでいた。

お盆の上には、淹れたての香ばしい玄米茶の湯呑みが二つ。そして、どこか爽やかな朝の香りが漂っている。

昨夜、夜の街で軍用ヘリ二機を塵に帰した暗殺者の気配など、微塵も残っていなかった。

 

「な、椥辻……。お前、いつも朝が早いな……」

キンジが大きなあくびを噛み殺しながら、シオリを部屋の中へと迎え入れる。

その奥のベッドでは、ピンク色のツインテールを乱したアリアが、まだ「ふにゃ……」と小さく寝息を立てて丸くなっていた。

 

「おやおや、アリアはんはまだ夢の中どすか。可愛い寝顔でおすなぁ」

シオリはクスリと微笑みながら、温かいお茶の湯呑みをキンジへと手渡した。

指先には、いつでも世界を切り裂くことのできる十本の指輪。

しかし今の彼は、ただの、お節介で平穏を愛する一人の少年だった。

巨大な犯罪組織「イ・ウー」、そして近いうちにやってくるという最高幹部「魔剣」の影。

それらの驚異がどれほど迫ろうとも、シオリの張る目に見えない蜘蛛の糸は、この騒がしくも愛おしい二人の日常を、裏からどこまでも冷徹に、そして優雅に守り抜く。

 

「さあ、遠山はん。お茶が冷めないうちに、静かな朝の時間をいただきましょか」

シオリは再び目を細め、はんなりと笑うのだった。

 

 

 

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